こんにちは。
長谷川です。
前々回の記事で中国の教育の
恐ろしさをお分かりいただけたと思います。
今日は、毛沢東の不思議現象について
お話します。
第二次世界大戦、後半に
「カイロ会談」というのがあったのは
ご存知でしょうか?
〇カイロ宣言とは?
第二次世界大戦後の対日方針を協議するため
1943(昭和18)年11月22日からエジプトのカイロで開催された
フランクリン・ルーズベルト米大統領、ウィンストン・チャーチル英首相、
蒋介石中国国民政府主席による
首脳会談を受けて、12月1日に発表された「カイロ宣言」。
勝者による歴史構築の始まりだったとも
言われる会談だったといえます。
ともかくも国民党の蒋介石が参加したことは
間違いのない事実です。
ところで
〇中国の映画『カイロ宣言』
現在、中国では戦勝70周年記念映画として
『カイロ宣言』という映画が作られました。
簡体字で分かりづらいですが
開羅(カイロ)宣言と書いています。
そこには
よく見ると…
驚くべきことに毛沢東が映されています。
なぜかスターリンも…
なんと!
毛沢東は、米英首領と共にカイロ宣言を
発していたのですね・・・。
当時、毛沢東は
確か中国の延安にいたはずです・・・。
〇中国の延安にとどまっていた毛沢東
史実を振り返ってみます。
毛沢東は、1943年当時、どこにいたのでしょうか。
江西省で中華ソビエト区を
作って以降、国民党の攻撃を迂回しつつ
各地を転々とし、1935年に延安に拠点を置きました。
1935~1948年まで
延安に拠点を置き、特に1945年までは
特段、延安を出なかった毛沢東。
当時の「長征」の様子。
延安にいたときの毛沢東のなど八路軍の幹部。
1943年当時、「整風運動」という政治運動に力をいれていた毛沢東。
「1943年10月、中国共産党中央が
延安の楊家嶺というところからここ(延安の棗園)に引越ししてきた。
毛沢東、周恩来と劉少奇、朱徳などは、ここで仕事をしていた。・・・」
→中国人民日報系放送局のインターネットページ「知るシル中国」より
〇毛沢東は、どのようにエジプトまで行ったのか?
ここで疑問です。
延安にいた毛沢東が、
1943年11月に、
どうやってエジプトのカイロにいったのでしょう。
■西からインド経由でいけたか?
インド経由でエジプトに行ったのでしょうか?
当時、蒋介石の国民党の拠点は重慶でした。
さらに国民党はアメリカ、イギリスとパイプがあったため
国民党政府の要人ならの重慶から、
インド経由で中東まで行くことはできます。
連合国が、蒋介石を助ける「援蒋ルート」というのも
インドから重慶まで伸びていました。
しかし、その時、アメリカやイギリスなどと
パイプがほとんどなかった共産党の八路軍。
インドからパキスタンの方まで
イギリスの統治が及んでおり
イギリスと通商がない限り難しいでしょう。
■東から海路で行けたか?
北京はすでに日本軍の手に落ち
北平(北京)、天津、上海、香港など
主要都市も陥落していました。
延安にいた毛沢東が
大陸の沿岸に行くことすら
ままならない状況でした。
仮に、何かの船(海賊船?)に乗り合わせても
日本とアメリカの艦船、潜水艦がそこらじゅうに
うごめく東南アジア方面を通過して
エジプトまで行けたとは到底思えません。
■北からソ連経由で行けたか?
シベリア鉄道を経由してモスクワなどから
エジプトへ飛んだのでしょうか。
しかし1943年、当時、独ソ戦の最中、
スターリングラードなどソ連空域が
ドイツ、ソ連の航空機、戦車などで
戦火が猛威を振るっている状況でした。
この状況では、シベリア鉄道を使って
毛沢東もスターリンもエジプト、カイロまで
飛び立てる状況ではないでしょう。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
検証させて頂いた結果、
1943年に、どのように毛沢東が、
エジプト、カイロまで行ったのか
謎は深まるばかりです。
もしかして
毛沢東は、
時空を超えられる超人?
それとも?
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