一年ほど前のある日のことです。
娘たちが池の周りに集まり、しゃがんで何かをやっていました。
何をしているのかなと見ていると、カマキリに水をかけているのです。

生き物をいじめちゃダメだよと注意しようとしたところ、むしろカマキリを助けているのだと言います。
三人は「カマキリ救出作戦」を行っているということでした。
よくよく見ると、カマキリに水を掛けると、なんとお尻のところからするする~っと一本の長いハリガネムシが出てくるではありませんか。

なるほど、この寄生虫を体の外に出してあげることがカマキリの救出なのかと納得しました。
インターネットで検索すると、ハリガネムシは成長するとカマキリをコントロールして水辺へ向かわせ、入水自殺させて体外へ出て生殖行動を行うのだそうです。
水を掛けるとハリガネムシが出てくるのは、水辺に着いたと勘違いしているのかもしれませんね。
さらに当時小4の三女によると、どのカマキリにハリガネムシが入っていて、どのカマキリには入っていないのかがわかると言います。
「このカマキリは狂暴だからハリガネムシが入ってる。このカマキリは穏やかだから入ってない」

それが本当かどうかわかりませんが、どこか信じたくさせるような三女の観察眼です。
こうやってカマキリたちをハリガネムシの支配から救ってあげる娘たちの姿を見て、とても微笑ましく思いました。
さて、そこで思い出したのが仏教の基本である克服すべき煩悩、「三毒」の存在です。
実は同じように人間も、眼に見えない三つの概念体に寄生されて行動を支配されているというのです。

その支配から自由になることが仏教の目的となります。
『三毒とは』
ラーガ(貪)
一つ目は「ラーガ(貪)」という名の毒鶏です。

認めて欲しい、褒めて欲しい、かまって欲しい、名誉が欲しい、お金が欲しいと貪り続ける愛に餓えた「毒鶏」に身体を支配されると、欲しがる思いは止むことなく、足ることを知りません。
ギャンブル依存症、アルコール依存症、甘いもの依存症、ワーカホリック(仕事中毒)などに繋がっていくこともあるでしょう。
不満、不足、欠乏、渇愛の意識を埋めようとする飽くなき欲望。
そんな「貪りの構造」に無自覚であることが、人を毒に染めていくのです。
ドヴェーシャ(瞋)
二つ目は「ドヴェーシャ(瞋)」という名の毒蛇です。

許してなるものかと怒る傷の癒えることがない「毒蛇」に心を支配されると、憎しみ、恨みは絶えることなく、すぐカッとなり、寛容になることができません。
人間関係の悪化や家庭不和、暴言や暴力の常態化などに繋がっていくこともあるでしょう。
傷つけられたという被害意識が防衛のために作り出した加害反応。
そんな「瞋りの構造」に無自覚であることが、人を毒に染めていくのです。
モーハ(痴)
三つ目は「モーハ(痴)」という名の毒豚です。

一方的な見方、偏見に満足し、本質に目をそむけるこの「毒豚」に心を支配されると、今の自分さえ良ければそれで良く、自分のした行為が自分にまた返ってくるなどとは夢にも思いません。
自己内省力の欠如や共感力の欠如、現実逃避などに繋がっていくこともあるでしょう。
自分と他人は同じではないという分離意識が生み出した自分の視野だけでできた狭い世界。
真実を知らぬが故に、いつまで経っても愛に飢え、満たされることなく、足りることはありません。
そんな「痴かさの構造」に無自覚であることが、人を毒に染めていくのです。
『鬼の生き方』
毒鶏と毒蛇と毒豚の三毒に完全に支配された輩を「鬼」というそうです。
人気アニメの『鬼滅の刃』の中に出てきた鬼の台詞がまさに三毒の全てを表しています。
「自分がされて嫌だったことは他人にしちゃいけない。違うなあそれは。人にされて嫌だった事苦しかった事を、人にやって返して取り立てる。自分が不幸だった分は、幸せな奴から取り立てねぇと取り返せねぇ。それが俺達の生き方だからなぁ。」

貪りと瞋りと痴かさ。三毒が揃うとき、「不幸の連鎖・復讐の連鎖」が止まらなくなります。
多分人は、誰もが鬼になる可能性も仏になる可能性も秘めているのではないでしょうか。
不公平な環境、不条理な出来事の中にも決して鬼に体を明け渡してしまわないよう、三毒を克服していきたいものです。
それでは具体的にはどう対処すればいいのでしょうか。
実は仏教では三毒を中和する三薬の存在が示されています。
『三薬とは』
ラーガ(貪)にはダーナ(布施)を。
ドヴェーシャ(瞋)にはマイトリー(慈愛)を。
モーハ(痴)にはプラジュニャー(智慧)を。
このように、それぞれの毒に合う薬を用いるのです。
ダーナ(布施)
一つ目の「布施」とは与える行為のことで、お金や物を与えるだけでなく、笑顔や優しい言葉で敬意をもって他者に接したり、重い物を持ち席を譲ったり、自らの持つ物や能力を惜しみなく使うことです。
“奪う循環”から“与える循環”へと現実が転換するための実践です。
もらってももらっても満たされなかった心が、与えることで逆に満たされていくことを感じるはずです。
布施が習慣になると、“ない”という方に向けられていた意識が“ある”という方向へと向けられていき、貪という毒が自然と薄まっていくでしょう。
マイトリー(慈愛)
二つ目の「慈愛」とは思いやりの心で、生きとし生けるものに対する深い友情の心をもつこと、あらゆる人々の幸せを願うことです。
お釈迦様はおっしゃっています。
「慈の瞑想を深めなさい。慈の瞑想を深めればどんな瞋恚も消えてしまうからです。」
【慈の瞑想】
私が幸せでありますように。
私の親しい人が幸せてありますように。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
私の嫌いな人が幸せでありますように。
ぜひやってみてください。
怒り許せなかった思いが、慈しみを拡大していくうちに小さなものに感じていくはずです。
慈愛の感覚が習慣になると、被害意識が大いなる愛の意識へと変わり、瞋という毒が自然と薄まっていくでしょう。
プラジュニャー(智慧)
三つ目の「智慧」とは自分と他者を分けていた境界が、観察の結果として溶けていくことです。
痴による自分の視野だけの狭い世界を越え、自分も他人も表象では異なっていても本質では繋がっていることを理解することが智慧であり、自他分離した固定観念やそこから生じた偏見を手放す必要があります。
他者を幸せにするためには自分が幸せでなければなりませんし、自分を幸せにするためには他者を幸せにしなければなりません。
自分の起こした行為はいつか還ってくる波のようなものだと見通し、 自分の行為の行き先まで見据えながら行為することが大切です。
私はあなた。あなたは私。これが真実です。
『三毒を悔い改める経文』
【懺悔文(さんげもん)】
我昔所造諸悪業
(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋痴
(かいゆむしとんじんち)
従身語意之所生
(じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔
(いっさいがこんかいさんげ)
【訳文】
我々が昔より作っているいろいろな悪い報いをもたらす行いは、皆いつからか貪瞋痴の三毒に身体と口と心を支配されてしまうことで生じています。
そのすべてを私は今悔い改めます。
心が三毒に支配されると不機嫌をまき散らすなどの態度が無自覚に生じます。
口が三毒に支配されると、チクチクとした嫌味、毒舌、余計な一言、嘘、悪口、責める、怒鳴る、決めつけるなどの言葉が無自覚に生じます。
身体が三毒に支配されると暴力、窃盗、性加害、殺人などの行動が無自覚に生じます。
気付かずにいてごめんなさい。毒あるこれまでの行為を悔い今から改めていきます。
『仏の生き方』
毒を受けた人は、また別の誰かに毒を放ちます。
その毒を受けた人も、さらに別の誰かへと毒を返していきます。
こうして毒は巡り、世の中から消えることはありません。
だからこそ、自分のところでその連鎖を止め、毒を回さないよう努めることが大切です。
しかし一方で、毒を回してはならないと無理に我慢し、怒りや悲しみを押さえつけてしまうと、それは内に溜まり、やがて心や身体を壊してしまいます。
毒を放たず、それでいて溜め込まない。その両面が求められています。
ひどい毒環境からは距離をおくというのも大切でしょう。
まずは毒の存在に気づくこと。
そして、物事が思い通りにならなかった時の自分の無自覚な毒行為に気づくこと。
それが、すべてのスタートです。
