aoi 2009-023/103 |
みなさん、(*・ェ・*)ノ~☆ こんにちは♪
毎年4月に開催されるお祭りの由来・歴史 ( パート2 ) について、紹介します!
お踟の歴史について |
静岡浅間神社の廿日会祭 ( はつかえさい ) は、神社と氏子という周辺地区の人々の間で
しめやかに行われていたものでありますが、徳川家康公が駿府に隠居所を構えてから
偶々服織村の建穂寺を訪れたとき、演舞された稚児舞をいたく気に入り
駿府町奉行彦坂九兵衛に命じて、この稚児舞を静岡浅間神社の廿日会祭に招んで
舞殿において 「 稚児舞楽 ( ちごぶがく ) 」 を奉納することとしました。
駿河奉行は、大御所公の肝入りということで、町役人や町民に号令して、山車や屋台を造らせ
安西五丁目の建穂口に稚児舞一行を出迎えて労い、一緒に行列をつくって
静岡浅間神社へ繰り出したのが、 「 お踟 ( おねり ) 」 の始まりで
各町内がめいめいに趣向をこらして、練り歩く仮装行列的なものであったのが
今の 「 お踟 」 の原点となったものであります。
しかし、これより以前、戦国時代の公家山科言継は、1557年 ( 弘治3年 ) 2月22日に
雨で延期された廿日会祭の稚児舞楽を浅間神社で見物した、という記録もあるので
家康公のこの伝説は、後の世になってつくられたものだともいわれています。
明治維新の動乱により、徳川幕府の保護も受けられなくなり、焼失した建穂寺の廃寺とも重なり
「 稚児舞 」 も 「 お踟 」 も、一時廃絶を余儀なくされましたが
廿日会祭の神事は古式どおりに執り行われ、1873年(明治6年)太陽暦の採用と共に
旧暦の2月20日の廿日会祭を、太陽暦4月5日と定めました。
明治維新後、次第に時代も落ち着いてきた1894年 ( 明治27年 ) 2月、静岡市民有志達が
「 静岡浅間神社復興趣意書 」 の下に集まり、寡っての廿日会祭の盛時を偲び、96ヶ町市民に
復興協力を呼びかけ、古式を尊重して「お踟」を復活し、安倍川原 ( 現在の安西五丁目 ) に
再びお稚児さんを出迎えて、賑わいを再興したもので
これから “ おねりはどこだ、安西五丁目 ” と威勢よく囃されるようになりました。
1915年 ( 大正4年 ) 7月5日、静岡浅間神社大拝殿に各町祭典委員長が集まり
新たに 「 年行事年版・踟当番町 」 の組み合わせを
( 大正25年度 〈 昭和11年度 〉 迄 )と決定し、10年一巡で繰り返し実施、
「 踟 」 は東西南北より、毎年2組宛の山車踟8台を基本とし
当番町以外の町・同業組合などでも、独自で屋台を曳き回すことを決めました。
1936年 ( 昭和11年 ) 秋の 「 昇祭・降祭 ( のぼりさい・くだりさい ) 」 には
『 東海の日光 』 とも呼ばれた静岡浅間神社の壮麗な総漆塗り、極彩色の壮大な社殿の
大改修工事竣成祝典と重なり、静岡全市を挙げての祝賀行事が繰り広げられ、山車8台をはじめ
市内各町屋台の他、大工組合・左官組合・芸妓連等の趣向を凝らした
屋台 ( 茶番屋台、底抜け屋台、狂言屋台等 ) 、30数台が市内を巡行し、静岡市内は祭り一色に包まれ
さすが東海一の大祭と評判を呼び、賑やかな曳き回しが夜遅くまで行われました。
この奉祝行事には、末広町の製材・合板・製茶業者等が中心となり、富士宮浅間神社の壮大豪華な
山車を持ち込み、市内を練り歩き、大評判となり市民の大人気を博したものであります。
翌、1937年 ( 昭和12年 ) の静岡浅間神社廿日会祭にも、前年の祝賀行事に参加した
各町内・同業組合・芸妓連等の各種団体が、30数台の山車・屋台を繰り出し
夜まで曳き回しねり歩いたもので、前回に引き続き、末広町が富士宮浅間神社の壮大豪華な
山車を曳き市内を巡行しました。
1940年 ( 昭和15年 ) 1月15日の静岡大火により、この 「 お踟 」 は一時中止
引き続き、第2次世界大戦のため中断を余儀なくされ、終戦後も経済界の不安定さから
しばらく行われなかったが、静岡浅間神社廿日会祭の神事と稚児舞楽は、浅間神社の神前で
古式通りに斎行されてきました。
1951年 ( 昭和26年 ) に至り、第2次世界大戦で戦死された方、戦災でお亡くなりになられた方々の
ご冥福を祈り、その人達及びご家族の方々に、戦前の楽しい思い出を贈ると共に
静岡市民の心を和らげ、戦後復興に邁進することを願い、静岡浅間神社廿日会祭の踟行事を
復活させようと市内の有志が集い、再三協議の末、1952年 ( 昭和27年 ) の廿日会祭から
「 お踟 」 再興が決まり、地元の馬場町・新通川越町・木花町・神栄町・本通八丁目・駒形町等が
当番町を引き受け、3月31日から4月5日までの6日間、戦後初めて踟山車・屋台等の
市内巡行を敢行し、夜9時頃まで練り歩き、市民の大歓迎を受け、静岡市民待望の 「 お踟 」 が
見事に復活しました。
1953年 ( 昭和28年 ) 、静岡浅間神社の 「 春の大祭 」 廿日会祭の 「 踟行事 」 を
静岡市民のお祭として、広く各地より観光客を誘致して、静岡市の発展を図るべく
各町に 「 お踟 」 に協賛していただくよう呼びかけ、当番町制を決めて、再出発することとなり
多くの役員の献身的努力により、毎年 「 お踟 」 が行われるようになりました。
しかしながら、復活した 「 踟当番町制 」 も、やがて参加人員を集めにくいとか、経費がかかるなどの
理由で尻つぼみとなり、1975年 ( 昭和50年 ) 頃より、どうにか学区単位で 「 お踟 」 を
出してきたが、1991年 ( 平成3年 ) に至り、学区単位でも 「 お踟 」 を引き受けるところが
ないという憂う状況になってしまいました。
ここで、400年の伝統の 「 お踟 」 を途絶えさせることは、静岡市民の恥と考え
何としてでも継承して、後世に残していかなければならない、という切迫した空気が
廿日会祭協賛会全役員にみなぎり、再三に亘る協議を重ねた末、協賛会の中に 「 踟委員会 」 を設け
“ 誰にでも参加できるお踟 ” として、『 見る祭より参加する祭 』 をスローガンに
『 協賛会本部踟 』 を出すことを決め、静岡市民に自由参加を呼びかけたところ
予想以上の関心を集め、普段当番町以外では参加できなかった遠く郊外地域からも、親子連れで
参加されて盛大な 『 本部踟 』 が曳き回され、静岡市民からも大変喜ばれたそうです。
ここにおいて、先人が努力して、継承してきた貴重な静岡独自の文化遺産であり
静岡最大の伝統ある 「 お踟 」 をさらに振興するため、静岡全域に拡げ、 「 お踟 」を支えてきた
各町内会・各種団体が広く参加できる本来の組織へ発展的に改編し、強力に運営してゆこうと
いうことで、当時の静岡市連合町内会 ( 旧静岡市の住民自治組織 / 現在の静岡市自治会連合会 ) を
中心に、協賛企業のご協力もいただき、1993年 ( 平成5年 ) 2月1日 『 駿府踟振興会 』 を設立し
復活した『 当番学区踟 』 と共に、市民自由参加による 『 駿府本部踟 』 として定着、
毎年大勢の参加者が、踟山車を曳き市内を巡行することになりました。
また、1996年 ( 平成8年 ) 10月12日には、待望の新山車 ( 平成木花車 ) が竣工し
入魂式・お披露目運行が盛大に行われ、その後の 「 お踟 」 に一段と花を添えることになりました。
特に、2001年 ( 平成13年 ) 10月14日に斎行された
『 静岡浅間神社御鎮座千百年祭奉祝神幸大祭 』 には、本部踟に約500名の市民参加を含め
一番町・城内・青葉・伝馬町等各学区踟に、総勢3000名の市民が参加し
往時の壮観な江戸絵巻を再現し、市民の大歓迎を受けました。
* 参考資料 安西学区踟振興会提供資料より
いいじゃん! 葵 区 (^ ^) |