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軽井沢にはまだ新幹線が来てなかった頃だった。駅前のバス停に先生が待っていてくださって、「さ、行こうか」と先にたたれた。私たちは駅前の通りをまっすぐ歩いた。きのう夜の急な話にしては、15人のゼミのメンバーのうち8人も残った。東京に用事がないわけではなかったが、私に帰るという選択は考えられない。萩尾先生の魅力といえばそうだろうが、私だって意地もある。中軽井沢からのバスの中で、みんなで「私たちよっぽど暇をもてあましているみたいね」とクスクスと笑いあった。

夏休み前の6月といっても、日曜日の旧軽メインストリートは、原宿みたいに若い女の子やカップルで雑踏している。カーニバルの喧騒にはつい覗いてみたい誘惑があるが、それよりこれから行くところへの興味がまさる。先生はどこへ案内するともおっしゃらずに、話しかけてくる学生には適当に相槌を打ちながら、三笠通りへ歩を進められる。やがて道は鬱蒼とした落葉松の森に入った。車道と歩道とは樹林に隔てられていて、森の中に点在する別荘はレトロな避暑地のままである。

先生は、ある別荘に入っていかれた。アメリカ風の赤い郵便受けには〈吉沢〉とある。私たちは家の中に入らずに、ガーデンテラスのほうに回った。テーブルには季節のフルーツが盛りつけられ、人数分のケーキが用意されてあった。ガーデンの芝生にベンチが置かれ、木陰にはブランコが風に揺れている。家の中から先生がティーポットをもってテラスに来られ、後ろの影の中から美しい──それはあたりをほの明るくするほどの白い輝きをもった──女性が現われ、それから小さい女の子もついて来た。奥様とお子さんであることは疑うまでもない。

先生が「妻のシズと娘のチカです」と紹介され、奥様が「みなさん、お勉強の合宿だなんて大変でしたね。あら、そんなこと言っちゃいけませんよね。私も同じことをやってきたんですもの。でも10年もたてば忘れちゃうわ」と笑った。

私は奥様を凝視した。臈(ろう)たけた美人とは、こういう人かと思った。

臈とは受戒後の僧が一夏(いちげ)九旬の間修行して功を積むことをいうが、臈の多いほど僧位が高くなることから、広く一般には年功を積むことを指す。江戸幕府の男世界の重役が老中であり若年寄であったように、大奥女世界のそれは上臈であり中臈といったのが好例である。「臈長ける」の語も“経験や年功を積む”の意が含まれる。けれど、つい最近までの人の世では年を重ねることが美徳であったように、一義的な「臈長ける」は(女性が)洗練されて美しく優美であることを意味する。

「私のシズは珍しい字で、倭の文と書くんです。なにか日本文学するために生まれてきたように思いませんこと? そう思いこんだ私が無知だったということでしょうけど」。そして、少し伏しがちに微笑んだ。

「辞書ではシヅは、“梶の木と麻の繊維でスジや格子を織りなした織物”とあります。実際は楮(こうぞ)や苧麻(からむし)の繊維もつかわれて、横糸を赤や黒に染めた乱れ模様をつくったのです。シヅはスジのこと。奈良時代までは濁らないでシツですね。加茂(かも)とか安曇(あど)とか呼ばれる海の民──海人族(あまぞく)といいます──が、新羅あたりからもってきたものなのでしょうが、ずいぶん古い。すっかり日本固有のものと思われてしまって、後から渡来した技法の漢織(あやはとり)とか呉織(くれはとり)に対して、当時の日本の国号である倭の文字を宛てたのです。平安時代にシツは濁ってシヅとなり、織物であることを強調して倭文とも書くようになりました。この仕事の専門職が倭文部(しとりべ)で、全国に倭文神社が残っています。シツのオリでシトリですね」。先生が解説された。

私は、「じゃあ、先生。奥様が倭文を日本文学と思われても、強ち間違いとはいえませんね。だって、歌や物語だって“紡ぐ”といいますでしょう?」と口を挟んだ。奥様は私にほほえまれて、「そうよね、若さは恋物語をあやなすことができるんですものね、紗奈さん」とおっしゃった。

えっ? あやうく口の中のイチゴを吹き出すところだった。なんで初対面の私の名前を、しかもファーストネームを知ってらっしゃるの!? けれど私の驚きは、奥様からも、先生からも、まったく無視された。

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よほどかわいいと思っていただいたの?
それでも昨夜のあまりの激しさに、涙も涸れはて、からだを動かすこともできずに、
キャビンの底で死んだように眠っていたの。

どのくらいたったのかしら。
ラッタルのドアが開いて、日光を塞ぐような影から
「おい、デッキに上っておいで」
と彼の声。

「ええ」
力なく返事して、あわてて身づくろいをして、梯子を上って甲板に出ると、
瞬間にジッと灼かれるような、目もくらむばかりの眩しい光が過剰にあふれて、
私は思わずよろめいて。

「どうした?」
私をささえながら、かぶさるようにあなたの白い歯が笑っています。
大好きな彼の香りがして、おもわず目を閉じて吸い込んだの。
もう一度あなたを見上げると、あなたの顔のうしろに、
驚くほどの広く碧い空が、いっぱいになっているのに気づいたわ。

「ごめんなさい」
抱えてくださった腕から身をはなしてへたり込むと、
群青の海の色が揺蕩して私を襲って怖いほど。

「ご覧、あれがクレタ島だ!」

あなたが指さす彼方に白い花崗岩に緑を滴らせた島がキラキラ輝いている。
私は、あなたを見上げて、その姿がボーッと霞んでいくのを感じた。
涙が、もう何度も涸れ果てたと思っていた涙が、、、
尽きることなく溢れてきて、
私はまたいつの間にか声を上げて泣きじゃくってしまったの。

「ありがとう、あなた。いつか言ってらしたことが本当になったのね。
もう夢じゃないのね......」
慟哭の声はやむことなく、あなたの朗らかな高笑いが太陽に届けと
天空に吸い込まれていく。

それが神話のはじまりーー

「さあ、船長、今夜も魅惑の夜をこの女の子にくれてやろう!」
「Yes,Sir!」
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あられもない? そう、酔ったらどうしても男──ここでは当然に萩尾先生──を求める、トロンとした女豹たちの眼があった。学生たちの酔態あらわとなるその時刻、最後まで残っていた細川講師も部屋に引き揚げて、先生方はもう姿を消していた。誰かが「ハギオーッ、どこに行った!? 逃げるなんて卑怯だぞ!」と喚くと、みんなが「ワッ」となって、そこからは乱痴気騒ぎ。

「あぁ萩尾先生の厚い胸に抱かれてみたいわ」とウットリ言う子がいる。「萩尾の胸は厚いの?」と尋ねる子。「そんなに厚いとは思わないけど」と応える子。「でも、ポロシャツに透かした胸板は魅力的だわ」とか。「私は追いつめたいな、萩尾を。部屋の隅に追い詰めて、おびえた顔がみたいな」と言う子もいる。「抱かれるより抱くのに適した男よ、彼は」とか、「ツンと尖った乳首をつねってあえがせてみたいわ」と、こっちはサディスティックである。

そんなことを聞きながらも、私は耳をそばだてるだけでおしゃべりの外にいた。そのうち私も酔いがまわってきて、先生のいない酒の席が悲しくなってきた。山名教授は定宿の万平ホテルなのだろうが、萩尾助教授はいったいどこに泊っているのだろう? うちのゼミ幹事がみんなの間を縫ってメモを渡していった。──萩尾ゼミ あした解散後に時間がある人はゼミ幹事のところへ。先生と旧軽を散歩しませんか──と。

白い壁の細長い部屋に、私はいた。大きな長いテーブルが向こうの果てまで伸びている。テーブルの左は見えない。右端と窓との間は人ひとりがやっとである。その狭い空間に、萩尾先生がいる。胸がのぞく白いシャツを着て、私を仰ぐ眼はおびえている。私は巨きくなっていて、目線は頭の上から彼を見下ろしている。大きな声で私がなにか喚きテーブルをバンと叩くと、彼はビクッと後ずさりする。私は一歩前に進む。大声を出しバンと叩くたびに、彼は退き、なにかしきりに弁解している。私はかまわず前に出る。

三度び四度び、とうとう部屋の隅に追い詰められて、彼は哀れっぽい眼で私を見上げる。憤怒にかられた私がシャツに手をかけて引っ張ると、シャツはビリビリ裂けて、彼の上半身は裸になった。「あっ」と彼が叫んで両腕で胸をかくす。なま白くうすい裸身には、ブロイラーのような鳥肌が立っている。「なにをやってるのよ、女の子じゃないでしょ!」。私はぶつかるように彼に接触して腕を払いのけ、右手で紫色の小さい乳首をつまんで捻った。

「アァーッ」、悲鳴があがる。「痛いの?」。必死に耐えている顔が健気だ。私はつまんだ指の力をまたひとつ。「……」。彼は悲痛に声はもらさないが、もう限界ギリギリ。「好きなら好きと言いなさいよ!」と、さらにひとつ捻る。やがて「クゥ」と彼の唇の間から吐息が漏れ、口が半ば開かれ、「はぁ、はっ」とした喘ぎに変わり、眼からツーッと涙が流れた。感じているのだ、彼は! 私は彼に覆いかぶさって、喘ぐ口を塞ぎ唇を吸った。彼はたしかに感じている。胸のドキドキが私の胸にもそのまま伝わってくる。私が舌を挿入して口腔をかきまわすと、彼の舌もそれに応えているじゃない! 歓喜で世の中が明るくなった……。

眼が覚めた。朝の光が眩しい。下着が濡れている。躯が重たく、だるい。なんともいえない気分がした。吉夢か、それとも私は焦っているだけなのだろうか。