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「みなさんは“しづの苧環(おだまき)”という言葉を知っていますね」と、先生が学生たちに語りかけられた。ゼミのみんなは、「えっ? なぁに、それ?」とあっけらかんと言ったり、自信なさげに「あぁ、あれね」とか言っている。私はまだ、それどころではない。

「しづの苧環とは、倭文を織るために巻かれている麻糸の玉のことです。機(はた)を動かして織っていけば、そのつど苧環から糸が繰り返し出てくることから、動詞“繰り返す”の序詞にもなりました」

「それがあの、『義経記』静(しずか)若宮八幡宮へ参詣の段へと、萩尾先生の講義が広がっていくということです」。クスッと笑われて、奥様がおっしゃる。苧環の言葉の用法から、新しいテーマへと話題が転じた。

「じゃ、キミが続けて言ってください」と先生は、ごく自然の表情で奥様にバトンを渡された。奥様はしばらく躊躇されたが、やがて思い切ったふうに、学生がゼミで発表するかのように語りはじめられた。

──静は容色も舞も群を抜いた白拍子でした。都が百日の旱(ひでり)に呻吟して、後白河法皇が南都北嶺など高僧百人を神泉苑に呼び八大竜王を祈られた際、白拍子百人に雨乞いの舞を命じられました。九十九人が舞い終えても、陽は中天にあって雲ひとつだに見えません。残る一人、静は法皇に召されて蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣を賜り、これを身に着けて“しんむしょう”という曲を舞いはじめます。その半途、にわかに北山から、愛宕山のあたりにかけて黒雲が湧いて洛中を覆い、稲妻が閃いて八大龍王が鳴り渡りだしました。雨は三日間降り続いて、国土安穏の祈りは聞き届けられたのです。法皇の叡感ななめならず、静に「日本一」の称を賜ったとされています。平家追討で都に上った九郎判官義経に幸(こう)せられて情人となりますが、頼朝の追捕に手に手をとって逃避行。船に乗っては暴風に翻弄され、身ごもったからだで雪の吉野の涙の別れとなります。その後、静は鎌倉に召喚され、頼朝から鶴岡八幡宮で舞うように強いられました。いかに嘆き悲しんでもどうしようもなく、ついに静は身を捨てる決心で舞殿に立ちます──。

奥様はいったん家の中に入ると、古典体系の『義経記』を持ってこられた。「ここからは原文をひきひきお話ししたほうがいいでしょうね」とページを開かれる。先生も、私たち学生も、ただ謹聴の風情である。智香ちゃんだけが「ママなにやってるの?」といった顔だが、むずがることもなくパパの膝に座っている。

──この日、静は白小袖の上に唐綾をかさね、長い白袴を踏みしだいて、割菱模様を縫いつけた水干装束。長い黒髪を高らかに結いなして、歎きに顔面はやせているものの、薄化粧に眉ほそやかに作りなし、悉皆(しっかい)紅の扇を開いて、神の御前に立ったのでした。さすがに頼朝の前とあって、こころ震え踊ろうとしてためらうのですが、頼朝の妻政子からの、「こぞの冬、四国の波の上にてゆられ、吉野の雪に迷ひ、今年は海道の長旅にて、やせおとろへ見えたれども、静を見るに、我が朝に女ありとも知られたり」との感嘆の声に背中を押され、歌いかつ舞い始めるのです。“しんむしょう”の曲は、中途で楽をなす武将たちが鎌倉殿に失礼と思って調子を変え、しぼむように終わります。やむなく、静はあたりさわりのない“君が代”を舞っておさめます。しかし、固唾を呑んで見ていた人々の「いまひとさし」と求める声が、満場を圧するように高まります。ここから静は、恋する女の美しさとせつなさを高く強く歌い上げるのです。

しづやしづ賎のをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな

しず、しず。かつて、あの人が呼んでくださった。私のような者にまで何度も。その幸せだった昔。繰り返すおだまきのように、昔を今に繰り返すことができればいいのに、どうしようもないのだろうか……。

吉野山嶺の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき

あなたと別れた吉野山。峯の深い白雪の先に去っていかれたあなた。想い出をしのんでも恋しさはまさるばかり……。
頼朝は女の嘆きを自分の政治への怨みとみて不快感を示しますが、政子は“女の情だけのこと”と赦します。けれど、こののち静が生んだ男児は由比ガ浜に沈められ、一人帰った京で、翌年心労ではかなくなってしまいます。
静十九の齢のことです──。

(つづく)


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「なにか勘ちがいしているんだよね、困っちゃうよな。たしかに明美はさぁ、料理はうまかった。
手料理食べさせてもらってさ、お愛想のひとつもいわなきゃ次がなくなっちゃうじゃん。
“ずっと毎日明美の手料理食べられたらいいな”といったんだよ。それだけだぜ」
寝ころがって二人でテレビ見ていて、最後の「ぜ」がまだ空中に残っているのに、
すり寄って琢磨の手は私の腰を抱こうとしている。
あぁ、いやだわ、急にほかの女の話を、こんな脈絡で始めるなんて。
腰についた手をはらおうとすると、ぐっと力が入ってGパンのお尻が琢磨の股間に密着した。
(興奮してる、まさか、こんなとき?)

「ほかにもなんか言ったかな? そうだ、あいつ偏差値いいほうだよね、だもんだから、
“明美と子どもつくったら、その子は幸せだろうな”とかさ」
手が腰からブラウスの下にくぐって素肌の腹部にさわった。
<ザラッ>。
(あっ、なにすんのよ)
琢磨のシャツについた舶来タバコの香りが宙をまった。

「そいで包丁もったまま振り返って、“どうして?”って訊くからさ。
“明美の子じゃ受験がラクだろうね”ていうと、“ふん、バカみたい”だってさ。
そいでも顔なんかぐしゃぐしゃにしてたけどね」

もぞもぞ手がブラジャーの下縁に届き、またそこをくぐって乳房の丘を這いあがろうとしている。
腰をぐりぐり押しつけてくる。
(こいつ、なに考えててるのよ、場面がわかっているの?)

「てっきり結婚する気なんかなってもさ、オレだって選ぶ権利があるよな。
鏡見て言ってくれ、てか。なぁ、奈緒はほれぼれするよね。
こんな美人のそばにいられるんだもの、これって幸福ていうんだよね」
<ビクン> もどかしいように動いていた親指が乳首にたどりついた。
(いやっ!)

<にゅりゅつ>。
(いやだ、感じてる)
 
どうしてこんな男、別れられないのだろう?
口腔から鼻腔にほろ苦い匂いが漂う。

私の胸から手を抜いて、琢磨は背中にのしかかってきた。
「ああっ、、、もおっ!」
四つんばいになって逃げようとする私の手の甲がつかまれて、思いきり両手と背筋が伸ばされた。
お尻がつきあがった姿勢のまま、私はなされるがままになろうとしている・・・。
いや、それ以上に躯のある部分が勝手に滴る様に反応しているのを感じる。

ジッパーの下がる音。

視界いっぱいのフローリングの板の目があっという間にぼやけて見えなくなっていく。


☆ ☆

「こんなこと書いてたんだ…」
思わずつぶやいた。
書棚を整理していて挿まれたノートの切れ端。
破ってもいいし、創作ノートに転記してもいい。
目にふれても夫はなにも言わないだろう。

当時はくよくよと考えたものだ。
そとみもタイプじゃなかったし、アタマの中も貧弱だった。
なぜ別れられないのだろう、と。

躯の相性は理性を窒息させるほど強いのだろうか?
肌が合うとか躯の繋がりとか、何のこと? 
肌ざわりか、凹凸のはまり具合か、それとも分泌される微量物質か。

琢磨はある時から気管支をやられてタバコをやめた。
それから私はすっかり醒めてしまったのだ。
もう、自分を狂わせるあの匂いは復活しない。
呪縛がわかった途端にちょっぴり切なくなった。
それから10年。

しばらくしての日曜日の朝。
コーヒーを喫みながら、新聞に載っている夫のエッセイを話題にした。
「『女の快楽にとって男は触媒にすぎない』とはずいぶん大胆なタイトルなのね」
「だってそうだろう、僕だって君に棄てられないようにかなり頑張っているつもりなんだよ」
と夫が片目をつぶって微笑んだ。

そうか、タバコじゃなかったんだ!
私は気がついた。
かつて琢磨は“しょっちゅう”だったけど、ある時から“たまに”になったのだった。
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その前を行きずり歩くごとに
遥香の胸は苦しくなった
整列する模範生の中に紛れ込んだ異端児
正装の中にある異装
閉じられた門

曲線の美、アールヌーボー
前の前の世紀末に咲いた遺産
いいえ、残された骸(むくろ)

形あるのは蜘蛛の巣にからめられた昆虫であり
蜥蜴(とかげ)と守宮(やもり)
猿の顔に狸の胴をもち手足は虎で尾は蛇
ヒョウヒョウと鶫(つぐみ)の声で啼く鵺(ぬえ)
奇怪な有機物たち

ファサードは禁断の天国への扉
鉄のノブに手をかければ
冷たさ故か子宮が響く
遥香の部分がどんどん潤ってくる
舐めたら気持ちよさそう

あぁ、、、
中に入りたい
どんなに心地いいことだろう
門は柘榴色に生きていて
女を適度に隙間なく締め付けるに違いない
それは、まるで、、、

扉の向こうから遥香の顔を透視すれば
瞳孔は爛爛と、頬は上気し、息づかいは荒く、、、

どのくらいの時間を佇んでいたのだろうか
—— マドモワゼル、どうされましたか?

肩をたたかれて振り返ると
黒尽くめの上品な紳士が憂うげに立っている

「ええ、ちょっと気分が。。。」
恍惚を見られてしまった気恥ずかしさ
頬染めてうつむく
(このまま達してしまおうと思っていたのに!)

—— それはいけませんね、よかったら少し休んでいきませんか?
(中にはいれるわ!)
媚びる上目遣いで頷いた
「お優しいのね、少し休めば大丈夫と思います」

暗証コードが押され扉が開く
ギギーーッ
仄かな光の中で導かれる部屋
いや、そこは部屋ではない
イコンの黄金の輝き
淡い光の聖堂
衣擦れの音
歪(いびつ)な十字架

—— びっくりしましたか? ここは教会なのです
見れば、紳士は神父服を着て
香炉からエクトプラズムのような白煙がゆれる

煙が躯にまとってきた瞬間
遥香はすべてが了解できた
司祭と交わる!
冒涜であればこその快楽を
女は望むのだ

躯をわざとよろけさせて
後ろから抱かれる体勢となる
腰に感じる熱いものに必然と尻をつきだす
スカートがまくられ
ショーツが強引に下ろされ
臀部が左右に引き裂かれ
身体を後ろから熱いものが突き抜けた
一瞬のことである

—— こうして欲しかったんだろ、すっかり濡れてまったく吸い付くようだ
—— はじめに目をみたときから何を欲しがっているかわかったぜ。

祭壇の影で密やかにではない
行為は激しい
攻めに思いあまって男の動きを抑えようとすれば
男はさらに激情してつけあがってくる

やまことなく襲う快感の波濤
でも遥香の躯は知っているのだ
欲情した対象はこの男ではない
あの門にこそ、と。。。
そう
規則正しく突き上げてくるものの実体は
女そのもの

体位をかえて男は遥香を抱いてまた貫いた
乳首も露になった
すべての欲望を尽くそうと
男は執拗に舐める

たまらなくなり男のモノを貪る
まざる汗とスメグマのにおい
めくるめく快楽の渦の中に遥香は失神する



女は奇怪な扉の前のベンチにすわっている
人の気配はない
門の周囲だけ濡れている
興奮の滴りがほとばしりでたように。。。

かけよってノブに触れた
かすかなしびれが奔って
遥香の女の部分から生あたたかい液体が流れた
纏つく香からは牝にからむ牡臭が零れていった

後日遥香は
かの時代のシュールレアリストがその門を絶賛し
『欲情の入口』と名付けたことを知った