『令和江分利満氏の優雅な生活』
神崎玲という年の離れた人魚に、アルコールの勢いで「知事の片腕として……」などというタワケた大嘘を吐き、不埒な妄想に胸を躍らせた夜は、瞬く間に明けた。
木曜日の朝、品川キャンパスの大講義室。二年次の必修科目『地球物理学概論Ⅱ』を控え、江分利は老眼鏡の位置を何度も直しながら、最前列の机に縮こまっていた。何だか知らぬが、気持ちが乾いている。そして、酷く腹が空いている。殺伐さが全身を覆っているようで、なんともやりきれない。講義の中身なんぞ、全然頭に入るわけがない。
担当女性教授による講義終業の合図と共に定番のカツカレーセットを目指して学食に向かう。しかし、その精神的な飢餓感に追い打ちをかけるのが、その品揃えであった。
ここの学食は、およそ日本の最高学府のそれとは思えないほど、徹底的に侘びしかった。侘びしいなんて形容詞は、同じ税金の遣い先でも、刑法犯矯正施設の方にあてはまるのであって、ここは、さながら家畜の飼料の体である。
まずくて、量が少ない。そのくせ、天下の国立大学のくせに値段だけはやたらと高い。おまけに営業時間は十一時から十三時半までという、役所の窓口もびっくりの短さである。午前中の講義が少しでも長引けば、その時点で江分利の昼食難民化が決定する。
辛うじて滑り込んでも、食券機の前に並ぶメニューは十個にも満たない。選ぶ愉しみなど皆無、ただ炭水化物と塩分を無機質に胃袋へ流し込むための配給所のようであった。いや、繰り返すが、ここで出されるものは家畜の飼料だ。受刑者の食事だってもう少し身体のバランスを考慮して、健康に良いものを出すはずだ。茶色く干からびたヒレかつ入りのカレーライスを見つめながら、彼はかつて県庁の地下食堂で、安くて美味い定食を同僚たちとつつき合っていた昭和の喧騒を思い出し、喉の奥に酸っぱい郷愁を覚えるのだった。
一年前、江分利は一回生の必修科目である『水産海洋概論』の講義で、すでに白旗を上げかけていた。親の魚の量から次の世代の子どもの魚の量を予測する、あのリッカーの再生産関係式という、ネイピア数 e の指数関数がぐちゃぐちゃに絡み合った非線形方程式

の激流に溺れかけ、還暦の錆びついた脳細胞を血の滲む思いで酷使して、なんとか進級したのだ。それだというのに、二年次のカリキュラムは、そんな江分利のささやかな安らぎを嘲笑うかのように、さらに一段と容赦のない牙を剥いてきたのである。カレーライスのスプーンを口の運びながら、漠然とそんなことを思い出していた。今日のカレー🍛はとくに味が良くなかった。

午後の講義が始まった。教授が黒板にサラサラと書いたのは、日本語ではなく、ギリシャ文字の並ぶ怪しげなベクトル解析の数式であった。「ナビエ・ストークス方程式」と教授は言う。江分利は完全に目眩を覚えた。一回生のあのリッカーの公式を遥かに凌駕する、二年次の高度な数学の前に、江分利は完全に沈没していた。
あまりの分からなさにパニックになりかけた江分利は、すがるような思いで、隣に座った茶髪の若者《下池和幸》に「あの、今のところ、どういう意味かね?」と、元公務員特正の、妙に丁寧で気取った口調で話しかけてみた。
下池は、スマホから一瞬だけ目を離し、私を底冷えのするような冷淡な目で一瞥した。
「ハァ?……てか、おじさん、ぶっちゃけ邪魔なんすよね。授業受ける気ないなら後ろ行ってくんね? 昭和のノリで話しかけられるの、マジでタイパ悪いんで」
タイパ。タイムパフォーマンスの略らしい。江分利は言葉を失った。公務員暮らし三十余年の経歴など、この二十歳前の若造の前には一文の価値もない。江分利の六十年の人生は、彼らにとって「効率の悪いゴミ」にすぎないのだ。彼らの世代の音楽は、イントロを飛ばしてサビから聴くのが当たり前なのだという。「うっせぇわ」と心の中でシャットアウトされるように、江分利の言葉はサビにすら辿り着けずに切り捨てられた。激しい惨めさが、喉の奥に苦く広がっていく。
命からがら講義を終え、逃げるように我が家へと帰宅した。しかし、我が家は南極よりも過酷なホワイトアウトの世界であった。
江分利が「ただいま」と言っても、妻と娘の視線はテレビ画面に釘付けのままである。彼の声は、リビングの空間に吸い込まれた。何か大学の話題を切り出そうとすると、妻はテレビを見たままで、リモコンの音量を一つ上げた。会話を拒絶されたのではない。彼はこの家で、完全に「透明人間」にされているのだ。
かつて結婚した当初、江分利と美沙緒はTRFの曲に合わせて「CRAZY GONNA CRAZY」とばかりに、不器用ながらも熱い夜を過ごしたはずだった。
♫ ダイヤを散りばめてる様な 夜景を車から見てるよ
カラオケもあきちゃった頃でも
腕に手をからませればゴキゲン
何が1ばん大切なの?
聞きたいけどなかなか言えない
ほんの一瞬でもあなたと
いっしょならいいと思ってる…………
それがいまや、リビングに流れるのは冷え切った沈黙だけ。キッチンに行くと、テーブルの上にラップに包まれた冷たいアジの開きと、冷めたご飯がぽつんと置かれていた。あの侘しい学食の茶色い唐揚げの残像が、この冷え切った魚の姿と重なり、江分利の胃袋を重く圧迫した。
彼は冷え切ったアジの開きを箸でつつきながら、一年前のリッカーの再生産関係式を思い出していた。親(S)が増えすぎると、資源の限界を超えて次世代(R)は減るというあの数式。我が家における江分利の存在(親)が増えすぎた(定年後にずっと家にいる)せいで、家庭内の平和はマイナスの指数関数となって激減してしまったのではないか。そんな馬鹿げた数理シミュレーションが頭をよぎり、己のピリ辛い境遇の滑稽さに、またしても猛烈な惨めさが込み上げてくる。
「あなた、明日のゴミ出し、ちゃんとやってね。大学生なんだから時間はたっぷりあるでしょ」
美沙緒は夫の方を見向きもせず、スマホをいじりながら冷ややかに言い放った。元地方公務員、現・東京海洋大学二回生、江分利満。この何の取り柄もない、ただ地味に生きているだけの男の家庭内における地位は、いまや「動く粗大ゴミ兼ゴミ出し係」へと完全に失墜していた。外では知的な人魚に壮大な嘘を吐き、学食では侘しさに打ちのめされ、教室では若者に邪魔者扱いされ、家ではゴミ扱い。この圧倒的なギャップに、江分利の心は引き裂かれそうだった。
涙が溢れそうになるのを堪えるために、江分利は強く目を閉じた。平成のあの頃、僕たちは「明日があるさ」と笑い合えた。しかし、還暦を迎えた江分利の明日は、リッカーの方程式にも乗らない、ただのゴミ出しから始まるのだ。
すべてに打ちのめされた江分利は、自室に隠したアイパッドの画面を見つめた。夜な夜な書き殴るフリーブログ【海洋大品川Letter】だけが、この惨めな現実を吐き出せる唯一の捌け口だった。
その時、画面の最上部に、緑色のメッセージアプリの通知が滑り込んできた。神崎玲からのラインであった。
『知事の片腕だった江分利さん。今度、二人きりで大きなクジラを探しに、南の海へ下りませんか?』
ただそれだけの、短く、そしてひどく意味深な文字列。
外から吹き付ける夜風が、急に生温かく、妖しい香りを孕んだように感じられた。江分利の胸の奥で、消えかかっていた不埒な炎が、再びどろりとした熱を帯びて蠢き始める。このピリ辛い現実の向こう側で、人魚の待つ深海へと、彼は知らず知らずのうちに深く溺れていく予感に震えていた。
外から吹き付ける夜風が、急に生温かく、妖しい香りを孕んだように感じられた。江分利の胸の奥で、消えかかっていた不埒な炎が、再びどろりとした熱を帯びて蠢き始める。このピリ辛い現実の向こう側で、人魚の待つ深海へと、彼は知らず知らずのうちに深く溺れていく予感に震えていた。
つづく





