善住寺☆コウジュンのポジティブログ☆ 『寺(うち)においでよ』 -6ページ目

善住寺☆コウジュンのポジティブログ☆ 『寺(うち)においでよ』

但馬、そこは兵庫の秘境。大自然に囲まれた静かで心癒される空間に悠然とたたずむ真言宗の御祈祷と水子供養の寺『善住寺』。目を閉じてください。聞こえてくるでしょう。虫たちの鳴き声 鳥たちのさえずり 川のせせらぎ・・・誰でも気軽にお越し下さい。寺(うち)においでよ!

高野山心の相談員ネットワークは、能登半島地震被災地の志賀町・正久寺で久しぶりのお茶会を開催することになりました。

 

今回はまともに学校に行っていない長女や次女を誘って、連れていけたらと計画していました。

 

なにかしら感じてもらえたらと思ったのです。

 

そしたら長女は頑として行かないと拒否し、次女は「三女が一緒じゃなきゃ行かない」と条件を出す始末。

 

いつの間にか次女の根回しで、ちゃんと登校してほしい三女まで学校を休み、セットで行くことになってしまいました。

 

まー、学校より大切なこともあります。

 

 

朝7時半過ぎに家を出て、3人で能登へ向かいました。

車内で眠る子供たちと家族

 

順調に運転し、お昼を福井の南条サービスエリアで摂ります。

家族でラーメン屋にて食事

 

越前そば、美味しい!

とろろ蕎麦とかつお節

 

思いの外の良い天気と時間の余裕。

恐竜の模型と「DANGER」看板

 

このまま金沢に宿泊だけするのはもったいないとふと思い、輪島市まで足を伸ばすことに決めました。

 

のと里山海道に入り、西山パーキングでトイレ休憩。

能登半島地震被災地への道案内看板

「鬼滅の刃」キャラクター缶を手に、自販機を眺める子供

 

運転は疲れますが、子どもたちに現地を見せたいという思いは、それを吹き飛ばしますね。


それにしても、いつも下りる西山インターチェンジを過ぎてから道路の風景が一変して驚きました。

能登半島地震復興工事中の風景

能登半島地震の被災地を走る車窓からの風景

 

まだまだ工事だらけ。

能登半島地震被災地の道路工事風景

 

車に乗っていて感じる凹凸。

能登半島地震の復旧工事中の道路能登半島地震による工事現場

 

建物の解体もまだまだ終わっていないのですね。

能登半島地震 被災地の建物解体作業

能登半島地震復旧工事の看板と車両

 

歪んだままの電柱や看板。

能登半島地震被災地、志賀町・正久寺のお茶会

工事中の建物と足場

能登半島地震で被災した建物の様子

 

まだ手付かずの家屋。

能登半島地震の被災地、倒壊した家屋と電柱

能登半島地震で被災した石段と塀

能登地震で崩壊した家屋の瓦礫

 

三大朝市と言われた「輪島朝市」のあった場所。

能登半島地震被災地、志賀町正久寺の石碑

 

更地になった場所はすでに草がボウボウで、やがてセイタカアワダチソウに侵食されてしまいそう。

能登半島地震被災地の空き地と丘陵

 

かつての隆盛の面影はなく、虚しさを感じる風景です。

 

神社やお寺の再興もなかなか大変だろうなと推察。

能登半島地震被災地の神社、修復中

能登半島地震被災地の寺院と住宅

 

仮設住宅は追い打ちの豪雨被害もあったそうですし、被災者の方々の心が心配です。

被災地の仮設住宅と空

輪島港第2団地の案内図

 

子どもたちはなんだか寒気がしたと呟いていました。

 

とはいえ、現地の様子を自分の目で見て、リアルに肌で感じてもらうことができて、僕としてはよかったと思いました。

 

たとえ1年と10ヵ月も経った後の景色で、被災直後とは生々しさは全然違ったとしても・・・。

 

 

 

さ~、再び金沢へと帰りかけたところ、行きは大丈夫だったのに「のと里山海道」が事故で封鎖されてしまって、下道をいかなくてはならなくなりました。

 

しかも下道は大渋滞で、正直18時頃には金沢駅前に戻れると思っていたのに、何時になることやらとがっかり。。。


 

 

けれども横田インターの住所がわからなくて調べると、なんと行ってみたいと思っていた被災地NGO恊働センターの能登拠点と住所が近かったので労せず寄ることができたのです。

 

17:24 小牧集会所「じんのび広場」着。
住所:七尾市中島町小牧(ななおしなかじままちおまき)ョ40-1

能登半島地震被災地の休憩施設

 

【被災地NGO協働センターの活動紹介】

能登半島地震特集 (地域を守る!被災者等の支援) 
在宅避難者を支え、心のよりどころとなる支援拠点「じんのび広場」の設置 
取組主体  被災地NGO恊働センター 
従業員数 4人 
想定災害 地震 
実施地域 石川県七尾市 


2024 年1月に発生した能登半島地震で被害のあった石川県七尾市中島町に拠点を構え、在宅避難者への物資配布やイベント開催などの支援を通じて、地域住民の心のよりどころとなる居場所づくりを実現している。 

 

  1.  取組の概要 

    ・兵庫県神戸市を拠点として災害救援事業を行う非営利団体「被災地 NGO 恊働センター」は、能登半島地震で被害を
    受けた石川県七尾市中島町において、在宅避難者を支援する拠点「じんのび広場」を設置し、支援活動を行ってい
    る。 
    ・同センターは被災者にとって安らげる居場所をつくることを目的として「じんのび広場」を拠点に、企業や個人から
    集めた支援物資の配布や、炊き出しやマッサージの提供、サロン活動、個別相談、家屋清掃の手伝いなどを実施して
    いる。 
    ・同センターのある神戸市は、1995 年に発生した阪神・淡路大震災の際に、国内外から多くの支援を受けた。同セン
    ターはその支援を他の被災地にも還元していきたいという想いから、災害救援活動を開始した。ボランティア活動に
    おいては「なんでもありや」「最後の一人まで」をモットーに、様々な被災地の復興に携わりながら地域の自立を支
    える支援活動を行っている。 
    能登支援物資配布と炊き出し
     

  2. 取組のきっかけと想い 
    ・同センターは、2007 年に発生した能登半島地震の際に、同県輪島市や穴水町の仮設住宅や復興公営住宅における足
    湯ボランティアとして支援活動を行っていた。その際は、物資支援は行っていなかったものの、2024 年に再び発生
    した能登半島地震はより被害が大きく、七尾市中島町において在宅避難者が物資支援などを十分に受けられていない
    状況を現地で目の当たりにした。在宅避難者は自宅にとどまっているため、情報が届きにくく、支援物資もほとんど
    受け取れず、行政からの支援も水のみに限定されていた。特に地震発生後の断水が続いている時期には、生活が困難
    を極めていた。水などの必要物資の提供はできたものの、その一方で被災者にとって安らげる居場所が不足している
    のが当時の状況であった。 
    ・そこで、同センターでは、単なる物資配布だけでなく、被災者の要望や話をしっかりと聞き、安心して過ごせる居場
    所を提供したいとの想いから、「じんのび広場」を拠点として立ち上げた。 
     
  3. 取組の特徴(差別化した点、地域特性などで工夫した点等) 
    自由に選べる物資配布スタイル 
    ・被災者一人ひとりのニーズに応えるため、支援物資を自由に持ち帰れるショッピングセンター形式を採用した。被災
    者の世帯状況は様々で、必要な物資や数量も異なるため、必要な物を必要なだけ持ち帰ることができるようにした。
    また、LINE公式アカウントを活用して情報を広く周知し、多くの在宅避難者に支援情報を届けた。 
    物資配布だけでない、被災者がほっと一息つける居場所づくり 
    ・物資配布拠点内にコーヒーやお茶が飲める休憩コーナーを設け、整体師資格のあるボランティアの協力のもと、マッ
    サージや整体スペースをつくり、音楽演奏会を開催するなどの工夫をし、物資配布のためだけの場所ではない、被災
    者がほっと一息つける居場所をつくった。また、ボランティア協力のもと、災害ごみや家屋の片付け、罹災証明の方
    法など、被災後に直面する問題に対して、相談に乗れる体制もつくった。 
    地域との強固な連携による柔軟な協力体制の構築 
    ・七尾市中島町小牧地区の協力を得て、集会所を物資配布の拠点として活用した。同センターは2007年の能登半島地
    震で行ったボランティア活動をきっかけに、同地区でのお祭りに神輿(みこし)や枠旗(わくばた)の担ぎ手として
    参加したり、同地区の方々が旅行で神戸市を訪れた際には同センターを訪れてくれたりするなど、日頃より同地区の
    住民と交流があり、関係が強固であった。そのため、発災時にも集会所の貸出しだけでなく、運営に関する協力体制
    もスムーズに構築することができた。地元ボランティアと共に活動することで、地域全体で被災者を支える体制を築
    いた。 
     
  4. 取組の効果 
    適切な支援の提供 
    ・取組開始時のアンケート調査では、2月から3月にかけて自宅での自炊が困難な在宅避難者が 49%に上り、満足な
    食事を取れていない住民も多かった。炊き出しや物資配布を通じて、こうした方々に必要な支援を届けることができ
    た。また、支援が届いていない人たちに対して、ニーズに沿った支援物資を提供することができた。 
    被災者の居場所づくり 
    ・支援物資の提供や家屋清掃の手伝いだけでなく、物資配布場所は被災者の居場所として機能した。お茶やコーヒーを
    飲むスペースを併設したことで、被災者がゆっくりと自身の気持ちを話せる場となり、心のケアにもつながった。 
    周囲の声 
    ・「物資を受け取るだけでなく、ここに来ることが心のよりどころとなっています」(物資配布拠点利用者) 
    ・「こちらに来ることで落ち込むことが激減しました。災害ごみについて正しい情報を聞かせていただき、感謝してい
    ます」(物資配布拠点利用者) 
    ・「実家の片付けや罹災証明の内容についても相談に乗っていただき、ありがとうございます。物資はもちろん、様々
    な相談に対応していただき感謝しています」(物資配布拠点利用者) 

 

担当者の声 
・災害時には特に在宅避難者など、支援が届きにくい方がたくさんいます。行政や災害ボランティアセンターだけでは、残念ながら支援が十分に届いているとはいえない状況があります。こうした状況を改善していくためには、地域の方と連携した、小さくとも被災者の身近に存在する支援拠点が重要だと考えています。こうした取組はハードルが高く感じられますが、被災者のニーズを取りこぼさないためには、どんなに小さな規模でも拠点が存在することがまず重要だと感じています。


問合せ先  被災地NGO恊働センター 
電話番号:078-574-0701 FAX:078-574-0702 
E-Mail:info@ngo-kyodo.org URL:http://ngo-kyodo.org/ 

 

 お世話になった増七尾市中島町小牧の集会所で、民間ボランティア団体が能登半島地震の被災者への支援物資の配布拠点「じんのび広場」を設けている。市の物資配布は飲食店やスーパーの営業再開に伴ってなくなり、水の配布のみ。地域住民らが必要な物資を求めて足を運んでいる。
 2007年の能登半島地震を機に小牧の住民と交流がある神戸市の被災地NGO恊働センターが運営。地震の翌日(1月2日)に七尾に支援物資を届け、1月中旬から佐賀県のおもやいボランティアセンターと協力し、全国の企業や団体から集めた物資を配布している。米や子ども服、簡易トイレ、ペット用品など幅広くそろえ、手製の棚に並べている。3月から毎週木曜日は休み。

被災地支援物資配布拠点、子供服多数
 NGOのスタッフによると、七尾を中心に志賀町などから1日平均30人、2月中旬までに延べ509人が来場。口コミなどで広まり「行政の支援がないので助かるという声が多い。2カ月たっても増えている」という。多い日は70人が訪れ、すぐなくなってしまうため「家族分だけ」に限定。情報発信の専用LINEも開設し、炊き出しや子ども向けイベントも行っている。
 来場者にはアンケートや困り事のニーズ調査も実施。近所の徳間慶子さん(71)は「家が傾いているのでボランティアに来てもらって助かった」と感謝する。地元住民としてボランティアに参加する石坂智子さん(44)は「まだ物資が必要な人がたくさんいるので、必要なところに届いてほしい」と語った。(中国新聞2024.3.3大野沙羅さんの記事より転載)

 

【被災地NGO協働センターによる救援活動の様子】

 

 

イレギュラーな出来事のおかげで、お世話になった増島さんと再会することができたという奇跡。

 

ありがたき法縁とはこのことだと思いました!

 

 

増島さんは約2年ずっとこの能登に居続けて被災地支援をし続けておられる貴重な存在です。

 

いや能登だけじゃなく、東日本大震災も広島豪雨災害もです。

 

僕は心の相談員の研修会においてお話を聞かせていただいたり、実際に支援活動を共にさせていただいたことがあったのです。

講演者と聴衆、能登半島地震の現状

 

2024年7月にご一緒した時の写真。

増島さんと娘たちと写真

 

 

少しの時間でしたが、復興の遅い現状について聞かせていただき、最後に二人の娘とも写真を撮ってもらいました。

増島さんと娘たちの笑顔、復興支援

 

「能登には若者が少ないから、きっと皆さんから喜ばれると思うよ。明日はお茶会よろしくね」とエールをいただき、送ってもらいました。

 

 

ホテルにたどり着いたら19時半。

夜のホテル外観

 

さすがにくたびれました。

二人の娘とホテルロビーで休憩

 

20時過ぎてから、ようやく「海力」という居酒屋で晩御飯。

娘たちと乾杯、能登旅の夜

 

金沢おでんの出汁巻きが美味しかったです。

金沢おでん 出汁巻き卵

 

金沢駅東口にある「鼓門」でパシャリ。

金沢駅前で娘と記念撮影

 

21時半頃、ようやくホテルに戻ってこれました。

家族3人でピースサイン

 

すると二人の娘が「横になって。運転お疲れ様」と、なんと足をマッサージしてくれるではありませんか。

娘が運転疲れの父をマッサージ

 

とても幸せです。

 

それを噛みしめながら、それが突然天災により失われることも想像しながら、被災地の方々との関わりを改めて大切に思いました。

 

 

さ~、明日が本番、おやすみなさい。

正久寺でお茶会開催 10/16(木) 12時〜15時

高野山金剛講創立百周年にあたり、祖母が百才褒賞を受けました。


合わせて善住寺支部としても支部を初期より開設していたことで積年褒賞を受けました。
 

高野山から佐伯先生(但馬地方本部総監)が代理で受けてきてくださったものを、昨日改めて授与していただきました。

百才褒賞と善住寺支部の褒賞授与
 

僕の功績などほぼ何もないわけですが、今の住職として立ち会ったというだけで、自分が何かしたかのような顔をしております。
 

つまりは役得ということですね。

今日は朝から雨の降る中、神田・大熊地区の皆さんが奉仕作業をしてくださいました。

神田・大熊地区の皆さんが雨の中奉仕作業

 

春と秋の二回、境内の草刈りなどの外回りの清掃を行なっていただいています。

 

現在は七つの地区に分けているので7年に1度のローテーション。

 

「次はまた7年後によろしくお願いします。」と最後のお礼の挨拶の時にお願いすると、皆が笑って「生きているかもわからん」と答えられました。

神田・大熊地区の奉仕作業、雨の寺院での集まり

 

ほんとに高齢者ばかりの過疎の地区なのです。

 

負担を極力かけないようにと思いながら、それでも元気なお姿が見られたらなと思います。

 

今日は本当にありがとうございました。

デフォ(標準設定)ではお寿司とラーメン。

 

最近はさらにチャレンジの幅が広がっています。

 

ハンバーガーにポテト。

ハンバーガーを食べる様子

 

釜揚げうどん。

釜揚げうどん、つゆ付き

 

かき氷。

かき氷 いちご味 巨大盛り

 

そしてついにカルボナーラにまで手を出しました。

カルボナーラうどん

 

なんでもありますね。

 

#くら活

次女と三女と僕。

スタバでキャラメルフラペチーノとダークモカフラペチーノ

 

最近増えてきたこの組み合わせ。

次女と三女、カフェでくつろぐ

金剛講創立100周年「御詠歌ウィーク」

 

10月4日のイベント

 

 

 

 10月5日 

登山した翌日である10月5日に、但馬の参拝団70名が高野山にやってきました。

金剛講100周年、高野山で集団参拝

 

僕は企画の全てを立てたにもかかわらず、登山がしたいがために他の役員に丸投げしてしまいました。

 

僕の立てたスケジュールなので、なにかしらの大ポカがないかとヒヤヒヤしていたのですが、おかげさまで大きなミスはなく、誰一人見落とすことなく高野山に来てくれたので安心しました。

 

またスタッフはちゃんと内容を把握してくれたのかなという心配をよそに、僕が気づかないようなところまで気を利かせてくれ、よいお世話をしてもらったと、参加者の皆さんが感謝していました。

 

丸投げしたところからよりよい循環が起こったのでしょう。

 

もしかしたら僕は「自分が自分が」が強くて他の方の活躍を奪っていたのかもしれませんから、僕の不在は最適だったのかもしれません。

 

そんな解釈は都合がよすぎでしょうか(笑)

 

 

12時 「中本名玉堂」にて昼食。

金剛講100周年 高野山での昼食

 

 

「100周年記念コンサート」

こうして壇上伽藍(だんじょうがらん)に着いた皆を「金堂(こんどう)」の縁の上からお迎えし、13時開演の「100周年記念コンサート」を観賞していただきました。

金剛講100周年コンサート会場

 

僕は司会を担当。

金剛講100周年コンサート司会台

 

リハーサルで何回も噛んでいたのに、本番では一回しか噛みませんでした(笑)

高野山金剛講100周年コンサート司会

 

しかし開演の直前に突然の土砂降り。

 

大変な悪天候の中でコンサートは始まり、根本大塔の屋根下に避難された皆さんにはご迷惑をお掛けしたことと思います。

高野山金剛講100周年、但馬参拝団

 

とはいえ、それを打ち消すほどの感動的なイベントになりました。

金剛講100周年コンサート、御詠歌奉納

 

風雨にさらされ、霧に包まれたステージの演出。

高野山金剛講100周年コンサート

 

これは、お大師さまによる素晴らしい脚本でしょうか。

雨の中、法衣姿の人物が並ぶ

 

雨の音以外の余計な音が静まりかえる中、マイクを通した美しい声が伽藍に響きました。

雨の中、金堂前で御詠歌を歌う人々

 

すごく幻想的で素晴らしかったと言ってくださる方が何人もおられました。

女人道での御詠歌奉納

 

どうか「雨と霧の百周年記念コンサート」として記憶にお残しください。

雨天の高野山で御詠歌を歌う集団

 

動画もご覧ください。

 

 

「奥の院参拝~御廟前御詠歌奉納」

コンサート後、15時前より奥之院参拝です。

高野山金剛講100周年記念イベント、森と車

 

ここでも傘をさしての歩みとなりましたが、奥之院の案内ガイドさんに誘導していただくうちに小雨になり、安心しました。

高野山 奥之院 参拝者たち

 

「御廟橋(無明橋)」より先は撮影禁止。

雨の中、傘を差して橋を渡る人々

 

15時半頃に「奥之院」の「灯籠堂(とうろうどう)」に辿り着くと、その外陣(げじん)に履き物を脱いで上がらせていただき、弘法大師御入定の御廟(ごびょう)を目の前に座ります。

 

※撮影禁止のため奥之院 燈籠堂 - 伊都郡高野町大字高野山/観光名所 | Yahoo!マップより画像転載。

高野山金剛講100周年、多数の提灯が連なる壇上伽藍

 

普段上がれない場所で、但馬の皆さんと共に声を合わせ般若心経と御詠歌「めぐみの光かがやきて」を奉納できたことは、きっと忘れられない思い出になるでしょう。

 

この場所で御詠歌を奉納できることは今後ないかもしれません。

 

 

「登壇リハーサル」

16時半頃から大師教会にいって翌日の登壇(とうだん)のリハーサルです。

(僕が参加の皆さんへ並び方の指示をしているところ)

金剛講100周年記念コンサート集合写真

 

かなり並ぶのに時間がかかりました。

 

リハーサルの時間を作って本当によかったです。

 

 

「宿泊」

18時前に宿坊に入ります。

高野山、バスと寺院の建物

 

人数が多いため、正智院(しょうちいん)と南院(なんいん)の二つのお寺に分かれて泊まりました。

 

正智院の様子。

高野山金剛講100周年、昼食風景

 

南院の様子。

高野山で法要に参加する人々

 

僕は南院で泊まりました。

畳の部屋に敷かれた布団

 

 

 

 10月6日 

翌6日の出発前(南院にて)

金剛講100周年記念:高野山参拝団御詠歌奉納

高野山金剛講100周年記念、一行の集合写真

 

(正智院にて)

高野山金剛講100周年記念、参拝団集合写真

 

 

「100周年記念登壇御詠歌奉納」

今日も相変わらず我々の出番に合わせたように9時頃から強い雨足となりました。

 

とはいえ今度は「大師教会」の室内なのでほぼ影響はありません。

金剛講100周年記念コンサート会場

 

9時半より「大講堂特設ステージ」にて但馬地方本部の100周年記念登壇です。

 

前日にリハーサルをしていたおかげで、サッと並ぶことが出来ました。

 

奉納曲はやはり「めぐみの光かがやきて」。

金剛講100周年記念コンサート

 

「一曲入魂」です。

 

堂内に響き渡った素晴らしい発声でした。

 

100年という記念すべき時に立ち会えた皆様、おめでとうございます。

 

 

「授戒」

登壇後は同じ建物内にある「授戒堂(じゅかいどう)」に入ります。

高野山金剛講100周年、参拝客の列

 

暗闇の中て「十善の戒め」を授かり、法話をききました。

高野山大師教会でのコンサート

 

 

「フリータイム」

みんなやれやれ終わったという面持ちで、お待ちかねの2時間のフリータイム。

 

にぎわい市場でお土産物を買う方、金剛峯寺を拝観する方、カフェでのんびり喉を潤す方、御朱印めぐりをする方、それぞれの楽しみがあったようです。

高野山で御詠歌ウィーク開催、雨天でも賑わう市場高野山金剛講100周年記念、法要の様子

高野山金剛講100周年、笑顔の女性たち

 

この頃になると、雲一つないほどの青空に太陽が輝いていました。

金剛講100周年 高野山寺院の風景

 

このコントラストが心に彩りを与えてくれます。

 

ほんとにいい百周年だったなーと皆が思ってくれたことでしょう。

金剛講創立100周年記念高野山団参集合写真

 

 

最後に「丸万」にて食事をして打ち上げ、皆は下山。

高野山での食事風景

 

僕は手を振りバスを見送りました。

但馬高野山団参のバス

 

舞踊組は午後の部の奉舞があり、その方々を乗せて帰るのです。

 

 

14時から行われた舞踊のイベントは、これまでと正反対のような晴天に恵まれました。

着物姿の女性が扇子を広げている

 

雨も晴れもどちらも感動したので、僕の中に「雨降って地固まる」という言葉が舞い降りてきます。

 

100年後にも御詠歌が歌い紡がれていますように。

 

それはエゴかもしれないけれど、人々の幸せの一端を担うツールとして残ってほしい、そんな風に願ってしまいました。

 

 

こうして居残り組を僕の車に乗せ、名残惜しくも夕方に高野山を後にします。

Kiguri Cafe outdoor seating area

 

家に帰りついたら23時でした。

 

見上げると中秋の名月が美しく輝いています。

中秋の名月と雲

 

まるで僕の心のようにお月様も満たされていました。

 

満月の日に当たったのも、不思議な巡り合わせですね。

 

 

こうして無事に100周年御詠歌ウィークに合わせた大企画「但馬地方本部高野山団参」が無事終了しました。

 

素晴らしき100年の節目に出会えた法縁に感謝致します。

 

ありがとうございました。

 

 

 

(※その日は善住寺でも100周年をお祝いする法要が行われていました)

 

我々が金剛講創立百周年記念の「高野山団参」に行っている最中のこと。

 

 

 

10月6日、行きたくても行くことができなかった方々が善住寺に集まり、百周年記念法要を行ってくださいました。

金剛講創立百周年法要で詠歌する人々

 

留守番の名誉住職が皆を先導。

僧侶と供花、高野山百周年記念

 

遠く離れていましても、高野山で行われる大行事と心を合わせます。

金剛講創立百周年記念法要の参列者

 

100年という節目に合えたことには変わりありません。

金剛講創立百周年記念法要で御詠歌を唱える人々

 

長年御詠歌の普及に努めてきたおばあちゃん。

百周年記念法要で読経する高齢女性

 

今は亡き、金剛講活動を共にしてきた皆さん。

金剛講百周年記念法要 供物位牌

 

そして今もまだ元気にご詠歌を唱えてくださる皆さん。

金剛講100周年、御詠歌法要の様子

 

皆さんのおかげで今まで繋ぐことができました。

百周年記念法要で合掌する女性たち

 

まことに素晴らしいことです。

御詠歌ウィーク 金剛講百周年記念法要

 

 

皆さん。

 

100周年おめでとうございます。

 

100周年ありがとうございます。

 

またこれからの100年へ向けて、宜しくお願いします。

 

合掌。

 

↑↑↑前編はこちら↑↑↑

 

町石道修行参拝は、慈尊院から矢立までやってきて、お昼休憩を取りました。

 

そしてハーフコース希望の一名が加わり、高野山へ向かうところです。

 

「矢立峠(矢立茶屋)」

12:37 休憩を終えて、矢立を発ちます。

 

「矢立六地蔵」

12:39 「五十九町石」のところにある矢立六地蔵。

 かつて矢立地区の死者は風葬に付されていました。これは、屋外に遺体を置いて、鳥や野生生物に亡骸を自然に返させる葬送の慣習です。葬列はこの石台に来て祈りを唱えながら、六地蔵の像を囲みました。葬儀の間、遺体は地蔵たちの前の平たい岩の上に置かれました。
 六地蔵とはいっても、実際には七体の地蔵があることに気づく人もいるでしょう。一番大きい地蔵は他のより小さい六体のリーダーとされており、数には含まれていません。(「高野参詣道町石道 六地蔵と矢立の墓地林」より)

矢立六地蔵と五十九町石

 

「五十八町石」。

 

この辺りはかなりの傾斜になっていました。

 

「袈裟掛石」

12:46 「五十五町石」の先にある「袈裟掛石(けさかけいし)」を通過。

弘法大師が山を登る際に袈裟を掛け休んだと言い伝えられている石。袈裟掛石は、高野山の聖域と俗世の境界を示す「清浄結界」を表しています。
鞍のような形をしていることから「鞍掛石」とも、この石の下をくぐると長生きするとも言い伝えられていることから「くぐり石」とも謂われています。(看板より)

 

「押上石」

12:48 「五十四町石」の先にある「押上石(おしあげいし)」を通過。

弘法大師の母公が清浄結界を越え高野山へ入山しようとした時、激しい雷雨が襲いました。
親孝行であった空海は、この大岩を押し上げ、母をかくまったと言い伝えられています。今でも岩には、空海の手の跡が残っていると謂われています。(看板より)

「袈裟掛石」についての解説看板と石

高野山町石道、参拝者と森の道

 

12:59 「四十八町石」通過。あれ?五十町石を見逃してしまったみたい・・・。

 

再び道路に出ました。

 

「大門遥拝所」

13:15 「大門遥拝所(だいもんようはいじょ)」着。

 令和7年5月22日(木)、国道480号沿いに大門を望む新たな遥拝所が設置され、開眼法要が厳かに執り行われました。 

 また、記念植樹として美しい桜の木も植えられました。この植樹は、昭和59年の御入定1150年御遠忌大法会を記念して始められた金剛峯寺の献木活動の一環であり、10万件を超えるご支援をいただいている活動の記念として行われました。(「高野山金剛峯寺Facebook」より)

大門遥拝所、石碑と木

 

5度目の休憩と、ここで3名の方が新たに合流です。

高野山町石道、休憩風景

 

まだまだ遠くに見える大門。

大門遥拝所と修行者高野山寺院と森の風景

 

総勢10名に増えた修行参拝者で再出発です。

 

13:37 「三十九町石」を通過。

高野山町石道、四十八町石

 

土の歩道が崩れているため車道脇を歩いて迂回します。

高野山町石道を行く参拝者たち

 

でも実は車道に沿って町石があるので、迂回路の方が正式なのではないかと教えてもらいました。

修験者が町石を辿り高野山へ

 

我々はもっと長い距離を迂回しましたが、実質は「三十四町石」から「三十二町石」の間が通行止めだったようです。

高野山町石道、通行止め迂回路マップ

高野山町石道を行く参拝者たち

高野山町石道、大門への案内標識

 

本来の道に戻るべく下っていきます。

高野山町石道、参拝者と崩れた道

 

通行止め地点を横目に、左折していきます。

迂回路の指示がある場所

 

13:56 「三十町石」を通過。

 

「鏡石」

14:01 「鏡石」を通過。

表面が鏡のように平らなことから「鏡石(かがみいし)」と呼ばれています。

個の石の角に座って真言を唱えると願いがかなう(「心願成就」する)と謂われています。(看板より)

高野山 鏡石

 

川のせせらぎが大きく聞こえてきました。

 

多分「鳴戸川(なるこがわ)」だと思われます。読みは「なると」ではなく「なるこ」なのだそう。

 源は湯川領筌尾より出つる谷川と高野山大門より出つる谷川と村の巽出合という処にて落合ふ。合流の処音あり名つけて鳴川といふ。(「紀伊国名所図会 巻之四十九 伊都郡湯川荘花坂村 村中谷川」より)

 御朱印縁起によれば、鳴川ナルカハとあるのを、いつの頃からか鳴子川ナルコガハと號ナヅけられた。花坂に氏神鳴川ナルカハ明神を勧進しました。鳴河ナルカハが縮ってナルコと訛ったのだろう。(「紀伊国名所図会 巻之四 鳴子川」より)

 

渓流沿いを歩くのはとても気持ちいいです。

高野山町石道、橋を渡る参拝者

 

おばあちゃん二名が同行されたので、ペースがゆっくりになり、着いていくのがやっとだった矢木パパにとってはありがたかったようです。

 

「二十四町石」通過。

高野山町石道を行く修行者たち

 

巨木が倒れて道を塞いでいたけれど、切断して通れるようになったそうです。

倒木と森の風景

 

14:23 「二十町石」を通過。

高野山町石道、参拝者と古道

高野山町石道、森の中の木製橋を渡る参拝者

 

14:45 「十一町石」のところで、6度目の休憩。

高野山町石道、五十九町石と六地蔵

 

おばあちゃんたちもよく頑張っておられます。

高野山町石道、休憩中の参拝者たち

 

14:54 ラストもうひと踏ん張り。

 

「十町石」からはだいぶ登りがきつくなってきます。

 

矢木パパもかなり疲労が溜まって足が上がらなくなってきていました。

 

最後の「胸突八丁」とも言われる急坂を、「六根清浄」の掛け声を出しながら乗り越えていきます。

 

そしてついに登り切った先に見えたのは、雄々しくそびえ立つ朱塗りの御門。

 

「大門」(トイレ有)

15:07 高野山山上の入口にあたる「大門(だいもん)」に到着です。

高野山町石道修行参拝の二人

 

 高野山の大門(だいもん)は、高野山の西側に位置する巨大な門で、高野山への玄関口としての役割を果たしています。

 この門は、参拝者にとって高野山巡礼の始まりを象徴する重要な場所です。
創建年は不明で諸説ありますが、山火事や落雷などで焼失したことから、過去四度再建されています。現在見ることのできる大門は、宝永2(1705)年再建されたもので、堂々たる姿と美しい木造建築が特徴です。高さは約25メートルあり、その大きさと威厳に圧倒されます。

 大門の一番の見どころは国内で二番目に大きいという金剛力士像(仁王像)。
大門の左右には、仏教の守護神である金剛力士像が安置されています。これらの像は阿吽(あうん)の形で配置され、片方は口を開けた「阿形(あぎょう)」、もう片方は口を閉じた「吽形(うんぎょう)」の姿をしています。阿形像と吽形像は、4人の仏師(康意、運長、康敬、康伝)によって作られたとされています。阿吽の二像は、仏教における宇宙の始まりと終わりを象徴し、参拝者を守護するとされています。

 また、大門の周辺は自然豊かな場所で、四季折々の風景が楽しめます。特に春の桜や秋の紅葉は見事で、多くの観光客が訪れます。横手には大きな鳥居が目印の弁天岳登山口があり、頂上には弘法大師が勧請された嶽弁才天が祀られている「嶽弁才天社」という小さな神社があります。
 大門からは、高野山の壮大な景色を一望でき、ここから見る山々の景色は、心を落ち着けるとともに、これからの巡礼に対する敬虔な気持ちを引き起こします。

 大門は、高野山への入り口としてだけでなく、歴史と文化が詰まった重要な建築物であり、その壮麗さと精神的な意味合いから、訪れる人々に深い感銘を与える場所です。高野山を訪れる際には、まずこの大門を通って、その歴史と風格を感じることをお勧めします。

 門前には展望台が設置されており、ここからの展望は絶景です。
この展望台から見える美しい夕日は、「和歌山県朝日夕陽百選」や「日本夕陽100選」に指定されています。

高野山町石道、修験者姿で石段を登る

 

高野山に足を踏み入れる前に、皆で「般若心経」を唱和。

 

長年高野山へ来ていましたが、初めて歩いて正面から入山できました。

高野山大門、参拝者たち

 

大門を出るとすぐにある「六町石」。※トイレもあります。

高野山町石道、三十町石と建物

 

大門から壇上伽藍へは一本道。

高野山町石道マップ:壇上伽藍、大門、奥之院

 

しばらく下っていくと道路沿い左側に「五町石」がありました。

町石道 標石

 

集会所の近くにある「四町石」も通過。

 

「三町石」は交差点(愛宕神社前)にありました。

 

二町石を見逃し、「ん?一町石?」っていう感じでよくわからずに通り過ぎてしまいました。

 

「壇上伽藍」(トイレ有)

「壇上伽藍(だんじょうがらん)」の中門前に到着。※中門前にトイレあり

 

壇上伽藍の正門にあたる「中門」をくぐります。

高野山大門をくぐる参拝者

 

 高野山を訪れたら、まず参拝したいのが壇上伽藍(だんじょうがらん)。弘法大師空海が高野山で最初に真言密教の根本道場を開いた重要な聖地。
 開創当時に創建され、幾度もの火災に遭いながらも再建された根本大塔(こんぽんだいとう)や金堂(こんどう)で、数々の仏像が安置される内陣を拝観することができるのです。

 壇上伽藍の中心地に立つ根本大塔は真言密教の世界観を立体的に表す重要な建物。内陣の中央に祀られるご本尊は胎蔵界(たいぞうかい)大日如来。周囲には金剛界(こんごうかい)の四仏が安置され、荘厳さが漂います。
 16本の柱には、堂本印象画伯による十六大菩薩像が優美な姿で描かれていて、堂内をぐるりと巡って、ひとつひとつ異なる豊かな表情を拝観することができます。(和歌山観光情報HPより)

高野山町石道を行く参拝者

 

2人の総括(笑)

 

伽藍内を時計回りに参拝していきます。

高野山、修行者と寺院

 

まずは修復中の「山王院(さんのういん)」。

高野山大門へ向かう修行者たち

 

次に「御影堂(みえどう)」に参拝。

 

「三鈷(さんこ)の松」。

【高野山の三鈷の松の伝説】
 空海が唐から帰国する際、日本で密教を広めるのにふさわしい土地を探すため、唐の青龍寺から「三鈷杵(さんこしょ)」を日本に向けて投げました。
 その三鈷杵が落ちたとされる場所が現在の高野山であり、この地で発見された松の葉が三本で一組だったことから、「三鈷の松」と呼ばれるようになりました。
 空海はこの地を密教の聖地と定め、金剛峯寺を開山しました。( 「unagi-note.com」より)

高野山町石道修行参拝の二人

 

町石道の終点となる「根本大塔」の横で御詠歌「法悦歓喜和讃」の祝福を受けました。

 

この根本大塔が「0町(ゼロ)」にあたる真言密教の中心なのです。

高野山壇上伽藍の朱色塔

 

ここで皆で写真でも撮ればよかったのですが、あっさり素通りしてしまいました。

高野山町石道を行く参拝者たち

 

「あ、終着点の一町石見つけた!」と思って記念写真を撮ったのですけど、新たに奥之院へ続くスタートの「一町石」だと後々知りました。

高野山町石道、記念碑と登山者

高野山壇上伽藍、参拝者と寺院

 

「蛇腹道」と呼ばれる小道を抜けて、壇上伽藍を出ました。

高野山大門へ向かう修行者

 

「高野山大師教会」

15:44 今回の「町石道修行参拝」のゴールとなる「大師教会」に到着。

お昼休憩もありましたが、「約8時間」かかったということになります。

高野山大師教会と町石道修行参拝者

 

大師教会は高野山開創1100年記念として1925年(大正14年)に建てられ、高野山真言宗の布教等の総本部です。本尊は弘法大師、脇仏として愛染明王と不動明王が祀られています。日帰り修行体験などもあり写経の他、大講堂の奥の授戒堂にて阿闍梨さまより菩薩十善戒を授かることが出来ます。(高野山観光HPより)

 

到着するやいなや、セレモニー(結願の法要)が始まりました。

高野山、僧侶たちの法要風景

 

よくぞ願いを山まで届けてくれたと盛大に迎えていただき、困惑するばかり(笑)

高野山金剛講創立百年記念、町石道修行参拝

 

約21kmの町石道を踏破。やったぞ~!

高野山町石道修行参拝者たち

 

迎えてくれた御詠歌合唱団の中にも、なんと心の相談員の仲間が!

高野山金剛講百周年記念、登山参拝者たち

 

願い事をお焚き上げ。

 

お焚き上げを終え、修行参拝団は解散しました。

 

「高野山奥之院」

16:26 疲れていましたが、パパの希望でやはり奥之院は外せないということで二人でやってきました。

※大師教会から奥之院中の橋までは車で移動です。

 

登山道中には大丈夫かと心配しましたが、どうやら僕より元気そう(笑)

高野山墓地と参拝者

 

奥之院は、弘法大師空海の御廟がある場所で、壇上伽藍と並ぶ高野山の二大聖地の一つ。高野山の信仰の中心とされています。弘法大師は853年に62歳で入定し、以来1200年にわたってこの地で永遠の瞑想を続けていると信じられています。

樹齢七百年を超える杉木立が生い茂る参道は、一の橋から御廟まで約2キロメートル続き、20万基以上の供養塔や墓石が並んでいます。ここには皇族や大名、文人、庶民など、さまざまな階層の人々の墓石があり、法然、親鸞、上杉謙信、織田信長、伊達政宗、武田信玄、豊臣一族のものも含まれています。参道を歩くことで、多くの人々の歴史や信仰の深さを感じることができます。

奥の院の参拝は、一の橋を渡り、参道に沿って並ぶ墓碑を眺めながら進んでいきます。中の橋を渡り、水向地蔵を過ぎ、御廟橋を渡ると、いよいよ御廟のある聖域へと足を踏み入れます。弘法大師御廟の拝殿にあたる燈籠堂には、多くの燈籠が祈りを込めて奉納されており、その光が厳かな雰囲気を醸し出しています。さらにその先に進むと、弘法大師の御廟があります。ここでは、心を静め、自分の願いや感謝の気持ちを込めて丁寧に祈りを捧げることで、弘法大師の存在を身近に感じることができるかもしれません。再び御廟橋を渡って戻る際には、弘法大師が参拝者を優しく見送ってくださっていると信じられています。(和歌山県公式観光サイトより)

 

町石の終着点は弘法大師様がおられる御廟だそうです。

高野山町石道、橋と杉並木

 

こちらの町石は全く見つけれなかったので、今後の楽しみにしておきます。

高野山町石道、参拝者と古道

 

「大門(日本の夕陽百選)」

日暮れ時に夕陽を追いかけて大門に戻りました。

 

 高野町の大門は、紀淡海峡や淡路島、四国を眺望できる場所に位置し、夕陽の美しさが特に有名です。大門からの夕陽は「和歌山県朝日夕陽百選」や「日本夕陽100選」に指定されており、晴れた日には紀淡海峡や淡路島が眺望できます。(chatGPTより)

 

ずっと雨や曇りだったのに、最後の最後で晴れて美しい夕陽を見ることができたことも最高の思い出になるでしょう。

高野山大門の夕日と山々

 

「味家さん」

晩御飯は大学時代以来二十数年ぶりに訪れた高野山の人気居酒屋「味家(みや)さん」。

(住所:和歌山県伊都郡高野町高野山401 電話:0736-56-2827)

高野山人気居酒屋「味家」の外観

 

パパは般若湯?僕はソフトドリンクで乾杯。

高野山で乾杯する二人

 

相変わらず量は多いし美味しいし、大満足でした~。

高齢男性が居酒屋で餃子を食べる

 

「正智院」

宿泊は高野山内の宿坊「正智院」の同じ部屋に泊まって、いろいろなことを語り合いました。

 

それにしても良く頑張ったものです。

 

最高の百周年イベントでした。

 

どうか翌日に筋肉痛で動けなくなるようなことがありませんように。

今年は御詠歌金剛流の組織に当たる「高野山金剛講」が創立されて100周年という記念の年です。

高野山金剛講100周年記念ポスター

 

そのお祝いは秋まで焦らされることとなりましたが、金剛流を創立された流祖・曽我部俊雄和尚がお亡くなりになった10月7日(流祖忌)を中心とした一週間を「御詠歌ウィーク」とし、盛大に記念イベントが開催されることとなりました。

 

御詠歌ウィーク スケジュール表

 

金剛講創立百周年の開白となるイベントが「町石道修行参拝」と銘打たれた高野山登山です。


人々の幸せへの祈りと次の100年へ託す願いを背負い、山麓の慈尊院より高野山へ向けて、10月4日朝7時半に6名が雨の中をスタートしました。
 

途中矢立より1名、大門遥拝所より3名が合流し、10名が皆が待つ大師教会を目指しました。
 

約8時間かけてたどり着いた時刻は15時45分。
 

全員元気にゴールすることができました。
 

雨も降ったり止んだりでしたが、そこまで強くなることもなく、快適な気温の中を歩けました。
 

大師教会では我々の到着とともに奉告の儀式に入り、御詠歌で歓迎され、皆から託された願い事をお焚き上げしました。
 

初めて高野山に歩いて登ることが叶い、感無量です。
 

その上、宿坊へ入る前に大門から美しい夕陽が見ることができ、最高でした。
 

やっぱり晴れ男。もってました。


 

「たかのやま 山にはあらで蓮葉の 花坂登る 今日の嬉しさ」
 

高野山第一番の御詠歌がピッタリです。

 

 

弘法大師さまがお母様の住む山麓へ月に九度会いにいきお世話をされたことから「九度山」という地名が付いたという言い伝えがあります。
 

今日通った町石道はまさにそのルートだそうです。
 

多分昔の方の健脚は今では想像できないほどのものであったことでしょう。
 

山野を飛ぶようにして駆け抜けていかれる弘法大師様のお姿を思い浮かべながら歩きました。


 

今年の春は比叡山、秋には高野山を歩くことができ、歴史の欠片を感じることができ、とても幸せでした。

 

町石道 pilgrimage: 金剛講100周年記念

 

 

 

【当日タイムライン】

 

5:45 前日から高野山の正智院に素泊まりで泊まっていたので、朝ごはんはコンビニおにぎりです。

おにぎりと湯呑み

 

6:15 金剛峯寺前駐車場で中本名玉堂のバスに乗車。

高野山町石道バス駐車場

 

6:30 高野山から下山していきます。

バス車内、窓から見える山道

 

7:05 コンビニに寄ってもらえたので、ここで昼食を買いました。

セブンイレブンで雨の中歩く人

 

「慈尊院」 (トイレ有)

7:22 「慈尊院」着。

慈尊院の山門と石段

 

山門をくぐります。

 

町石道参詣登山の本参り(正式作法)は、慈尊院の御本尊弥勒菩薩様にお参りしてから登るようです。

慈尊院の町石道参詣登山の案内板

 

慈尊院は、和歌山県伊都郡九度山町慈尊院にある高野山真言宗の寺院。山号は万年山。本尊は弥勒仏。高野山の政所として創建され、高野山町石道の登り口にある。
境内は、国の史跡「高野参詣道」を構成する「町石道」の一部として指定されている。本堂の弥勒堂は、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部として登録されている。(wikipediaより)

高野山慈尊院のおみくじと提灯

 

般若心経を読経し、願文を奉読。

 

◎「慈尊院観光トイレ」 ※トイレの場所がどこにあるかは重要です。

 

高野山金剛講百周年「町石道修行参拝」

7:36 いよいよ「町石道修行参拝」のスタートです。

町石道修行、高野山登山

 

皆様からお寄せ頂いた 『百年後へのメッセージ』と『幸せ祈願』を金剛講有志が背負い、大正15年の金剛講創立当時の参拝を再現し180町(約20㎞)の町石道を登ります。

 

高野へ向かう道は、「高野七口」という七つの道に集約されており、そのうち弘法大師によって切り開かれた表参道を高野山町石道と言います。九度山の慈尊院から高野山大門を経て奥の院弘法大師御廟に至る約24kmの道程には、1町(109m)ごとに建立された五輪卒塔婆があります。(四季の高野山町石道HPより)

 

この石段の途中右手に最初の町石である「百八十町石」があったようですが、見逃してしまいました。

山頂の鳥居へ向かう石段を登る修行者

 

「丹生官省符神社」 

7:38 「丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)」着。

 

 弘法大師が慈尊院を開創した弘仁7年(816年)、その守り神として地元にゆかりのある丹生都比売・高野御子の二神を祀った神社です。社殿三棟は木造一間社春日造、桧皮葺、極彩色北面で重要文化財に指定されています。
 神社ができた当時の位置は、現在の渡し場の東にあたる宮の橋の付近であったと考えられています。その後、河北から高野領地となり、官省符21ヶ所村が成立しますと、その総氏神として栄えてきました。慈尊院の弥勒堂が現在の位置に移された際、この神社も一段高い神楽尾山(かぐらおやま)へ移されました。その時、天野神社にならって気比、厳島二神を合わせ祀って四神とし、なお、古くからこの地に鎮座していた天照、八幡、春日の三神を合わせ祀って七社明神としました。(九度山町HPより)

 

拝殿の前で皆が自己紹介をして、心ひとつに町石道に挑みます。

高野山町石道 慈尊院 参拝

 

拝殿の右脇にある細道から町石道は伸びていました。

高野山町石道を行く登山者

 

勝利寺・紙遊苑を右手に見ながら進みます。

高野山町石道入口の案内板と建物

 

勝利寺に弘法大師が奉納されたという「厄除十一面観世音菩薩」の石柱が建っていました。

町石道を行く高野山登山者

 

いきなり道を間違えて進んでしまいます。

高野山町石道を行く登山者

 

柿が実った広大な果樹園の中を登っていきましたが行き止まりでした。

柿の実がなった木

 

本町の農地は大半が傾斜地であり、柿を中心とした果樹複合経営が盛んな地域です。
九度山町で主に栽培されている柿は刀根早生・平核無・富有柿であり、9月中旬から11月末にかけて収穫されます。
中でも富有柿は、明治43年頃から栽培が始まり、その後、昭和に入り急速に柿の栽培がさかんになっていきました。
 本町には、本州最古の地層といわれる三波川帯(さんばがわたい)が東西に走っており、表土は深く粘土質であり、柿の栽培に適しています。
 また、比較的暖かい冬の気候も温地果樹である柿の生産に適しています。
 このように恵まれた地質と気候の中で生産される富有柿は、戦後、市場の人気を呼び、関西を中心に「九度山の富有柿」として高い評価を得ています。(九度山町HPより)

 

慌てて正規ルートに戻ります。(上に登っちゃダメ)

町石道に立つ二人連れ

 

この看板を見逃していましたね。

大門・町石道・慈尊院への道標

 

貯水池と広域農道「紀の川フルーツライン」が見えてきます。

 

 紀の川フルーツラインは、和歌山県橋本市から紀の川市までを結ぶ全長約24.4kmの広域農道で、2023年4月に全線開通しました。 このルートは紀の川左岸の山麓を走るため、街と自然の景色を一望できる絶景ロードとして人気があります。 

 特徴としては、果樹園の間を抜けるように走るため、季節によっては柿や桃、いちじく、キウイなどの果物畑が広がる風景を楽しめます。(ban_bikeさんのnote「初めてのツーリング紀の川フルーツライン/景色と爽快感を満喫!」より)

自然豊かな景色と高架橋

 

道路を横切って再び山道へ入ります。

町石道を行く人々

 

「百七十二町石」辺りは竹林ゾーン。

高野山町石道を行く金剛講参拝者

 

九度山の町を見下ろす見晴らしのよい場所を歩いていきます。

 

あそこを通って来たんだな~とよくわかりました。

町石道沿いの風景と橋

 

「展望台分岐」。展望台には行きません。

高野山町石道 展望台への道標と登山者

 

道中「みかん」が売ってあったので、買えばよかったと少し後悔・・・。

町石道を行く金剛講100周年記念登山

 

8:20 赤白の「NTTドコモの電波塔」が目の前に見える小屋の脇で最初の休憩。

高野山登山、町石道参拝

 

あいにくの雨ですが、逆に霧がかかって雰囲気いいですね。

雨の高野山町石道

 

8分ほど休んで登山再開すると、すぐに「百六十三町石」が右手にありました。

高野山登山、電波塔と登山者

 

目印となる小屋を通過。

 

草ボーボーなところも抜けて行きました。

高野山町石道を行く参拝者

 

「銭壺石」 

8:42 「百五十七町石」を過ぎたところにある「銭壺石」通過。

町石道沿いの銭壺石

 

1265年(文永2年・鎌倉時代)覚斅(かくきょう)上人の発願により、20年という年月をかけて町石道が整備されました。
整備作業の際、北条時宗の外戚である安達泰盛が、この石の上に置いた壺に給金を入れ、作業員につかみどりをさせて与えたという伝承があります。
銭壺は上部がくびれているため、欲を出してたくさん銭をつかんでも、手が引っかかって取り出すことは出来ません。
そのため、大きな手の者でも小さな手の者でもつかめる銭の量は、大差なかったと言われています。(看板より)

銭壺石、町石道、高野山

町石道を行く高野山登山者

 

「百五十六町石」。

 

「百五十四町石」。

町石道登る登山者、石碑と自然

 

「百五十三町石」手前で「雨引山分岐」。

高野山町石道、慈尊院・大門・雨引山案内標識

 

「百五十町石」通過。

町石道を行く高野山参拝者

 

「百四十九町石」は新旧両方の町石が並んで建っています。

町石道を行く登山者と道標

 

「百四十八町石」。

町石道を進む登山者と石碑

 

「接待場」 

9:01 「接待場(せったいば)」で二度目の休憩。

森の中の木製ベンチと案内板

 

 真言宗の開祖、空海(弘法大師)は承和2年(835)3月21日に入定しました。
 毎年、この入定の日に高野山で行われる法会を「御影供(みえく)」といい、大正時代の末期まで、人々は歩いて高野山を目指しました。
 当時、御影供の日に教良寺(きょうらじ)村の有志が、当地で握り飯や湯茶の接待をして、参詣者をもてなしたことから、「接待場」と言い伝えられています。
 ここには、弘法大師の石像があり、この石像を拝むと「遠く高野山奥の院の御廟を拝む」と言われています。(看板より)

接待場案内板と森林

 

「一里」の里石と「百四十四町」の町石が並んでいます。

町石道に立つ石造物

 

杉の並木を進んでいきます。

町石道を行く金剛講の参拝者

 

「百四十三町石」。

高野山町石道、登山修行

 

「百三十七町石」。

 

「六本杉峠」 

9:30 「町石道」方面の道と丹生都比売神社へ続く「三谷坂」方面の道、「笠松」方面の道、そして我々が来た慈尊院への道の4方向分岐となる「六本杉峠(ろっぽんすぎとうげ)」を通過。

高野山町石道、登山ルート確認

 

 六本杉は、和歌山県かつらぎ町町石道137町石東にある。
 慈尊院から高野山大門に至る町石道沿いにあり、孝女お照の墓の進入路を経て丹生都比売神社へ通じる道の分岐点である。
 六本杉の名前は古くから残っているが、六本の杉があったのではなく、ここに大杉のみごとな並木がつづいていたといわれている。(高野参詣道町石道を登るHPより)

高野山町石道マップ

町石道を行く登山者

 

「百三十町石」通過。

 

9:48 「にうつひめの森」を通り抜けます。

「にうつひめの森」看板と杉林

 

【洗う】をテーマにした家庭用品メーカーキクロンは、かつらぎ町「丹生都比売神社」近くの世界文化遺産 高野参詣道「町石道」沿いの森林を「にうつひめの森」として、森林保全活動に取り組んでいます。(キクロンHPより)

高野山町石道、木々の中を歩く二人

 

「古峠」 

9:50 「百二十四町石」辺りの「上古沢駅」分岐となる「古峠(ふるとうげ)」を通過。

町石道 上古沢駅 2.5km

 

9:55 「二ッ鳥居休憩所」で3度目の休憩。

 

「二ッ鳥居」 

「百二十町石」にある「二ッ鳥居(ふたつとりい)」は国の史蹟であり、記録によると丹生大神と高野大神の額がかかげられていたといいます。なるほど、納得です!

石造りの鳥居と茂み

 

 弘仁10年(819年)5月3日に弘法大師によって建立された。(紀伊続風土記)
当初は木製であったものを慶安2年(1649年)5月補陀落院叟遍が私財を投じて今の鳥居とした。高さ1丈7尺(約5.6m)広さ2間(約4.7m)(看板より)

二ッ鳥居と町石道の案内板

 

10:10 鳥居を横目に再スタート。

 

「白蛇の岩と鳥居」 

10:17 「百十五町石」の近くにある「白蛇の岩と鳥居」を通過。

町石道と道標

 

 この鳥居の奥にある大きな岩は、白蛇の岩(垂迹岩)といい、この岩の隙間に入り込もうとしていた蛇を、杖でつついて驚かせた僧が、丹生都比売神社からの帰路、この岩の前を通ると白い大蛇が岩の上の木に巻き付いて待ち構えていたという伝説があります。
 僧は自分の非を悟り、丹生都比売神社で御祈祷をして戻って見ると、大蛇はすでに消えていたといいます。
 その話しから、この岩には白蛇が棲みついており、この岩にお参りをして、白蛇の姿を見ると幸せになると言い伝えられています。(看板より)

丹生官省符神社の鳥居と岩

町石道を行く登山者たち

 

突然開けた場所は、なんとゴルフ場。

高野山町石道を行く参拝者

 

雰囲気的にはちょっと残念です。

高野山町石道、雨の中を歩く参拝者

 

 1976年、和歌山県伊都郡かつらぎ町に開場したゴルフ場が紀伊高原カントリークラブです。
 2005年に経営会社が民事再生法の適用を申請しており、同年に製造、不動産事業を手がける和島興産株式会社に経営権が譲渡されています。
 2006年に紀伊高原ゴルフクラブと名前を改めており、高野山の麓の標高500メートル付近に位置しているのが特徴です。
 高野山は紀伊山地の霊場と参詣道の一部として世界遺産に登録されており、世界遺産にも指定された自然の中でプレーすることが出来ます。(ゴルフ情報ナビゲートより)

ゴルフコースのティーグラウンドとコースの眺め

 

きっと世界遺産になってからだと開発はできなかったでしょうね。

竹林の中を歩く人々

 

神田集落への分岐。「こうだ」と読むのですね。

高野山町石道 慈尊院・神田方面案内標識

高野山町石道イラストマップ

 

「神田地蔵堂」(トイレ有) 

10:25 「百十二町石」の近くの「神田地蔵堂(こうだじぞうどう)」で休憩。

※近くに綺麗なトイレ「町石道神田便所」があります。

僧侶が高野山寺院の入口へ向かう

 

 神田の一隅に町石道の近くに建つ地蔵堂は、平安、鎌倉時代の高野参詣の人々の休憩場として
存在しました。お堂には、弘法大師、子安地蔵、後に応其上人も安置されました。 
横笛が高野山で修行をした滝口入道を待った所と伝えられています。

 この堂の修理改築には、高野山の各寺院がかかわっており、寄付帳も残されています。昭和初期まで、高野参詣の人々に、この堂でお茶の接待をしたと古老は語っています。(かつらぎ町観光協会HPより)

高野山町石道、石仏と木々

 

殻ばかり散乱している栗は、熊さんが食べた後なのでしょうか。

町石道、栗のイガと落ち葉

 

10:50 「百町」の町石を通過。

高野山町石道 百町石

町石道を行く高野山登山者

 

「笠木峠」 

11:12 「笠木峠(かさぎとうげ)」通過。

1960年(昭和35年)、高野山に続く道路(現在の国道370号・480号)が整備されるまで、ほとんどの物資は町石道のような狭い道を通って高野山へ運びあげるほか方法がありませんでした。
笠木は道中の重要な中継地であり、近くの笠木集落の住民たちは、人夫や案内人として働いていました。
弘法大師空海への報恩の気持ちが、物品、納品、さらには供養塔を刻む石さえも高野山まで運ぶという労苦を支えていました。(看板より)

 

狭くて歩きにくい岩場を登って行きます。

 

11:21 「八十町石」通過。

 

11:36 「三里」の里石を通過。

高野山町石道、石碑と緑

高野山町石道を行く金剛講参拝者

 

11:39 「七十町石」通過。

高野山町石道を行く参拝者

 

左に自動車の道路が見えてきました。

高野山町石道、竹林と石段

 

矢立に近づく頃が雨が最も強かったです。

 

それでも木々が雨が当たるのをやわらげてくれました。

高野山町石道を行く参拝者

 

道路に出るべく下っていきます。

高野山町石道を行く参拝者たち

 

道路に下ってすぐ右手にある「六十町石」を通過。

町石道に立つ石碑

 

道路の向い側にある矢立茶屋ばかり見ていたら、町石を見逃してしまいます。

矢立茶屋、名物やきもち

 

「矢立峠」(トイレ有) 

11:54 「矢立峠(やたてとうげ)」の「矢立茶屋(やたてちゃや)」に到着。

 

軒下で30分のお昼休憩。(4度目の休憩)

高野山町石道 矢立茶屋

 

※近くに綺麗な公衆トイレがありました。

 

 高野山への参詣道は7本あるが、その中でも弘法大師空海が高野山開創の際に切り開き、1町(約109m)毎に木製の卒塔婆を建てて道標とし、その後も表参道として利用されてきた道が「高野山町石道」です。
 町石道は、麓の慈尊院から高野山へ通じる180町(曼荼羅の「胎蔵界」を表す)と壇上伽藍から弘法大師御廟までの36町(曼荼羅の「金剛界」を表す)とに分かれています。
 鎌倉時代に覚きょう上人の発願により各層に寄進を募り、朽ちた木製の卒塔婆の代わりに、20年の歳月をかけで現在の石造りの五輪塔形の町石が建てられました。町石には壇上伽藍からの距離(町数)のほか、仏様を表す梵字、寄進者の名前、建立年月日や目的などが眠り込まれています。
216基のうち179基については当時のものが遺り、一町毎に礼拝を重ねながら、高野山上を目指した参詣の様子を今に伝えています。

 高野山町石道は「紀伊山地の霊場と参詣道」として、2004年にユネスコの世界遺産に登録されました。(看板より)

高野山町石道案内板と熊出没注意

 

昼食はおにぎり一個。

おにぎりを手に持つ様子

 

少しエネルギーが足りないかもしれないと、花坂名物の「やきもち」もお腹に入れました。

高野山 花坂名物やきもち

 

12:13 ここで心の相談員仲間の矢木パパが合流。

高野山登山、町石道修行参拝

 

長年心のケアの学びや被災地支援活動を共にする仲間であり、5月に会った時に誘ってみたところ、快く「OK」をもらいました。

 

とはいえ全部歩くのは不安ということなので、残り半分弱である矢立からのハーフコースにエントリーしたのでした。

 

↓↓後編へつづく↓↓