善住寺☆コウジュンのポジティブログ☆ 『寺(うち)においでよ』

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但馬、そこは兵庫の秘境。大自然に囲まれた静かで心癒される空間に悠然とたたずむ真言宗の御祈祷と水子供養の寺『善住寺』。目を閉じてください。聞こえてくるでしょう。虫たちの鳴き声 鳥たちのさえずり 川のせせらぎ・・・誰でも気軽にお越し下さい。寺(うち)においでよ!

 但馬の秘境にある真言宗のお寺、善住寺。

僕は善住寺の住職をしている弘純(こうじゅん)といいます。






このブログではお寺の生活、子育て、夫婦のパートナーシップなどを通じて自分に気づいていく僕自身の姿を表現しています。


それとともに「今お寺が存在する意味」を精一杯考え、伝えていければと思っています。


どうぞよろしくお願いいたします。




【特に読んでほしいテーマ】


《テーマ1》   い の ち  

 僕のブログの中で、これを一番に読んでほしいって思います。


《テーマ2》   お寺に生まれて

   僕というお坊さんができるまで。 生い立ちから修行時代まで。


《テーマ3》   お 経

   お経に書かれていることを、僕なりに読み説いていきます。 


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Rupa(現象)

Eyes(感覚器官)

Vedana(感受)

Sensation(気分)

Samskaras(潜在形成)

Iterations(反復)

 

pañca-skandha(五蘊)とはなにか

 pañca-skandha(パンチャ・スカンダ)はpañcaは「5」、skandhaは「集まり」「束」を意味し、「五蘊」と訳されます。

 

 「私」という存在を構成する五つの集合体のことをいいます。

 

 「私」とは固定的なものではなく、5つの働きの集合したものなのだと理解することは、苦しみの原因をつきつめ、それを解放することへと繋がっていきます。

 

 その5つの集まりとは「Rūpa(色)、Vedanā(受)、Saṃjñā(想)、Saṃskāra(行)、Vijñāna(識)」の働きです。

 

Rūpa(ルーパ)= 色01

「ルーパ」=「色」=「Form (Matter/Physical)」

 

 ルーパ(色)は、「物質」の働きを指します。

 

 我々の肉体を含む物質世界における形態(姿かたち)や現象のすべてがこの領域に含まれます。

 

 「色」は 2つの主要カテゴリー に分類されます。

 

(1) Svabhāva-rūpa(スヴァバーヴァ・ルーパ)= 自性色 

 物質的な現象を構成する基盤であり、現象の「根本的な構成要素」を「スヴァバーヴァ・ルーパ」といい、外部の影響で生じるものではなく、そのものが生じてくるものなので「自性色(じしょうしき)」と訳されます。

「Svabhāva」は「本質」を意味し、物質を構成する根本的な要素は「地水火風」の「4種類」に分類され、「四大種(しだいしゅ)」といいます。

 

四大種

①Prithvi(プリティヴィ)= 地

 硬さ・安定・固定性(例:骨、岩)

 

②Āpa(アーパ)= 水

 流動性・結合・湿潤性(例:血液、粘土)

 

③Tejas(テージャス)= 火

 熱・変化・成熟(例:体温、消化、太陽)

 

④Vāyu(ヴァーユ)= 風

 動き・軽さ・運動(例:呼吸、筋肉の動き)

 

 

(2) Upādāya-rūpa(ウパーダーヤ・ルーパ)= 所造色

 四大の働きによって造られる派生的な物質的現象のことを「ウパーダーヤ・ルーパ」といい、「所造色(しょぞうしき)」と訳されます。

 

すべての物質は四大の組み合わせによってできているということです。

 

Upādāyaは「依存」を意味し、仏教における「物質構成の成り立ち」を示すものです。

 

『中部経典集(Majjhima Nikāya)』より
Rūpaṁupādāya asmīti hoti, no anupādāya.

(物質は依存によって存在するが、依存がないと存在しない)

 

例えば眼という器官も、単独で存在するわけではなく四大の作用が相互に作用し合って眼を形成しています。

 

 

 

 

 

Vedanā(ヴェーダナー)= 受02

「ヴェーダナー」=「受」=「Sensation (Feeling)」

 

 ヴェーダナーは、「感覚」の力です。

 

 外部の物理的な刺激(ルーパ)を受け取ったときに生じる、三種類の感情的反応がヴェーダナーの働きです。

 

『中部経典集(Majjhima Nikāya)』より

Phassapaccayā uppajjati vedayitaṃ sukhaṃ vā dukkhaṃ vā adukkhamasukhaṃ vā.

(接触によって、感受が生じる。それは快楽であるか、苦しみであるか、またはどちらでもない。)

 

(1)sukha-vedanā(スカ・ヴェーダナー)

= 楽受(らくじゅ)

 楽受とは、心地よい感覚のこと(快楽)。

 

(2)dukkha-vedanā(ドゥッカ・ヴェーダナー)

= 苦受(くじゅ)

 苦受とは苦しい感覚のこと(痛み、不快)。

 

(3)adukkhamasukha-vedanā(アドゥッカ・スカ・ヴェーダナー)

= 不苦不楽受(ふくらくじゅ)

 不苦不楽受とはどちらでもない中立的な感覚。

 

 

 

 

Saṃjñā(サンニャー)= 想03

「サンニャー」=「想」=「Perception (Ideation)」

 

 サンニャー(想)は、「知覚」の力です。

 

 情報を受け取ってイメージしたりする概念化したり働きです。

 

 想は、主に 6種類 に分類されます。
 

(1)Rūpa-saṃjñā(ルーパ・サンニャー)

= 色想(しきそう)

 視覚的な対象に関するイメージを持つ。

 実際に目で見たものを認識した後、そのイメージや印象を心の中で再構築する過程です。

 

(2)Śabda-saṃjñā(シャブダ・サンニャー)

= 声想(しょうそう)

 音に関するイメージを持つ。

 音を認識した後、その音に基づいて心の中でそのイメージを形成することです。

 

(3) Gandha-saṃjñā(ガンダ・サンニャー)

= 香想(こうそう)

 匂いに関するイメージを持つ。

 嗅覚で認識した香りを心の中で思い起こす過程です。

 

(4)Rasa-saṃjñā(ラサ・サンニャー)

= 味想(みそう)

 味に関するイメージを持つ。

 味覚で感じた味を心で思い描くことです。

 

(5) Sparśa-saṃjñā(スパルシャ・サンニャー)

= 触想(そくそう)

 触覚に関するイメージを持つ。

 触れた感覚を心の中で再構成し、その感触を思い起こす過程です。

 

(6)Dharma-saṃjñā(ダルマ・サンニャー)

= 法想(ほっそう)

 抽象的な概念や記憶に関するイメージを持つ。

 物理的な感覚対象ではなく、思考や概念、過去の記憶に基づいて心の中で思い描くことです。

 

 

 

Saṃskāra(サンスカーラ)= 行
04

「サンスカーラ」=「行」=「Mental Formation (Volition/Intent)」

 

 サンスカーラ(行)は、「形成」です。

 

 行為のことをカルマといいますが、カルマ(業)の法則は「自業自得」「善因善果」「悪因悪果」です。

 

 とはいえ行為の結果はすぐに現れることはなく、時間差があります。

 

 そのため「悪いことをしても何も起こりはしないじゃないか」とは「良いことをしても何も報われないじゃないか」と思うこともあるわけですが、その行為は現れていないだけで、行為の痕跡は表面下で確かに成長を続け、忘れた頃に姿を現します。

 

 その潜在層における形成の働きを「サンスカーラ」といいます。

 

「行為の種が土の下で成長し、やがて発芽して再現される仕組み」といった方がわかりやすいかもしれません。

 

 

 行為をすると、その印象が刻まれたサンスカーラの種を落とします。

 

 我々が意識できない潜在部分でサンスカーラは根をはり、成長し、やがて発芽して果実を結びます。

 

 その結果を受け取ることで、また新たな行為を生み出します。

 

 それが繰り返されるうちに傾向や習慣が形成されていくのです。

 

 サンスカーラは、衝動のエネルギーであり、潜在から顕在へと固形化していくエネルギーであり、継続していくエネルギーです。

 

 繰り返すうちに観念も感情も思考も言動も固形化し、パターン化されます。

 

 サンスカーラ(心の形成)

1、まず最初の行為(カルマ)がサンスカーラの種を落とします。

 

2、サンスカーラが表面下で成長します。

 

3、発芽して表面上に現れ、果を結び、新たな行為を引き起こします。

 

4、行為を繰り返すことで習慣となり、習慣によって心が形成されます。

 

5、無意識での自動反応が形成されます。

 

6、オートマチックに行われるため行為に無自覚になります。

 

 

心が行動をつくり、行動が習慣をつくり、習慣が心をつくります。

 

そしてまた心が行動をつくるという循環があります。

 

 

 

Vijñāna(ヴィジュニャーナ)= 識05

「ヴィジュニャーナ」=「識」=「Consciousness (Awareness)」

 
ヴィジュニャーナ(識)は「認識」の力です。
 
この識という根をつかって、外部情報であるRūpa(色)を取り込み、Vedanā(受)で感覚反応をし、Saññā(想)でイメージし、Saṃskāra(行)で形成された習慣に沿って行動し、その経験をまた識に蓄えるのです。
 

 

お釈迦様の頃には六識でしたが、その後八識に整備されています。

 

 

Aṣṭa-Vijñāna(八識)

 

意識領域

(1)Cakṣur-vijñāna(チャクシュ・ヴィジュニャーナ)

=眼識(げんしき)

 目を通じて色・形という外部情報を取り込みます 。

 

(2)Śrotra-vijñāna(シュロトラ・ヴィジュニャーナ)

=耳識(にしき)

 耳を通じて声(音)という外部情報を取り込みます。

 

(3)Nāsa-vijñāna(ナーサ・ヴィジュニャーナ)

=鼻識(びしき)

 鼻を通じて香(匂い)という外部情報を取り込みます。

 

(4)Rasa-vijñāna(ラサ・ヴィジュニャーナ)

=舌識(ぜつしき)

 舌を通じて味という外部情報を取り込みます。

 

(5)Kāya-vijñāna(カーヤ・ヴィジュニャーナ)

=身識(しんしき)

 皮膚や体を通じて触という外部情報を取り込みます

 

(6)Mano-vijñāna(マノ・ヴィジュニャーナ)

=意識(いしき)

 意図的に思考・判断して外部情報を取り込みます。

 

無意識領域

(7) Manas-vijñāna(マナス・ヴィジュニャーナ)

=末那識(まなしき)

自我意識・執着という曇りガラスを通じて無意識に外部情報を取り込みます。

 

(8)Ālaya-vijñāna(アラヤ・ヴィジュニャーナ)

=阿頼耶識(あらやしき) 

過去の経験である蓄えられたサンスカーラ(種子)を通じて、無意識に外部情報を取り込みます。

そしてまたその経験を貯蔵するのです。

 

 

ヴィジュニャーナとヴェーダナーが結びついて「感情」が生じ、ヴィジュニャーナとサンニャーが結びついて「思考」が生じ、ヴィジュニャーナとサンスカーラが結びついて「行動」が生じます。

 

 

私とは

Vedanā(受)、Saṃjñā(想)、Saṃskāra(行)、Vijñāna(識)の4つを集合させたものを「心(Citta)」といいます。

 

それにRūpa(色)である「肉体」を合わせた5つの要素の集合体が、「私」という存在です。

 

 

 

 

 

 

 

五蘊盛苦

我々は以上の「五蘊」という一時的な集まりに執着してしまう故に苦を生み出してしまいます。

 

 

⑴Rūpa(色)への執着

 肉体や物に対する執着です。

自分の身体を「自己」として強く感じることで、老化や病気に対する執着を持ってしまいます。

若さや美しさを維持しようと必死になったり、不老不死への憧れを持つことなどは苦しみとなります。

 

⑵Vedanā(受)への執着

 感覚に対する執着です。

快楽を追い求めたり、不快な感覚から逃れようと誰もがしてしまいます。

しかしどうにもならないことを受け入れず抵抗することは逆に苦しみとなります。

 

⑶Saññā(想)への執着

 知覚に対する執着です。

物事の固定的なイメージにしがみつくことです。

偏見や先入観に基づくレッテルを貼ることもそうです。

変われないことが苦しみとなります。

 

⑷Saṃskāra(行)への執着

 行為の形成パターンに対する執着です。

習慣化した行動のパターンは、自覚をなくし、無自覚なうちに起こるためにその執着に気付けずに苦しみとなります。


⑸Vijñāna(識)への執着

 認識への執着です。

過去の経験が蓄積されると、「こうせねば」「こうであるべき」「こうするのがあたりまえ」といった執着が生まれ、別の考え方を受け入れることができず苦しみとなります。

 

 

 

執着を手放す

無常であり、無我であり、動き続ける実体のなきものに、無自覚なままに執着している私達。

 

それをしっかりと観察し、手放していけるように五蘊を理解しておくことが大切です。

 

抵抗することをやめて、あるがまま(本質)を受け入れることができたなら、心が安らかになり、自由でいられます。

 

 

Rupa(現象)

Eyes(感覚器官)

Vedana(感受)

Sensation(気分)

Samskaras(無意識行動)

Iterations(反復)

 

pañca-skandha(五蘊)とはなにか

pañca-skandha(パンチャ・スカンダ)はpañcaは「5」、skandhaは「集まり」「束」を意味し、「五蘊」と訳されます。

 

「私」という存在を構成する五つの集合体のことをいいます。

 

「私」とは固定的なものではなく、5つの働きの集合したものなのだと理解することは、苦しみの原因をつきつめ、それを解放することへと繋がっていきます。

 

その5つの集まりとは「Rūpa(色)、Vedanā(受)、Saññā(想)、Saṃskāra(行)、Vijñāna(識)」の働きです。
 

 

Rūpa(ルーパ)= 色01

「ルーパ」=「色」=「Form (Matter/Physical)」

 

ルーパ(色)は、「物質」の働きを指します。

 

我々の肉体を含む物質世界における形態(姿かたち)や現象のすべてがこの領域に含まれます。

 

「色」は 2つの主要カテゴリー に分類されます。

 

(1) Svabhāva-rūpa(スヴァバーヴァ・ルーパ)= 自性色 

 物質的な現象を構成する基盤であり、現象の「根本的な構成要素」を「スヴァバーヴァ・ルーパ」といい、外部の影響で生じるものではなく、そのものが生じてくるものなので「自性色(じしょうしき)」と訳されます。

「Svabhāva」は「本質」を意味し、物質を構成する根本的な要素は「地水火風」の「4種類」に分類され、「四大種(しだいしゅ)」といいます。

 

四大種

①Prithvi(プリティヴィ)= 地

 硬さ・安定・固定性(例:骨、岩)

 

②Āpa(アーパ)= 水

 流動性・結合・湿潤性(例:血液、粘土)

 

③Tejas(テージャス)= 火

 熱・変化・成熟(例:体温、消化、太陽)

 

④Vāyu(ヴァーユ)= 風

 動き・軽さ・運動(例:呼吸、筋肉の動き)

 

(2) Upādāya-rūpa(ウパーダーヤ・ルーパ)= 所造色

 四大の働きによって造られる派生的な物質的現象のことを「ウパーダーヤ・ルーパ」といい、「所造色(しょぞうしき)」と訳されます。

 

Upādāyaは「依存」を意味し、仏教における「物質構成の成り立ち」を示すものです。

 

『中部経典集』より
Rūpaṁupādāya asmīti hoti, no anupādāya。

「物質は依存によって存在するが、依存がないと存在しない。」

 

例えば眼という器官も、単独で存在するわけではなく四大の作用が相互に作用し合って眼を形成 しています。

 

このように物質世界のすべては四大が組み合わさっているという考え方が、眼を含むあらゆる存在に当てはまります。

 

内部の感覚器官及び、それを通じて認識される外界の情報、例えば、目で見る色、耳で聞く音、鼻で嗅ぐ匂い、肌で感じる触覚など、物理的な現象も「色」として捉えられます。

 

個性も性別も四大の派生にすぎません。

 

 

諸説ありますが、その分類を 「12種類」 あげてみます。

 

内部形成(感覚器官)

① Cakṣu(チャクシュ)= 眼(げん)

 視覚器官

 目の器官そのもの。色(しき)を受け取る機能を持つ。

 

② Śrotra(シュロトラ)= 耳(に)

 聴覚器官

 耳の器官そのもの。音を受け取る機能を持つ。

 

③  Ghrāṇa(グラーナ)= 鼻(び)

 嗅覚器官

 鼻の器官そのもの。香りを受け取る機能を持つ。

 

④ Jihvā(ジフヴァー)= 舌(ぜつ)

 味覚器官

 舌の器官そのもの。味を受け取る機能を持つ。

 

⑤ Kāya(カーヤ)= 身(しん)

 触覚器官

 身体の感覚器官。温度や触れた感触を受け取る機能を持つ。

 

外部形成(知覚対象)

⑥ Rūpa(ルーパ)= 色(しき)

 視覚対象

 目に見える形や色のこと。光の波の受信。

 

⑦ Śabda(シャブダ)= 声(しょう)

 聴覚対象

 耳に知覚される音のこと。音の波の受信。

 

⑧ Gandha(ガンダ)= 香(こう) 

 嗅覚対象

 鼻に感じられる香りのこと。香の波の受信。

 

⑨ Rasa(ラサ)= 味(み) 

 味覚対象

 舌に感じられる味のこと。味の波の受信。

 

⑩ Sparśa(スパルシャ)= 触(そく) 

 触覚対象

 身(身体)が感じる感触、温度、硬さ、柔らかさなど。摩擦波の受信。

 

命の形成

⑪ Jīvita(ジーヴィタ)= 命根(みょうこん)

 生命体

 呼吸、血液循環、神経活動など。

 

二元の形成

⑫ Liṅga(リンガ) Yoni(ヨニ)= 男女根(なんにょこん)

 二元の生殖体

 男性性・女性性を持つ生物的な特徴。

 

 

物質の根本は四大種であり、あらゆる物質や現象は四大の働きによって生じるということです。

 

つまり四大種が本質で、あらゆる所造色は表層ということになります。

 

合計:16種類

 

 

 

Vedanā(ヴェーダナー)= 受02

「ヴェーダナー」=「受」=「Sensation (Feeling)」

 

ヴェーダナーは、「感覚」の働きです。

 

外部の物理的な刺激(ルーパ)を受け取ったときに生じる、「快」「不快」「どちらでもない」という三つの感情的反応がヴェーダナーの働きです。


例えば、甘い味を感じるとき、それが「快い感覚」として受け取られます(快)。
 

辛い味や苦痛を感じるとき、それは「不快な感覚」として受け取られます(苦)。
 

中立的な感覚(無感情)もあり、何も特に感じないこともあります。

 

ヴェーダナーは、感覚的なデータに対する心の反応として、私たちが物事をどのように「感じ取る」かに関わります。

 

受は 3種類 に分類されます。

 

(1)sukha-vedanā(スカ・ヴェーダナー)

= 楽受(らくじゅ)

 楽受とは、心地よい感覚のこと(快楽)。

 

(2)dukkha-vedanā(ドゥッカ・ヴェーダナー)

= 苦受(くじゅ)

 苦受とは苦しい感覚のこと(痛み、不快)。

 

(3)adukkhamasukha-vedanā(アドゥッカ・スカ・ヴェーダナー)

= 不苦不楽受(ふくらくじゅ)

 不苦不楽受とはどちらでもない中立的な感覚。

 

合計:3種類

※ さらに詳細な分類では、「身体的な受」と「精神的な受」 に分けることもあります。

 

精神的な受は、過去のトラウマなどのヴィジュニャーナの介入があって起きる反応です。

 

トラウマがなくなればヴェーダナーも変わります。

 

 

 

Saṃjñā(サンニャー)= 想03

「サンニャー」=「想」=「Perception (Ideation)」

 

サンニャー(想)は、「知覚」の働きのことです。

 

情報を受け取ってイメージしたりする概念化したり働きです。

 

想は、主に 6種類 に分類されます。


これは 六境(眼・耳・鼻・舌・身・意の対象)に対応 しています。

 

(1)Rūpa-saṃjñā(ルーパ・サンニャー)

= 色想(しきそう)

 視覚的な対象に関するイメージを持つ。

 実際に目で見たものを認識した後、そのイメージや印象を心の中で再構築する過程です。

 

(2)Śabda-saṃjñā(シャブダ・サンニャー)

= 声想(しょうそう)

 音に関するイメージを持つ。

 音を認識した後、その音に基づいて心の中でそのイメージを形成することです。

 

(3) Gandha-saṃjñā(ガンダ・サンニャー)

= 香想(こうそう)

 匂いに関するイメージを持つ。

 嗅覚で認識した香りを心の中で思い起こす過程です。

 

(4)Rasa-saṃjñā(ラサ・サンニャー)

= 味想(みそう)

 味に関するイメージを持つ。

 味覚で感じた味を心で思い描くことです。

 

(5) Sparśa-saṃjñā(スパルシャ・サンニャー)

= 触想(そくそう)

 触覚に関するイメージを持つ。

 触れた感覚を心の中で再構成し、その感触を思い起こす過程です。

 

(6)Dharma-saṃjñā(ダルマ・サンニャー)

= 法想(ほっそう)

 抽象的な概念や記憶に関するイメージを持つ。

 物理的な感覚対象ではなく、思考や概念、過去の記憶に基づいて心の中で思い描くことです。

 

合計:6種類

 

 

 

Saṃskāra(サンスカーラ)= 行
04

「サンスカーラ」=「行」=「Mental Formation (Volition/Intent)」

 

 サンスカーラ(行)は、行為による「習慣性」による「心的形成」の働きをいいます。

 

サンスカーラは「反応パターン」であり「行動傾向」であり、「癖(くせ)」のことです。

 

 行為の繰り返しによって心が形成されていくのです。

 

 行為が幾度も繰り返されるうちにパターン化され、「自動反応(無意識反応)」が形成されていきます。

 

誰もが考えることなく無意識に行動できているのは、サンスカーラという習慣性による自動反応のおかげです。

 

 この自動反応は「恒常性の維持」のための働きであり、心身の安定を保ちエネルギーを節約する重要なメカニズムとなります。

 

しかしながらその自動反応故に、自覚なき行動に繋がっているのです。
 

 


 サンスカーラの形成パターンは諸説ありますが、大きく6つのグループに分類されます。

 

(1) 遍行心所(へんぎょうしんしょ)

 心の形成において常に作用している基本的な形成パターンのことです。全てに共通して存在する行為による心的形成のため「遍行心所」といいます。

  • 作意(注意を向ける)
  • 触(対象に触れる)
  • 受(快・不快を感じる)
  • 想(概念を持つ)
  • 思(意思を持つ)
これを繰り返すことによって「固定観念」が形成されます。

 

(2)  別境心所(べっきょうしんしょ)

修行者が心を清め、悟りを開くために必要な心的形成。別境地の心的形成をすることから「別境」といいます。
  • 欲(求める心)
  • 勝解(欲望に打ち勝つ必要性が解る)
  • 念(心を今に向ける)
  • 定(心が集中する)
  • 慧(物事の本質を見極める)
これを繰り返すことによって「涅槃の境地」が形成されます。

 

(3) 善心所(ぜんしんじょ)

  • 信(信じる)
  • 精進(努力する)
  • 慚(恥を知る)
  • 愧(他人に対して恥じる)
  • 無貪(欲に執着しない)
  • 無瞋(怒りを持たない)
  • 無痴(智慧を持つ)
  • 軽安(心身が落ち着く)
  • 不放逸(怠けない)
  • 行捨(平静さを保つ)
  • 不害(他者を傷つけない)
これを繰り返すことによって「徳」が形成されます。

 

(4) 煩悩心所(ぼんのうしんしょ)

「顕在的アヌサヤ」という意味で、煩悩が意識的に現れ、実際に心の働き(貪瞋痴)として顕れる段階なのだそうです。

  • 貪(欲)
  • 瞋(怒り)
  • 癡(無知)
  • 慢(慢心)
  • 疑(疑う心)
  • 不正見(誤った見解)
これを繰り返すことによって「執着」が形成されます。

 

(5) 随煩悩心所(ずいぼんのうしんじょ)

 アヌサヤ自体が心の中に潜在的に存在する傾向や習慣、心の動きのことであることは前述のスティタ・アヌサヤの項で述べた通りですが、煩悩が意識の中で顕在化した際、その影響で生じる心の動き、です。

  • 忿(怒り)
  • 覆(過ちを隠す)
  • 慳(ケチ)
  • 嫉(ねたみ)
  • 伺(探る)
  • 罣(心配)
  • 誑(だます)
  • 詐(ごまかす)
  • 憍(おごる)
  • 害(他人を傷つける)
  • 無慚(恥を知らない)
  • 無愧(他人に恥じない)
  • 放逸(怠ける)
  • 失念(物事を忘れる)
  • 散乱(心が散る)
  • 不信(信じない)
  • 懈怠(怠ける)
  • 昏沈(心がぼんやりする)
  • 不正知(正しく認識しない)
これを繰り返すことによって「不徳」が形成されます。

 

(5) 不定心所

 アヌサヤ自体が心の中に潜在的に存在する傾向や習慣、心の動きのことであることは前述のスティタ・アヌサヤの項で述べた通りですが、煩悩が意識の中で顕在化した際、その影響で生じる心の動き、です。

  • 尋(考察する)
  • 伺(調べる)
  • 悪作(くよくよする)
  • 睡眠(ぼーっとする)
これを繰り返すことによって「不安」が形成されます。

 

 

 

Vijñāna(ヴィジュニャーナ)= 識05

「ヴィジュニャーナ」=「識」=「Consciousness (Awareness)」

  • ヴィジュニャーナ(識)は、「認識」や「意識」の働きを指します。感覚データ(ルーパ、ヴェーダナー、サンニャー)を集約し、それに基づいて私たちの知覚理解が生まれます。
    • 例えば、視覚による「物を見て認識する」ことや、音を聞いてそれを理解することはヴィジュニャーナにあたります。これには、五感を通じた認識や、心が「何かを知覚し、解釈する」働きが含まれます。
    • ヴィジュニャーナはまた、六識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)として具体的に分類され、これらの識が組み合わさることで、私たちの体験が統一的な認識に変換されます。
 
  • ヴィジュニャーナ(識)は、サンスカーラ(行)と相互作用しながら、経験のパターンを強化していきます。

1、ヴィジュニャーナが特定の認識を生み出す
2、その認識がサンスカーラとして蓄積される
3、次回のヴィジュニャーナの働きに影響を与える

 

お釈迦様の頃には六識でしたが、その後八識に整備されています。

 

 

Aṣṭa-Vijñāna(八識)

 

意識領域

(1)Cakṣur-vijñāna(チャクシュ・ヴィジュニャーナ)

=眼識(げんしき)

 目で色・形を見て情報処理   

 

(2)Śrotra-vijñāna(シュロトラ・ヴィジュニャーナ)

=耳識(にしき)

 耳で音を聞いて情報処理

 

(3)Nāsa-vijñāna(ナーサ・ヴィジュニャーナ)

=鼻識(びしき)

 鼻で匂いを嗅いで情報処理

 

(4)Rasa-vijñāna(ラサ・ヴィジュニャーナ)

=舌識(ぜつしき)

 舌で味を感じて情報処理

 

(5)Kāya-vijñāna(カーヤ・ヴィジュニャーナ)

=身識(しんしき)

 皮膚や体で触り心地を感じて情報処理

 

(6)Mano-vijñāna(マノ・ヴィジュニャーナ)

=意識(いしき)

 思考・判断・概念化を行う

 

無意識領域

(7) Manas-vijñāna(マナス・ヴィジュニャーナ)

=末那識(まなしき)

自我意識・執着の根源

 

(8)Ālaya-vijñāna(アラヤ・ヴィジュニャーナ)

=阿頼耶識(あらやしき) 

潜在意識・業(カルマ)の貯蔵庫    

過去の経験・行為の痕跡(サンスカーラ)が「種子」として阿頼耶識に保存され、適切な条件(縁, Pratyaya)が揃うと発芽(発現)する

 

 

 

 

五蘊盛苦

我々は以上の「五蘊」という一時的な集まりに執着してしまう故に苦を生み出してしまいます。

 

Rūpa(色)への執着

物質的な身体や外界の対象に対する執着です。自分の身体を「自己」として強く感じ、老化や病気、外見に対する恐れや執着を持つことが典型的な例です。たとえば、若さや美しさを維持しようと必死になったり、身体的な痛みや不調を恐れるあまり、過剰にそれに意識を集中させることが該当します。


Vedanā(受)への執着

感覚的な経験に対する執着です。快楽を追い求めたり、不快な感覚から逃れようとすることが該当します。たとえば、美味しい食べ物を求めたり、快適な環境を求めたりすることが典型的な例です。逆に、痛みや苦しみを避けようとすることも執着となります。


Saññā(想)への執着

知覚や認識に対する執着です。物事の固定的なイメージにしがみつくことです。たとえば、過去の経験や他人の評価に基づいて人や物事を評価し、変化を恐れてそのままでいようとすることがこれに該当します。偏見や先入観に基づく認識も執着にあたります。


Saṃskāra(行)への執着

意図的な行為や無意識的な反応、習慣的な行動に対する執着です。自分の習慣やパターンに固執し、変化を拒んだり、カルマの影響に縛られることがこれに該当します。例えば、怒りや恐れといった感情に反応して繰り返し同じような行動を取ることや、過去の経験に基づいて固定的に行動することです。


Vijñāna(識)への執着

意識そのものへの執着です。「自己」という感覚や「我」という錯覚に執着し、それが不変の存在だと信じることがこれに該当します。例えば、自分が「私はこれだ」と強く感じ、その感覚が変化することを恐れたり、自己中心的な思考に固執することです。

 

 

五蘊皆空

私たちは「自分」という固定した実体を持っているように錯覚しているけれど、実は「五つの集合(蘊)」によって仮に成立しているだけであるということ知る必要があります。

 

五蘊は常に変化し続け(無常)、互いに支え合いな生じるだけで「私」という固定的な実体は存在しない(無我)という「空の性質」に抵抗することなく、執着を手放していくことが大切です。

 

①Prithvi(プリティヴィ)= 地

 固体

 硬さ・安定・固定性(例:骨、岩)

 

②Āpa(アーパ)= 水

 液体

 流動性・結合・湿潤性(例:血液、粘土)

 

③Tejas(テージャス)= 火

 エネルギー体

 熱・変化・成熟(例:体温、消化、太陽)

 

④Vāyu(ヴァーユ)= 風

 気体

 動き・軽さ・運動(例:呼吸、筋肉の動き)

rupaの項で述べた四大の物質に、本来無自性なる「空」を加えて五大となります。

 

➄Ākāśa(アカーシャ)= 空

 波動(Wave)

 伝播する力、循環する力(例:宇宙)

 

六大無礙にして常に瑜伽なり

仏教において、現象界(物質的な世界)は 四大 で構成され、潜在界(心やその働きが関与する次元)を含めると 六大 の体系に拡張されるという理解が一般的です。

 

弘法大師空海は「六大無礙にして常に瑜伽なり」と述べられました。

 

これは六つの要素が相互に障害なく絶えず調和融合して働いている状態を示します。

 

物質と精神、身体と心を別々のものだと思わず、常に一つの循環として捉え、調えていく必要があるのです。

 私がいつもお通夜かお葬式の時にお話しすることが「供養」についてです。

 

 皆さんにおすすめしている3つの供養についてお話しします。

 

 

 

利供養(りくよう)

◎1つ目は「利供養(りくよう)」といって、故人の喜ぶことをするという供養です。

 

 故人はなにをしたら喜ばれるでしょうか。

 

 きっと故人の思い出話をしてさしあげると喜ばれるのではないでしょうか。

 

 あんなこともあったねと笑い、あんなこともあったねと泣き、皆で大いに語り合ってください。

 

 中には故人の好きだったものをお供えして一緒に食べるという方もおられるようです。

 

 そしてなにより、遺された子や孫の皆さんが「故人のおかげでこの世に生まれてくることができてよかった」という思いで生き生きと暮らしている姿を見せてあげることが、何よりの利供養になるはずです。

 

 故人の喜びにフォーカスすることで、悲しみにばかり引きずられないでしょう。

 

 

敬供養(きょうくよう)

◎2つ目は「敬供養(きょうくよう)」といって、故人に感謝の思いを伝えるという供養です。

 

 あの時あんな言葉を掛けてくれたよね、ありがとう。

 

 あの時そっと支えてくれたよね、ありがとう。

 

 大きくなるまで育ててくれたよね、ありがとう。

 

 今の自分があるのはあなたのおかげだよね、ありがとう。

 

 そんなたくさんのありがとうが見つかると思いますが、ぜひそれを言葉にしてみてください。

 

 感謝を伝えることによって心の整理にも繋がります。

 

 もし過去のわだかまりがあったとしても、しだいにほどけていくでしょう。

 

 

行供養(ぎょうくよう)

◎3つ目は「行供養(ぎょうくよう)」といって、故人とともに仏の教えを実践するという供養です。

 

 故人はカルマ浄化の期間に入りますが、大切な人を亡くしたこの時を機縁にして、仏の教えをぜひ実践していきましょう。

 

 中国・唐代の詩人である白楽天が道林禅師に「仏の教えとはどういうものでしょうか。」と尋ねたところ、「悪いことをしてはいけない。善いことをしなさい、そして自分の心を浄めなさい、これが仏の教えです。」と答えたといいます。

 

 白楽天は「そんなことなら三歳の子供でもそう言うでしょう。」と言うと、道林禅師は「三つ子でもわかることが、八十の老人でも実践できないではないか。」と返した逸話があるそうです。

 

 頭で思うのは簡単でも、実践することは難しいのが仏の教えです。

 

 さてそれでは悪いこと、善いこととは具体的にどのようなことでしょうか。

 

 まず、悪いことには十の行い(十悪業)があり、それらはすべて貪瞋痴という三毒に身と口を意とが侵食されて生じるものなのだといいます。

 

 

【十悪業】

 

①「殺生(せっしょう)」

 命を奪う事はもちろん、暴力をふるうこともまた生き生きとした心を殺す行為となります。

 

②「偸盗(ちゅうとう)」

 与えられていない他人のものを盗る行為です

 

③「邪淫(じゃいん)」

 性の暴行、傷つく事を承知の性行為です。

 

①~③が三毒が抑えられず「身」から生じたものとなり、次の結果への原因、つまり復讐の種となるカルマです。

 

戦争では殺人、窃盗、レイプは三点セットです。日本ではピンとこないでも、このカルマの中に入ってしまうかもしれません。

 

それに平和でモラルのあるように見える日本の中でも、女性、もしくは子供への性暴行の問題(フジテレビやジャニーズなど)が毎日のように報道されています。

 

 

④「妄語(もうご)」

 人を惑わす言葉や嘘をつくという虚偽の言葉のことです。

 

➄「綺語(きご)」

 正論や綺麗事で他者を裁く言葉のことです。

 

⑥「悪口(あっく)」

 貶めたり中傷したりする言葉のことです。

 

⑦「両舌(りょうぜつ)」

 あちらとこちらで言うことが違う二枚舌の言葉のことです。

 

④~⑦が三毒が抑えられず口から生じたものとなり、カルマとなります。

 

 

⑧「慳貪(けんどん)」

与えず欲しがるばかりの心

 

⑨「瞋恚(しんに)」

怒り、恨み、憎しみの心

 

⑩「邪見(じゃけん)」

一方的な見方、偏見を押し付ける痴(おろ)かな心

 

⑧~⑩が三毒が抑えられず心(態度)から生じたものとなり、カルマとなります。

 

貪られた分は貪り返したい。怒りをぶつけられた分は怒りをもって返したい。偏見を押し付けられた分は、偏見を押し付けて返したい。そういう因縁を生む心の状態です。

 

 

これらの十悪業が引き起こす延々と繋がる因縁を断ち切っていくことが仏の教えです。

 

悪業を落とすために習慣的にそれを戒め、善行を行っていくことが十善戒です。

 

 

【十善戒】

 

弟子某甲 尽未来際

不殺生 不偸盗 不邪淫

不妄語 不綺語 不悪口 不両舌 

不慳貪 不瞋恚 不邪見

 

 

我々生きたものが悪業を落として善い行いをすることで、故人のカルマ浄化の恩恵ももたらされるはずです。

 

故人と離れ離れになってしまっても、同じ一本の仏道の上に進んでいるのだという感覚は、寂しさを和らげてくれることでしょう。

 

※お香を焚くということも、「自らが自らの心を浄める」行供養になります。

 

 

 


 

 

 以上の三つの供養を「三種供養」といいます。

 

 このお話をお通夜の時に聞いて下さった女子バスケットボール元日本代表の監督さんが、「私は生前故人には大変お世話になりました。故人のことを思って十善戒を実践してみます」って言って下さり、大変嬉しかったという思い出があります。

 

皆さんもぜひ実践してみてくださいね。

 

参列の方々におかれましては毎回毎回同じ法話をしていますが、どうぞご了承ください。

12の縁によって起こることがぐるりと一周して、輪廻というループとなります。

 

これはかなり難しい仏教考察ですが、無明による自我形成から自我執着、自我執着のカルマが起こす生死輪廻という流れは自分とは何かを知っていくうえでかなり重要です。

 

それを進化論にあてはめてみました。

 

進化の過程を思いながら、今の自分という分離意識の強い存在が出来上がったことを想像すると、なかなか面白いです。

 

 

十二縁起

 

※縁起とは無明(原因)に引き寄せられるもの(縁)があって、行(結果)が起こるという無意識な引き寄せの法則です。

 

無明→行 暗い海の中から、光を求めて動こうとした

 

行→識 動こうとするから、我(割れ)という分離意識が生まれた

 

識→名色 

分離意識が生まれたから、名をもち、それを身体に付けて自分と外界は分離した

 

名色→六処 

名づけで分離したから、外界の情報を取り込む感覚器が生まれた(動くものへの反応)

 

六処→触 

感覚器が生まれたから、接触が生まれた(感覚器が発達して捕食者と非捕食者が生まれた)

 

触→受 

接触が生まれたから、それによる快・不快の感情が生まれた(単細胞生物の反応行動)

 

受→愛 

感情が生まれたから、愛への渇望が生まれた(有性生殖の始まり)

 

愛→取 

渇望が生まれたから、欲望への執着が生まれた(霊長類にある仲間、愛着、信頼)

 

取→有 

執着が起こしたカルマから、生が宿った(生命進化の流れをすべて経験し命となっていく)

 

有→生 

生が宿ったから、生まれた(私の誕生)

 

生→老死 

生まれたから、老死を迎えた(私の一生)

 

そしてまた老死→無明へのサイクルへと繋がっていく。

 

 

仏教的に見ると、私が転生するのではなく、カルマという波が命を起こしているとみることです。

 

「そんな自分を知るとかやらんでええで」というご意見もありますが、無明で起こしたカルマにより、また命が生まれるということを延々とやることになるようです。

 

生はカルマの満潮で、死はカルマの干潮とも言えるでしょう。

 

無明(むみょう) という真理の暗さが最初の原因となり、そこから 縁(えん) が次々と連鎖し、最終的に「自分」という存在や輪廻が形成される、数珠繋ぎな法則性を見通したいものです。

 

波羅蜜多は、カルマの波をつつみこみ(羅)、安らぎ(蜜)、自由になる(多)ための修行ですね。

 

 

#私は過去世の私じゃない

#私は過去世のカルマです

六道輪廻図(バヴァチャクラ)

 

六道輪廻図というものが絵画がチベットやネパールにはあり、視覚によって仏教をわかりやすく伝えてくれています。

 

サンスクリット語で言うと「バヴァチャクラ」、英語で言うと「ホイールオブライフ」とう言い、生命の車輪を意味します。

 

なにやら恐ろしい怪物に車輪をつかまれ、どうやらその手中で我々の生命は回転しているようです。

 

※ネパールのKhachoe Ghakyil Ling Nunnery(カチョーガキルリン尼僧院)の壁画

 

それでは、その車輪の内外に何が描かれ、何を意味しているのか詳しく見ていきましょう。

 

 

 

三毒(鶏と蛇と豚)

 

 この車輪の中心に描かれているのは鶏と蛇と豚という貪瞋痴の煩悩を象徴する獣で「三毒」といいます。

 

 左上の鶏は「貪欲」という、行き過ぎた欲望を象徴しています。

 

 右上の蛇は「瞋恚」という、抑えきれない怒り・憎しみを象徴しています。

 

 下の豚は「愚痴」という、道理に暗い愚かさを象徴しています。

 

 この三匹の獣が生命輪廻の木を維持する動力として走り続けています。

 

 この三毒が身と口と意を通じて、行動、言葉、思考になって現れるのです。

 

 

 

因果応報(業の力)

 

 三毒の外輪に描かれているのは「因果応報」という原因と結果の法則の姿です。

 

 善い行いをすれば善い世界へと上昇し、悪い行いをすれば悪い次元へと下降する「カルマ(業)」の力です。

 

カルマとは、結果への原因となる行為をいいます。

 

 黒い道は悪いカルマによる下降、白い道は善いカルマによる上昇を示しています。

 

 善い行いをして低次元から上昇しようとする力と、悪い行いをして高次元から転落する力が回転を生み出します。

 

 善いと悪いを繰り返すカルマの回転に翻弄されながら、上昇と下降を繰り返す我々の姿がそこにはあるのです。

 

 そしてそのカルマの反映する世界が外側に現れてくるのです。

 

 

 

六道(六つの世界)

 

 カルマが反映する世界が6つあるといいます。

 

 それは、天道(てんどう)、人間道(にんげんどう)、餓鬼道(がきどう)、地獄道(じごくどう)、畜生道(ちくしょうどう)、修羅道(しゅらどう)であり、合わせて「六道(ろくどう)」と呼ばれています。

 

 人が善い行いをすることにより、善い世界が現れ、人が悪い行いをすることにより、悪い世界が現れるという考え方です。

 

 

天道(上部)

象徴: 美しい天人(天女や神々)が楽しむ姿


 苦しみの少ない、喜びの多い世界。
 天界に住む神々や天人がいる。
 しかし、この世界も輪廻の中にあり、徳が尽きるとまた下の世界に転生する。


仏教的教え: 快楽に満ちた世界だが、永遠ではない。修行をしないと、次の生で落ちる可能性がある。

 

人間道(右上)

象徴:人間の生活を送る人々


 六道の中で最もバランスが取れた世界。
 苦しみも楽しみも両方あるが、「悟りへの道」を進むことができる唯一の世界。
 知恵を持ち、修行を積めば輪廻から抜け出すことができる。


仏教的教え: 人間として生まれたことは貴重であり、この世界で修行すれば悟りに至る可能性がある。

 

餓鬼道(右下)

象徴:骨と皮ばかりの餓鬼が食べ物を求めている姿


 強い欲望や貪りの業(カルマ)を持つ者 が生まれる世界。
 どれだけ食べても満たされない、飢えと渇きに苦しむ。
 財産や名声に執着しすぎた者が生まれるとされる。
 

仏教的教え: 物欲や執着にとらわれると、満たされることなく苦しみ続ける。

 

地獄道(下部)

象徴:焔に包まれた獄卒が亡者を責め苦しめている場面


 最も苦しみの大きい世界 で、怒り・憎しみの業(カルマ)を持った者が生まれる。
 常に炎の苦しみ、責め苦を受ける世界であり、逃れることができない。
 殺生や極端な悪行をした者がここに落ちるとされる。
 

仏教的教え: 怒りや恨みを持ち続けると、この世界に生まれ変わる可能性がある。

 

畜生道(左下)

象徴:動物たちが互いに争っている姿


 理性がなく、本能のままに生きる存在 の世界。
 強い者が弱い者を支配する弱肉強食の世界。
 人間でも、自己中心的に生きる人は、この道に落ちるとされる。
 

仏教的教え: 知恵を持たず、自分の利益だけを追求すると、畜生道に落ちる可能性がある。

 

修羅道(左上)

象徴:武器を持ち戦う修羅(阿修羅)の姿
 

 怒りや闘争心に満ちた者が生まれる世界。
 他人と比較し、絶えず競争や争いをしている。
 地獄ほどではないが、平穏がなく、常に怒りや嫉妬に苦しむ。
 

仏教的教え: 他人と争うことばかり考えていると、心が平穏にならず、修羅道に落ちる。

 


 実は仏教においては、この六道輪廻を人間の誤った思い込みが作り上げた世界であり、それを脱却していくのだと教えます。

 

「固定された自己」が永遠に生まれ変わるのだという思い込みこそが「執着(執われ)」を生み、それが輪廻を生じさせる原因になるのだというのです。

 

 実際には、「私(アートマン)が生まれ変わる」のではなく、「業(カルマ)の結果として新たな存在が生じる」のが正しいのに、魂の永遠を信じているために私という個が前世もあったし来世もあると思い込むのです。

 

 ちなみに仏教でもお釈迦様が過去世について話しておられますが、それは私の記憶ではなく、カルマの記録が生じたものであるとされています。

 

 死後に続くのは「私」ではなく、「私が生きた結果としての影響(カルマ)」です。

 

 私の起こしたカルマが、次の新しい命を生じさせる力となるのです。

 

 そして私の業が六道へと生まれ変わらせた新しい命は、私ではなくとも私とは無関係ともいえません。

 

 

 また仏教の立場でも、六道を象徴的な場所と捉える立場と、実在する場所と捉える立場があります。

 

 弘法大師(空海)は象徴的な場所、つまり心の状態が象徴する世界と述べているようです。

業を作すに善ならざれば、牛頭・馬頭・自然に湧出して、報ずるに辛苦を以てす。

 心を用ふることまことに善ならば金閣・銀閣、たちまち翔けり集まって、授くるに甘露を以てす。

 心を改むることすでに難しのみ。

 何ぞ決定の天・獄あらむや。


 すなわち、天堂や地獄とは、決して固定的な世界ではなく、その人の心の在り方として業(行為)の報として現れる世界であるという。

 ここで、空海は天堂・地獄が決して実在的場所的世界ではなく、心の住する世界・住心世界に他ならないことを述べている。

「空海の十住心思想と六道輪廻 村上保壽」より転載

 

 原始仏教は実在する場所として考えます。

 

 

いずれにせよ、それを有効に活かしていくのが六道を越えていくための仏道です。

 

六道を象徴と捉える立場ならば
→ 今自分は六道のうちのどの心の状態にあるのかに気付き、怒り・欲望・道理の暗さから解放される努力をしましょう。


六道を実在すると考えるならば
→ 悪業をやめ、善行を積み、より良い世界を次の命に渡しましょう。

 

 

 

 

十二縁起

 

 車輪の外側には、生と死の輪廻を生み出す仕組みである「十二縁起(十二因縁)」が描かれています。


 上から時計回りに無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死であり、12の事が原因(縁)と結果(起)の関係で数珠繋ぎとなって輪廻が続いていくのです。

 

 暗闇(無明)に縁って意志形成(行)が起こり、意志に縁って認識機能(識)が起こり、認識機能に縁って物の区分け(名色)が起こり、物の区分けに縁って眼耳鼻舌身意という六つの感覚器(六処)が起こり、六つの感覚器に縁って接触(触)が起こり、接触に縁って感情(受)が起こり、感情に縁って渇望(渇愛)が起こり、渇望に縁って執着(取)が起こり、執着に縁って存在動機(有)が起こり、存在意義に縁って新たな誕生(生)が起こり、誕生に縁って老いや死(老死)が起こり、老死に縁ってまた無明が起こるという終わりのない縁起の法則です。

 

 

 

1.無明(むみょう)– 無知
象徴: 目隠しをした人
意味: 物事の本質を知らず、真理に気づいていない状態。「人生とは何か」「なぜ苦しむのか」を理解していない。

 

2.行(ぎょう)– 形成
象徴: 陶工が器を作る
意味: 無知のもとで行動し、善悪の業(行い)を作り出す。これが未来の結果を生む。

 

3.識(しき)– 意識の誕生
象徴: 木の上の猿
意味: 生命が生まれるときの意識。前世の業が、新しい命の識(意識)として働く。

 

4.名色(みょうしき)– 心と身体
象徴: 船に乗る5人の乗客
意味: 心(名)と体(色)が結びつき、人間としての存在が形成される。

 

5.六処(ろくしょ)– 六つの感覚器官
象徴: 窓のある家
意味: 五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)と心(意識)が働き始める。

 

6.触(そく)– 接触
象徴: 男女が触れ合う
意味: 感覚器官を通じて、外界と接触することで経験が生まれる。

 

7.受(じゅ)– 感情の発生
象徴: 矢が刺さった人
意味: 楽しい・苦しいといった感情が生まれる。

 

8.愛(あい)– 欲望・渇愛
象徴: 酒を飲む人
意味: 感情が強くなることで、快楽を求めたり、嫌なものを避けようとする。

 

9.取(しゅ)– 執着
象徴: 果実を取る猿
意味: 欲望を満たそうとし、執着が生まれる。

 

10.有(う)– 未来の存在を決める業
象徴: 妊娠した女性
意味: 執着によって未来の生が決定される。

 

11.生(しょう)– 生まれる
象徴: 赤ん坊の誕生
意味: 新しい生命が生まれる。

 

12.老死(ろうし)– 老いと死
象徴: 老人と死者を抱く人
意味: 生まれた者は必ず老い、死ぬ。苦しみの終わりではなく、新たな輪廻の始まりとなる。

 


 まずは「これが存在するから、これが存在する。」という十二縁起の順観をしてみましょう。

 

 その後「これが存在しなければ、これも存在しない。」という十二縁起の逆観をしてみましょう。

 

 

「常楽我浄」という無明がある場合の十二縁起

(1)無明(むみょう) – 自己は「常楽我浄」の存在であるという誤った観念により、実体的な我(個の魂)が永遠に続くと錯覚する。


(2)行(ぎょう) – 自己を実体と信じ、輪廻を前提とした行為(善業・悪業)を積む。
 

(3)識(しき) – 輪廻の主体としての「我」を持つという意識が生じる。
 

(4)名色(みょうしき) – 身体(色)と心(名)を「自分」として捉え、それに執着する。
 

(5)六処(ろくしょ) – 五感+意識によって自己の存続を感じ取る。
 

(6)触(そく) – 外界との接触を通じて「自分が存在する」との感覚が生まれる。
 

(7)受(じゅ) – 接触による快・不快・中立の感受を「自分の体験」として認識する。
 

(8)愛(あい) – 快楽を求め、自己を守ろうとする執着が生じる。
 

(9)取(しゅ) – 「永遠の我」を信じ、それを維持しようとする強い執着を持つ。
 

(10)有(う) – 執着によって新たな生存(業の結果としての来世)が確定する。
 

(11)生(しょう) – 新たな誕生を繰り返す(輪廻が続く)。
 

(12)老死(ろうし) – 輪廻の中で再び老いと死を経験する。

 

 

 逆観により、無明の闇を払い、私(永遠に続く個人)という錯覚がなくなった時、次々に繋がった12個の数珠玉は切れ、輪廻は終わるというのがお釈迦様の教えです。

 

 

 

ヤマ(閻魔王)

 

 車輪をつかんでいる恐ろしい姿をした存在は「ヤマ(閻魔王)」という神です。

 

 死者の善悪を裁き、六道へ送る役割を果たします。

 

 個の実体に永遠を思いそれに執着してきた人々は、その連鎖の中を彷徨い続けるといいます。

 

 ヤマが輪廻の車輪を噛んでいるのは、「すべての存在は死(無常)から逃れられない」という意味があるようです。

 

 3つの眼で見るのは過去現在未来、5つのドクロは五蘊(肉体と精神)の無常を表しているといいます。

 

 

 

仏陀と解脱への道

 

 生死輪廻の車輪から脱却し、無常なる時の流れに苦しむことを越えた存在が、ヤマの支配の外で「恐れることなく、あちらへお進みなさい」と左で施無畏印を結び、右手で方向を指さしておられます。

 

 

 その先にあるのは仏道修行を行うための場所である「精舎」であり、そこで修行する存在がそこに居ます。

 

 正しい仏道修行を行うことが、輪廻から脱却する道なのだと伝えて下さっているのです。

 

仏道修行の方法である「六波羅蜜」

布施(ふせ)    惜しまず与え、慳貪を克服します。


持戒(じかい)    戒めを持ち悪習慣を落とし、破戒を克服します。
 

忍辱(にんにく)    静かに耐え、それを受け流し、瞋恚を克服します。
 

精進(しょうじん)    常に道を見失わす行いを正す努力をし、放逸を克服します。
 

禅定(ぜんじょう)    瞑想によって心を整え、散乱を克服します。
 

智慧(ちえ)    物事の本質を見通す智慧(洞察力)を得て、愚痴を克服します。

 

 

 

 

 

【最後に】

 私も魂の永遠を信じていました。

 

 私の身体はなくなっても、魂というものはあり続けるような錯覚がありました。

 

 それが無明であり、輪廻を起こす前提となっていたのですね。

 

 六道輪廻図を見て行く中で、「諸行無常 諸法無我 一切皆苦 涅槃寂静」を改めて再確認させていただきました。

 

 六波羅蜜をさらに深めていこうと思います。

 

 仏の教えはまさに固定観念をひっくり返すものですね。

 

 

 

 

(三毒シリーズ1)

 

 

(三毒シリーズ2)

 

 

(三毒シリーズ3)

 

 お釈迦様によると、三毒の煩悩を止めるためには「気づき」が必要なのだといいます。

 

 まずは「モーハ(痴の豚)」によって180度変えられてしまっているこの世界認識の前提に気付くことであり、その前提を変えることで三毒の束縛を遮断するのです。

 

 

 お釈迦様はおっしゃいました。

Anicce niccasaññino dukkhe ca sukhasaññino, Anattani ca attāti asubhe subhasaññino.

無常なものに常だと、苦であるものを楽だと認識し、無我なものを我だと、不浄なものを浄だと認識する。

 

Micchādiṭṭhigatā sattā khittacittā visaññino, Te yogayuttā mārassa ayogakkhemino janā.

誤った見識をもつ衆生らは、心が混乱し、マーラ(貪瞋痴の悪魔)の束縛に縛られた平安なき人々である。

 

 

 

 その「常楽我浄(じょうらくがじょう)」という4つの見方は誤っているとされ、「四顛倒(してんどう)」と呼ばれています。

 

 

 顛倒とは逆さま、あべこべという意味で、今まで逆立ちして見ていたこの世界をひっくり返して見てみようよとお釈迦様はおっしゃっているのです。

 

 

一つには、すべての存在や事象は恒常的でなく、絶えず変化しているものとして観ていきます。(諸行無常)

 

二つには、この世のすべては楽ではなく、苦であると観ていきます。(一切皆苦)

 

三つには、この世のものは全て持ちつ持たれつで成り立ち、一つだけで存在するものはないとして観ていきます。(諸法無我)

 

四つには、肉体は美しく浄らかなものではなく、常に不浄物が流れ悪臭を放ち、香りに守られている浄らかではないものとして観ていきます。(肉体不浄)

 

 

 

 

【諸行無常】

 この世は無常とみんな頭ではわかっていたとしても、それを手放したくないとどこかで抵抗しています。

 

 この肉体と心も、他者の肉体と心も、お金も健康も、地位も名誉も、所有物も思い出も、全ては一時的なものであり、過ぎ去っていくものです。

 

 残念ながら永続的に持ち続けたいという願いは叶うことがありません。

 

 常に変化している現実を受け入れるよう、握りしめていたものを手放していくよう、無常を見通す必要があるのです。

 

 

 

【一切皆苦】

 宇多田ヒカルさんが「なぜ人は誰かと別れる時に痛みを感じるのか」という質問に「もともと痛みがあって、その人の存在が痛み止めになっていたから」と答えられたそうですが、まさに的を得た回答だと思います

 

 この世界の全てが痛みの世界なのだということです。

 

 その痛みを感じずにいるためにパートナーを持ち、子供を増やし、ペットを増やし、物を増やし、趣味を増やし、仕事を増やし、それを見ないふりをしているのかもしれません。

 

 生老病死は苦であるし、肉体と精神のさまざまなストレスがあって苦であるし、人間関係も苦になるし、全ての人があらゆる場面で「思うがままにならない」と苦悩しています。

 

 「一切れ」より切り分けられし欠損した存在である我々は、苦の存在であることを見通す必要があるのです


 

 

【諸法無我】

 我々は一人一人が単独に存在しているように見えますが、すべてのものが「縁」というものによって互いに支え合って存在しており、自他の境界線などありません。

 

 いつしか自我が生まれ、自他の境界線を引いていくわけですが、その主体性が強くなっていくほど他に攻め入ったりそれを守ったりしていくわけです。

 

 とはいえ「地球には国境などありません」と宇宙飛行士の毛利さんがおっしゃったように、本来人と人との間に境界線などないのです。

 

 一人では存在できず、欠損の存在がみな繋がることによって姿を現しているんだということを見通す必要があるのです。


 

 

【肉体不浄】

 肉体はかけがえのない素晴らしいもので、宝物であると誰しも思うことでしょう。

 

 しかし肉体はそんな浄らかなものではないとお釈迦様はおっしゃいます。

 

 その中を通っている「いのち」が浄らかなものであり、肉体を美化し執着するものではないと言うのです。

 

 肉体は入れ物にすぎず、大生命が肉体の中を生きていることを見通す必要があるのです。

 


 

 

 モーハが誘いこむ「常」「楽」「我」「浄」という迷いの闇を破るため、「無常」「苦」「無我」「不浄」という逆転の発想をしていこうというお話でした。

 

 

 

(三毒シリーズ1)

 

 

(三毒シリーズ2)

 

三毒と言われる鶏と蛇と豚の3匹の獣が我々の根源にいるといわれています。

 

ラーガという貪りの鶏。

 

ドヴェーシャという瞋恚の蛇。

 

モーハという蒙昧の豚。

 

この3つの毒獣です。

 

 

 これらの内なる獣に支配され、蒙昧で道理に暗く、欲望・憎悪が制御できず、人生が滅茶苦茶になってしまう人も多いです。

 

 特に最近の芸能界や政界を見ているとそれを色濃く感じるわけですが、それは会社、学校などでも同じで、僧侶の組織でさえそれはあります。

 

 中でも、人を盲目にして出口のない迷いへと誘うのが「モーハ(痴)」という豚です。

 

 

 「モーハ」とは道理に暗いという意味ですが、自分にのみスポットライトを当てて他者及び全体にスポットライトを当てることを怠るため、自分の行動がどのように全体に影響を及ぼしたのかに疎く、起こした波は再び自分のところに引き寄せてくるものだということに暗いのです。

 

「他者が嫌がっていようが自分の欲望をみたすためには仕方ないよ。」

 

「だってみんなやってるから。」

 

「自分も上の人にされたから。」

 

「社会ってそういうもんだよ。」

 

「きれいごとじゃ生きていけないからさ。」

 

 

モーハがささやいてくる自己正当化の言葉。

 

いつしか人として守るべき道に背く行動と欲望との対立から生じる葛藤は正当化され、欲望へと堕ちていきます。

 

 

 自分の意見が正しいと思い込む利己的バイアス。

 

 汚染された社会構造の歯車の中へ組み込まれるうちに陥る感覚の麻痺。

 

 自分がされて嫌なことでも他人は嫌とは限らないからという意識の分離が当たり前になると、自分がされて嫌なことを人にしていることに気づくことは相当難しくなります。

 

 

 その反面、自分がそれを受けた時には、自分がしていたことは棚にあげ、なんでこんな仕打ちをうけなければならないのだろうと考えがちです。

 

 なんでなのか考えてみたとしても、その行動原理にある表層的な意味は乏しく、ただそのループにいるからというのが正解なのでしょう。

 

 ただモーハに毒されて延々と輪の中をループし続けていることに気付かない我々人間の姿があるだけです。

 

 いじめられてた子が不登校で来なくなったら、また別の子に矛先が変わることもよくある話です。

 

 悪の根源だという人を排除しても、また同じような人が現れるだけで何も変わりません。

 

 貪りと怒りと蒙昧がその社会の歯車を支配し続ける限り、それは持続し続けるでしょう。

 

 

 

モーハによってかけられた迷いの霧の中で、やられた怒りを発するドヴェーシャ(蛇)と貪られた分以上に貪りたいラーガ(鶏)が喚きます。

 

「やられたら、やり返せ。やられた以上にな!」と。

 

 

この3つの魔物が互いの尾を噛みあうかのように回転して生まれるエネルギーを動力として、人生の車輪が回っていきます。

 

霧の中を見通す眼を通してそれを覗くと、それはまるでハムスターが回し車を走り続けるかのような姿であるといいます。

 

これを「輪廻(りんね)」というのです。

 

 

 

「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥(くら)し」という弘法大師の言葉があります。

 

何度生を繰り返しても始まりは暗く、何度死を繰り返してもまた終わると冥い中に入っていくという意味です。

 

個としての輪廻転生という考えも、モーハに毒された考え方です。

 

個の幻想にとらわれた人は過去より気付いた様々な智慧を引き継ぐことなく、人類は同じ過ちを繰り返しているということが言われているのではないかと思います。

 

 

ちなみにモーハを訳したのが「愚痴(ぐち)」で、音写したのが「莫迦(ばか)」だそうです。

 

気づいた今が脱却チャンスといいますが、さて、いったいどうすればこのループから脱却することができるのでしょうか。

 

 

 

 

三毒シリーズ1

 

ある日のことです。

 

娘たちが池の周りに集まってしゃがんで何かをやっていました。

 

何をしているのかなと見ていると、カマキリに水をかけているのです。

 

生き物をいじめたらダメだと注意しようと思ったところ、逆にカマキリを助けているんだといいます。

 

三人は「カマキリ救出作戦」を行っているということでした。

 

カマキリに水を掛けると、なんとお尻のところからするする~っと一本の長いハリガネムシが出てくるではありませんか。

 

なるほど、この寄生虫を体の外に出してあげようとしていたのかと納得しました。

 

 

調べると、ハリガネムシは成長するとカマキリをコントロールして水辺へ向かい、入水自殺させて体外へ出て生殖行動を行うのだそうです。

 

水を掛けるとハリガネムシが出てくるのは、水辺に着いたと勘違いしているのかもしれませんね。

 

 

小4の三女によると、どのカマキリにハリガネムシが入っているかわかると言います。

 

 

 

このカマキリは狂暴だからハリガネムシが入ってる。

このカマキリは穏やかだから入っていない。

 

 

それが本当かどうかわかりません。

 

多分根拠のないことなのかもしれませんが、どこか信じたくさせるような三女の観察眼です。

 

 

こうやって数匹のカマキリをハリガネムシの支配から救ってあげている娘たちの姿を見て、とても微笑ましくなりました。

 

 

 

 

 

さて、そこで思い出したのが仏教の基本となる「三毒の滅尽」です。

 

実は同じように人間も眼に見えない三つの魔物に寄生され、行動を支配されているというのです。

 

その支配から自由になることが仏教の目的となります。

 

 

【三毒とは】

一つ目は「ラーガ(貪)」という名の鶏。

 

 欲しい欲しい足りない足りないと貪り続ける愛に餓えたこの「鶏」に精神を支配されると、欲しがる思いは止むことなく、足ることを知りません。

 

 

二つ目は「ドヴェーシャ(瞋)」という名の蛇。

 

 許してなるものかと怒る傷の癒えることがないこの「蛇」に心を支配されると、憎しみ、恨みは絶えることなく、すぐカッとなり、寛容になることができません。

 

 

三つ目は「モーハ(痴)」という名の豚。

 

 一方的な見方、偏見に満足し、本質に目をそむけるこの「豚」に心を支配されると、今の自分さえ良ければそれで良く、自他の間にある格差、不平等を正すことが本当に自分の苦を抜くことになるのだということがわかりません。

 

 

 これらの魔物が人間の中にいて、毒されてしまうがために悪い行いが無意識のうちに正当化されてしまうようです。

 

それが仏教の共通理解であり、三毒は「諸悪の根源」なのです。

 

 

 

 

そして三毒を中和するための三薬も示されています。

 

ラーガ(貪)にはダーナ(布施)を。

 

ドヴェーシャ(瞋)にはマイトリー(慈愛)を。

 

モーハ(痴)にはプラジュニャー(智慧)を。

 

カマキリに水を注ぐがごとく、その三つを注いでいくのです。

 

 

【三薬とは】

ダーナ(布施)01

 「ダーナ」とは与える行為で、お金や物を与えるだけでなく、笑顔や優しい言葉で敬意をもって他者に接し、重い物を持ち席を譲り、自らの持つ物や能力を惜しみなく使うことです。

 

 もらってももらっても満たされなかった心が、与えることで自他の分かち合いを知り、個の枠を壊していくでしょう。

 

 

マイトリー(慈愛)02

 「マイトリー」とは思いやりの心で、生きとし生けるものに対する深い友情の心をもつこと、あらゆる人々の幸せを願うことです。

 

 お釈迦様はおっしゃっています。

 

「慈の瞑想を深めなさい。慈の瞑想を深めればどんな瞋恚も消えてしまうからです。」

 

 私が幸せでありますように。

私の親しい人が幸せてありますように。

生きとし生けるものが幸せでありますように。

私の嫌いな人が幸せでありますように。

 

 怒り許せなかった思いが、慈しみを拡大していくうちに小さなものに感じていくでしょう。

 

 

プラジュニャー(智慧)03

 「プラジュニャー」とは智慧(真理の洞察)のことであり、欠落を意味する空という性質を理解することで世界はどうやって成り立っているのかを見通す力です。

 

 お釈迦様は「常に気をつけて、世界を空であると観ぜよ」とおっしゃいました。

 

 我々は一人だけでは存在することができず、欠落しているが故に縁によって相互繋がり合い存在として姿を現わすことができます。

 

 そうイメージし続けることで、「今自分だけの状況がよくても周りが悪いとやがて自分に影響が与えられ、周りが良くても自分の状況が悪いと周りに影響を与えてしまう」ということが理解できてくるでしょう。

 

 

 悪い人などいません。

 

悪い行動に支配された人がいるのです。

 

それを信じることは、その人の立ち直る力を支えます。

 

表層ではなく本質を見通す洞察力がプラジュナーです。

 

 

 

 さ~、貪瞋痴の支配からの脱却を宣言するお経文を常に唱え、意識し続けていきましょう。

 

我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)

 

皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち)

 

従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)

 

一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)

 

 

 私が昔より造らされてきた諸々の悪業は、

 

すべてが遠い過去より貪瞋痴に

 

身体と口と心を支配されることで生みだされました。

 

すべてを私は今、ことごとく悔い改めていきます。

 

(所造ー造られる ⇔ 能造ー造る、所生ー生み出される ⇔ 能生ー生み出す


 
 

 貪瞋痴にあやつられないで生きていきたいのです。

 

ラーガの支配を克服して、他者から幸せを奪いません。

 

ドヴェーシャの支配を克服して、他者を責めません。

 

モーハの支配を克服して、他者に価値観を押し付けません。


 まずはその3つをモットーとすることが、目覚めへの一歩です。

 

 

「カマキリの洗脳に失敗し、干からびた寄生虫」というニュースも見つかりましたので、それに勇気づけられながら進みましょう。