大阪ー!!!

 

 

 

 

USJを横目に

ライブまっしぐらでした。

 

 

NO LIVE,NO LIFE.

某ちなミンに捧ぐ・笑

 

ツアーはまだまだ続くよ♫

 

 

 

 

 

さて本題はそこじゃありません。

 

 

こちらの続きをば。

 

「今までぜっきーさんだと思っていたものは

 ぜっきーさんじゃないかもしれないね」

 

幸子さんに言われた言葉です。

 

 

 

まさにその通り。



それは

私自身のプライベートから

仕事面に至るまで

全ての土台の部分に

がっつりと侵食していて

 

 

私の中で

すでに

「当たり前」を通り越して

 

「それが私だから」という

確定された事実として

インプットされてしまっていたもの、でした。


 

「それが私だから」というものは

実は「それが私」ではなかったんです。

 

 

 

じゃあ、私って一体何?

私が今まで

わたしだと思っていた「もの」が

「わたし」じゃないなら

 

私って、一体なんなんだろう?

 

 

 

 

 

私はこの時

初めて、ノートワークというものの真価を知りました。

 

 

文字通り、その奥深さを思い知らされたのです。

 

 

 

今まで、私が「わたし」だと思っていた存在は

 

「人に合わせて作られた私」であり

 

それは、幼少期の体験の中で

 

生命を守るために

生きていくために

「そうせざるを得なくて作り上げてきた自分」だった。

 

 

 

それは、本来の自分と

ぴったりと同化しているから

全く、わからないんです。

 

 

境目がないの。

 

 

着ぐるみはさんざん、脱いできたけれど

 

着ぐるみを脱いだ!!と思っていた

「これがわたし!!」と思っていた

 

 

その先の、私がまだいたんです。

 

 

 

その

うすーーーーい皮一枚。

たった一枚。

 

 

でも、その先にいきたい

「わたし」にとっては

 

その薄皮一枚が

見えない膜になって

 

 

真実を、見ない。

事実を、見ない。

そういう自分を作っていた。

 

 

そう、例えるならば

 

感覚を鈍らせるために

ゴムでできた薄皮を一枚被っていた。

 

そう「痛み」に鈍くなる自分を

作っていたのです。

 


 

その「痛み」を感じていたら

ここでは生きていけない、と

子供の頃にそう思った「出来事」があり

 

 

「感覚」をとことん鈍らせることで

ある種の

生命維持装置みたいな

役割をさせていたんです。

 

 

 

それを感じたら、辛すぎる。

それを感じたら、悲しすぎる。

 

 

 

だから

そこを外してもらって

 

改めて

今の現実「事実」を直視した時

 

 

人生で一番、絶望しました。

 

 

 

 

この絶望はね

ちょっと質が違う「絶望」です。

 

 

ギャーギャーわめいて

苦しいとかしんどいとか

ウゲーとか

やばーとか

 

そんな軽いもんじゃない。

 

 

もっともっと深いところに

ナイフをサクッと差し入れられるような痛みでした。

 

 

 

気づくと

はらはらと

しんしんと

ただ静かに、涙を流す「わたし」がいました。

 

 

 

これだけ言語化を生業としていて

どんなこともわかりやすく説明できると

自負している私が

 

 

その事実を受け入れたくなくて

抵抗しまくって

言葉に詰まる。

声に出せない。

 

 

説明ができないんです、何も。

言葉にして表すことができないんです、自分のことを。

 

 

 

それは

「自分の中で解決していないこと」だから。

 

 

 

そして。

もっともっと「苦しい」と感じたことがあります。

それは

 

 

 

「解決も改善も、しなくていい」と言われたことでした。

 

 

 

 

 

ただ、視る。

ただ、そういう自分を視る。

 

 

こんなにも感覚を鈍らせて

こんなにも自分を傷つけていた

 

その「わたし」を

 

 

変えなくていい、と言われたことです。

 

 

 

ただ、視るというのは

究極の自分への愛でもあるし

 

また

自分が自虐行為をしていることを見つめることは

最大の地獄でもある。

 

 

 

人は、問題があると感じた直後に

すぐに「どうしたらいいか」

「どうしたら解決できるか」

を考え始める生き物です。

 

 

でも

すぐに解決しようとするのは

 

それを「直視したくない」からであり

 

 

ちゃんと見て

明らめて

そういう自分をまず、受け入れないとならない。

 

 

ちゃんと見ていないのに

解決しようとするから

余計に拗れるし

 

 

結果的に

現実にも多大な影響を与えてしまう。

 

 

 

「ただ、視る」とは

私にとって

その、薄皮一枚の皮膚を

引っぺがして

 

ほら、ちゃんと見て!!って

自分に対してやることで

 

 

血が吹き出るし

あちこち傷だらけだし

痛いし

辛い。

 

 

 

でも、そこの自分

その自分が

 

「イマココの自分」だし

 

 

そうだという自分を

ちゃんと視て

そして、許してあげるしかない。

 

 

許すしかやることがない。

だって、それが自分なんだから。

 

-----

 

 

あのね。

改善しないで「ただ視るだけ」って

本当に、辛いんだよ(笑)。

 

 

ただ、視るを続ける。

まるで修行のようでした。

 

 

人は

「ただ自分であることを、認めること」が

実は一番難しくて

 

よりよくなろうとするために

とっとと「何か」を入れ込もうとする。

 

 

そうしたほうが

楽なんです。

 

 

見ないで済むから。

逃げ続けられるから。

 

そして

「すべては最善だよね」

「起こるべくして起こってるよね」

 

 

そういう言葉で

全部、打ち消すことができるから。

 

-----

 

 

 

私はこの間も

大いにフラワーエッセンスに助けられました。

 

とにかく「がぶ飲みしてください」と言われたので

1日2リットルの水とともに

ガンガン飲みまくりました。

 

普段水飲む習慣がない私が2リットル飲むって

本当にすごいことだったんですが

 

 

とにかく、飲みました。素直に。

 

追加で送ってもらったエッセンスも合わせて

飲み続けました。

 

 

 

そうやって日々

自分を見ては

気づいたこと

思ったことを幸子さんに報告しつつ

 

 

 

ある日の朝

目が覚めたら

 

 

 

 

世界の見え方が

ポカッと変わってました(謎)。

 

 

 

次に続きます。

 

 

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次のブログでわかりますが

またしても久しぶりに

 

「思考は現実化する」関連の

「新しい無料プログラム」を

スタート予定です。

 

 

また、ぜっきーの

「ひたすら語るシリーズ」が

ここから始まる・笑

 

 

 

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