高野山金剛講創立百周年にあたり、祖母が百才褒賞を受けました。
合わせて善住寺支部としても支部を初期より開設していたことで積年褒賞を受けました。
高野山から佐伯先生(但馬地方本部総監)が代理で受けてきてくださったものを、昨日改めて授与していただきました。
僕の功績などほぼ何もないわけですが、今の住職として立ち会ったというだけで、自分が何かしたかのような顔をしております。
つまりは役得ということですね。
金剛講創立100周年「御詠歌ウィーク」
10月4日のイベント
登山した翌日である10月5日に、但馬の参拝団70名が高野山にやってきました。
僕は企画の全てを立てたにもかかわらず、登山がしたいがために他の役員に丸投げしてしまいました。
僕の立てたスケジュールなので、なにかしらの大ポカがないかとヒヤヒヤしていたのですが、おかげさまで大きなミスはなく、誰一人見落とすことなく高野山に来てくれたので安心しました。
またスタッフはちゃんと内容を把握してくれたのかなという心配をよそに、僕が気づかないようなところまで気を利かせてくれ、よいお世話をしてもらったと、参加者の皆さんが感謝していました。
丸投げしたところからよりよい循環が起こったのでしょう。
もしかしたら僕は「自分が自分が」が強くて他の方の活躍を奪っていたのかもしれませんから、僕の不在は最適だったのかもしれません。
そんな解釈は都合がよすぎでしょうか(笑)
12時 「中本名玉堂」にて昼食。
こうして壇上伽藍(だんじょうがらん)に着いた皆を「金堂(こんどう)」の縁の上からお迎えし、13時開演の「100周年記念コンサート」を観賞していただきました。
僕は司会を担当。
リハーサルで何回も噛んでいたのに、本番では一回しか噛みませんでした(笑)
しかし開演の直前に突然の土砂降り。
大変な悪天候の中でコンサートは始まり、根本大塔の屋根下に避難された皆さんにはご迷惑をお掛けしたことと思います。
とはいえ、それを打ち消すほどの感動的なイベントになりました。
風雨にさらされ、霧に包まれたステージの演出。
これは、お大師さまによる素晴らしい脚本でしょうか。
雨の音以外の余計な音が静まりかえる中、マイクを通した美しい声が伽藍に響きました。
すごく幻想的で素晴らしかったと言ってくださる方が何人もおられました。
どうか「雨と霧の百周年記念コンサート」として記憶にお残しください。
動画もご覧ください。
コンサート後、15時前より奥之院参拝です。
ここでも傘をさしての歩みとなりましたが、奥之院の案内ガイドさんに誘導していただくうちに小雨になり、安心しました。
「御廟橋(無明橋)」より先は撮影禁止。
15時半頃に「奥之院」の「灯籠堂(とうろうどう)」に辿り着くと、その外陣(げじん)に履き物を脱いで上がらせていただき、弘法大師御入定の御廟(ごびょう)を目の前に座ります。
※撮影禁止のため奥之院 燈籠堂 - 伊都郡高野町大字高野山/観光名所 | Yahoo!マップより画像転載。
普段上がれない場所で、但馬の皆さんと共に声を合わせ般若心経と御詠歌「めぐみの光かがやきて」を奉納できたことは、きっと忘れられない思い出になるでしょう。
この場所で御詠歌を奉納できることは今後ないかもしれません。
16時半頃から大師教会にいって翌日の登壇(とうだん)のリハーサルです。
(僕が参加の皆さんへ並び方の指示をしているところ)
かなり並ぶのに時間がかかりました。
リハーサルの時間を作って本当によかったです。
18時前に宿坊に入ります。
人数が多いため、正智院(しょうちいん)と南院(なんいん)の二つのお寺に分かれて泊まりました。
正智院の様子。
南院の様子。
僕は南院で泊まりました。
翌6日の出発前(南院にて)
(正智院にて)
今日も相変わらず我々の出番に合わせたように9時頃から強い雨足となりました。
とはいえ今度は「大師教会」の室内なのでほぼ影響はありません。
9時半より「大講堂特設ステージ」にて但馬地方本部の100周年記念登壇です。
前日にリハーサルをしていたおかげで、サッと並ぶことが出来ました。
奉納曲はやはり「めぐみの光かがやきて」。
「一曲入魂」です。
堂内に響き渡った素晴らしい発声でした。
100年という記念すべき時に立ち会えた皆様、おめでとうございます。
登壇後は同じ建物内にある「授戒堂(じゅかいどう)」に入ります。
暗闇の中て「十善の戒め」を授かり、法話をききました。
みんなやれやれ終わったという面持ちで、お待ちかねの2時間のフリータイム。
にぎわい市場でお土産物を買う方、金剛峯寺を拝観する方、カフェでのんびり喉を潤す方、御朱印めぐりをする方、それぞれの楽しみがあったようです。
この頃になると、雲一つないほどの青空に太陽が輝いていました。
このコントラストが心に彩りを与えてくれます。
ほんとにいい百周年だったなーと皆が思ってくれたことでしょう。
最後に「丸万」にて食事をして打ち上げ、皆は下山。
僕は手を振りバスを見送りました。
舞踊組は午後の部の奉舞があり、その方々を乗せて帰るのです。
14時から行われた舞踊のイベントは、これまでと正反対のような晴天に恵まれました。
雨も晴れもどちらも感動したので、僕の中に「雨降って地固まる」という言葉が舞い降りてきます。
100年後にも御詠歌が歌い紡がれていますように。
それはエゴかもしれないけれど、人々の幸せの一端を担うツールとして残ってほしい、そんな風に願ってしまいました。
こうして居残り組を僕の車に乗せ、名残惜しくも夕方に高野山を後にします。
家に帰りついたら23時でした。
見上げると中秋の名月が美しく輝いています。
まるで僕の心のようにお月様も満たされていました。
満月の日に当たったのも、不思議な巡り合わせですね。
こうして無事に100周年御詠歌ウィークに合わせた大企画「但馬地方本部高野山団参」が無事終了しました。
素晴らしき100年の節目に出会えた法縁に感謝致します。
ありがとうございました。
(※その日は善住寺でも100周年をお祝いする法要が行われていました)
我々が金剛講創立百周年記念の「高野山団参」に行っている最中のこと。
10月6日、行きたくても行くことができなかった方々が善住寺に集まり、百周年記念法要を行ってくださいました。
留守番の名誉住職が皆を先導。
遠く離れていましても、高野山で行われる大行事と心を合わせます。
100年という節目に合えたことには変わりありません。
長年御詠歌の普及に努めてきたおばあちゃん。
今は亡き、金剛講活動を共にしてきた皆さん。
そして今もまだ元気にご詠歌を唱えてくださる皆さん。
皆さんのおかげで今まで繋ぐことができました。
まことに素晴らしいことです。
皆さん。
100周年おめでとうございます。
100周年ありがとうございます。
またこれからの100年へ向けて、宜しくお願いします。
合掌。
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町石道修行参拝は、慈尊院から矢立までやってきて、お昼休憩を取りました。
そしてハーフコース希望の一名が加わり、高野山へ向かうところです。
12:37 休憩を終えて、矢立を発ちます。
12:39 「五十九町石」のところにある矢立六地蔵。
かつて矢立地区の死者は風葬に付されていました。これは、屋外に遺体を置いて、鳥や野生生物に亡骸を自然に返させる葬送の慣習です。葬列はこの石台に来て祈りを唱えながら、六地蔵の像を囲みました。葬儀の間、遺体は地蔵たちの前の平たい岩の上に置かれました。
六地蔵とはいっても、実際には七体の地蔵があることに気づく人もいるでしょう。一番大きい地蔵は他のより小さい六体のリーダーとされており、数には含まれていません。(「高野参詣道町石道 六地蔵と矢立の墓地林」より)
「五十八町石」。
この辺りはかなりの傾斜になっていました。
12:46 「五十五町石」の先にある「袈裟掛石(けさかけいし)」を通過。
弘法大師が山を登る際に袈裟を掛け休んだと言い伝えられている石。袈裟掛石は、高野山の聖域と俗世の境界を示す「清浄結界」を表しています。
鞍のような形をしていることから「鞍掛石」とも、この石の下をくぐると長生きするとも言い伝えられていることから「くぐり石」とも謂われています。(看板より)
12:48 「五十四町石」の先にある「押上石(おしあげいし)」を通過。
弘法大師の母公が清浄結界を越え高野山へ入山しようとした時、激しい雷雨が襲いました。
親孝行であった空海は、この大岩を押し上げ、母をかくまったと言い伝えられています。今でも岩には、空海の手の跡が残っていると謂われています。(看板より)
12:59 「四十八町石」通過。あれ?五十町石を見逃してしまったみたい・・・。
再び道路に出ました。
13:15 「大門遥拝所(だいもんようはいじょ)」着。
令和7年5月22日(木)、国道480号沿いに大門を望む新たな遥拝所が設置され、開眼法要が厳かに執り行われました。
また、記念植樹として美しい桜の木も植えられました。この植樹は、昭和59年の御入定1150年御遠忌大法会を記念して始められた金剛峯寺の献木活動の一環であり、10万件を超えるご支援をいただいている活動の記念として行われました。(「高野山金剛峯寺Facebook」より)
5度目の休憩と、ここで3名の方が新たに合流です。
まだまだ遠くに見える大門。
総勢10名に増えた修行参拝者で再出発です。
13:37 「三十九町石」を通過。
土の歩道が崩れているため車道脇を歩いて迂回します。
でも実は車道に沿って町石があるので、迂回路の方が正式なのではないかと教えてもらいました。
我々はもっと長い距離を迂回しましたが、実質は「三十四町石」から「三十二町石」の間が通行止めだったようです。
本来の道に戻るべく下っていきます。
通行止め地点を横目に、左折していきます。
13:56 「三十町石」を通過。
14:01 「鏡石」を通過。
表面が鏡のように平らなことから「鏡石(かがみいし)」と呼ばれています。
個の石の角に座って真言を唱えると願いがかなう(「心願成就」する)と謂われています。(看板より)
川のせせらぎが大きく聞こえてきました。
多分「鳴戸川(なるこがわ)」だと思われます。読みは「なると」ではなく「なるこ」なのだそう。
源は湯川領筌尾より出つる谷川と高野山大門より出つる谷川と村の巽出合という処にて落合ふ。合流の処音あり名つけて鳴川といふ。(「紀伊国名所図会 巻之四十九 伊都郡湯川荘花坂村 村中谷川」より)
御朱印縁起によれば、鳴川ナルカハとあるのを、いつの頃からか鳴子川ナルコガハと號ナヅけられた。花坂に氏神鳴川ナルカハ明神を勧進しました。鳴河ナルカハが縮ってナルコと訛ったのだろう。(「紀伊国名所図会 巻之四 鳴子川」より)
渓流沿いを歩くのはとても気持ちいいです。
おばあちゃん二名が同行されたので、ペースがゆっくりになり、着いていくのがやっとだった矢木パパにとってはありがたかったようです。
「二十四町石」通過。
巨木が倒れて道を塞いでいたけれど、切断して通れるようになったそうです。
14:23 「二十町石」を通過。
14:45 「十一町石」のところで、6度目の休憩。
おばあちゃんたちもよく頑張っておられます。
14:54 ラストもうひと踏ん張り。
「十町石」からはだいぶ登りがきつくなってきます。
矢木パパもかなり疲労が溜まって足が上がらなくなってきていました。
最後の「胸突八丁」とも言われる急坂を、「六根清浄」の掛け声を出しながら乗り越えていきます。
そしてついに登り切った先に見えたのは、雄々しくそびえ立つ朱塗りの御門。
15:07 高野山山上の入口にあたる「大門(だいもん)」に到着です。
高野山の大門(だいもん)は、高野山の西側に位置する巨大な門で、高野山への玄関口としての役割を果たしています。
この門は、参拝者にとって高野山巡礼の始まりを象徴する重要な場所です。
創建年は不明で諸説ありますが、山火事や落雷などで焼失したことから、過去四度再建されています。現在見ることのできる大門は、宝永2(1705)年再建されたもので、堂々たる姿と美しい木造建築が特徴です。高さは約25メートルあり、その大きさと威厳に圧倒されます。
大門の一番の見どころは国内で二番目に大きいという金剛力士像(仁王像)。
大門の左右には、仏教の守護神である金剛力士像が安置されています。これらの像は阿吽(あうん)の形で配置され、片方は口を開けた「阿形(あぎょう)」、もう片方は口を閉じた「吽形(うんぎょう)」の姿をしています。阿形像と吽形像は、4人の仏師(康意、運長、康敬、康伝)によって作られたとされています。阿吽の二像は、仏教における宇宙の始まりと終わりを象徴し、参拝者を守護するとされています。
また、大門の周辺は自然豊かな場所で、四季折々の風景が楽しめます。特に春の桜や秋の紅葉は見事で、多くの観光客が訪れます。横手には大きな鳥居が目印の弁天岳登山口があり、頂上には弘法大師が勧請された嶽弁才天が祀られている「嶽弁才天社」という小さな神社があります。
大門からは、高野山の壮大な景色を一望でき、ここから見る山々の景色は、心を落ち着けるとともに、これからの巡礼に対する敬虔な気持ちを引き起こします。
大門は、高野山への入り口としてだけでなく、歴史と文化が詰まった重要な建築物であり、その壮麗さと精神的な意味合いから、訪れる人々に深い感銘を与える場所です。高野山を訪れる際には、まずこの大門を通って、その歴史と風格を感じることをお勧めします。
門前には展望台が設置されており、ここからの展望は絶景です。
この展望台から見える美しい夕日は、「和歌山県朝日夕陽百選」や「日本夕陽100選」に指定されています。
高野山に足を踏み入れる前に、皆で「般若心経」を唱和。
長年高野山へ来ていましたが、初めて歩いて正面から入山できました。
大門を出るとすぐにある「六町石」。※トイレもあります。
大門から壇上伽藍へは一本道。
しばらく下っていくと道路沿い左側に「五町石」がありました。
集会所の近くにある「四町石」も通過。
「三町石」は交差点(愛宕神社前)にありました。
二町石を見逃し、「ん?一町石?」っていう感じでよくわからずに通り過ぎてしまいました。
「壇上伽藍(だんじょうがらん)」の中門前に到着。※中門前にトイレあり
壇上伽藍の正門にあたる「中門」をくぐります。
高野山を訪れたら、まず参拝したいのが壇上伽藍(だんじょうがらん)。弘法大師空海が高野山で最初に真言密教の根本道場を開いた重要な聖地。
開創当時に創建され、幾度もの火災に遭いながらも再建された根本大塔(こんぽんだいとう)や金堂(こんどう)で、数々の仏像が安置される内陣を拝観することができるのです。
壇上伽藍の中心地に立つ根本大塔は真言密教の世界観を立体的に表す重要な建物。内陣の中央に祀られるご本尊は胎蔵界(たいぞうかい)大日如来。周囲には金剛界(こんごうかい)の四仏が安置され、荘厳さが漂います。
16本の柱には、堂本印象画伯による十六大菩薩像が優美な姿で描かれていて、堂内をぐるりと巡って、ひとつひとつ異なる豊かな表情を拝観することができます。(和歌山観光情報HPより)
2人の総括(笑)
伽藍内を時計回りに参拝していきます。
まずは修復中の「山王院(さんのういん)」。
次に「御影堂(みえどう)」に参拝。
「三鈷(さんこ)の松」。
【高野山の三鈷の松の伝説】
空海が唐から帰国する際、日本で密教を広めるのにふさわしい土地を探すため、唐の青龍寺から「三鈷杵(さんこしょ)」を日本に向けて投げました。
その三鈷杵が落ちたとされる場所が現在の高野山であり、この地で発見された松の葉が三本で一組だったことから、「三鈷の松」と呼ばれるようになりました。
空海はこの地を密教の聖地と定め、金剛峯寺を開山しました。( 「unagi-note.com」より)
町石道の終点となる「根本大塔」の横で御詠歌「法悦歓喜和讃」の祝福を受けました。
この根本大塔が「0町(ゼロ)」にあたる真言密教の中心なのです。
ここで皆で写真でも撮ればよかったのですが、あっさり素通りしてしまいました。
「あ、終着点の一町石見つけた!」と思って記念写真を撮ったのですけど、新たに奥之院へ続くスタートの「一町石」だと後々知りました。
「蛇腹道」と呼ばれる小道を抜けて、壇上伽藍を出ました。
15:44 今回の「町石道修行参拝」のゴールとなる「大師教会」に到着。
お昼休憩もありましたが、「約8時間」かかったということになります。
大師教会は高野山開創1100年記念として1925年(大正14年)に建てられ、高野山真言宗の布教等の総本部です。本尊は弘法大師、脇仏として愛染明王と不動明王が祀られています。日帰り修行体験などもあり写経の他、大講堂の奥の授戒堂にて阿闍梨さまより菩薩十善戒を授かることが出来ます。(高野山観光HPより)
到着するやいなや、セレモニー(結願の法要)が始まりました。
よくぞ願いを山まで届けてくれたと盛大に迎えていただき、困惑するばかり(笑)
約21kmの町石道を踏破。やったぞ~!
迎えてくれた御詠歌合唱団の中にも、なんと心の相談員の仲間が!
願い事をお焚き上げ。
お焚き上げを終え、修行参拝団は解散しました。
16:26 疲れていましたが、パパの希望でやはり奥之院は外せないということで二人でやってきました。
※大師教会から奥之院中の橋までは車で移動です。
登山道中には大丈夫かと心配しましたが、どうやら僕より元気そう(笑)
奥之院は、弘法大師空海の御廟がある場所で、壇上伽藍と並ぶ高野山の二大聖地の一つ。高野山の信仰の中心とされています。弘法大師は853年に62歳で入定し、以来1200年にわたってこの地で永遠の瞑想を続けていると信じられています。
樹齢七百年を超える杉木立が生い茂る参道は、一の橋から御廟まで約2キロメートル続き、20万基以上の供養塔や墓石が並んでいます。ここには皇族や大名、文人、庶民など、さまざまな階層の人々の墓石があり、法然、親鸞、上杉謙信、織田信長、伊達政宗、武田信玄、豊臣一族のものも含まれています。参道を歩くことで、多くの人々の歴史や信仰の深さを感じることができます。
奥の院の参拝は、一の橋を渡り、参道に沿って並ぶ墓碑を眺めながら進んでいきます。中の橋を渡り、水向地蔵を過ぎ、御廟橋を渡ると、いよいよ御廟のある聖域へと足を踏み入れます。弘法大師御廟の拝殿にあたる燈籠堂には、多くの燈籠が祈りを込めて奉納されており、その光が厳かな雰囲気を醸し出しています。さらにその先に進むと、弘法大師の御廟があります。ここでは、心を静め、自分の願いや感謝の気持ちを込めて丁寧に祈りを捧げることで、弘法大師の存在を身近に感じることができるかもしれません。再び御廟橋を渡って戻る際には、弘法大師が参拝者を優しく見送ってくださっていると信じられています。(和歌山県公式観光サイトより)
町石の終着点は弘法大師様がおられる御廟だそうです。
こちらの町石は全く見つけれなかったので、今後の楽しみにしておきます。
日暮れ時に夕陽を追いかけて大門に戻りました。
高野町の大門は、紀淡海峡や淡路島、四国を眺望できる場所に位置し、夕陽の美しさが特に有名です。大門からの夕陽は「和歌山県朝日夕陽百選」や「日本夕陽100選」に指定されており、晴れた日には紀淡海峡や淡路島が眺望できます。(chatGPTより)
ずっと雨や曇りだったのに、最後の最後で晴れて美しい夕陽を見ることができたことも最高の思い出になるでしょう。
晩御飯は大学時代以来二十数年ぶりに訪れた高野山の人気居酒屋「味家(みや)さん」。
(住所:和歌山県伊都郡高野町高野山401 電話:0736-56-2827)
パパは般若湯?僕はソフトドリンクで乾杯。
相変わらず量は多いし美味しいし、大満足でした~。
宿泊は高野山内の宿坊「正智院」の同じ部屋に泊まって、いろいろなことを語り合いました。
それにしても良く頑張ったものです。
最高の百周年イベントでした。
どうか翌日に筋肉痛で動けなくなるようなことがありませんように。
今年は御詠歌金剛流の組織に当たる「高野山金剛講」が創立されて100周年という記念の年です。
そのお祝いは秋まで焦らされることとなりましたが、金剛流を創立された流祖・曽我部俊雄和尚がお亡くなりになった10月7日(流祖忌)を中心とした一週間を「御詠歌ウィーク」とし、盛大に記念イベントが開催されることとなりました。
金剛講創立百周年の開白となるイベントが「町石道修行参拝」と銘打たれた高野山登山です。
人々の幸せへの祈りと次の100年へ託す願いを背負い、山麓の慈尊院より高野山へ向けて、10月4日朝7時半に6名が雨の中をスタートしました。
途中矢立より1名、大門遥拝所より3名が合流し、10名が皆が待つ大師教会を目指しました。
約8時間かけてたどり着いた時刻は15時45分。
全員元気にゴールすることができました。
雨も降ったり止んだりでしたが、そこまで強くなることもなく、快適な気温の中を歩けました。
大師教会では我々の到着とともに奉告の儀式に入り、御詠歌で歓迎され、皆から託された願い事をお焚き上げしました。
初めて高野山に歩いて登ることが叶い、感無量です。
その上、宿坊へ入る前に大門から美しい夕陽が見ることができ、最高でした。
やっぱり晴れ男。もってました。
「たかのやま 山にはあらで蓮葉の 花坂登る 今日の嬉しさ」
高野山第一番の御詠歌がピッタリです。
弘法大師さまがお母様の住む山麓へ月に九度会いにいきお世話をされたことから「九度山」という地名が付いたという言い伝えがあります。
今日通った町石道はまさにそのルートだそうです。
多分昔の方の健脚は今では想像できないほどのものであったことでしょう。
山野を飛ぶようにして駆け抜けていかれる弘法大師様のお姿を思い浮かべながら歩きました。
今年の春は比叡山、秋には高野山を歩くことができ、歴史の欠片を感じることができ、とても幸せでした。
5:45 前日から高野山の正智院に素泊まりで泊まっていたので、朝ごはんはコンビニおにぎりです。
6:15 金剛峯寺前駐車場で中本名玉堂のバスに乗車。
6:30 高野山から下山していきます。
7:05 コンビニに寄ってもらえたので、ここで昼食を買いました。
7:22 「慈尊院」着。
山門をくぐります。
町石道参詣登山の本参り(正式作法)は、慈尊院の御本尊弥勒菩薩様にお参りしてから登るようです。
慈尊院は、和歌山県伊都郡九度山町慈尊院にある高野山真言宗の寺院。山号は万年山。本尊は弥勒仏。高野山の政所として創建され、高野山町石道の登り口にある。
境内は、国の史跡「高野参詣道」を構成する「町石道」の一部として指定されている。本堂の弥勒堂は、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部として登録されている。(wikipediaより)
般若心経を読経し、願文を奉読。
◎「慈尊院観光トイレ」 ※トイレの場所がどこにあるかは重要です。
7:36 いよいよ「町石道修行参拝」のスタートです。
皆様からお寄せ頂いた 『百年後へのメッセージ』と『幸せ祈願』を金剛講有志が背負い、大正15年の金剛講創立当時の参拝を再現し180町(約20㎞)の町石道を登ります。
高野へ向かう道は、「高野七口」という七つの道に集約されており、そのうち弘法大師によって切り開かれた表参道を高野山町石道と言います。九度山の慈尊院から高野山大門を経て奥の院弘法大師御廟に至る約24kmの道程には、1町(109m)ごとに建立された五輪卒塔婆があります。(四季の高野山町石道HPより)
この石段の途中右手に最初の町石である「百八十町石」があったようですが、見逃してしまいました。
7:38 「丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)」着。
弘法大師が慈尊院を開創した弘仁7年(816年)、その守り神として地元にゆかりのある丹生都比売・高野御子の二神を祀った神社です。社殿三棟は木造一間社春日造、桧皮葺、極彩色北面で重要文化財に指定されています。
神社ができた当時の位置は、現在の渡し場の東にあたる宮の橋の付近であったと考えられています。その後、河北から高野領地となり、官省符21ヶ所村が成立しますと、その総氏神として栄えてきました。慈尊院の弥勒堂が現在の位置に移された際、この神社も一段高い神楽尾山(かぐらおやま)へ移されました。その時、天野神社にならって気比、厳島二神を合わせ祀って四神とし、なお、古くからこの地に鎮座していた天照、八幡、春日の三神を合わせ祀って七社明神としました。(九度山町HPより)
拝殿の前で皆が自己紹介をして、心ひとつに町石道に挑みます。
拝殿の右脇にある細道から町石道は伸びていました。
勝利寺・紙遊苑を右手に見ながら進みます。
勝利寺に弘法大師が奉納されたという「厄除十一面観世音菩薩」の石柱が建っていました。
いきなり道を間違えて進んでしまいます。
柿が実った広大な果樹園の中を登っていきましたが行き止まりでした。
本町の農地は大半が傾斜地であり、柿を中心とした果樹複合経営が盛んな地域です。
九度山町で主に栽培されている柿は刀根早生・平核無・富有柿であり、9月中旬から11月末にかけて収穫されます。
中でも富有柿は、明治43年頃から栽培が始まり、その後、昭和に入り急速に柿の栽培がさかんになっていきました。
本町には、本州最古の地層といわれる三波川帯(さんばがわたい)が東西に走っており、表土は深く粘土質であり、柿の栽培に適しています。
また、比較的暖かい冬の気候も温地果樹である柿の生産に適しています。
このように恵まれた地質と気候の中で生産される富有柿は、戦後、市場の人気を呼び、関西を中心に「九度山の富有柿」として高い評価を得ています。(九度山町HPより)
慌てて正規ルートに戻ります。(上に登っちゃダメ)
この看板を見逃していましたね。
貯水池と広域農道「紀の川フルーツライン」が見えてきます。
紀の川フルーツラインは、和歌山県橋本市から紀の川市までを結ぶ全長約24.4kmの広域農道で、2023年4月に全線開通しました。 このルートは紀の川左岸の山麓を走るため、街と自然の景色を一望できる絶景ロードとして人気があります。
特徴としては、果樹園の間を抜けるように走るため、季節によっては柿や桃、いちじく、キウイなどの果物畑が広がる風景を楽しめます。(ban_bikeさんのnote「初めてのツーリング紀の川フルーツライン/景色と爽快感を満喫!」より)
道路を横切って再び山道へ入ります。
「百七十二町石」辺りは竹林ゾーン。
九度山の町を見下ろす見晴らしのよい場所を歩いていきます。
あそこを通って来たんだな~とよくわかりました。
「展望台分岐」。展望台には行きません。
道中「みかん」が売ってあったので、買えばよかったと少し後悔・・・。
8:20 赤白の「NTTドコモの電波塔」が目の前に見える小屋の脇で最初の休憩。
あいにくの雨ですが、逆に霧がかかって雰囲気いいですね。
8分ほど休んで登山再開すると、すぐに「百六十三町石」が右手にありました。
目印となる小屋を通過。
草ボーボーなところも抜けて行きました。
8:42 「百五十七町石」を過ぎたところにある「銭壺石」通過。
1265年(文永2年・鎌倉時代)覚斅(かくきょう)上人の発願により、20年という年月をかけて町石道が整備されました。
整備作業の際、北条時宗の外戚である安達泰盛が、この石の上に置いた壺に給金を入れ、作業員につかみどりをさせて与えたという伝承があります。
銭壺は上部がくびれているため、欲を出してたくさん銭をつかんでも、手が引っかかって取り出すことは出来ません。
そのため、大きな手の者でも小さな手の者でもつかめる銭の量は、大差なかったと言われています。(看板より)
「百五十六町石」。
「百五十四町石」。
「百五十三町石」手前で「雨引山分岐」。
「百五十町石」通過。
「百四十九町石」は新旧両方の町石が並んで建っています。
「百四十八町石」。
9:01 「接待場(せったいば)」で二度目の休憩。
真言宗の開祖、空海(弘法大師)は承和2年(835)3月21日に入定しました。
毎年、この入定の日に高野山で行われる法会を「御影供(みえく)」といい、大正時代の末期まで、人々は歩いて高野山を目指しました。
当時、御影供の日に教良寺(きょうらじ)村の有志が、当地で握り飯や湯茶の接待をして、参詣者をもてなしたことから、「接待場」と言い伝えられています。
ここには、弘法大師の石像があり、この石像を拝むと「遠く高野山奥の院の御廟を拝む」と言われています。(看板より)
「一里」の里石と「百四十四町」の町石が並んでいます。
杉の並木を進んでいきます。
「百四十三町石」。
「百三十七町石」。
9:30 「町石道」方面の道と丹生都比売神社へ続く「三谷坂」方面の道、「笠松」方面の道、そして我々が来た慈尊院への道の4方向分岐となる「六本杉峠(ろっぽんすぎとうげ)」を通過。
六本杉は、和歌山県かつらぎ町町石道137町石東にある。
慈尊院から高野山大門に至る町石道沿いにあり、孝女お照の墓の進入路を経て丹生都比売神社へ通じる道の分岐点である。
六本杉の名前は古くから残っているが、六本の杉があったのではなく、ここに大杉のみごとな並木がつづいていたといわれている。(高野参詣道町石道を登るHPより)
「百三十町石」通過。
9:48 「にうつひめの森」を通り抜けます。
【洗う】をテーマにした家庭用品メーカーキクロンは、かつらぎ町「丹生都比売神社」近くの世界文化遺産 高野参詣道「町石道」沿いの森林を「にうつひめの森」として、森林保全活動に取り組んでいます。(キクロンHPより)
9:50 「百二十四町石」辺りの「上古沢駅」分岐となる「古峠(ふるとうげ)」を通過。
9:55 「二ッ鳥居休憩所」で3度目の休憩。
「百二十町石」にある「二ッ鳥居(ふたつとりい)」は国の史蹟であり、記録によると丹生大神と高野大神の額がかかげられていたといいます。なるほど、納得です!
弘仁10年(819年)5月3日に弘法大師によって建立された。(紀伊続風土記)
当初は木製であったものを慶安2年(1649年)5月補陀落院叟遍が私財を投じて今の鳥居とした。高さ1丈7尺(約5.6m)広さ2間(約4.7m)(看板より)
10:10 鳥居を横目に再スタート。
10:17 「百十五町石」の近くにある「白蛇の岩と鳥居」を通過。
この鳥居の奥にある大きな岩は、白蛇の岩(垂迹岩)といい、この岩の隙間に入り込もうとしていた蛇を、杖でつついて驚かせた僧が、丹生都比売神社からの帰路、この岩の前を通ると白い大蛇が岩の上の木に巻き付いて待ち構えていたという伝説があります。
僧は自分の非を悟り、丹生都比売神社で御祈祷をして戻って見ると、大蛇はすでに消えていたといいます。
その話しから、この岩には白蛇が棲みついており、この岩にお参りをして、白蛇の姿を見ると幸せになると言い伝えられています。(看板より)
突然開けた場所は、なんとゴルフ場。
雰囲気的にはちょっと残念です。
1976年、和歌山県伊都郡かつらぎ町に開場したゴルフ場が紀伊高原カントリークラブです。
2005年に経営会社が民事再生法の適用を申請しており、同年に製造、不動産事業を手がける和島興産株式会社に経営権が譲渡されています。
2006年に紀伊高原ゴルフクラブと名前を改めており、高野山の麓の標高500メートル付近に位置しているのが特徴です。
高野山は紀伊山地の霊場と参詣道の一部として世界遺産に登録されており、世界遺産にも指定された自然の中でプレーすることが出来ます。(ゴルフ情報ナビゲートより)
きっと世界遺産になってからだと開発はできなかったでしょうね。
神田集落への分岐。「こうだ」と読むのですね。
10:25 「百十二町石」の近くの「神田地蔵堂(こうだじぞうどう)」で休憩。
※近くに綺麗なトイレ「町石道神田便所」があります。
神田の一隅に町石道の近くに建つ地蔵堂は、平安、鎌倉時代の高野参詣の人々の休憩場として
存在しました。お堂には、弘法大師、子安地蔵、後に応其上人も安置されました。
横笛が高野山で修行をした滝口入道を待った所と伝えられています。この堂の修理改築には、高野山の各寺院がかかわっており、寄付帳も残されています。昭和初期まで、高野参詣の人々に、この堂でお茶の接待をしたと古老は語っています。(かつらぎ町観光協会HPより)
殻ばかり散乱している栗は、熊さんが食べた後なのでしょうか。
10:50 「百町」の町石を通過。
11:12 「笠木峠(かさぎとうげ)」通過。
1960年(昭和35年)、高野山に続く道路(現在の国道370号・480号)が整備されるまで、ほとんどの物資は町石道のような狭い道を通って高野山へ運びあげるほか方法がありませんでした。
笠木は道中の重要な中継地であり、近くの笠木集落の住民たちは、人夫や案内人として働いていました。
弘法大師空海への報恩の気持ちが、物品、納品、さらには供養塔を刻む石さえも高野山まで運ぶという労苦を支えていました。(看板より)
狭くて歩きにくい岩場を登って行きます。
11:21 「八十町石」通過。
11:36 「三里」の里石を通過。
11:39 「七十町石」通過。
左に自動車の道路が見えてきました。
矢立に近づく頃が雨が最も強かったです。
それでも木々が雨が当たるのをやわらげてくれました。
道路に出るべく下っていきます。
道路に下ってすぐ右手にある「六十町石」を通過。
道路の向い側にある矢立茶屋ばかり見ていたら、町石を見逃してしまいます。
11:54 「矢立峠(やたてとうげ)」の「矢立茶屋(やたてちゃや)」に到着。
軒下で30分のお昼休憩。(4度目の休憩)
※近くに綺麗な公衆トイレがありました。
高野山への参詣道は7本あるが、その中でも弘法大師空海が高野山開創の際に切り開き、1町(約109m)毎に木製の卒塔婆を建てて道標とし、その後も表参道として利用されてきた道が「高野山町石道」です。
町石道は、麓の慈尊院から高野山へ通じる180町(曼荼羅の「胎蔵界」を表す)と壇上伽藍から弘法大師御廟までの36町(曼荼羅の「金剛界」を表す)とに分かれています。
鎌倉時代に覚きょう上人の発願により各層に寄進を募り、朽ちた木製の卒塔婆の代わりに、20年の歳月をかけで現在の石造りの五輪塔形の町石が建てられました。町石には壇上伽藍からの距離(町数)のほか、仏様を表す梵字、寄進者の名前、建立年月日や目的などが眠り込まれています。
216基のうち179基については当時のものが遺り、一町毎に礼拝を重ねながら、高野山上を目指した参詣の様子を今に伝えています。高野山町石道は「紀伊山地の霊場と参詣道」として、2004年にユネスコの世界遺産に登録されました。(看板より)
昼食はおにぎり一個。
少しエネルギーが足りないかもしれないと、花坂名物の「やきもち」もお腹に入れました。
12:13 ここで心の相談員仲間の矢木パパが合流。
長年心のケアの学びや被災地支援活動を共にする仲間であり、5月に会った時に誘ってみたところ、快く「OK」をもらいました。
とはいえ全部歩くのは不安ということなので、残り半分弱である矢立からのハーフコースにエントリーしたのでした。
↓↓後編へつづく↓↓
【朝】
よし、体調は大丈夫そう。
10月3日、登山の日。(いや、登るのは明日だが)
体調不良(風邪)を越え、回復したところで迎える金剛講創立100周年御詠歌ウィーク。
いざ高野山へ。
【昼】
15時頃 岸和田サービスエリアでかなり遅めのお昼ごはん。
【夕方】
17時頃 高野山に着くやいなや、お腹をこわしてトイレにこもる。
17:10 正智院入り。
素泊まりで泊まります。
【夜】
18:50 歩いて晩御飯を食べに「丸高」というカフェレストランへ。
お坊さんの姿が二名見えましたが、それ以外の10名ほどは全員外国人のお客さんでした。
夜空いているお店は少ないのでありがたいですね。
夜のライトアップされた中門。
明日の朝ごはん(おにぎり)をファミリーマートで購入。
トンネルの向こうが正智院です。
体調が回復しきったかどうか微妙ですが、ぎりぎり間に合ったという感じです。
早寝しようと、9時半ころには就寝しました。