Ansei's English のブログ -3ページ目

Ansei's English のブログ

英語の学習、研究その他英語にかんする情報を発信します。

8月18日NHKの研究会で90分の講演をしました。演題は「日本の英語教育について」です。この研究会はNHKのOB諸氏が中心となってできたものですが、殆ど全員がNHK関係の仕事を引き継いだり、大学の講師をつとめたり、現役で働いています。若い人たちも関係者の紹介があれば参加できます。私は4年前、「ドキュメンタリー作家の仕事」を出版した際、質量構成法について講演したのがきっかけで、現在は名誉会員ということになっております。演出家の私が専門外の英語について話すことに疑問をもった人たちもいたことでしょうが、その辺の説明から始めなければならないところが、いささか面倒なところです。内容は本欄で紹介した「英語教育について1-4」を中心に、英語学習における「音」の重要性を力説しました。今回はその目玉としてShakespeareの朗誦を加えました。

$Ansei's English のブログ


A Kingdom for a Stage
これはヘンリー5世の冒頭の口上で、有名な一遍です。芝居が始まる前のイントロですが、これがきちんとこなせれば名優とされるもので、主役に順ずる俳優がつとめるのが普通です。

O for a muse of fire, that would ascend
The brightest heaven of invention:
A kingdom for a stage, princes to act,
And monarchs to behold the swelling scene.
Then should the warlike Harry, like himself,
Assume the port of Mars, and at his heels,
Leashed in like hounds, should famine, sword, and fire
Crouch for employment. But pardon, gentles all,
The flat unraised spirits that hath dared
On this unworthy scaffold to bring forth
So great an object. Can this cock-pit hold
The vasty fields of France? Or may we cram
Within this wooden O the very casques
That did affright the air at Agincourt?
O, pardon!
And let us, ciphers to this great accompt,
On your imaginary forces work.
For ‘tis your thoughts that now must deck our kings,
Carry them here and there, jumping o’er times,
Turning th’accomplishment of many years
Into an hourglass-for the which supply
Admit me Chorus to this history,
Who prologue-like your humble patience pray
Gently to hear, kindly to judge our play.

Act 3-1
これはフランス大軍との決戦で兵士に檄をとばすヘンリー5世の演説の冒頭。

Once more on to the breach, dear friends, once more!
Or close the wall up with our England dead.
In peace there’s nothing so becomes a man
A modest stillness and humility,
But when the blast of war blows in our ears,
Then imitate the action of the tiger!!

$Ansei's English のブログ


Hamlet
皆さんおなじみのハムレットの独白(英語ではasideといいます)。

To be or not to be, that is the question
Whether ‘tis nobler in the mind to suffer
The slings and arrows of outrageous fortune,
Or to take arms against a sea of troubles,
And, by opposing, end them.

これはハムレットがクローディアス国王の姦計でイングランドに送られる途中の独白。
How all occasions do inform against me,
And spur my dull revenge ! What is a man,
If his chief good and market of his time
Be but to sleep and feed? A beast, no more.
Sure He that made us with such large discourse,
Looking before and after, gave us not
That capability and god-like reason
To fust in us unus’d.

レアティーズと剣の試合をすることになったハムレットに親友のホレーシオが危険を感じ、止めるように説得したときの答えです。
There’s a special providence in the fall of a sparrow.
If it be now, ‘tis not to come. If it be not to come, it will be now.
If it be not now, yet it will come. The readiness

$Ansei's English のブログ


Twelfth Night
男装の麗人ヴァイオラが主人のオルシーノ公爵の意をうけてオリヴィアに恋心を伝える場面、しかしこの句の真意はヴァイオラの公爵にたいする恋心の爆発です。

O, if I did love you in my master’s flame,
With such a suffering such a deadly life,
In your denial I find no sense,
I would not understand it.
(Why, what would you?)
Make me a willow cabin at your gate
And call upon my soul within the house,
Write loyal cantons of contemned love,
And sing them loud even in the dead of night;
Haloo your name to the reverberate hills,
And make the babbling gossip of the air
Cry out “Olivia!”

シェイクスピアの朗誦は体力が要ります。3週間の特訓を行いました。その結果、横隔膜を総動員した発声で外部の人が“何事か”と会場に駆けつけるありさま。私にとってはストレスが解消された感じでした。出席者の1人が「横田さんの朗誦を聴いて、はじめて言わんとしていることが分かりました」と言ってくれたのが嬉しかったです。
$Ansei's English のブログ


7月1日に日大芸術学部で大学院生と一般学生を相手に90分づつ2コマの授業をおこないました。日大の宇佐美昇三先生から写真をいただいたので、その様子を公開します。

大学院のほうは生徒は5人と少ないが、それだけに授業の中身は濃くなるのは当然です。
拙書「ドキュメンタリー作家の仕事」の根幹をなす“質量構成法(リアリティ構成法)”とは何か?が講義の中心ですが、学生のなかにすでにメソッドを習い俳優を職業にしている御仁もいたので、演技論に話がとぶこともありました。質量構成法はいわゆるBBC方式のアンチテーゼをなすものですが、BBC方式の代表作として有名なケン・ローチ監督の作品「ピケをこえなかった男たちThe Flickering Flame」と私の「翔べ愛しの大五郎 Love Works a Miracle」の1部を映写し、両者の違いを浮き彫りにしました。
また新しい試みとしてランダムに用意した10枚の写真を“自分の感性で並べ替える”という実験を行いましたが大好評でした。
$Ansei's English のブログ


一般学生は50人の大所帯。8つのグループに分けて写真の並べ替えを行ったところ、これが10人10色で面白い!学生たちも人の感性がそれぞれこうも違うのかと驚いたようで、大成功でした。学生の専攻は写真、文芸、演劇、映画、音楽など多彩ですが、私が提唱する「質量構成法」はあらゆる芸術に応用可能なことを強調しました。ケン・ローチの作品と私がNYで撮った「NYゲットーの星ビンボウ」を1部上映しましたが両者の表現方法の違いにみな驚いていました。(学生の感想文があとで届きましたが、それぞれ気合の入った思いが書かれており、私自身にも励みになりました)。
$Ansei's English のブログ


授業が終わってからは恒例の喫茶店での懇談会、若い学生に囲まれてアドレナリンが出っぱなしの1日でした。8月1日に我が家で行う「花火パーティ」にはかなりの学生が参加する予定です。
$Ansei's English のブログ


言葉の習得はゼロサム ゲームでは計れない

「国家の品格」の著者である藤原正彦氏は中曽根康弘元総理とのテレビ対談で「小学校での英語教育は国を滅ぼす」と言い放った。日本語の習得が充分でない小学生が英語の勉強を強要されれば、日本語を勉強する時間が減少し、国語の能力が低下する。結局、日本語も英語も中途半端にしか身につかない変な日本人が増えることになる。小学校の英語教育は日本文化もろくに理解できない「亡国の民」を量産するだけだ、というのである。

小学校5年生のときから英語の勉強を始めた私などは自分が「亡国の民」になった気分にさせられる。自分は“日本語も英語も中途半端にしか身につかず、和歌や能などの日本の古典にも無縁な恥ずべき日本人なのか”? 私は子供のころから日本の古典文学に接し、自作の和歌集「Anseiの和歌100選」というホームページを開設している。またプロの翻訳家でもある。しかし、藤原正彦氏のセオリーによれば、こんなことはあり得ないはずではないのか?

藤原正彦氏はたしかに立派な知識人・文化人なのであろうが、言語にかんしてはその本質を理解していないように思える。言葉は“氏がいうようなゼロサム”では計れない玄妙なものである。英語を3勉強すれば日本語は7になってしまうというようなゼロサム ゲームは適用されないのだ。むしろ、両者は重なって相乗効果を生むのである。私はこれでも物書きの端くれだが、色々な人の文章を読んで思うのは、外国語を真剣に学んだことのある人と、そうでない人の間には彼らの書く日本語に明らかな違いがあることである。それは文章の“文法的な強靭さ”や“構造的論理性”に如実に現われる。ある道に秀でた素晴らしい文化人が書く文章に、ときどき文法が怪しかったり、論理が一貫していなかったりすることがあるが、私はその理由の1つに“外国語を学んだ経験がないこと”があると睨んでいる。これは1種の“勘ぐり”だが私の直感はけっこう当たることが多い。

テレビで藤原氏は「最低なのは英語を見事に喋りながら日本のことを聞かれて何も答えられない日本人だ」と言っていた。しかし、英語を見事に喋る日本人などそういるわけではない。何万人に1人であろう。そんな人が日本のことを知らないはずはない。あるいは、「見事に喋る」というのは見かけだけで、酷い英語を喋っているのかもしれない。ところが、日本人のなかには英語を喋らない人でも日本文化に無知な人はごまんと居る。どうせ日本文化を知らない同士であるならば、少しでも英語を喋るほうがまだましというものではないか。藤原氏は「日本文化を知らないこと」を「英語を勉強したためだ」とこじつけたいようだが、私には全く説得力をもたない。

私は小学生の英語教育には大賛成だ。その理由は英語の発音にある。口や顎、舌が未発達なうちに発音の基本をしっかり身につけさせることが大事。大人になってからでは、口内筋肉が固まってしまっているため発音矯正がたいへん難しくなるからだ。小学生は難しいことはさておき、発音の基礎をしっかり学び、大人になったとき恥をかかないようにして欲しいのである。




$Ansei's English のブログ


フジテレビに勤めていたころ、NYに5年も滞在したことのある人が「・・・に興味がある」というとき、I’m interested… ではなく I’m interesting… というので大いに困ったことがあります。interested という“胸にどかっとくる音感”がこの語の内容を示しています。英語の意味は音感と一緒に覚えなければなりません。interesting は外に働きかける意味で、自分が胸に“どしん”と受け止める音感はありません。音を重視した語感を身につければ、上述した馬鹿なミスはあり得ないのです。

子供のころNHKラジオの基礎英語講座で勉強していましたが、松本享先生は朗々とした美声で有名でした。先生はときどき講座の内容に関係なく英語の“音の美しさ”をデモンストレートすることがありました。シェイクスピアのジュリアス・シーザーから有名なアントニーの演説を朗々と読んでくれました。国民的英雄シーザーを刺殺したブルータスを微妙な言い回しで擁護するふりをする演説です。そのなかで何度も繰り返される Brutus is an honorableman が子供心にも妖しく胸に残りました。松本享先生の英語はいま思えばアメリカ英語でしたが、それでも詩の朗読は魅力的でした。英詩に興味をもったのはこのときです。

Robert Frost の Stopping by Woods on a Snowy Evening の最終部:
The woods are lovely, dark and deep,
But I have promises to keep,
And miles to go before I sleep,
And miles to go before I sleep.
何度この句を朗誦したことか!

T.S Eliot の有名な The Love Song of J. Alfred Prufrock の冒頭:
Let us go then, you and I,
When the evening is spread out against the sky
Like a patient etherized upon a table;
Let us go, through certain half-deserted streets,
The muttering retreats
Of restless nights in one-night cheap hotels
And sawdust restaurants with oyster shells:
Streets that follow like a tedious argument
Of insidious intent
To lead you to an overwhelming question..
Oh, do not ask, ‘ What is it? ’
Let us go and make our visit.

In the room the women come and go
Talking of Michelangelo.
以上はこの歳になっても復唱できます。

William Faulkner の The Wild Palms 最後の言葉:
Between grief and nothing I will take grief.

これには泣いた。この小説を読んだすぐ後に見た、ジャン・リュック・ゴダールの「勝手にしやがれ」でこれが出てきたのでびっくり。ベッドシーンの前、米留学生ジーン・セバーグがやくざ役のベルモンドに「ウイリアム・フォークナー知ってる?」と聞くと彼は「お前のレコか?」と答える。彼女はかまわずこの部分を読んで「あなたならどっちを取る?」と聞くとベルモンドは意に介さず「俺は nothing のほうがいい」と言う。 ゴダールやるね!私はすっかりゴダール・ファンになってしまった。

Samuel Taylor Coleridgeの Kubla Kahanの冒頭:
In Xanadu did Kubla Kahan
A stately pleasure-dome decree:
Where Alph, the sacred river, ran
Through caverns measureless to man
Down to a sunless sea.

早稲田の学生だったころ、ケンブリッジ出身の先生 Dr. David Friend の名調子が偲ばれます。
英語ってなんと美しい言葉なんでしょう!
英語の音にたいする憧憬なしに私の英語学習は成り立ちません。英語を喋ることが曲りなりにもできるようになったのは英詩のおかげです。

$Ansei's English のブログ


赤ちゃんは大人のしゃべる言葉を「耳で聞いて、それをしゃべって」言葉(つまり文法)を覚えます。3-4歳までに言葉(つまり文法)の基礎はできてしまうそうです。幼稚園、小学校に上がるにつれて文字を覚え、言葉の習得はさらに向上します。言語学的には、目で見たり読んだりする受身の行為によって覚えることを知的記憶(intellectual memory)と呼び、耳や口などの肉体器官を使って覚えることを運動記憶(motion memory)と呼ぶそうです。赤ちゃんは運動記憶で言葉の基礎を学び、後に知的記憶を動員してさらに言葉を覚えていくのです。つまり運動記憶が主で知的記憶は従です。

明治以降、わが国では英文解釈とか英文法詳解とか難しい言葉を使って100%知的記憶に頼った英語教育を続けてきました。運動記憶と知的記憶の両者があいまって理想の英語教育がなされる筈なのに、より大事な運動記憶を無視したのですから、それはまさに片肺飛行。日本人の英語力が進歩しなかったのは当然です。戦後になって英会話ブームが起きました。最近はカセットやCDなどが大量にでまわり、ネイティヴ・スピーカーの発音に接する機会が格段に増えてきました。しかし、その割には日本人の英語は進歩を見せていません。どうしてでしょうか?

日本中で英会話がさかんです。でも会話、会話といって Hi, how are you? とかWhere did you go today? などとやっていますが、これにどんな意味があるのでしょうか?こんなことを云うために英語を学ぶんですか? 私は会話という言葉自体が大嫌いです。会話教育そのものに問題があるような気がします。 言葉は人間の本質です。人間存在の根っこです。「初めに言葉ありき」というように、人間だけに与えられた高度な精神の営みです。私たちはもっと言葉に尊敬の念を持つべきではないでしょうか?私の意見では、「言葉の習得には肉体と精神が言葉の魅力にどっぷり浸からなければならない」のです。言葉の魅力を肌で感じてはじめて進歩があるのです。次回はこのことについて述べます。







$Ansei's English のブログ

日本人の英語べたについてよく言われていることは、「日本人は文法は知っているがしゃべれない。文法などどうでもいいから、会話に力を入れるべきだ」ということである。大学入試などに会話の聞き取り問題が増えているという。
文法などどうでもいい? でも、これって変じゃないですか?

私の意見:
「言葉を学ぶことはその言葉の文法を学ぶこと」、それ以上でも以下でもない。赤ちゃんは大人の言葉を聞いている間に自然と文法を覚えてしまう。大人はそういかないので外国語の習得が難しくなるわけだ。したがって“如何に効率よく文法を身につけるか”が問題になる。リィーディングも作文も会話も文法を学ぶ方便にすぎない。全てのゴールはただ1つ・・・“文法の習得”である。

日本人が英語をしゃべれないのは、英語を不得意とするのは、英語の文法を知らないからだ。それだけの話し。それ以上でも以下でもない。しからば文法を身につけるにはどうすれば良いか?大問題である。みんなが苦労している。私はこう云いたい。「徹底して英語に馴れること」。それ以外に妙案はない。しかしその際、決定的な意味をもつのは“音”である。英語を学習するに当たって、「“音”から入る…音に耽溺する・・・」これが文法を習得するうえで決定的な意味を持つ、と私は自分の経験から言いたい。(音と文法って関係あるの?と思う人があるでしょう。その辺は次の稿で詳しく説明します)