「京都市役所本庁舎(工事中)」(この写真の下部は「工事用の
仮囲い」が写ってしまうのでカットを)に近い「ホテルオークラ
京都」で「ブランチ」を戴きます。
「ホテルオークラ京都・西側」に「桂小五郎像」
この「ホテル」の地には、江戸時代に「長州藩邸」が在ったとか。
「ホテルオークラ京都・正月飾り」
「Ⅽafe LEC COURT」
・シーフードミックスフライセット
人参のクリミースープ・サラダ
海老フライ・蟹クリームコロッケ・鯛のフライ
・ビーフストロガノフセット(サフランライス添え)
・アップルパイ ア・ラ・モード
「宿泊ホテル」へ「寺町通り」を「寺巡り散策」して戻ります。
『本䏻寺』(ほんのうじ)
法華宗本門流大本山で(山号は無い)、ご本尊は「本門八品上行
所伝の南無妙法蓮華経」、境内に「恵昇院・蓮承院・定性院・高
俊院・本行院・源妙院・龍雲院」の七院の塔頭。
応永22年(1415)「日隆聖人」が「妙本寺(妙顕寺)」を
去り「本應寺」を創建するが、応永25年(1428)「妙本寺
月明上人」の命による宗徒によって破却される。
一時、河内三井(本厳寺)・尼崎(本興寺)に難を逃れて、永享
元年(1429)に 再度入洛し「大檀那・小袖屋(山本)宗句」
の力で移転・再建される。
永享5年(1433)「檀那・如意王丸」が 願主となって 移転、
寺号を「本䏻寺」に改める。
天文5年(1536)「比叡山延暦寺」との「宗名問題・教義論
争」から武力弾圧を受け「天文法華の乱」で「延暦寺山法師・僧
兵」の襲撃に遭い「洛中の法華宗二十一本山」の全てが灰燼に帰
し、僧達は 一山丸ごと「堺の 顕本寺」に避難する。
天文11年(1542)「日蓮宗徒帰洛」の勅許が下り、天文1
4年(1545)「12代貫首・日承王聖人」が四町四方の広大
な寺地を得て 伽藍が造立され 中興がなされる。
天正10年「本䏻寺の変」で「織田信長」が「明智光秀」に討た
れ、その兵火で堂宇が焼失する。
「本䏻寺の変」
「織田信長」が上洛中に宿舎としたのは「妙覚寺」が多く「本䏻
寺」を宿舎とする事は過去三回と稀ではあったが、天正10年6
月2日(1582年6月21日)は「息子・織田信忠」が「妙覚
寺」に逗留していたので「信長」が「本䏻寺」を選んだと思われ
ます。
原因には諸説あって、「光秀怨恨説、光秀・秀吉・家康三者共謀
説、天皇・公家陰謀説、千利休・堺町衆説」等枚挙に暇がありま
せん。
「織田信長」は「秀吉」の「中国出陣要請」に応じて上洛「本䏻
寺」に入り、前日に「近衛前久・甘露寺経元・勧修寺晴豊をはじ
め 公家、博多の 豪商・島井宗室、町衆 四十名」を茶会に招いて、
その 参加者の前で「九十九髪茄子茶入・白天目茶碗・牧渓の絵」
など 所蔵38種の茶器を披露したと云います。
この席に「島井宗室」を招いたのは「天下布武の予定・物資の補
給」等を話し合った云うとが、一説には「信長の手元に 茶入れ天
下三名品の内『初花・新田』は 所蔵していたが もう一品『楢柴』
を 島井宗室が所蔵していたので、それを手に入れようとしたので
は」とも言われています。
この「茶会」の後「晩餐会」を催し、「本因坊日海上人(寂光寺)
と鹿塩利賢(本䏻寺)との 碁の御前試合」を見物したようです。
対局中碁盤の上に「劫(こう)」が三か所出来て、無勝負にせざ
るを得ず、対戦していた二人は不思議に思いながら帰宅したとか。
囲碁「三劫無勝負」は 盤上に三つの「劫」が出来て、その「劫」
をお互いが順番に取り続けると、いつまで経っても対局が終わら
ないので、双方の合意を以って対局を無勝負とる事がありますが、
発生する事は極めて稀で、『本能寺の変の直前に、信長が観戦し
た対局に現れた』ことから「不吉の前兆」と云われます。
この時刻、「光秀の軍勢」が「京」を目指して押し寄せていたと
の事で、またその時に『三足の蛙』が「信長の危機」を知らせる
が如く鳴き始めたとも伝わります(ここで云う「三足の蛙」とは
『唐銅香炉・三足の蛙』の事だと思われます)
天正10年(1582)「本䏻寺14代貫首・日衍聖人」の再建
発願により「四条西洞院」に再建を図り上棟式を終えたが「豊臣
秀吉」の都市計画によって現在の寺域へと移築を命ぜられ、寺域
の総坪数は9751坪と云われ、北は押小路、南は姉小路、西は
寺町通、東は河原町通で、天正20年(1592)その中に「七
堂伽藍・26坊の塔頭」を備えたそうです。
元和元年(1615)江戸幕府から「朱印地40石」を与えられ
て、寛永10年(1633)の「本䏻寺末寺帳」によれば「末寺
92」を数える大寺院になっていたようです。
しかし天明8年(1788)「天明の大火」で、京都の大半が焼
け「本䏻寺」も類焼するが、「江戸幕府」へ「再建願」を提出し
再建を目指すが許可されたのは約50年後の「77代貫首・日恩
聖人」の天保11年(1840)まで待たなければならなかった。
再建が叶うも、元治元年(1864)維新騒乱の際、「蛤御門の
変」に伴って発生した「どんどん焼け」により「塔頭・ 龍雲院」
以外の堂宇を焼失したとか、隣接していた「長州藩邸」からの延
焼であったとか、或いは「薩摩藩の砲撃の的」となり「長州藩邸
より先に焼け落ちた」とも言われます。
その後「明治期の上知令(上地令)・廃仏毀釈」等の影響、「御
池通」の拡幅整備もあって 寺地は大きく減少し 本堂の再建は 遅
れて、昭和3年(1928)になり「京都大学教授 天沼俊一氏」
の設計で 現本堂・七つの塔頭全てが再建されています。
この記事では「本䏻寺」の表記に揃えています。
「本䏻寺サイト」では「度重なる焼き討ち等により『火事・火・
ヒ』を嫌って『能・異字体』の『䏻』の字に替えた」としている
が、以前から『能と䏻』の両方が使われていたと思われます。
(「本䏻寺の変」の焼け跡から見つかった「瓦」には 既に「䏻」
の字が在った、むしろ「䏻」の方が多く用いられたのではとも)
『浄土宗・曼荼羅山當麻院天性寺』
浄土宗総本山・知恩院 末寺、ご本尊:阿弥陀如来
天正5年(1577)「大和国當麻寺 念仏堂院主 僧 眼誉道三」
が「當麻寺」で「當麻曼荼羅」を 一夜にして織り上げたと云う
「中将姫」の御遺徳を偲んで創建したと伝えられています。
(「眼誉道三」が「當麻寺・當麻曼荼羅」を「絵解き」して、衆
生に「極楽往生」を勧奨する為「都」に入り、一宇を建てたのが
起こりとも言います)
創建されたのは「堀川上立売西入ル曼荼羅町」であったが、天正
15年(1587)「豊臣秀吉」の「京都区画整理の命」により
現在地「寺町通」に移転したとの事です。
江戸期 天明8年(1788)「本䏻寺」と同様に「天明の大火」
に寺院は焼失したが、こちらは 文化年間(1804~1818)
に再建されたそうです。
「現 本堂」は明治13年(1880)の再建「門」は昭和31年
(1956)の再建のようです。
「山号」は、後に「後奈良天皇天皇の妃・吉徳門院」が帰依して
与えられたとの事)
「ああ、京都の『門松』、『根引き松』ですね!」
「境内」から「寺町通の門」を振り返ると 寺地が低い事が分かり
ます・・・嘗て、この地が「鴨川河原であった名残り」とか。
「中将姫」
「藤原鎌足曾孫・右大臣藤原豊成」と「妻 紫の前」は長く子供に
恵まれず、「奈良桜井 長谷寺観音」に祈願する事で「姫」を授か
ったが、「紫の前」は「姫」5歳の時に 世を去り、後妻「照夜の
前」が「姫」7歳の時に迎えられたそうです。
「姫」は 美貌と才能に恵まれ、九歳の時には「孝謙天皇」に召し
出され、百官の前で琴を奏で 賞賛を受けたと云うが、継母には憎
まれ疎まれて 度々折檻を受けていたと云います。
13歳になると「三位中将の 位」を持つ「内侍」となり、14歳
の時「父・豊成」が 諸国巡視の旅に出かけると、「照夜の前」は
家臣に「中将姫の殺害」を命じたそうです。
命乞いをせず、亡き実母「紫の前」への供 養を怠る事なく、極楽
浄土に召される事だけを祈り 読経を続ける「中将姫」を、家臣達
は殺める事が出来ず「雲雀山の 青蓮寺」に隠し、翌年に「父・豊
成」が探し連れ戻しましたが、その間に「中将姫」は「千巻写経」
を成していたそうです。
天平宝字7年(763)16歳の時「淳仁天皇」より 後宮に入る
ように望まれたが、これを辞し、「二上山山麓にある 當麻寺」に
入り「尼」となって「法如」の名を授かります。
26歳の時に「長谷観音」のお告げを得て、仏行に励み 徳によっ
て 仏の助力を得て、一夜で「當麻曼荼羅(「奈良當麻寺」に伝わ
る「蓮糸曼荼羅」、根本曼荼羅の 図像に基づいて作られた「浄土
曼荼羅」の総称・正式には浄土変相図、「観無量寿経」の曼荼羅)
を織り上げたと言われています。
宝亀6年(775)29歳で 入滅し、「西方浄土」に向かわれた
と記されています。
「鐘楼」
「本堂」
「十一面観音像(織姫観音)」は「中将姫」の化身と言われます。
「大辨財天」
「奈良・天河大辨財天」を勧請したもので、元は「火災除け」と
して信仰され、その名残として「社殿堂内」に「木桶」が積まれ
ています。
(「鳥居」に「小石」を乗せるのは「願掛け」かな?)
この後は「六角堂」に行こうかな・・・・・。