はぁ?引き取らないって、どういうことだね?」 

春浪は、さる中堅出版社の応接室で声を荒げた。目の前の編集部担当は、困り果てたような顔で眼鏡を押し上げている。

 「いや、押川さんの才能は疑いようもございません。しかし、この『海底軍艦』、いささか……時代が早すぎると申しましょうか。壮大すぎて、読者がついてこられるか…

手許に置かれた担当者の名刺に目を落とす。

 「長井代助君か……君はどこの学校の出かね。

帝大法科を…

そこまで優秀で、こんなちっぽけな本屋の使いみたいなことしていて、毎日が楽しいかね?

はぁ、なんとも………

この『電光艇』の話はだな、日本の未来を変える傑作だ!日本が、世界が、何をすべきかを鮮やかに描いている!」 

春浪の処女小説『海底軍艦』。心血を注いで書き上げた小説は、彼にとってただの物語ではなかった。描かれた海底軍艦は、彼が本当に作りたいと願う理想の塊だった。だが、こうして世間の反応は冷たい。

長井代助の言い訳は彼の本意ではもちろんない。上司の指示である。しかし代助の言葉は、春浪の耳には届かない。

それから………

それからも糞もあるか!他あたってみらぁっ!

長井は何か春浪に伝えたい気持ちがあったようだ。しかしそれは遂に明るみには出なかった。春浪と長井代助の一瞬の出会いは何をも生じさせず虚しく過ぎた。

がっくりと肩を落とし、失意のうちに春浪は社を後にした。彼の情熱は、厚い壁にぶち当たったようだ。夕闇迫る横浜の道、すれ違う人々が皆、自分を嘲笑っているように感じられた。 






【旅立ちと、告白の余波 】

魚屋…本当に決めちまっまたんか?」 

水産講習所の前で、春浪が漁藤の肩を叩いた。 漁藤は、少し寂しそうに笑う。

 「ああ。」

白瀬矗陸軍予備役中尉が準備する南極大陸探検隊に、加わることになったことを漁藤からいきなり春浪は聞かされた。

俺の天職は、ここ(越中島)にはなさそうだ」 

捕鯨砲開発は立派な仕事だ。無茶だぜ、貴様が南極なんて。お前はいつもそうだ。誰も行かない場所にばかり、興味を持つ。第一、寒すぎて貴様の坊主頭では、南緯60度の極寒の荒波を越えて行けぬぞ」 

だから面白いんだろう?誰も見たことのない景色を、この目で見たいんだ」

 彼はそう言って笑ったが、その胸には、もう一つの「未知」が渦巻いていた。それは、先日の筆子の告白だった。


漁藤様…鱒夫さん……私、あなたのこと…

お慕い申し上げております


ある夜、人目を忍んで逢い引きし狭い路地奥に手を引かれていきなり筆子から告げられた言葉は、南極の氷山よりも彼の心を揺さぶった。まさか、夏目金之助先生のお嬢様が、自分のような者に…彼は混乱した。だが、南極への決意は固い。今は、ただひたすら、自分の信じる道を進むしかない。彼女の真剣な眼差しが、今も脳裏に焼き付いている。



 【戸惑う文学少女と、二人の影 】

夏目邸の広縁で、筆子は静かに本を読んでいた。しかし、ページをめくる手は止まりがちだ。

 「筆子、また難しい本を読んでいるのかい?」 背後から声が聞こえ、振り返ると、父・金之助が煙管を手に立っていた。 

ええ、父さん

 「お前も、もう少し世間の流行りものにも目を向けてみてもいい。…ところで、最近、妙に上の空ではないか?恋でもしたか?

 父の図星を突くような言葉に、筆子は思わず顔を赤くした。 

そ、そ、んなことは…!」 

ふぅんむ。まあ、無理もない。お前も年頃だ。ただし、相手はよく見極めることだな。世の中には、見かけによらない男もいるものだ

 父はニヤリと笑い、書斎へと戻っていった。筆子は、漁藤の顔と、そして彼以外にも自分に言い寄る二人の顔を思い浮かべ、小さくため息をついた。 (松岡様も、芥川様も、とても素敵な方々だけど…私の心は、漁藤さんに…) 彼女の心は、激しく揺れ動いていた。

 



港の見送り、張り詰める空気 】

なあ、芥川。君も本当に来たのか、わざわざ芝浦まで

 東京港品川芝浦埠頭は、けたたましい汽笛の音と、人々の歓声で溢れかえっていた。漁藤を見送りに来た松岡譲は、隣に立つ芥川龍之介にそう尋ねた。

 「ふん。好奇心さ。それに…あの男が、果たして南極で何を得るのか、少しばかり興味があってね

 芥川は、細い目をさらに細めて、船上の漁藤を眺めていた。彼の視線は時折、港に佇む筆子の方へと向けられる。 「しかし、筆子さんがまさか見送りに来るとはな。お前は知っていたのか?

 「さあね。女心とは、複雑怪奇なものだ。…だが、あの漁藤という男も、なかなかのものだな。まさか、筆子嬢の心を射止めてしまうとは」 

松岡の顔から、にこやかな表情が消えた。彼もまた、筆子に密かな想いを抱いている一人だ。

そこに筆子が近づいてくる。

 「松岡様、芥川様…」 

筆子さん。ごきげんうるわしゅう。まさか、このようにお会いできるとは」 

芥川の言葉には、皮肉めいた響きがあった。松岡は、筆子の隣に立つと、小さく唇を噛んだ。三人の間に、静かだが、剣のような緊張が走る。

 「いよいよか。彼の幸先を祈ってやろうじゃないか

松岡が言った。その言葉の裏には、漁藤への複雑な感情が渦巻いていることを、筆子は敏感に感じ取っていた。

汽笛が、再び大きく鳴り響く。船がゆっくりと、岸壁を離れていく。船上の漁藤と、港に立つ筆子の視線が、一瞬だけ重なった。 


少し離れた場所にひとり佇む男のことも忘れてはならない。春浪の目はいつもより赤く腫れ気味だった。鼻の奥がつーんとしてきて、何度も洟をすすらなければならなかった。男のくせにめんどう臭い自分だ、と腹がたった。

いよいよ間に合わなくなり、勢い込めて右手で、ち~んっと手洟をかんだ。