〇子曰く、君子は義に喩(サト)り、小人は利に喩る。(里仁第四)

子曰、君子喩於義、小人喩於利。

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〇子曰く、利に放(ヨ)りて行へば、怨み多し。(里仁第四)

子曰、放於利而行、多怨。


利といふものは各人自己に都合のよいことでありますから、どうしても他とどこかで衝突するわけであります。否、自分自身の場合でもやがて矛盾が起こる。すべて自然は自律的統一体で、各己が他己と相関連し、そのまゝ全体に奉仕するようにできてをるものですから、自己のわがままを許しません。利はちつとも利にならないのです。

(安岡正篤『朝の論語』~第四講「義と利」より。)

 


今夏、この『朝の論語』を早朝ジョギングの前か後に一講話ずつ読み、一と月近くかけて全十九講話を読了しました。原文の漢字の意味は甚だ難解で深い含蓄を持ったものですが、安岡さんの卓抜な註釈と、現代の生活上にこれをどう生かすべきかという熱っぽい訓示のおかげで、読者は我が身とその周辺に関わる普遍的な問題としてこれを受容する事ができます。あたかも毎朝何かの合宿に参加しているかのような、幾らかの精神的緊張を伴った有意義で楽しい時間でした。
しかし、今一度読み返してみると内容が半分も頭に残っていない(笑)。日本にはこの本を座右の書としている経営者や文学好きが多くいたと聞きますが、やはり幾度か読み返して初めてその思想が血となり骨となる本なのでしょう。それでも、この第四講「義と利」については、世間様を相手に商いをする私自身を含め、比較的何人にも理解の及びやすい一章ではないかと思われます。
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「世にいふ資本主義的弊害といふものは、あらゆる価値の標準を利己的・享楽的な金融的成功とでもいふべきものに置いたことであります。そのために、富めるものよりもむしろ貧しい者に物質主義・利己主義を育てました。利一点ばりの考へ方を育てたものです。資本家階級の考へること、することは、できるなら自分もやりたい。少なくとも心ひそかに真似たい生活として、貧しい者から羨望されたわけであります。かくして彼等の思想もほとんどまつたく物質的になりました。彼らはより多い利潤の配分を要求しましたが、それはより善い生活のため、より道徳的な生活のためではなくて、実はより享楽的な生活のためでありました。その上、労働階級のもつとも不幸な分子の絶望的ともいふべき貧困は、実は決して不可能ではありませんが、まづもつて、およそ精神的な事柄の意味や価値を信ずることを困難にいたしました。
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かういふ唯物主義、利一点ばりの行き方に理論の武器を与へましたものの一つは、世に流行してをります唯物史観であります。これによつて、多少とも近代的知識を身につけたつもりの人々は、歴史の過程は、人間の物質的・利己的動機に支配されて進んで来たものと解釈しまして、人の世の中の一切の出来事を、経済関係に帰して、飯が食へないからこんなことをしたんだ、食ふに困らぬからあんなこともできるのだといふふうに割り切つて説明しまして、歴史上の重大な問題もその決定的な要因を、その時その所における経済状態に帰そうとするような傾向を強く致しました。これはとんでもない偏見であります。歴史を通観して参りますと、算盤勘定などでは絶対に解釈できない人間の犠牲的精神によつて遂行され、それが大きく歴史の進行に影響した問題は枚挙にいとまがありません。われわれ自身の生涯にも同様のことが少くありません。」
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マルクス、およびマルクス・レーニン主義を嫌い、当時(戦後)の中国、ソビエトといった共産国の政策を事あるごとに批判していた安岡さんですが、唯物史観も悪質な暴力革命も資本主義の弊害として立ち現れたものだとして、我が国を含めた資本主義国の経済政策、精神生活のあり方にも大なる反省を促しています。人間としての良心に悖らない、大変バランスの取れた見識ではないだろうかと思います。
個人レベル、国家的レベルを問わず、利にとらわれた物の見方はもう常識と言っていいくらいに現代社会に深く根差しています。思想的には正反対の立場にある人々が、こと利権の問題になると似たような人格を呈するということはしばしば見かける光景です。こういう実利に敏感な世に暮らしていると、過去の歴史を見る目、現在の世相を見る目ともどもですが、人間のあらゆる行動は、上辺は美しく果敢に見える場合にも、必ず「利」が原動力になっているはずだと勘繰る習性が多くの人々の身体に染み付いている気がします。半世紀前の安岡さんの指摘は、今の世に一層通じるのではないかと思うくらいに、人間社会の現状は本質的には改善されていません。
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「国民の将来を決定する真の力は、常にその国民の精神的・人格的努力であります。心ある人々は、どうしてもこの「義に喩る」といふことが大事であります。利といふことばかり考へてをつてはつひに利になりません。
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どうも、さう言ひながら、さう知りながら、人間始終悩まされてをるのは経済であります。そして、この経済といふことになりますと、わかつてをるはずの人でも、不思議なほど利己的であり、排他的・競争的になりやすい。道徳などと言つてをつては、義などと言つてをつては経済にならぬ、利にならぬ。礼節などは衣食足って後の話だ。飯が食へなくては何の教養も文化もあるか。ーー言はず語らず決めこんでをるのが常人の心理であります。」
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「人格的努力」、「道徳」と聞いて、そんなものは机上の空論・理想に過ぎないと鼻で嗤う人は、目先の利は長い目で見ればちっとも利になり得ないのだという事を、人間世界の数多の現象から神妙に学ぶ必要があるでしょう。そして「道徳」とする限りは、単に権力者や大資本に批判の矛先を向けるということに終始せずに、自分自身の言動を虚心に振り返るつもりで、古典の知恵にあやかることが肝要であろうと思います。