ヘボン博士の話 | -アンティカペディア-

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イギリス、フランス、イタリアからのアンティークをご紹介させて頂きます。定番品からマニアックな物まで時代背景やそれに付随する情報を交えてご紹介させて頂きます。


前回の記事でご紹介した谷戸橋の先に住んでいたヘボン博士(1815~1911)についてです。


本名はジェームス・カーティス・ヘップバーン(1815~1911) 

ヘップバーンが訛ってヘボンとなり、本人も自ら日本人用にヘボンと名乗っていた。 漢字では『平文』




1959年(安政6年)の横浜が開港した年、医療伝道宣教師としてクララ夫人と来日したヘボンは現在の東神奈川区にある成仏時に居を置き、施療所としても患者を見ていた。ヘボンの施療所は次第に評判になり沢山の人が訪れるようになる。

成仏時


1961年春、医療活動に十分なスペースのある宗興寺で施療所を開き3500人もの患者に処方箋を書いたと記録されている。当時の日本の医療技術は乏しく病院もなかった為、眼科専門医だったが専門外の手術も施していた。 しかし、奉行所の嫌がらせもあり約5か月間で人気の施療所を閉鎖。

宗興寺


1962年(文久2年)、谷戸橋に居を移し施療所を再開、クララ夫人は英学塾を開き、後にヘボン塾と改ためる。 宣教師でもあるヘボンは聖書の和訳は必須と考え、診療に従事しながらも日本語研究に取組み1967年、日本発の和英辞書『和英語林集成』を発行。その際に辞書の編纂に使用されたヘボン式のローマ字表記が普及していった。



三角屋根のヘボン邸



その後、ヘボン塾は東京に移りミッション系の学校と合同で1886年(明治19年)に明治学院大学を創設。)旧約聖書の和訳が完成させるなど生涯に渡って日本の文化に多大な影響を与えた。


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