昨年特に印象深く残っている思い出が三徳山に参拝したことです。
子供たちと一緒についにあの険しい修行道場の三徳山を上り、頂上にある投入堂まで行くことができたことは、とても素晴らしい体験でした。
その登山の際に輪袈裟(タスキ)を肩から斜めにかけてお参りをします。
そこに書かれている言葉が「六根清浄」と言う言葉です。
六根清浄とは何でしょうか。
それは眼と耳と鼻と舌と身体と意(こころ)のことで、五感をうけとる五つの機能である視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚に、それを認識する心である意覚を合わせて六根と呼びます。
根とはサンスクリット語のインドリヤの漢訳で、「発識取境」といって、「内部の認識を発して外部の情報を取り込むこと」です。
まさに根っこですね。
般若心経の中にも「眼耳鼻舌身意(げんにびぜっしんに)」と出てきます。
この六つの根の状態でこの世界の捉え方が変わってきますので、これをクリアにしておく必要がありますよという言葉が「六根清浄」です。
皆さんもよく無意識に使っておられますね。
「どっこいしょ」って。
この六根清浄と言う言葉がいつしかどっこいしょと言う言葉になったとも言われているんですよ。
私たちは人との関わりの中で生活をしていると、この6つの根っこがだんだんに毒におかされていき、健全さを失うと言います。
ほとんどの苦しみは人間社会、人間関係の中にあるのです。
家庭、学校、職場、地域において、六根は毒に侵食されていきます。
眼環境はコンクリートやプラスチックなどの人工物に囲まれた上に、人との争いや暴力、差別や不公正を目の当たりにし、
耳環境は重なり合った人工音による煩わしさの上に、人の愚痴や悪口、責め合い裁き合う声にさらされ、
鼻環境は排気ガスなどのくぐもった空気に囲まれた上に、人いきれの中で呼吸も浅くなり、
舌環境は人工甘味料や添加物などの入った食べ物や塩素消毒した水に囲まれた上に、本音とはかけはなれた言葉ばかりが口からでてしまい、
身体環境は無機質な物に触れる中で、プレッシャーによるストレスは溜まるばかりで、
心という内的環境もどんどん認識を悪循環へとつなげてしまいます。
我々は、人間関係の中で六根が濁って行ってしまうのだからこそ、時々この人間関係から離れて自然の中でその6つを清らかにクリアにしていく必要があるのです。
弘法大師もやはりそれを大切にしておられました。
京都の東寺は京都の人々に教えを広めていく拠点でしたが、人との関わりに疲れた時、もう一つの拠点である俗世から離れた高野山にこもって、自然の中で鳥の声、虫の声、川のせせらぎに耳をすませながら、六根清浄につとめたのです。
そして清浄なる姿にかえり、また東寺へともどっていかれるということを繰り返したといいます。
皆様もどうでしょうか。
このストレス社会の中で、いつしか毒された清浄でない六根で、濁った世界を映し出し、それをまた他者へ巡らせていってはいないでしょうか。
そうならないように、時々人間関係を離れた自然と共に過ごす時間を取るということが必要となってきます。
森や川の下でありのままの姿を見つめて眼をクリアにし、虫や鳥たちの声を聞いて耳をクリアにし、草花や土の匂いを香って鼻をクリアにし、湧水や木の実、野草を口に運んで舌をクリアにし、どっしりとした大地に触れて身体をクリアにし、大いなる存在を感じて心をクリアにする、そんな時間をどうかとって下さい。
仏教とは何かを簡潔に答えると、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」であるといいます。
悪いことをするな。
善いことを行いなさい。
自らがその心を浄めるのです。
これが仏教です。
まさに心も含む六根清浄を保つことが、悪業にからめとられずに善業を行っていくためのベースともいえるでしょう。
「どっこいしょ」の語源が本当に「六根清浄」だったのかは知るよしもありませんが、「どっこいしょ」という言葉にはある種の苦がたまった状態であることが推測できます。
思わず言ってしまった時には、六根をクリアにするタイミングなのだと思ってくださいね。
※3月末に六根清浄のための小豆島遍路の旅を予定。一緒に行きましょう!