山嵐、来たりて去る

多田健蔵が満州へと旅立ち、神楽坂界隈の活気が幾分衰えてしまったように思えるのは何も近頃センチメンタルに傾斜しがちな春浪ひとりの錯覚でもあるまい。秋が深まり、食欲は増すものの向上心は停滞している。不定愁訴のようなモヤモヤ感がなんとも居心地良くない。理由は、分かっている。その一歩、その一筆がなかなか踏み出せていない。それにすべてが尽きる。
ところが、だ。その日の神楽坂はいつもの静けさとは打って変わって、朝から激しい嵐に見舞われた。春浪が身を置く家作の戸が乱暴に開け放たれるた。柱が折れるかと合点するような音が響き、そのど真ん中に見知らぬ大柄な男が、土間に立っていた。そして、大声で
坊ちゃんはおるかっ?!いや、失敬……多田健蔵君はおられるかァ
と叫んだのだ。寝床の春浪は、その騒々しさに舌打ちをしながら、寝間着のまま戸口へと向かった。
そこに立っていた男は、まるで仁王像のような容貌と、身長六尺半(190㌢)はあろうかと思える巨漢だった。
春浪はすぐに気づいた。「さては、会津っぽの山嵐か」
実際、その異名を取る元松山中学の物理教師・堀田その人であった。会津の中学で教鞭をとっていたはずの彼が、なぜここに。春浪が訝しむ間もなく、堀田は春浪の顔をじっと見つめ、何かを悟ったように言った。
………君は誰だ、あ、そうか君が押川君か。多田君の手紙に書いてあった。坊ちゃんの舎弟って訳だな
堀田は、健蔵への惜別の念に駆られ、会津中学を三日間だけ休んで上京してきたのだという。しかし、健蔵は急遽船便を繰り上げてしまったため、堀田は一日違いで間に合わなかった。その事情を聞いた堀田は、悔しがるどころか、むしろ豪快に笑い飛ばした。
ハッハッハ! 全く、相変わらず直情径行な奴だ! 一日待てば会えたものを、もっと悠長に構えていればいいんだ。しかし、だ。江戸っ子の坊ちゃんらしいといえば、坊ちゃんらしい!
その声は長屋中に響き渡り、近所の住民が何事かと顔を出すほどだった。春浪は、この田舎者丸出しの騒がしい男に辟易しながらも、健蔵を巡る奇妙で確かな縁を感じていた。
よござんす。まぁお上がんなさい。ウチの健兄が四国じゃ色々世話になりまして……
聴けば、堀田は明日には会津へ戻らねばならないと言う。イガグリ頭を手ぬぐいでゴシゴシやりながら、残念そうに付け加えた。


越中島の日々と海洋への夢
春浪は、夏目金之助からの事実上の出入り禁止と、健蔵の旅立ちという俗世の悩みから距離を置くように、新たな居場所を見つけていた。停学処分が明けて早稲田に復学しても今更、だだっ広いジメジメした教室で10年一日の講義に顔を出す気にならなかった。漁藤の根城とする水産講習所(後の東京海洋大学)の越中島図書館に入り浸っていたのだ。天井まで届く書棚には、見たこともない海洋関連の専門書が並んでいた。彼はここで、漁藤から手渡された『海底二万里』に触発された探究心を解き放ち、広大な海と未知なる科学の世界へと没頭していった。漱石山房での肩身の狭い文学修行とは違う、純粋な知的な興奮がそこにはあった。従って、バンカラ集団の天狗倶楽部とも経綸辯論活動とも自然と距離を置くようになってしまっていた。


門前仲町での会食と、「必殺兵器」構想

春浪は、堀田と漁藤を伴い、門前仲町のもんじゃ屋で飯を食うことにした。秋風の吹く下町の風情を春浪は気に入り出した。神楽坂の高台よりこちらは物価も安く、喰い物のネタが新鮮だった。何より水産講習所の学生寄宿舎で相伴になる昼飯の賄いが実に美味くて、いっそ早稲田を引き払い、水産学生に転身しようかとも考えた。
鉄板を囲み、三人で健蔵の話や松山時代の昔話に花を咲かせた。堀田の話を聴くほどに、春浪も漁藤も大いに笑い転げた。漁藤の日焼けした坊主頭と堀田の仁王像に挟まれて春浪は、とてつもなく愉快に感じた。これぞ明治バンカラ書生カタギってやつだ、と。
三人は昼からビールを飲んだ。ジョッキの数が嵩むにつれ、漁藤は最近の研究について熱っぽく語り始めた。
見てくれ、春公。これが俺の考えてる『三角尖頭』だ
漁藤が懐から取り出した煤けた設計図には、鋭く尖ったドリル式の銛先が描かれていた。漁藤は極めて命中確度の高い強力な捕鯨砲の技術開発に関心があった。春浪は興味深そうに覗き込んだ。
さらにだ! これを『回転式連続射出機』、いわばリボルバー方式で次々と撃ち出すんだ。鯨の群れをまとめて一撃のもとに絶命させて捕獲する必殺兵器になるっ!」
漁藤の興奮した声が店内に響いた。
漁藤、こいつは面白い!
春浪は興奮気味に身を乗り出した。春浪の目は、漁藤の設計図に釘付けになった。彼の脳裏には、ジュール・ヴェルヌが描いた潜水艦ノーチラス号の姿と、この「必殺兵器」が見事に融合した、巨大な「隠密戦略海底潜航軍艦」の新たなイメージが閃いた。春浪は、それを構想中の自作の主要武装として採用することを即座に決めた。
この銛打ち機を搭載した、海底潜航型の軍艦を作ってみたらどうだ? 敵艦に気づかれずに海底から接近し、一撃で仕留めるんだ!
彼の突飛なアイデアに、漁藤は目を丸くする。しかし、春浪の目には既に、ノーチラス号にも劣らない、日本独自の潜航艇が七つの海を駆ける壮大なビジョンが見えていた。これは、文学の枠を超え、海軍をも巻き込むことになるかもしれない、新たな時代の幕開けを予感させる瞬間だった。
春浪の突飛な発想に、漁藤は呆れ顔を見せたが、その瞳の奥には確かに好奇心の光が宿っていた。
潜航艇か……。それこそ『海底二万里』の世界だな」と漁藤は呟きながら、スケッチブックを取り出した。
だが、理論上は不可能ではない。蒸気機関の潜水艦は既に欧米で研究されている。問題は動力源と、君の言う『銛打ち機』をどう搭載するかだ
春浪は身を乗り出し、熱弁を振るい始めた。
動力は電池式にでもするか。酸素供給無しでの内燃機関はチト難しかろう……ま、後で考えるとして、何よりこの銛だ。捕鯨用ではあるが、その殺傷能力は実証済み。これを複数搭載し、輪胴式で連射できるようにする。敵艦の真下から狙えば、今の装甲艦ではひとたまりもない!
黙って二人の議論を聞いていた堀田が、ここで口を挟んだ。
おい、押川君よ。貴様、早稲田の学生が軍艦を作ってどうするつもりだ? 文学はどうした?
春浪は笑い飛ばした。
文学ですって? これは時代の最先端を行く冒険活劇だ! 現実を動かす小説こそ、俺の目指す文学だ! 坊ちゃん(健蔵)は満鉄で大陸のインフラを支える。俺は海から、日本の未来を描くんですよ。健兄と約束したんだ。
堀田は鼻白んだ。が、春浪の常軌を逸した情熱にわけも分からず気圧されていた。
聞きしに勝る大風呂敷だな……。だが、君らしいよ
この会食の中、春浪は三人の話を巧みにまとめながら、頭の中で物語の構成を紡ぎ始めていた。登場人物の配置、劇的な展開、科学的な裏付け。驚くべきことに、筆(頭の中での構成)が驚くほど速く進むことを、自分のことながら初めて知って驚いた。




山嵐先生の添削
その晩、三人は神楽坂の春浪の住まいで枕を並べることにした。狭い六畳一間に男が三人。夜が更けるにつれ、春浪は頭の中でまとめた原稿を、原稿用紙に猛然と書き記していった。現役物理教師である堀田は、隣でその勢いよく書かれていく原稿を手渡しで受けて読みながら、専門的な数値や計算の整合性を、持参した赤鉛筆で次々と確認し、訂正を加えていった。
「おい押川君、船体の外装はもっと流線形にせんと、水の抵抗で海上巡航50ノット速度は出せんぞ……」
「係数はこうだ、掛けるんじゃない、乗数倍にしなきゃその速度は保てんぞ、押川君よ」
「おぃ、これじゃ回転モーメントが逆向きで、潜航艇が空を飛んじまう。」
「鋼板の厚さ、このくらいにしとけ。でないと、水圧に負ける。分かってんのか?ここは、人命に関わる一番大事なとこだぜ、押川君……」
その夜は、インクの匂いと紙の擦れる音、そして堀田の低い唸り声だけが、静かな長屋に響いていた。春浪よりも、むしろ堀田が夢中になった。そんな2人の様子を布団にひっくり返りながら漁藤はニヤニヤ愉しげに眺めているのだ。
異なる道を歩んできた三人の男たちが、たった一晩だけ交差した、束の間の協奏曲であった。

翌朝、まだ夜明け前の薄闇の中、三人は静かに家を出た。堀田は始発の汽車に乗るため、春浪と遠藤に見送られながら人力車で上野駅へと向かった。
ホームは、始発を待つ旅人たちのざわめきと、白い蒸気を上げる汽車の音に包まれていた。どこかそっけない、しかし確かな別れの空気が流れていた。三人は、健蔵の旅立ちの時とは違う、もっと静かで、心に染み入るような寂しさを感じていた。
汽車が発車のベルを鳴らす。短い時間ではあったが、深く関わり合ったこの2日間が脳裏をよぎる。堀田は、忙しなく働く駅員の合間を縫って、汽車の窓から顔を出した。そこには、昨晩までの豪快な笑みではなく、静かで、全てを見透かしたような柔らかな微笑みがあった。
漱石先生の『坊ちゃん』に負けないような痛快で、筋の通った物語を書いてくれ! 楽しみにしてるぞ!
その言葉は、まるで古い友人に語りかけるような、静かな約束のように響いた。汽車がゆっくりと動き出し、ガタンゴトンと音を立てながら東京を離れていく。
春浪と漁藤は、朝焼けに染まる空を見上げながら、言葉もなく、彼の新たな旅立ちを、そして自分たちの新たな出発を胸に、静かに見送った。その背中には、もう戻らない若き日の思い出と、未来へのほのかな希望の光が宿っていた。



処女作『海底軍艦』の執筆開始
漁藤との変わらぬ友情、束の間だったが濃密な時を過ごした堀田の的確な添削、そして健蔵とのしばしの別れ………そして清婆さんの遺書によって示された精神的な自立への道。これらの激動の中で、春浪の情熱は一点に収束しつつあった。夏目先生からの半絶縁や、俗世の悩みは、もはや彼を縛ることはなかった。
俺は、現実にはない、誰も見たことのない世界を描くんだ。この腐りきった明治の世をぶった斬るために!
春浪は下宿に戻り、再び机に向かった。漁藤の銛打ち機を搭載した、自らが理想とする「隠密戦略海底潜航軍艦」の冒険を描くために。
こうして、若き押川春浪の処女小説、後の世に名を残す『海底軍艦』の執筆が、静かに、しかし確かな熱量を帯びて開始されたのであった。それは、彼自身の「青すぎる」情熱を、現実世界へと解き放つ瞬間でもあった。