善住寺☆コウジュンのポジティブログ☆ 『寺(うち)においでよ』 -14ページ目

善住寺☆コウジュンのポジティブログ☆ 『寺(うち)においでよ』

但馬、そこは兵庫の秘境。大自然に囲まれた静かで心癒される空間に悠然とたたずむ真言宗の御祈祷と水子供養の寺『善住寺』。目を閉じてください。聞こえてくるでしょう。虫たちの鳴き声 鳥たちのさえずり 川のせせらぎ・・・誰でも気軽にお越し下さい。寺(うち)においでよ!

今日の納骨は久しぶりに土に埋めて石を乗せて塔婆を立てるという古き良きスタイルでした。

 

 

やっぱりこれがいいな〜と思いました。

 

 

ちなみにこちらのお宅は、いつも納骨をする時だけお墓にやってきて、お墓参りはしません。

 

そのまま古墳のように自然に還してあげるのです。

 

 

この土地で生まれてこの土地で死んで行くのが当たり前のようだった時代ではなくなりました。

 

お墓の役割も変わってきています。

 

 

 

別のお宅のおじいちゃんも子供に言いました。

 

 

「お墓参りはしなくていい。

 

ただ、わしが死んだ時たった一度だけ故郷の墓に納めに行ってほしい。

 

わしは故郷の土になりたい。」

 

 

こうしてお墓は負の遺産ではなく、子や孫たちさえも入ることができるという、安心の場所に変わりました。

 

 

同じような立場の人たちに、僕はいつも言うんです。

 

「そんな形もいいでしょう。罪悪感をもたないで。」

 

するとみんな涙を浮かべながら、「重かった心がスッとしました」と胸に手を当てられるんです。

四諦(したい)とは「苦集滅道」の4つの聖なる真実を明らかにすることです。

 

①「苦(ドゥッカ)」=「理解するべきもの」

 

『初転法輪経(Dhammacakkappavattana Sutta)より』

 

Idaṁ kho pana bhikkhave, dukkhaṁ ariyasaccaṁ: Jāti'pi dukkhā jarāpi dukkhā vyādhi'pi dukkho maraṇaṁ'pi dukkhaṁ appiyehi sampayogo dukkho piyehi vippayogo dukkho yaṁpicchaṁ na labhati tampi dukkhaṁ saṅkhittena pañcūpādānakkhandhā dukkhā.

 

これこそが修行者たちよ、苦しみの真実です。

生まれることは苦であり、老いることも苦であり、病気になることも苦であり、死ぬことも苦です。

嫌な人や物と出会うことも苦であり、愛する人や物と別れることも苦であり、望むものが得られないこともまた苦です。

要するに、五つの集合体(身体、感覚、思考、習慣、記憶)にしがみつく故に苦しんでいるのです。

 

 

 今まで僕は八苦(生苦・老苦・病苦・死苦・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦)を並列に考えていましたが、原文を読むと五蘊盛苦が他の苦を包括するものであると明確に記されていることがわかります。

 

 つまり色受想行識(身体、感覚、思考、習慣、記憶)という5つの構成システムこそが苦の核心だといえるでしょう。

 

 例えば借金による苦しみ、虐待による苦しみなど、外的な要因ばかりに目が行きそうな苦もあるでしょうが、それに対して自身の内的領域がどのような反応をしているのかをつぶさに観察することが目覚めへの第一歩です。

 

 あらゆる対象との摩擦の中で生じるものが苦であるという真実を明らかにすることを「苦諦(くたい)」といい、それは逃避したり見ないふりをするのではなく、徹底的に向き合い「理解するべきもの」なのです。

 

 

 

②「集(サムダヤ)」=放棄されるべきもの

 

 

 

 苦しみの根本原因は「無明(avidyā アヴィディヤー)」であると言ったり、「渇愛(taṇhā タンハー)」であると言ったり、お釈迦様も統一感がないものだと思われる方があるかもしれません。

 

 実は僕もそうでした。

 

十二因縁の教えの中では「無明」であるとされ、四諦の教えの中では「渇愛」と記されているからです。

 

しかし実は、潜在意識という自分が把握していない意識領域まで遡ると「無明」が根本であり、顕在意識という自分が把握できる意識領域まで遡るのならば「渇愛」が根本であったのだと僕の中で整理できました。

 

「無明」は簡単に言うと「私(自我)」という分離意識のことですが、それについては最近何度も考察してきたので、今回は「渇愛」について深掘りしていこうと思います。

 

『初転法輪経(Dhammacakkappavattana Sutta)より』

 

Idaṁ kho pana bhikkhave, dukkhasamudayaṁ ariyasaccaṁ.

Yāyaṁ taṇhā ponobhavikā nandirāgasahagatā tatratatrābhinandinī.

Seyyathīdaṁ: kāmataṇhā, bhavataṇhā, vibhavataṇhā.

 

まさにこれが修行者たちよ、苦しみが起こる原因の真実です。

その起源こそが「渇愛」であり、再生(再び生まれること)をもたらし、喜びと欲望にとらわれ、あらゆる存在の場において執着するものなのです。

具体的には、感覚欲への渇愛(kāmataṇhā)、存在への渇愛(bhavataṇhā)、非存在への渇愛(vibhavataṇhā)があります。

 

 

 渇愛は内側からの欠乏感・不足感のことをいい、具体的には3種類があるといいます。

 

1、kāmataṇhā(感官的快楽への渇愛)

 五感を通じた快楽への欲望を引き寄せる渇愛。

 食べ物、音楽、美しいもの、快適さ、性的快楽などの欲望で欠乏感を埋めようと執着する心の状態。

 甘いもの依存症、ギャンブル依存症、買い物依存症、SEX依存症、薬物中毒など。

 

2、bhavataṇhā(有への渇愛)

​ 存在し続けたいという欲望を引き寄せる渇愛。

自己顕示や承認欲求などの存在への欲望で欠乏感を埋めようと執着する心の状態。

「何者かになりたい」「成功したい」「後世まで名前を残したい」「死にたくない」

 見栄っ張り、ナルシシズム、ヒーロー願望、メサイアコンプレックス(救世主妄想)」など。

 

3、vibhavataṇhā(無への渇愛)

 ​存在を否定したい、消滅したいという欲望を引き寄せる渇愛。

「消えてしまいたい」「自分なんていなくなればいい」「人類が滅びればいいのに」

 自傷行為、自死願望など

 

 誰しもがこのような渇愛を埋めようとして欲望を集めているという真実を明らかにすることが「集諦(じったい)」といい、それは「放棄されるべきもの」なのです。

 

 

③「滅(ニローダ)」=「体得されるべきもの」

 

『初転法輪経(Dhammacakkappavattana Sutta)より』

 

Idaṁ kho pana bhikkhave, dukkha-nirodhaṁ ariyasaccaṁ:

Yo tassāyeva taṇhāya asesavirāganirodho cāgo paṭinissaggo mutti anālayo.

 

これこそが修行者たちよ、苦しみの止滅という真実です。

それは、まさにその渇愛が余すことなく離れ、捨て去られ、放棄され、解放され、しがみつきがなくなる境地なのです。

 

 

 タンハー(渇愛)への反応をやめること。これこそが、ニローダの核心です。

 

 渇愛を無理やり無くそうとしたり抑圧をするのではなく、それに反応しなくなることで静けさと安らぎがもたらされるとお釈迦さまはおっしゃいました。

 

 渇愛が刺激される出来事が起きた時に、そこに“条件反射で”反応しないようになること、紐づけられた五蘊を解除することが必要になるのです。

 

 「あ、これは反応だ!」と気付きやすいものは、やはり「貪(もっともっと欲しい)」「瞋(イライラする)」「痴(すごく不安)」という三毒反応です。

 

 それ以外にも無意識に見栄をはったり、いい人でいようとしたり、皮肉っぽかったり、同情心を誘ったりと誰しも色々とありますが、渇愛への反応が大きい人ほど苦は大きくなるでしょう。

 

 僕自身も自動反応に後で気付いて反省することが多々ありますが、反省ではなかなか止めることができません。

 

 しかしその瞬間に気付けるようになった時、反応ではなく選択の「余地」が生まれ、止滅の兆しを得ることができるはずです。

 

 他者の渇愛に巻き込まれず、自身の渇愛に巻き込まず、静寂を保つこと。

 

 そんな止滅の境地「ニルバーナ(涅槃)」こそが我々の目的地であり、それは「体得されるべきもの」なのです。

 

 

④「道(マールガ)」=「修習するべきもの」

 

『初転法輪経(Dhammacakkappavattana Sutta)』より

 

Idaṁ kho pana bhikkhave, dukkha-nirodha-gāminī paṭipadā ariyasaccaṁ:

Ayameva ariyo aṭṭhaṅgiko maggo, seyyathidaṁ — sammādiṭṭhi, sammāsaṅkappo, sammāvācā, sammākammanto, sammā-ājīvo, sammāvāyāmo, sammāsati, sammāsamādhi.

 

これこそが修行者たちよ、苦しみの止滅に至る道の真実です。

それはまさに、聖なる八正道であり、すなわち正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定なのです。

 

Dve me, bhikkhave, antā pabbajitena na sevitabbā. Katame dve?

Yo cāyaṁ kāmesu kāmasukhallikānuyogo hīno gammo pothujjaniko anariyo anatthasaṁhito;

yo cāyaṁ attakilamathānuyogo dukkho anariyo anatthasaṁhito.

Ete te, bhikkhave, ubho ante anupagamma majjhimā paṭipadā tathāgatena abhisambuddhā cakkhukaraṇī ñāṇakaraṇī upasamāya abhiññāya sambodhāya nibbānāya saṁvattati.

Seyyathidaṁ—ayameva ariyo aṭṭhaṅgiko maggo: sammādiṭṭhi, sammāsaṅkappo, sammāvācā, sammākammanto, sammāājīvo, sammāvāyāmo, sammāsati, sammāsamādhi.

 

修行者たちよ、出家した者が歩むべきではない両極端な道が二つあるのです。どのような二つでしょうか?

一つは、欲望の中に快楽を追い求めること。これは低俗で、世俗的で、聖者にふさわしくなく、利益をもたらさない道です。

もう一つは、自己を苦しめる厳しい苦行。これは苦痛に満ち、聖者にふさわしくなく、利益をもたらさない道です。

修行者たちよ、これら二つの極端に陥ることなく、如来は中道を悟りました。

それは眼(洞察)を開き、智慧を生じ、心を静め、深い理解をもたらし、悟りと涅槃へと導く道です。

それがまさにこの正見(正しい見解)、正思(正しい志)、正語(正しい言葉)、正業(正しい行い)、正命(正しい生活)、正精進、正念、正定(正しい集中)という八正道なのです 。

 

 

 いよいよ最後に、「止滅(ニルヴァーナ)」というゴールへ向かう「8つの実践方法」が提示されました。

 

 ただしそれは快楽の道にも苦痛の道にも偏らない真ん中の道(中道)です。

 

 それは「自と他」「善と悪」「光と影」など、あらゆる二項対立に陥らないようにと導く仏教の核心です。

 

 ですから正道とは、他者に自己の「正しさ」を押し付けることなく、自己の理解を深める道であることが強調されているのです。

 

 それでは『八正道』をそれぞれ見ていきましょう。

 

①正見(sammā-diṭṭhi)

 

 苦しみは悟りへの機縁であると、見方を正すことができること。

 

Katamā ca, bhikkhave, sammādiṭṭhi?

Dukkhā paññā, dukkhasamudayā paññā, dukkhanirodhā paññā, dukkhanirodhagāminiyā paṭipadāya paññā —

ayaṃ vuccati, bhikkhave, sammādiṭṭhi.

 

さて修行者たちよ、何が正見(正しい見解)なのでしょうか?

それは、苦の智慧、苦の原因の智慧、苦の止滅の智慧、そして苦の止滅に至る道(すなわち八正道)の智慧で見ることです。

これが修行者たちよ、「正見」と呼ばれるのです。

 

②正思惟(sammā-saṅkappa)

 

 執着を離れ、恨みを離れ、害を及ぼさないという思考へと心を正していくこと。

 

Katamo ca, bhikkhave, sammāsaṅkappo?

Nekkhammasaṅkappo, abyāpādasaṅkappo, avihiṃsāsaṅkappo —

ayaṃ vuccati, bhikkhave, sammāsaṅkappo.

 

さて修行者たちよ、何が正思惟なのでしょうか?

それは出離の思惟(欲から離れようとする思考)、

無瞋恚の思惟(憎まない思考)、

無害の思惟(傷つけない思考)に向かうことです。

これが修行者たちよ、「正思惟」と呼ばれるのです。

 

③正語(sammā-vācā)

 

 嘘や二枚舌や悪口や陰口を慎み、本音で和合する優しさにあふれた堂々とした言葉へと口を正していくこと。

 

Katamā ca, bhikkhave, sammāvācā?

Musāvādā veramaṇī, pisuṇāya vācāya veramaṇī, pharusāya vācāya veramaṇī, samphappalāpā veramaṇī —

ayaṃ vuccati, bhikkhave, sammāvācā.

 

さて修行者たちよ、何が正語なのでしょうか?

それは虚言(嘘)を慎むこと、

離間の言葉(二枚舌)を慎むこと、

粗暴な言葉(悪口)を慎むこと、

無意味なおしゃべり(人の噂話など)を慎むことです。

これが修行者たちよ、「正語」と呼ばれるのです。

 

④正業(sammā-kammanta)

 

 無益な殺生、偸盗、邪淫を慎み、あらゆるいのちを活かし、周りに与え、誠実な性関係を結ぶよう、身を正していくこと。

 

Katamo ca, bhikkhave, sammākammanto?

Pāṇātipātā veramaṇī, adinnādānā veramaṇī, kāmesumicchācārā veramaṇī —

ayaṃ vuccati, bhikkhave, sammākammanto.

 

さて修行者たちよ、何が正業なのでしょうか?

殺生を慎むこと、

盗みを慎むこと、

不邪淫を慎むこと、

これが修行者たちよ、「正業」と呼ばれるのです。

 

⑤正命(sammā-ājīva)

 

 利権のために他者を害するような手段ではなく、慈悲と誠実に基づいた仕事や暮らし方へと正していくこと。

 

Katamo ca, bhikkhave, sammāājīvo?

Idha, bhikkhave, ariyasāvako sammāājīvena jīvikaṃ kappeti —

ayaṃ vuccati, bhikkhave, sammāājīvo.

 

さて修行者たちよ、何が正命なのでしょうか?

ここにいる聖なる弟子は、誠実な生活手段を選び実践します。

これが修行者たちよ、「正命」と呼ばれるのです。

 

⑥正精進(sammā-vāyāma)

 

 悪しき心の働きを断ち、善き傾向へと正していくこと

 

Katamo ca, bhikkhave, sammāvāyāmo?

Akusalānaṃ dhammānaṃ anuppādāya chandaṃ janeti…

ayaṃ vuccati, bhikkhave, sammāvāyāmo.

 

さて修行者たちよ、何が正精進なのでしょうかか?

悪しき心の働きが生じないように意識的に努力することです。

これが修行者たちよ、「正精進」と呼ばれるのです。

 

⑦正念(sammā-sati)

 

 無意識ではなく気づきをもって(自己の行為がどこに繋がるのかを意識しながら)行動すること。

 

Katamā ca, bhikkhave, sammāsati?

Idha, bhikkhave, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati…

ayaṃ vuccati, bhikkhave, sammāsati.

 

さて修行者たちよ、何が正念なのでしょうか?

ここに修行者は、身体・感受・心・法において、

常に気づきをもって観察し、明晰に理解し、注意深くあることです。

これが修行者たちよ、「正念」と呼ばれるのです。

 

⑧正定(sammā-samādhi)

 

 清浄な心の統一状態に安住すること。

 

Katamo ca, bhikkhave, sammāsamādhi?

Idha, bhikkhave, bhikkhu… paṭhamaṃ jhānaṃ upasampajja viharati…

ayaṃ vuccati, bhikkhave, sammāsamādhi.

 

さて修行者たちよ、何が正定であるか?

ここに比丘は、欲を離れ、悪しき心を離れて、

最初の禅定状態を実現します。

これが修行者たちよ、「正定」と呼ばれるのです。

 

 

以上、八正道とは8つの道ではなく8つの実践が合わさった1本の道です。

 

それは「苦しみの終わりにつながる道」であり、我々仏教徒が「修習するべきもの」なのです。

 お釈迦様が説かれた教えに「duḥkha(ドゥッカ)=苦」「samudaya(サムダヤ)=集」「nirodha(ニローダ)=滅」「mārga(マールガ)=道」という聖なる真実「catur-ārya-satya(チャトゥル・アーリヤ・サティヤ)」があり、「四諦(したい)」もしくは「四聖諦(しせいたい)」と訳されます。

 

 「4つの(目覚めた人が見抜いた)本当のこと」という意味なのだそうです。

 

 つまりお釈迦様の教えをまとめた上座部仏教の人々にとってはそれこそが真理であると尊重され、修行に励んだはずです。

 

 とはいえ400~500年後くらいには、いつまでも個人の問題解決を図るばかりでリアルに活かすことができないことに異議を唱える大乗仏教の人々によって、それさえも「空」でありつかめるものではなく、四諦もあくまで真理への架け橋(手段)なのであると示されました。

 

 「雲を払うより月を見よ」という言葉があるように、障害を一つ一つ取り払うことにばかりこだわるのではなく、悟りという月そのものを見据えて進むことが真理であると教えたのです。

 

 しかし2500年経った現在の自分が思うことは、「空」の理解において「四諦をすることに意味はない」と取り違えたり、空を理解していれば重箱の隅をつつくようなことは必要ないといった風に、四諦軽視に陥っているのではないかという憂慮です。

 

 他者との関わりがこそが我ら大乗仏教徒の目的であるにせよ、自分の外側の世界に反映させるには先ず自分の内側を整える必要があります。

 

 やはり四諦の理解と実践は欠かせないでしょう。

 

『四諦(四聖諦)』とは

 

「dukkha-ārya-satya=苦諦」01

 「dukkha-ārya-satya(ドゥッカ・アーリヤ・サティヤ)」は「苦諦(くたい)」と訳されます。

 

 肉体も感覚も思考も行動も認識もすべては苦しみであるという前提から明らかにすることです。

 

 「どこが苦しい?」

 「どんなストレスがあるの?」

 

 

「samudaya-ārya-satya=集諦」02

 「samudaya-ārya-satya(サムダヤ・アーリヤ・サティヤ)」は「集諦(じったい)」と訳されます。

 

 その苦しみの原因である渇愛を満たそうと集める欲望、執着を明らかにすることです。

 

 「どこに原因がある?」

 「何にとらわれてる?」

 

 

nirodha-ārya-satya=滅諦03

「nirodha-ārya-satya(ニローダ・アーリヤ・サティヤ)」は「滅諦(めったい)」と訳されます。

 

 渇愛からくる執着を手放すことが到達点であることを明らかにすることです。

 

「どうありたい?」

 

 

mārga-ārya-satya=道諦04

「mārga-ārya-satya(マールガ・アーリヤ・サティヤ)」は「道諦(どうたい)」と訳されます。

 

到達点に向けて歩む道を明らかにすることです。

 

「じゃ~どうしていこうか?」

 

 

まとめ

Dukkhaṃ pariññeyyaṃ,
taṇhā pahātabbā,
nirodho sacchikātabbo,
maggo bhāvetabbo.

 

「苦は理解されるべきものである」

「集(原因)は放棄されるべきものである」

「滅(涅槃)は体得されるべきものである」

「道(八正道)は修習されるべきものである」

(『相応部経典』より)

 

 

 我々仏教徒は、苦しみを理解し、苦しみの原因である執着を放棄し、執着を滅した安らぎの境地を体得し、そこへ向けた道を修習していくのです。

桜は散り始めましたが、シャクナゲやカイドウの花が満開です。

 

 

僕自身としては、檀家さんへの会計監査と決算報告が終わり、一気に気分が楽になったところです。

 

 

とはいえ今年は小学校のPTA会長を受ける運びとなってしまいました。

 

但馬の御詠歌組織の会長も再任となりました。

 

また高野山心の相談員の本部役員も継続です。

 

この三つはなんとかかんとか精一杯務めてまいります。

 

 

しかしながら、自分のキャパを考えたところ、これ以上持つ余裕がなく依頼された役職をたくさん断ってしまいました。

 

 

保護司。

 

教育委員会(保護者)。

 

但馬の寺院組織の役職。

 

新温泉町仏教会の役職。

 

 

お断りするというのは本当にエネルギー使いますね。。。

 

 

それでも無理していいことはありませんので、ご理解いただきたいと思います。

 

やりたいことをやるための余裕も必要です。

今日は檀中会議でした。

 

昨年午前中はクリーン作戦や村の惣事と重なるため午後に変更してほしいという要望があり、今年が初めての午後開催となりました。

 

本部役員と各集落の代表の方が集まって、令和6年度の事業報告、決算報告、令和7年度の事業計画、予算計画について話し合いました。

 

兵庫県の中でも最も過疎化と高齢化が進む新温泉町。

 

その中でも最も過疎化と高齢化が進んでいる地域が我々の住んでいるところです。

 

 

二軒だけの集落が2つ。

 

三軒だけの集落が1つ。

 

十軒そこそこの集落が5つ。

 

そんな感じの小さな集落が広範囲に檀家として在り、善住寺を護持していただいています。

 

このような中でも、皆がいろいろと力になってくださり、本当にありがたいです。

 

やはり大切なのは信頼関係なのだとしみじみと感じます。

 

仏教では所有は苦しみですので、皆さんの思いを受け取りつつ、思いが重いにならぬよう、守りつつ手放しつつ行こうと思います。

 

 

昨日は婦人会の会議もありました。

 

みんなが元気なうちにまた旅行に行きたいねって話になりました。

 

皆さんと楽しいこともいっぱいしたいです。

 

 

 

 

あれだけ増えていた人口がこんなに減ったという見え方で嘆きそうになる時、増えるも減るもないという般若心経の一文が思い出させてくれます。

 

生まれた人の数しか死んでいかないのに、何が増えるも減るもあるのだろうかと。

 

ただのプラスマイナスゼロでした。

 

皆さんとの今をしっかりと焼き付け、たくさんお話をしておくのみですね。

 

 

 

 

 

※裏方さん方も連日お疲れ様でした。

 自分が識(し)ったことに執着すればするほど、自と他の間の摩擦は大きくなり、苦痛は大きくなるはずです。

 

 「私」というものが確固たる実体として存在しているように感じられるのは、実は感覚・思考・経験が継続的に結びついているだけの構造に過ぎません。

 

 対象を通じて(色)、とある体験をし(受)、そこに意味づけをし(想)、それが「私の物語」となり(行)、それが再び感情・記憶・価値観を形づくっていく(識)という5つの働き。

 

 そんなループの中で「私」という輪郭が形作られていきますが、その本質はまさに「無我」、つまり実体なき働きの連続に過ぎないのです。

 

 「宇宙から見ると地球に国境など見当たらなかった」という宇宙飛行士さんの言葉のように、粒子レベルで見ると人と人との境界線はどこにも見当たりません。

 

 つまり我とは「割れ」であり、一つの繋がったものが割れた姿だとも言えるでしょう。

 

 もし真なる安らぎを望むならば、分け隔てない在り方こそが大切であり、識ったことへの執着をそっと手放していく必要があります。

 

 大黒摩季さんの『夏が来る』という楽曲にあった「経験が邪魔して素直になれない」というフレーズの通り、本当に人が繋がるには識が邪魔になってくるのです。

 

 

識が摩擦になる要因

 

◎「私は正しい」 (正当化)

 自分が「これは正しい」と思ったことに固執すると、他者の意見や行動が「間違っている」と見なすことになり、対立が生まれます。

 

◎「私は知っている」 (優越感) 

 知っていることが自己の優越性を支える要素になると、無意識に相手を下に見たり、教えようとしたりして摩擦が起きます。

 

◎「私のようにするべきだ」 (固定観念) 

 経験から得た“こうあるべき”という固定観念が、自分や他人への期待や失望を生み出します。

 

◎「私と同じであってほしい」(同一化の欲求)  

 自分の価値観や世界観を他人にも共有してほしいという欲が、違いを許せなかったり強要してしまうことに繋がります。

 

◎「私は傷つきたくない」(防衛本能)  

 過去の傷ついた経験から生まれた識は、「また傷つきたくない」という恐れによって他人を警戒したり、心を閉じたりする“鎧”となります。

 

◎「私は好き/私は嫌い」(レッテル)  

 識は便利な反面、「好き/嫌い」「良い/悪い」などに即座に反応しようとする癖を作ります。本来中立であるはずの現象に、自我のレッテルを貼ってしまうことが感情的な衝突の原因にもなります。

 負の刻印(レッテル)のことを「スティグマ」といいます。

 

◎「私がしたおかげだ」(承認欲求)

 識により社会の中でそれぞれの役割へと分けられるために、役に立ちたいという承認欲求も生まれます。

 役割だとか使命だとかに振り回されたり、過度な自己顕示欲が周りとの軋轢をうみます。

 

 

 

 本質から遠ざける知識、良識、博識、常識。

 

 それらすべての「識」を一度取っ払い、ゼロポイントで人と出会えたらいいのにと切に願います。

 

#我とは割れ

#悟りは差取り

般若心経に出てくる「色受想行識」を五蘊と言い、私を構成する5つの集まりのことです。

 

【色(ルーパ)】・・・現象が起こり

【受(ヴェーダナー)】・・・どう感じ

【想(サンニャー)】・・・どう思い

【行(サンスカーラ)】・・・どう行動し

【識(ヴィジュニャーナ)】・・・どう識(し)っていくのか

 

 これらの5つの働きによって本来実体のないはずの「私」というものを確立し、自他を分ける境界線を強化しているのです。

 

 そうすることによって、それぞれが自由意思を持つかのようにこの世界を暮らしていっているということです。

人は「色受想行」を経験として、「識」を得ていきます。

 

そしてその「識」を使って、外部情報を取り込んでいくのです。

 

☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 

Kiñca bhikkhave, viññāṇaṃ vadetha: vijānātīti kho bhikkhave, tasmā viññāṇanti vuccati. Kiñca vijānāti: ambilampi vijānāti, tittakampi vijānāti, kaṭukampi vijānāti, madhurakampi 3- vijānāti, khārikampi vijānāti, akhārikampi vijānāti,loṇikampi vijānāti, aloṇikampi vijānāti. Vijānātīti kho bhikkhave, tasmā viññāṇanti vuccati.

 

 比丘たちよ、なにを識(viññāṇaṃ)と呼ぶのか? 

比丘たちよ、識別するから識と言うのである。

では、何を識別するのか?

酸っぱいものかを識別し、渋いものかを識別し、苦いものかを識別し、甘いものかを識別し、食べられるか食べられないかを識別し、塩味がしっかりついているか味気ないかを識別するするのである。

 

☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 

 ヴィジュニャーナ(vijñāna)は、「vi = 分ける・分離する」と「jñāna =知・認識」で構成される言葉であり、対象を分けて「これは〜だ」と「識別する働き」なのだそうです。

 

 この働きによって「私とあなた」「子と親」「目上と目下」「友と敵」などの識別をしていきます。

 

 こうして我々はこのヴィジュニャーナ(識)によって個々が社会の中で思慮分別のある生活を送っていくことができるのです。

 

 しかし逆にその識別が苦しみを生むことになります。。

 

 識別する(分けて認知する)ということは、光が生まれれば影も生まれるのです。

 

 仲間という意識を持つならば、同時に仲間からの排除も生まれます。

 

 夢や希望が原動力になるならば、同時に絶望や失望による無気力も生まれます。

 

 善い人だと尊敬する気持ちが生まれるならば、同時に悪い人だと見下す気持ちも生まれます。

 

 識(vijñāna)によって世界は明確になり秩序が生まれる反面、同時に“二極化”が進んでいることに私たちはなかなか気付けません。

 

 この二極化に無自覚なことこそが、私たちの内側の世界にも外側の世界にも、摩擦と葛藤をもたらす源泉となるのです。

 

 その摩擦・葛藤のことをドゥッカ(苦)といいます。

 

"Subhūte, na saḥ pṛthagjano bodhisattvaḥ syāt. Tat kasya hetoḥ? Subhūte, na hi saḥ bodhisattvaḥ yaḥ sattvān paripācayati. Subhūte, na hi saḥ bodhisattvaḥ yaḥ sattvān paripācayati. Subhūte, na hi saḥ bodhisattvaḥ yaḥ sattvān paripācayati. Subhūte, na hi saḥ bodhisattvaḥ yaḥ sattvān paripācayati."​(金剛般若波羅蜜経より)

 

須菩提よ、もし菩薩が『私は衆生を救おう』という想いを起こすならば、彼は真の菩薩ではない。

なぜなら、実際には救うべき衆生という実体は存在しないからである。

 

 

 過去に僕は幸せになりたいと望んでいたころ、自分の不幸な物語に強くフォーカスしてた。

 

 自分の地元の人々を癒したいと願っていたころ、我が町の自殺率の高さに強くフォーカスしてた。

 

 多分それは純粋な慈悲の気持ちじゃなくって、自己の存在価値を上げるために、他方を下げていたのかもしれないね。

 

 今では“そう思いたいから一時的なものを握りしめていただけだった”って理解できた。

 

「求めざれば足りぬことなし」

 

 きっとそれを求めなければ、もうすでに満ちているのだろう。

 

 

 あなたの強烈な救世主願望が、救うべき不幸な人を作り出しているのかもしれない。

 

 あなたの強烈な正義感が、裁くための悪を作り出しているのかもしれない。

 

 光が強まれば闇もまた深まる。

 

「衆生無辺誓願度(あらゆるいのちに限りなき救いの手を差し伸べることを誓う)」

 

 それはとても大切なことだけれども、それと合わせて、

 

「衆生無有可度者(救うべきいのちは実は存在しない)」

 

 このことも忘れないようにしたい。

 

 まずは自分の中にある偏りに気づき、正していくのだ。

 

4月10日はとても楽しい法事でした。

 

本当は二月が一周忌だったのですが、雪が多い時期なので2ヶ月延期していました。

 

天気予報では雨でしたが、午前中は晴れ間が出て、お墓参りも快適でした。

 

開花の遅かった桜も至る所で満開となり、華やかな気持ちにもなれました。

 

故人が亡くなってから1年と2ヶ月。

 

お腹の大きくなっていた内孫さん(故人の長男の次女さん)から、可愛い赤ちゃんが誕生しました。

 

そして今日、法事後の会食の席でもう一人の内孫さん(長男の長女さん)から、婚約の発表がありました。

 

なんとお婿さんを迎えられるということで、家系が途絶えずに続くことにもなりました。

 

 

喜びはまだまだ続きます。

 

外孫さんは本日に20才の誕生日を迎えられたといいます。

 

さらに、故人の次女さんとその旦那さんは、まさに本日が50回目の結婚記念日だということで、法事が延期したことによるシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)に感激しておられました。

 

 

そんなこんなで、あちらこちらの夫婦の出会いのエピソードなども披露され、大変な盛り上がりです。

 

祇園祭で出会い恋に落ちたという方。

 

麻雀仲間からの紹介だったという方。

 

お見合いだったという方。

 

どの出会いエピソードも素敵でした。

 

 

「こんな楽しい法事は初めてだった」と皆が口々に言われます。

 

 

最後に施主さんが締めの挨拶で、「今日はカルマの法則というとてもよいお話を聞きました」と、法話の感想も述べてくださいました。

 

今芽吹いているものは、過去に植えたくれた種によるものです。

 

この果実を収穫するとともに、未来への種を植えていくことです。

 

すぐに芽を出すわけではありません。

 

サンスカーラという土の下での形成期間があって、いつか芽吹くのです。

 

さ~、今どんな種をまきましょうか。

 

たしかそんなお話をしたはずです。