皆様も「カルマ」という言葉を聞いたことがあると思います。
はたしてそれは何を意味するのでしょうか。
カルマは「自分のした行いが自分の将来の結果に影響を与える」という循環の法則です。
過去の行いが現在の私に影響を与え、現在の行いが未来に影響を与えます。
起こした波が返ってくるように、良い行いは良い結果として返り、悪い行いは悪い結果として返ってくるのです。
例えば相手に向けて毒のある言葉を吐き出したとします。
何も返ってこなかったからといって、そのまま消えてしまうのかというとそうではありません。
その痕跡は消えることなく相手の中で育ち続けます。
それは相手を通じて自身の土壌の中に埋め込まれた一粒の種なのです。
この種が見えない部分で形成される行程のことを「サンスカーラ(行)」といいます。
こうして形成されていった行為の痕跡が、いつしか縁が整った時に芽を出し実を結びます。
結んだ毒の果実を自らが食すことになることを「自業自得」といいます。
ただし、それはただの罰や報いを指す言葉ではなく、自己を照らす鏡として本来捉えられるものです。
安易に他者の行為と結果を見て「自業自得だ」と揶揄することではなく、自らが自らの行為を省みたり、自らの行為の行先を見通すことで因果を断ち切るための智慧として使いたいものです。
昔綾小路きみまろさんが面白可笑しくお話をされていました。
「社長は専務をいじめ、専務は部長をいじめ、部長は課長をいじめ、課長は家に帰って妻をいじめ、妻は子供をいじめ、子供は飼っている犬をいじめ、犬は猫をいじめ、猫はネズミをいじめ、そしてネズミは社長の背広をかじるのです。」
そう、痕跡はなくならず、見えない部分で残り続け、やがて自らが受け取ることになるのです。
先日、認知症について学ぶ機会がありました。
とても素晴らしい内容で、特に「認知症の方への接し方のコツは褒めることであり、怒らないことである。それによって機能の進行に大きな違いができる。」という部分は深く心に残りました。
反面それって頭では理解できていても実践することが難しい人もいるだろうなと思いながら聞いていました。
なぜならそこには親子間のカルマが働くからです。
子供をなにかと怒鳴り散らしていた人が、年をとって親子の立場が入れ替わった時になにかと怒鳴られている姿はよく目にします。
褒められたことより怒られた記憶ばかり残っている人にとって、褒め続けて怒らないということは決して簡単ではありません。
「なんでできないの」
「何度言えばわかるの」
「言う事をききなさい」
そうやって、自分が叱責されてきた言葉のひとつひとつを返してしまうのがカルマなのです。
親としては自分がしてきた行動、かけてきた言葉が返ってくると思っておいて下さい。
もし返ってこなかったとしたら、それは子供さんが仏様なのです。
もしあなたも親からされて嫌だったカルマを子供に渡さなかったとしたなら仏様なのです。
返すのが普通です。返ってくるのが普通です。
だって人間だもの。
とはいえそれを脱却したいと願うならば、無自覚に引き起こされる行為の縛り(カルマ)を解かねばなりません。
仏様は「解け様(ほどけさま)」なのですから。
では、どうすればこの連鎖を解くことができるのでしょうか。
まずは自分がされて嫌だったことを自分もまたしてしまっていることに気付くことが必要です。
自らが親となった時、「かつては理解できなかった親の気持ちが今はよくわかる」と語る人がいます。
その気づきは、一見「共感の扉」を開いたようにも見えますが、そこに一つの落とし穴があります。
かつて嫌だったあの言葉、あの態度。それを「仕方なかった」「愛ゆえだった」と親の立場を正当化することで、自分の内に今も息づく「傷ついた子どもの声」を黙殺してしまっているのです。
親の時代背景や育児環境を理解することは自己受容のためにも必要です。
けれどもそれ以上に、子ども時代の自分の痛みを見失うことなく次の世代と接していくことが何より大切なのです。
「やられたから、やり返す」
これは、人間が長い歴史の中でつくり上げてきた負のパターンであり自動反応です。
それを戒め、「されたけど、やり返さない」というような「パターン崩し」を自覚的に行っていくことこそ仏道の修行となるのです。
修行とは、まるで二酸化炭素を吸収して酸素に変えて排出する植物の光合成のようなものかもしれませんね。
たとえ毒のある言葉や態度を受け取ったとしても、それを心の中で浄化し、慈悲に変えて世界へ放つ生き方が形成できれば、私たちはカルマを終わらせることができるはずです。
地道に努めて行きましょう。
↓具体的な実践方法↓




































