長嶋茂雄という人が、草創期の日本トライアスロン界に貢献した功績は計り知れない。

昭和55年に第1次巨人・長嶋政権が終わって、平成4年の2次政権がリスタートするまでの約11年の長い間、長嶋茂雄さんはいわゆる「浪人」をされていた。
世界スポーツ視察で、多くの国々を巡られていた。 
その過程で、勃興途上にあったアマチュアスポーツが長嶋さんのハートを掴んだ。それが、トライアスロンだった。
その頃、夜中に地上波でやっていた「プロ野球ニュース」(CX)に、成田から帰国したての長嶋さんへのインタビューが短く放映された。僕はよく覚えている。
向けられたマイクに向かって、

「イヤぁ〜、今、アメリカでとってもチャレンジングなアマチュアスポーツがありましてね。
それにちょっと感動してまして。ハートがギュ~ッとね。
その、何ですか、僕が日本の皆さんにイントロデュースしようと、…………」
(記憶頼りなのでニュアンスで)

そして、間もなく日本トライアスロン連盟の会長に就任された。もう、その間の経緯を覚えている人は多くはないだろう。
もちろん、黒幕がいて、それは電通の大塚プロデューサーだったわけだが、それでも長嶋さんは、よくありがちな“名ばかり会長”とは違った。自ら前面に出て、情熱的に動かれた。自身の弟分である松尾雄治氏(ラグビー元日本代表・元新日鉄釜石監督 )を副会長に呼び、彼を迎えて更に盛り上げた。
トライアスロンの競技運営は、その性格上、公道を使って長距離の自転車パートをいかに成功させるがが鍵となる。
国道県道の使用許可を得る際に「長嶋茂雄会長」の箔がどれほど奏効したかは、想像にするに余りある。
公道占用の権限は、ひとえに警察が所管する。
長嶋茂雄ファン世代の野球小僧が、警察組織の中核を担っい始めた当時、道路使用許可並びに占用許可申請書類など形式だけで、簡単にパスできてしまったに違いない。
僕自身が元公務員だから、手に取るように分かる。
公権力なぞ、所詮は権威と上からの圧力に弱い。
長嶋茂雄があればこそ、一桁ナンバー国道を40㎞もの区間、まだよちよち歩きだったトライアスロンが、自由に使わせてもらえたのである。
今の時代、長嶋茂雄に代わるそんな影響力を持った存在は、絶無だろう。

👆️中山俊行氏(日本トライアスロン界のレジェンド)のインスタグラムから画像を使わせて頂いております。

僕は、昭和の終わりから平成初めにかけての頃、連盟主催の「JTSジャパントライアスロンシリーズ」へ夢中になって参加していた。もちろん選手として。
シリーズは、北から、仙台、立川(国営昭和記念公園)、日本平、長良川、天草、と展開した。
付帯レースとしてその他複数、国内に広く開催された。
今のオリンピック・ディスタンスの競技スタイルは、アメリカのUSTSシリーズ、並びに日本のJTSを基本骨格にしている。つまり、スイム1.5㌔バイク40㌔ラン10㌔のトータル51.5㌔である。
各地で開かれるレースには、前夜祭と当日の表彰パーティーが用意されていた。日本中がバブルに沸いていた頃の話だ。
途中リタイアや制限時間超過でDNFを食らわされる選手も少なくないタフさと裏腹に、ホスピタリティ溢れるお祭り気分のセレモニーやバンケットが、トライアスロンを単なるスポーツを越える新しい価値を持ったイベントに変えた。
そう、その頃のトライアスロンは、“祭り”だったんだ。

👆️20年前の僕。
宮古島トライアスロン(スイム3㎞、バイク155㎞、ラン42,195㎞)で、参加者約1200人中66位。
今は昔の物語ダネ

主催者代表として長嶋茂雄さんは必ずレース会場にもパーティー会場にもやってきて、最後まで帰らずいてくれた。そして、場内を縦横無尽に歩き回り、選手や家族、スタッフらと気さくに交わっていた。終始笑顔を絶やさず、並んでの写真撮影にもサインにも決して嫌な顔を見せなかった。余談だが、その精神は、松井秀喜さんに正しく継承されている、と僕は見ている。
そんな長嶋茂雄さんの裏表のない姿を僕は、しかと目撃している。
もちろん、僕は何度も握手してもらった。話もさせてもらった。話し手の目を見ながら、人の話を黙って最後まで聴いてくれるのだ。途中で言葉を差し挟むような出しゃばったマネは絶対されなかった。なんだか、皇室の偉い人を目の前にしたような気にさせられた。
そんな実に暖かく、高貴な品格がオーラのように長嶋さんを包んでいた。

僕はこれでも身長は184cmある。
その僕から見て、長嶋茂雄という人は、遥かに大きく見えた。印象だけではない。ホントに身長が僕より高く、胸板の厚さが僕らの比ではなかった。
そして、瞳が微かに碧かった!
確かに僕は見た。間違いない事実だ。
長嶋茂雄という人のDNA🧬の中には、白人系のものが入っているに違いない💕💕💕


長嶋茂雄さんと言えば、やはり僕ら昭和の野球小僧にとっては、「川上巨人V9」の立役者であり、「ON砲」中距離迫撃砲であり、何と言っても「華麗なフィールディング」で、魅了してくれたヒーローだ。心酔、て言葉が似合う。
僕は、打席に立った背番号3よりも、守備でギリギリ一杯のイレギュラー球を仕留め、その球をセカンド土井ないしカヴァーに着いたショートの黒江の胸のど真ん中に届け、ゲッツーに持ってかせるグラブさばきに痺れた。
送球に思いを込めた長嶋茂雄の流線的な腕の動きが、何とも詩的で美しかった。小学生にそのことを感じさせるくらいのインパクトである。僕より上の世代が、長嶋茂雄選手に夢中になった理由が分かる。



少年の間では、人気はホームランキングの王さんに集中した。だから、草野球をやるとなると素振りに励み、真似して片足打法を試み、飛距離にこだわる風潮が長く続いた。
しかし、王さんも大好きだが、それよりも何十倍も長嶋茂雄ファンでいることの誇りを、僕は心に秘めて大切にした。
打率や本塁打数なんか目じゃなかった。先輩に頼み込んで付き合ってもらった100本シートノックを、1球たりともとりこぼさなかったことを自分の勲章とした。
それもこれも、長嶋茂雄さんの影響である。
僕らの世代は、みんな守備はサードで争ったし、めでたくポジションをモノにしたら、長嶋茂雄選手のアクションを真似して満足したものだった。
もう、こんな話を熱くしても、若い世代のameblo読者諸君には、わかってもらえまい。







長嶋茂雄会長、
ありがとうございました