私は食事や体型、人間関係に関して不安になって母に辛さを訴えに行く時に、うまく自分の求めていた答えが返ってこなくてモヤモヤすることが多くありました。

最終的にはいつも母に「どうすればいいの?」と悲しい 顔をさせてしまって、「言わなきゃよかった」と後悔することが殆どでした。

 

 

最初は自分でもどうしてほしいかわからなかったのですが、あまりにものすれ違いように一度じっくり考えて、

『症状についての具体的なアドバイスや「(痩せているから)体重が増えても大丈夫」という自分の意志とは逆の励ましではなく、

辛いという事実を受け止めて欲しい』という結論に至りました。

 

 

それからは、母の「どうすればいいの?」という問いかけに対して、「いつも通りにしてほしい」「私自身を受け止めてほしい」と言っていました。

しかし、いくらそうやって言っても、ずっと母とはどこかすれ違っているような感覚でした。

 

 

それは病院を卒業してからも変わらず、昔に比べて体型や食べ物に対して気分がひどく落ち込む頻度が少なくなり、必然的にすれ違うことが減ったものの、

パニック状態になって母のところへ行くときは同じようにすれ違っていました。

 

 

 

 

 

今はブログを書くと同時に通院していた頃の話をぶっちゃけて話す機会が多くなってきたこともあり、

母とはだいぶ打ち解けた感じはありますが、それでもここについては解決しなかったのでずっとモヤモヤしていました。

 

 

 

しかし最近、もしかしたら「受け止める」の意味が伝わっていないのかもしれないという可能性が浮かんできて、

先日改めてじっくり話し合ってみたところ、やはり根本的に考え方のすれ違いが起こっていたことが分かりました。

 

 

Twitterでも「どうしてあげたら良いか分からない」という当事者の保護者の方のツイートをよく見かけます。

そのこともあり今回は、私たち家族の場合の “根本的なとらえ方の違い”について考察したことを書きたいと思います。

 

 

 

 

 

私たち親子の場合は、同じ単語でもその内容が曖昧だったために「受け止める」という言葉の意味をそれぞれ違った捉え方をしていて、意思疎通がうまくいっていませんでした。

 

まず私にとっての「受け止める」は

病気に対して苦しんでいる自分に「辛いよね」「頑張ってるね」などでその事実を受け止めてもらったり、ただ抱きしめてもらったり、自分の存在を肯定できるような言葉をもらったりして

病気ではない自分」を見て認めてもらうことでした。

 

つまり、「病気に対してどうにか対処をして楽になりたい」のではなく、「今私はこんなに辛いんだよ」という事実を肯定して欲しかったのです。

 

 

なぜなら、症状のことや病気に対しての対処法を考えることは日常的に嫌になるほどやっているし、自分を分析することは病院で毎回行っていて、病気と向き合う行為自体に疲れているからです。

 

そんな時に「病気から解放されたい」「私はこんなに疲れている(辛い)んだ」ということを肯定してほしいという気持ちが大きくなるのだと思います。

 

 

 

 

 

みなさんも仕事や学校で疲れているときや嫌なことがあったとき、ただ話を聞いて認めてほしいときはありませんか?

誰かに「もう最近こんな嫌なことがあってさあ〜!!」と愚痴を言った経験はありませんか?

 

 

 

具体的なアドバイスが欲しければ、その相手は自分の置かれた環境をよく知っていて適切なアドバイスができる人に頼みますが(それは愚痴ではなくて相談になりますね)、

認めてほしい場合にそれを言う対象は友達だったり、家族だったり、SNS だったりすると思います。

 

その先々で「こうすれば?」というアドバイスをもらっても、大抵

「いや、わかってるけどさ......」とか「できてたら苦労しないわ!」とかの感想になることが多い気がします。

(もちろん、家族や友人に適切なアドバイスを求めるときはあります)

 

 

なので、病気に関しても

例えば「過食しちゃった、太ったかも。辛い......」と母に言って

「大丈夫だよ、次から食べる量を事前に決めれば良いじゃん」と言われたとしたら

“辛い”という思いはスルーされてしまったと感じて、その代わりに返されたアドバイスに

「そんなことできたらとっくにしてるし、こんなに悩まないわ!」とイライラしてしまっていました。

 

 

つまり、私が求めていたこと・母に期待していたことは

病気に対しての具体的な対処ではなくて、病気と私を切り離して考えて、疲れて考えるのが嫌になった私を肯定して抱きしめてもらうことだったのです。

 

 

 

だからパニック状態になったときに「大丈夫だよ」と言われるよりも、

「辛かったね、こんな時はこれ見て元気だして!」と好きな写真を送ってくれたり、

好きなことのお話や好きな舞台を見に行って気を紛らわせたりしてくれる方が、

辛い感情を否定されたと感じることがなく、病気から少し意識を離せるひと時になったので、症状や食べ物について考える行為に疲れていた私にとって、とても嬉しかった対応でした。

 

 

 

 

一方、母にとっての私を「受け止める」は

病気で辛いと言っている私を辛い原因を理解して楽にしてあげる(具体的な対処法を提案する)ことで、

そんな時に「そのままでいてくれればいい」「何もしなくてもいい」と言われると

“何もできてない”“役に立ってない”“期待されていない”と感じて悲しくなっていたそうです。

 

 

しかも私が「辛いんだろうな」ということは見てわかるので、どうにか楽にしてあげたいという気持ちが大きくて、私を楽にさせる具体的な対処法が何も浮かばない自分に無力感を覚えていたと言っていました。

 

 

 

それを聞いてから私は合点がいきました。

私が求めていた「受け止める」と母が想像する「受け止める」が違えば、

ただ「私自身を受け止めてほしい」 「そのままでいてほしい」とはっきり言ったつもりでもすれ違うのは当然です。

 

前提が違うから、

私にとっては期待したものが返ってこなくて「また受け止めてくれなかった」「嫌な雰囲気になるなら話さなきゃ良かった」ということで悲しくなるし

母にとっては何を求められているのかが分からなくなって「また分かってあげられなかった」「役に立てなかった」となって悲しくなっていました。

 

 

 

 

私は母に期待していなかったわけでも、役に立たないと思っていたわけでもありません。

 寧ろ、母のもとへ行ったときは毎回「今度こそ」と期待しています。

そしてその期待とは、病気についてのアドバイスではなくて、病気と切り離して考えたときの自分自身を見てもらうことだったのです。

いつも病気のことを見ていて疲れてしまったりいっぱいいっぱいになってしまったりする私が居ることを認めてくれたのならば、“私自身を”受け止めてもらえたと思えるのだと思います。

 

 

 

 

 

そう考えると女の子が男の子に愚痴を言う時、ただ共感してもらって自分を肯定したいだけなのに、具体的なアドバイスや意見を返されて喧嘩になる、みたいなよく聞くパターンにも似ている気がしますね笑

 

違うところと言えば、男女のすれ違いの場合は日常的な人間関係などの愚痴なので、なんとなく「ああ、そんな世界もあるんだな」などで聞き入れることもできるかもしれませんが、

病気の話となると生死に関わったり、症状が過激だったりして理解が追い付かない場合が多いところかなと思います。

 

でもこれと同じように、見ているものが違っていて“すれ違っているだけ”と思うとお互いの認識を合わすのも難しいことではないように思えてきます。

 

 

 

 

 

 

私も友達や家族に相談されると、ついつい共感よりも先に解決策を考えて提案したくなってしまいます。

 

しかしよく聞いていればそれは「相談」ではなく「愚痴」の場合が多々あって、

客観的な意見を求められているわけでもないし、相手の状況も相手のことについても把握してない(つまり相手の方がその悩みについて考えるには経験豊富)私が適切な答えを出せる可能性は低いのに、その人が悩みから脱出できるようにアドバイスをしようといろいろと提案をしてしまいます。

 

 

 

でもアドバイスをいきなり返すと、感情を肯定してもらいたい相手にとっては完全にそのマイナスの感情はスルーされたと捉えられても仕方がありません。

完全に言葉のキャッチボールがうまくいっていない状態ですから、お互いに受け止めきれないのは当然の結果です。

 

 

 

普段私たちが愚痴を聞いてもらう需要があるように、病気に関しても具体的な治療法では抜くことのできないガスを抜く時間は必要です。

また、アドバイスをする人と愚痴を聞く人で役割があるように、治療においても

知識が豊富で具体的に治療法を提案する人と、本人をよく知っていてうまくガス抜きをする人で役割があるのだと思います。

 

 

 

 

もし知識が豊富かつ本人をよく知っている人であれば最強かもしれませんが、あまり現実的ではありませんし、

そんな最強人に出会えていればまず会話ですれ違ったり悩んだりすることはない気がするのでこの場合は置いておくことにします。

 

 

 

症状への具体的な対処法を提案できる“病気の専門家”は医療従事者の方々です。 

そのため病院での治療は、自己分析・専門的なカウンセリング・研究に基づいた精神医療・栄養指導・薬の処方などの日常生活でいう「具体的なアドバイス」に近いことを提供されます。

(カウンセリングは“感情を受け止める”に近いかもしれませんが、あくまで病院での交流のみになるので、本人の細かな部分の人となりは知ることができないと考えてここは専門知識に含んでおきます)

 

 

 

一方、“当事者自身の専門家”は家族や友人です。

「本人の感情を肯定すること」や「疲れた時のご機嫌を取る」ことは病院の先生にはできません。(全くできないとは言いませんが)

 

なぜなら病院では「患者」である当事者しか見ることはできないし、当事者の人となりについて知っていることが多いのは一番近くにいる家族や友人だと思うからです。

だから、具体的な解決に結びつくアドバイスがなくても「何もできていない」わけではないのです。寧ろ私は、家族や友人にアドバイス以外の部分を期待していました。

 

 

このように、病院は家族のできないアプローチができるし、家族は病院ができないアプローチができます。

 

「役割」に関連付けると、学校などでもこの話は当てはめることができて、以前に学校でやってもらった対応についての記事を書いたように、学校に求めるもの・学校にしかできないアプローチもあります。

日常生活の困難〜学校・まとめ編〜

 

 

 

摂食障害は食事の困難さが主な症状であるので、毎日食事時が来ることを考えると、私はいつでもどこでも病気(食べ物や症状のこと)についてたくさん考えていました。

 

勉強や音楽などで気を紛らわす方法を何度もチャレンジしましたがやはり食べ物のことを考えてしまうほどで、相当な事がない限り食べ物や体型について考えるのをやめることができませんでした。

でもそれらを常に考えているせいで他のことができないし、まず好きで考えているわけじゃないし、考えていることは不安なことばかりなので、「もう食べ物について考えたくない」と思うことは数えきれないほどありました。

 

 

 

 

そんな毎日と通院で、病気のことを考えるのはもうお腹いっぱいの状態です。

その病気と向き合うことに疲れて助けを求めたのに、その先でも病気のことを考える......となると

「ここでも考えないといけないのか」と嫌気がさしていました。

 

一方、家族や友人に自分の感情を受け止めてもらったり、時に気がまぎれるほどの何か(物でも、時間でも、言葉でも)をくれたりした時はとても嬉しかったです。

 

 

 

 

 

加えて、これは私だけかもしれませんが 私自身を受け止めてもらえたと感じて嬉しかったことがあります。

 

 

 

それは尊敬する師匠に言われた言葉で 

 

「気分が落ち込んでいるときは仕方がないから、落ちるとこまで落ちるしかない。」

ということと

 

「迷惑だなんて今更だし、大抵みんな迷惑かけて生きているんだからそんなに気にする必要はない。その分誰かに迷惑をかけてもらって返せば良い。すべては順番だ。」

 

ということです。

 

 

 

その先生はいつもいろいろな言葉を与えてくださいますが、特にこの2つの言葉は今でもずっと心に残っている言葉で、私や母が今まで考えたことのない視点でした。

 

 

この言葉を受けてからの解釈や活用の仕方は人それぞれですが、私にとって

 

一つ目の言葉は

“病気の症状なんだから落ち込むのは仕方がないし、無理に上げようとしたって無理なんだから落ち込むことが悪いと思わずに落ち込んでいよう”

 

“落ち込みまくったら後は上がるしかないんだから今はそういう時期” と思えるようになった言葉でした。

 

そう考えられるようになってから以前よりも自分の中に余裕が出てきて、気分が落ち込んでいるときにある程度その気持ちに浸って、少しずつですが自分自身で自分を分析できるようになりました。

 

 

また二つ目の言葉で

“みんな迷惑をかけないで生きるなんてできないのだから、私が思っているほど過敏にならなくてもいいのかもしれない”

“母が「迷惑じゃない」というのは嘘なのではなくて、一人の人間として甘えることを許してくれているのかもしれない”

と思えるようになりました。

それを考えられるようになってからは、

「どれだけ迷惑をかけないように行動するか」では無くて

「どうやってご恩を返そうか」ということにシフトして考えることが多くなりました。

 

とはいっても、この甘えることに関しては「他人から甘えられるのは良いけれど自分は許せない」の考えが根強く残っているので、あまり実践はできている実感はありません^^;

(以前よりはだいぶマシになった気はしますが......) 

 

 

この考え方が最終的に自分の首を絞めていると思う瞬間に何度も直面するし、

人から信頼を欠けないためにも、可愛げある人間になるためにも、この問題に対しては根気強く向き合おうと思います。

 

 

 

 

ただ、ついこの前この話題に関して話したときに母に言われたのは

「甘えていいよ」とは言っているけど「甘ったれていいよ」と言っているわけじゃない、ということです。

 

 

その違いについてはっきり言うことは難しいですが、例えるならば

 

コケて頑張れば一人で起き上がれるものの、起き上がるのに少し手を貸してもらう(甘え)のと

全身の力を抜いて起き上がらせてもらう(甘ったれ)のとではだいぶ違うし、こういうことに近しい感覚かもしれません。

なので今後、そのイメージがうまく日常生活で生かせれば良いなあ、と思いました。

 

 

 

 

 

 

さて、今回のまとめに入ると、

自分たちの考察の結果として出てきたことは 

 

具体的な対処法について考えるのは当事者と医療従事者という医療の知識がある専門家の役目。

感情をコントロールするためのガス抜きをするのは当事者とその周囲の人たちという当事者の知識がある専門家の役目。

それぞれに役割があって、役割と求めているものの捉え方が根本的にズレているとすれ違うのも当たり前

 

ということです。

 

 

 

 

 

 

何度もすれ違って疲れてしまったり、もう関わらない方が良いかもしれないなんて思ってしまう瞬間もあるかもしれません。自分自身を責めてしまうこともあるかもしれません。

 

でもこれだけは忘れないでほしいことがあります。 それは

 

決して「家族の愛情不足」だけが摂食障害の原因な訳では無いことです。

 

 

 

こうやってすれ違うことに悩んでいる時点でお互いの関係性に『愛情が不足している』というのはあり得ないと思います。

 

届いてないとか、受け取りたくない・聞く耳を持たないのではなくて、受け止める姿勢は整っているのだけど も、方向が違いすぎて受け止められていないだけです。

 

 

 

またこれも例えるとすれば、

当事者がキャッチャーで保護者がピッチャーだったら、ストレートのサインを出したのにフォークボールが飛んできて受け止められない感じですね笑

 

 

多分保護者としては、

「サインの意味が分からないから求められている球種がわからないけど、投げて欲しいのがわかってるから投げる!」という感じで、

挙句にフォークボールになってしまうから、お互い「なんで??」ってなっているのでしょう……笑

 

 

 

 

しっかり伝えたつもりでも実は意図したようには伝わっていない。

そんなことは長い間一緒にいる家族でさえもありうるということが分かりました。

 

それが友人や学校・病院の先生であれば尚更で、もっと言ってしまえば知人や他人ならもっとその可能性が高まるということになります。

自分を伝える難しさを考えさせられました。