四諦(したい)とは「苦集滅道」の4つの聖なる真実を明らかにすることです。
①「苦(ドゥッカ)」=「理解するべきもの」
『初転法輪経(Dhammacakkappavattana Sutta)より』
Idaṁ kho pana bhikkhave, dukkhaṁ ariyasaccaṁ: Jāti'pi dukkhā jarāpi dukkhā vyādhi'pi dukkho maraṇaṁ'pi dukkhaṁ appiyehi sampayogo dukkho piyehi vippayogo dukkho yaṁpicchaṁ na labhati tampi dukkhaṁ saṅkhittena pañcūpādānakkhandhā dukkhā.
これこそが修行者たちよ、苦しみの真実です。
生まれることは苦であり、老いることも苦であり、病気になることも苦であり、死ぬことも苦です。
嫌な人や物と出会うことも苦であり、愛する人や物と別れることも苦であり、望むものが得られないこともまた苦です。
要するに、五つの集合体(身体、感覚、思考、習慣、記憶)にしがみつく故に苦しんでいるのです。
今まで僕は八苦(生苦・老苦・病苦・死苦・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦)を並列に考えていましたが、原文を読むと五蘊盛苦が他の苦を包括するものであると明確に記されていることがわかります。
つまり色受想行識(身体、感覚、思考、習慣、記憶)という5つの構成システムこそが苦の核心だといえるでしょう。
例えば借金による苦しみ、虐待による苦しみなど、外的な要因ばかりに目が行きそうな苦もあるでしょうが、それに対して自身の内的領域がどのような反応をしているのかをつぶさに観察することが目覚めへの第一歩です。
あらゆる対象との摩擦の中で生じるものが苦であるという真実を明らかにすることを「苦諦(くたい)」といい、それは逃避したり見ないふりをするのではなく、徹底的に向き合い「理解するべきもの」なのです。
②「集(サムダヤ)」=放棄されるべきもの
苦しみの根本原因は「無明(avidyā アヴィディヤー)」であると言ったり、「渇愛(taṇhā タンハー)」であると言ったり、お釈迦様も統一感がないものだと思われる方があるかもしれません。
実は僕もそうでした。
十二因縁の教えの中では「無明」であるとされ、四諦の教えの中では「渇愛」と記されているからです。
しかし実は、潜在意識という自分が把握していない意識領域まで遡ると「無明」が根本であり、顕在意識という自分が把握できる意識領域まで遡るのならば「渇愛」が根本であったのだと僕の中で整理できました。
「無明」は簡単に言うと「私(自我)」という分離意識のことですが、それについては最近何度も考察してきたので、今回は「渇愛」について深掘りしていこうと思います。
『初転法輪経(Dhammacakkappavattana Sutta)より』
Idaṁ kho pana bhikkhave, dukkhasamudayaṁ ariyasaccaṁ.
Yāyaṁ taṇhā ponobhavikā nandirāgasahagatā tatratatrābhinandinī.
Seyyathīdaṁ: kāmataṇhā, bhavataṇhā, vibhavataṇhā.
まさにこれが修行者たちよ、苦しみが起こる原因の真実です。
その起源こそが「渇愛」であり、再生(再び生まれること)をもたらし、喜びと欲望にとらわれ、あらゆる存在の場において執着するものなのです。
具体的には、感覚欲への渇愛(kāmataṇhā)、存在への渇愛(bhavataṇhā)、非存在への渇愛(vibhavataṇhā)があります。
渇愛は内側からの欠乏感・不足感のことをいい、具体的には3種類があるといいます。
1、kāmataṇhā(感官的快楽への渇愛)
五感を通じた快楽への欲望を引き寄せる渇愛。
食べ物、音楽、美しいもの、快適さ、性的快楽などの欲望で欠乏感を埋めようと執着する心の状態。
甘いもの依存症、ギャンブル依存症、買い物依存症、SEX依存症、薬物中毒など。
2、bhavataṇhā(有への渇愛)
存在し続けたいという欲望を引き寄せる渇愛。
自己顕示や承認欲求などの存在への欲望で欠乏感を埋めようと執着する心の状態。
「何者かになりたい」「成功したい」「後世まで名前を残したい」「死にたくない」
見栄っ張り、ナルシシズム、ヒーロー願望、メサイアコンプレックス(救世主妄想)」など。
3、vibhavataṇhā(無への渇愛)
存在を否定したい、消滅したいという欲望を引き寄せる渇愛。
「消えてしまいたい」「自分なんていなくなればいい」「人類が滅びればいいのに」
自傷行為、自死願望など
誰しもがこのような渇愛を埋めようとして欲望を集めているという真実を明らかにすることが「集諦(じったい)」といい、それは「放棄されるべきもの」なのです。
③「滅(ニローダ)」=「体得されるべきもの」
『初転法輪経(Dhammacakkappavattana Sutta)より』
Idaṁ kho pana bhikkhave, dukkha-nirodhaṁ ariyasaccaṁ:
Yo tassāyeva taṇhāya asesavirāganirodho cāgo paṭinissaggo mutti anālayo.
これこそが修行者たちよ、苦しみの止滅という真実です。
それは、まさにその渇愛が余すことなく離れ、捨て去られ、放棄され、解放され、しがみつきがなくなる境地なのです。
タンハー(渇愛)への反応をやめること。これこそが、ニローダの核心です。
渇愛を無理やり無くそうとしたり抑圧をするのではなく、それに反応しなくなることで静けさと安らぎがもたらされるとお釈迦さまはおっしゃいました。
渇愛が刺激される出来事が起きた時に、そこに“条件反射で”反応しないようになること、紐づけられた五蘊を解除することが必要になるのです。
「あ、これは反応だ!」と気付きやすいものは、やはり「貪(もっともっと欲しい)」「瞋(イライラする)」「痴(すごく不安)」という三毒反応です。
それ以外にも無意識に見栄をはったり、いい人でいようとしたり、皮肉っぽかったり、同情心を誘ったりと誰しも色々とありますが、渇愛への反応が大きい人ほど苦は大きくなるでしょう。
僕自身も自動反応に後で気付いて反省することが多々ありますが、反省ではなかなか止めることができません。
しかしその瞬間に気付けるようになった時、反応ではなく選択の「余地」が生まれ、止滅の兆しを得ることができるはずです。
他者の渇愛に巻き込まれず、自身の渇愛に巻き込まず、静寂を保つこと。
そんな止滅の境地「ニルバーナ(涅槃)」こそが我々の目的地であり、それは「体得されるべきもの」なのです。
④「道(マールガ)」=「修習するべきもの」
『初転法輪経(Dhammacakkappavattana Sutta)』より
Idaṁ kho pana bhikkhave, dukkha-nirodha-gāminī paṭipadā ariyasaccaṁ:
Ayameva ariyo aṭṭhaṅgiko maggo, seyyathidaṁ — sammādiṭṭhi, sammāsaṅkappo, sammāvācā, sammākammanto, sammā-ājīvo, sammāvāyāmo, sammāsati, sammāsamādhi.
これこそが修行者たちよ、苦しみの止滅に至る道の真実です。
それはまさに、聖なる八正道であり、すなわち正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定なのです。
Dve me, bhikkhave, antā pabbajitena na sevitabbā. Katame dve?
Yo cāyaṁ kāmesu kāmasukhallikānuyogo hīno gammo pothujjaniko anariyo anatthasaṁhito;
yo cāyaṁ attakilamathānuyogo dukkho anariyo anatthasaṁhito.
Ete te, bhikkhave, ubho ante anupagamma majjhimā paṭipadā tathāgatena abhisambuddhā cakkhukaraṇī ñāṇakaraṇī upasamāya abhiññāya sambodhāya nibbānāya saṁvattati.
Seyyathidaṁ—ayameva ariyo aṭṭhaṅgiko maggo: sammādiṭṭhi, sammāsaṅkappo, sammāvācā, sammākammanto, sammāājīvo, sammāvāyāmo, sammāsati, sammāsamādhi.
修行者たちよ、出家した者が歩むべきではない両極端な道が二つあるのです。どのような二つでしょうか?
一つは、欲望の中に快楽を追い求めること。これは低俗で、世俗的で、聖者にふさわしくなく、利益をもたらさない道です。
もう一つは、自己を苦しめる厳しい苦行。これは苦痛に満ち、聖者にふさわしくなく、利益をもたらさない道です。
修行者たちよ、これら二つの極端に陥ることなく、如来は中道を悟りました。
それは眼(洞察)を開き、智慧を生じ、心を静め、深い理解をもたらし、悟りと涅槃へと導く道です。
それがまさにこの正見(正しい見解)、正思(正しい志)、正語(正しい言葉)、正業(正しい行い)、正命(正しい生活)、正精進、正念、正定(正しい集中)という八正道なのです 。
いよいよ最後に、「止滅(ニルヴァーナ)」というゴールへ向かう「8つの実践方法」が提示されました。
ただしそれは快楽の道にも苦痛の道にも偏らない真ん中の道(中道)です。
それは「自と他」「善と悪」「光と影」など、あらゆる二項対立に陥らないようにと導く仏教の核心です。
ですから正道とは、他者に自己の「正しさ」を押し付けることなく、自己の理解を深める道であることが強調されているのです。
それでは『八正道』をそれぞれ見ていきましょう。
①正見(sammā-diṭṭhi)
苦しみは悟りへの機縁であると、見方を正すことができること。
Katamā ca, bhikkhave, sammādiṭṭhi?
Dukkhā paññā, dukkhasamudayā paññā, dukkhanirodhā paññā, dukkhanirodhagāminiyā paṭipadāya paññā —
ayaṃ vuccati, bhikkhave, sammādiṭṭhi.
さて修行者たちよ、何が正見(正しい見解)なのでしょうか?
それは、苦の智慧、苦の原因の智慧、苦の止滅の智慧、そして苦の止滅に至る道(すなわち八正道)の智慧で見ることです。
これが修行者たちよ、「正見」と呼ばれるのです。
②正思惟(sammā-saṅkappa)
執着を離れ、恨みを離れ、害を及ぼさないという思考へと心を正していくこと。
Katamo ca, bhikkhave, sammāsaṅkappo?
Nekkhammasaṅkappo, abyāpādasaṅkappo, avihiṃsāsaṅkappo —
ayaṃ vuccati, bhikkhave, sammāsaṅkappo.
さて修行者たちよ、何が正思惟なのでしょうか?
それは出離の思惟(欲から離れようとする思考)、
無瞋恚の思惟(憎まない思考)、
無害の思惟(傷つけない思考)に向かうことです。
これが修行者たちよ、「正思惟」と呼ばれるのです。
③正語(sammā-vācā)
嘘や二枚舌や悪口や陰口を慎み、本音で和合する優しさにあふれた堂々とした言葉へと口を正していくこと。
Katamā ca, bhikkhave, sammāvācā?
Musāvādā veramaṇī, pisuṇāya vācāya veramaṇī, pharusāya vācāya veramaṇī, samphappalāpā veramaṇī —
ayaṃ vuccati, bhikkhave, sammāvācā.
さて修行者たちよ、何が正語なのでしょうか?
それは虚言(嘘)を慎むこと、
離間の言葉(二枚舌)を慎むこと、
粗暴な言葉(悪口)を慎むこと、
無意味なおしゃべり(人の噂話など)を慎むことです。
これが修行者たちよ、「正語」と呼ばれるのです。
④正業(sammā-kammanta)
無益な殺生、偸盗、邪淫を慎み、あらゆるいのちを活かし、周りに与え、誠実な性関係を結ぶよう、身を正していくこと。
Katamo ca, bhikkhave, sammākammanto?
Pāṇātipātā veramaṇī, adinnādānā veramaṇī, kāmesumicchācārā veramaṇī —
ayaṃ vuccati, bhikkhave, sammākammanto.
さて修行者たちよ、何が正業なのでしょうか?
殺生を慎むこと、
盗みを慎むこと、
不邪淫を慎むこと、
これが修行者たちよ、「正業」と呼ばれるのです。
⑤正命(sammā-ājīva)
利権のために他者を害するような手段ではなく、慈悲と誠実に基づいた仕事や暮らし方へと正していくこと。
Katamo ca, bhikkhave, sammāājīvo?
Idha, bhikkhave, ariyasāvako sammāājīvena jīvikaṃ kappeti —
ayaṃ vuccati, bhikkhave, sammāājīvo.
さて修行者たちよ、何が正命なのでしょうか?
ここにいる聖なる弟子は、誠実な生活手段を選び実践します。
これが修行者たちよ、「正命」と呼ばれるのです。
⑥正精進(sammā-vāyāma)
悪しき心の働きを断ち、善き傾向へと正していくこと
Katamo ca, bhikkhave, sammāvāyāmo?
Akusalānaṃ dhammānaṃ anuppādāya chandaṃ janeti…
ayaṃ vuccati, bhikkhave, sammāvāyāmo.
さて修行者たちよ、何が正精進なのでしょうかか?
悪しき心の働きが生じないように意識的に努力することです。
これが修行者たちよ、「正精進」と呼ばれるのです。
⑦正念(sammā-sati)
無意識ではなく気づきをもって(自己の行為がどこに繋がるのかを意識しながら)行動すること。
Katamā ca, bhikkhave, sammāsati?
Idha, bhikkhave, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati…
ayaṃ vuccati, bhikkhave, sammāsati.
さて修行者たちよ、何が正念なのでしょうか?
ここに修行者は、身体・感受・心・法において、
常に気づきをもって観察し、明晰に理解し、注意深くあることです。
これが修行者たちよ、「正念」と呼ばれるのです。
⑧正定(sammā-samādhi)
清浄な心の統一状態に安住すること。
Katamo ca, bhikkhave, sammāsamādhi?
Idha, bhikkhave, bhikkhu… paṭhamaṃ jhānaṃ upasampajja viharati…
ayaṃ vuccati, bhikkhave, sammāsamādhi.
さて修行者たちよ、何が正定であるか?
ここに比丘は、欲を離れ、悪しき心を離れて、
最初の禅定状態を実現します。
これが修行者たちよ、「正定」と呼ばれるのです。
以上、八正道とは8つの道ではなく8つの実践が合わさった1本の道です。
それは「苦しみの終わりにつながる道」であり、我々仏教徒が「修習するべきもの」なのです。