言葉の習得はゼロサム ゲームでは計れない
「国家の品格」の著者である藤原正彦氏は中曽根康弘元総理とのテレビ対談で「小学校での英語教育は国を滅ぼす」と言い放った。日本語の習得が充分でない小学生が英語の勉強を強要されれば、日本語を勉強する時間が減少し、国語の能力が低下する。結局、日本語も英語も中途半端にしか身につかない変な日本人が増えることになる。小学校の英語教育は日本文化もろくに理解できない「亡国の民」を量産するだけだ、というのである。
小学校5年生のときから英語の勉強を始めた私などは自分が「亡国の民」になった気分にさせられる。自分は“日本語も英語も中途半端にしか身につかず、和歌や能などの日本の古典にも無縁な恥ずべき日本人なのか”? 私は子供のころから日本の古典文学に接し、自作の和歌集「Anseiの和歌100選」というホームページを開設している。またプロの翻訳家でもある。しかし、藤原正彦氏のセオリーによれば、こんなことはあり得ないはずではないのか?
藤原正彦氏はたしかに立派な知識人・文化人なのであろうが、言語にかんしてはその本質を理解していないように思える。言葉は“氏がいうようなゼロサム”では計れない玄妙なものである。英語を3勉強すれば日本語は7になってしまうというようなゼロサム ゲームは適用されないのだ。むしろ、両者は重なって相乗効果を生むのである。私はこれでも物書きの端くれだが、色々な人の文章を読んで思うのは、外国語を真剣に学んだことのある人と、そうでない人の間には彼らの書く日本語に明らかな違いがあることである。それは文章の“文法的な強靭さ”や“構造的論理性”に如実に現われる。ある道に秀でた素晴らしい文化人が書く文章に、ときどき文法が怪しかったり、論理が一貫していなかったりすることがあるが、私はその理由の1つに“外国語を学んだ経験がないこと”があると睨んでいる。これは1種の“勘ぐり”だが私の直感はけっこう当たることが多い。
テレビで藤原氏は「最低なのは英語を見事に喋りながら日本のことを聞かれて何も答えられない日本人だ」と言っていた。しかし、英語を見事に喋る日本人などそういるわけではない。何万人に1人であろう。そんな人が日本のことを知らないはずはない。あるいは、「見事に喋る」というのは見かけだけで、酷い英語を喋っているのかもしれない。ところが、日本人のなかには英語を喋らない人でも日本文化に無知な人はごまんと居る。どうせ日本文化を知らない同士であるならば、少しでも英語を喋るほうがまだましというものではないか。藤原氏は「日本文化を知らないこと」を「英語を勉強したためだ」とこじつけたいようだが、私には全く説得力をもたない。
私は小学生の英語教育には大賛成だ。その理由は英語の発音にある。口や顎、舌が未発達なうちに発音の基本をしっかり身につけさせることが大事。大人になってからでは、口内筋肉が固まってしまっているため発音矯正がたいへん難しくなるからだ。小学生は難しいことはさておき、発音の基礎をしっかり学び、大人になったとき恥をかかないようにして欲しいのである。
