夏目金之助から無期限の出入り禁止を妻の鏡子を通じて申し渡された春浪には、この「無期限」の意味するところが解せなかった。どうせなら、ひとおもいに【破門】を申し渡してくれたほうがスッキリする。土台、金之助先生と自分とは水と油、書斎派の天才と無駄吠えばかりの野良犬の天地の隔たりだ。先生の方から「もうお前さんは要らないよ」と、どぶにうっちゃってくれたほうがマシだ、とさえ思った。今のままでは、金之助先生を恨むにも恨みきれない。肛門から出かかった大便のキレがくて、粘りっこく長く垂れ下がり、ソイツが褌にこびりついて嫌な臭気を放っているが如し、と春浪には感じた。誠に尾籠な例えだが、春浪らしい。
出入り禁止宣言は、かように若き春浪の心にトゲのように不快に刺さったままだった。
しかし、彼の旺盛なエネルギーは別の方向へと向かっていた。連日、天狗倶楽部の野球試合や、金栗四三が出場する陸上競技の応援にうち興じ、文学指向からは遠のきつつあったのだ。それがせめてもの春浪の精神の安定に資するよすがであった。
「ちくしょう……」
そう呟きながら、朝刊の運動欄を広げる。秋の早慶野球戦に向けて、記者の書く下馬評がヤケにヘタクソに見えた。俺なら、もっと派手派手しく、購買部数を増やすような書き方ができる………はずだ。喧嘩口上やヤジ合戦なら、俺の右に出るものはない。弁論部8年生のヒゲヅラ部長を時局学生討論会に飛び入り参加した際に、散々やり込めて判定勝ちに持ち込んだことは早稲田の首席卒業以上の名誉だ、と自認しているくらいなのだ。
文学修行の先輩らと交わる日々とは違い、今はただ、目の前の熱狂だけが春浪を満たしていた。
【漁藤の来訪】
そんなある日の午後。
がらりと下宿の引き戸が開いた。下女の清はおつかいに出て、留守番は春浪ひとりだった。めんどくさい来客か、と舌打ちした。
狭い家だ。戸口に体を向けると、そこに久しぶりの水産講習所学生・漁藤が、日焼けした顔で立っていた。
「よお、春浪……じゃねえ、春公っ! 相変わらず自堕落な生活送ってんな!」
「漁藤か。生きてたか。てっきり、オホーツクでホッケの餌にでもさせられたんじゃないかと、もう金輪際、お前の供養に北の魚は食うまいと肝に銘じてたところだ。惜しいことをした。」
「漁藤か。生きてたか。てっきり、オホーツクでホッケの餌にでもさせられたんじゃないかと、もう金輪際、お前の供養に北の魚は食うまいと肝に銘じてたところだ。惜しいことをした。」
相変わらず口だけは達者だな、と漁藤は笑いながら、一冊の分厚い本を春浪に手渡した。
「これ、読んでみろよ。フランス語の翻訳本だ。『海底二万里』っていうんだが、これがめちゃくちゃ面白いんだ」
「なにか……?」
「なにか……?」
「水産講習所の学生の間で近頃評判の冒険活劇だ。」
「ちっ。大仰すぎるぜ。魚屋が読むもんなど、当てになるか。」
所用とかで、漁藤はすぐにも立ち去らねば、と言う。なにかよんどころのない事情があるらしく、春浪の目には映った。春浪は興味なさそうに本を受け取ったが、漁藤が去った後、何気なくページをめくり始めた。
潜水艦ノーチラス号の冒険、海底を巡る天然の不思議、そして気概の塊のようなネモ船長の哲学、戦争反対の静かなる抵抗………………
たちまち春浪はその世界に没入した。
「これは、すごい……! こんな世界があるのか……!」
現実のしがらみや、金之助からの半絶縁といった俗世の悩みが、海底二万里の壮大なスケールの前では些細なことに思えた。春浪の胸の内に、これまでとは違う、新たな情熱の炎が灯った。
「俺も、こんな本を書いてみたい。」
作家になるという理想ばかりが先行していたこれまでの文学とは違う、冒険への純粋な憧れが彼を突き動かし始めた瞬間だった。
【神楽坂の裏路地にて】
街鉄技師である健蔵は、会社の人事管理当局から呼び出しを受けていた。明治殖産興業の重鎮・後藤新平が手掛ける南満洲鉄道開発の技術吏員としての派遣要請だった。
「多田君、君の心身頑健さと、曲がったことが嫌いな一本気な性分は、新天地でこそ活きると思う。行く気はないか?」
社長直々に執務室に呼ばれた。
満州………行けば、おそらく十年は日本に帰れない。
健蔵は、神楽坂での春浪や清とのささやかな共同生活、そして何より、この東京の街の鼓動のリズムを規則正しく運ばす要を自分が背負っている自負が、待ったをかけた。彼は逡巡した。
そんな矢先、同居人する下女の清が、慢性持病の悪化により急逝してしまった。朝飯の支度を済ませると急に様子が悪くなり、床をとって休ませているうちに、健蔵が氷を浮かせた金盥水を運んできた時には既にこと切れていた。
葬儀を終え、しんと静まり返った六畳一間。
春浪と健蔵は、清がいつも座っていた場所に目をやった。
「清さんは、俺たち二人をいつも笑い飛ばしてくれてたな。『まったく、手の掛かる二人ですこと』って」と春浪が寂しそうに言った。
「ああ……」
健蔵は、清の遺品の中から出てきた一通の手紙を春浪に見せた。それは、健蔵宛の遺書だった。
「健蔵様へ
あなたが満鉄へ行く話、うかがいました。夏目先生も、きっとあなたが大陸で大成することを願ってらっしゃるはずです。私は、あなた様と押川の坊ちゃんお二人がこのまま東京で腐ってしまうのが心配で心配で仕方がありませんでした。押川様の将来の為にも、旦那様あなたご自身が海を渡るのです。夏目先生からのご指示を受けて、お二人を山房から遠ざけた私だけど、今は心からそう思っております。行ってらっしゃいませ、旦那様 清」
健蔵は目を見開いた。清が夏目家と繋がっていたこと、そして自分たちのことをそこまで案じてくれていたことに、愕然とした。夏目夫妻からの事実上の出入り禁止は、自分たちの自立を促すための、ある種の愛情表現だったのかもしれないと、今になって気づかされた。
【新たな旅立ち】
清の遺書によって、健蔵の心は決まった。春浪もまた、清の急逝と『海底二万里』との出会いを経て、自身の進むべき道を見定めていた。
出発の日、漁藤も恭しく参上した。3人は駅のホームに立っていた。健蔵は街鉄の制服ではなく、真新しい洋服に身を包んでいる。
「健兄……」と春浪、そして漁藤。
「春公……、そして魚屋」と健蔵。
健蔵が、春浪と漁藤の手のひらを両の手のひらでギュうと包むようして、こう言い放った。
「俺たち兄弟、互い産まれた日は違えども、死ぬ日は一緒っ! 忘れるなよ……」
3人の間には、いつしか確かな絆が生まれていた。
「健兄の言う『理想論は青臭すぎる』ってのは、きっと正しかったんだろうな。でも、俺は『海底二万里』を読んで、現実にない世界を描くのも、この腐りきった明治の世をぶった斬る方法なんじゃないかって、そう思ったんだ」
春浪の言葉に、健蔵は静かに頷いた。
神楽坂の家は、健蔵の戻るまで春浪が守ることになった。
「ふん、世の中の不条理を前にして、俺たちにできることなんざ、たかが知れてるかもしれんぞ、前も言ったが。貴様、とんでもない大風呂敷広げて、日本をペテンにかけたりするなよ。」
健蔵は続けた。
「だが、野宿だ未開の土人だと鳴り散らす俺の心にも、お前と同じ灸が据わってるのかもしれん。俺は満州で、お前は東京で、それぞれの流儀で世の中と闘おうじゃねぇか」
汽車のベルが鳴り響く。健蔵が汽車に乗り込み、窓から顔を出す。
「じゃあな、春公!そして、魚屋!十年後、きっとまた会おう!」
「ああ、健兄!今度は俺の小説を持って、迎えに行く!」
健蔵を乗せた汽車がゆっくりと動き出す。
師の厳しい沙汰によってもたらされた漁藤を交えた健蔵と春浪のバンカラ野郎の奇妙な縁は、神楽坂の裏長屋での生活を経て、静かながらも確かな熱を帯び、それぞれの宿命を背負った新たな展開を迎えていた。








