ただ、瞑想するこの時間。

 

ただ、静かに自分の内側を見つめるこの時間。

 

落ち着いていて

 

ゆっくりとした時間。

 

 

わたしが喉から手が出るほど

「欲しかったもの」だったし

 

同時に

「これがあったらもう、何もいらない」とまで

思うようになった。

 

それがこの「安堵感」だった。

 

こんなふうに

自分の中で感じれるものがあったのか。

 

 

日々、穏やかで

とても満たされている時間を

ただ、過ごすことを自分に許可した時

そこに浸り続けることを許可した時

 

 

 

気づいてみたら

 

あんなにわたしの中に溢れかえっていた

 

 

焦りや

不安や

「何もできない」

「何もやれていない」

「置いていかれる」

「どうせ出戻り」

「わたしは選ばれない」

そして、そこに対するジャッジが

 

文字通り全て、溶けるようになくなってしまった。

 

 

本当に毎日

何もしていないのに

じわじわ幸せで

時折、涙ぐむくらい幸せで

 

 

なんだもう

とっくの昔に

わたしの中に「欲しいもの」はあったんだ。

 

ていうか

ずっと前からここにあったんだと

初めて、気付いた。

 

 

 

この視座に立った時

どれだけ自分に鞭打っていたか

どれだけ自分に厳しかったか

 

自分の想像をはるかに超えるレベルで

 

 

 

私は、わたしにスパルタで

「こうするべき」を強いてきたことがわかった。

 

 

 

自分に厳しい人は

ほんとうに、自分への厳しさには気づいていないんだと思う。

 

 

「優しくしてるはずなのになぁ」と思う時は

大抵、表面的な部分だけ

目に見える部分で「自分に優しくしている風」な感じで

 

無意識の部分では

全くと言っていいほど、自分に優しくない。

 

当たり前のことだ。

生きていく上で

「自分に厳しくしないと」生きていけないという

思い込みを採用していたのだから。

 

 

 

「何もしない」と決めた時

当然、すんなりとそれを受け入れられたわけはなく

 

私は、櫻井えみさんに泣きついた。

 

怖くて。

 

 

えみさんの施術を受けたとき

「ぜっきーさんの中には安堵感が既にありますよ」と言われた時

すんごいびっくりして

ポカーン状態で

 

またそこから頭で考え続けていたんだと思う。

 

 

今回の「何もしない」は

マジで本当に、頭も完全ストップということだから

 

 

習慣化されすぎてもはや

肌と一体化しているようなレベルで

エゴの声が「動け、動かないと大変なことになる」と

責め立てるので

 

 

何もしないでいいのか

自我の部分は

怖くて仕方なくて

 

わーわーぎゃーぎゃー、騒ぎまくった。


 

 

この選択で本当に合ってるのか自信がなくて

これでいいのか本当にわからなくて

泣いたりわめいたりして

 

でも、それでも

自分の心は「もうやりたくない」と言っている。

 

 

「鞭打って」動かそうにも動かない自分。

 

だから、立ち止まるしかないし

やるしかないのだけれど

 

腹を括ってからも

何度も何度も

「やめたほうがいいんじゃないか」という

怖さに襲われた。

 

 

「自分の存在価値を証明することが

 生命に直結しているので

 それをやめるということは

 命に関わるくらい恐ろしいことに感じるようになっている」

 

これは、えみさんに見てもらった時の

私の状態だった。

 

 

瞑想を知らなかったら

そしてあの安堵感に触れる瞬間を体感しなかったら

 

私はきっと

この「何もしない」を選べなかった。

 

エゴが騒ぎ出したら瞑想して

恐怖に襲われたら深呼吸して

 

そうやって

内側にある安堵感を思い出して

「そうだ、これがあったんだ」と

自分で思い出す。

 

「大丈夫、落ち着いて。何も起きてないよ」と

自分に声をかけ続け

 

現実に呑み込まれてつい、動き出しそうな自分を

何度も何度も引き留め

 

そうやって

行ったり来たりを繰り返していたら

 

すごいことがわかった。

 

 

 

焦りから現実を見ている時に湧く「ヒラメキ」

これを「インスピレーションだ」と勘違いしていると

 

確かに、「ふと」思いついたことなんだけれど

 

この原動力から「ヒラメいた」ことは

その後の行動が全て

「力技」と「テクニック寄り」になる。


 

心地よさも、なくはない。

楽しくないわけじゃない。

だけどそこには

今、感じているような安心感とか安堵感は、ない。

全く。

 

 

つまりこのモードの時が「無意識に自分に厳しい時」だった。

 

「自分に鞭打って」やり方に沿ってやる。

結果はそれなりに出る。

でも、結果に満足いかないだけではなく

なんとなく心にどこか、満たされていない部分がある。

 

 

心を、円だとすると

埋まっている部分と埋まっていない部分が

まだらに存在しているような

綺麗な丸になっていないし

濃淡が、極端に違うような

 

そんな感覚。

そんな感じだった。

 

 

安堵感というものが

体感としてわかっていなかったら

 

この、無意識に自分に厳しくなっているモードになんぞ

気づくはずがない。

 

 

それは、自分にとっていいことだと思っているから。

それが厳しいことだなんて、わかっていないから。

 

 

 

自分ビジネスを始めたときから

私は、ひとつコンテンツを作ると

なぜか精神力がガッツリ削がれていて

次に動くまでに相当な時間を要した。

 

 

やりたいことはあっても、作る気力がない。

気力が溜まるまでまた休む、ということを繰り返していて

そうしているうちにお金を使ってしまったりして

お金がゼロになるとまた動き出す、という

変なサイクルを持っていた。

 

意図的にお金をゼロにするんじゃなくて

気づいたらなくなっている感じ。

 

だから自分ビジネスをしていても

次への原動力に繋がっていない感があった。

 

 

 

つまり

「自分に厳しくして稼いだお金」だから

自分を癒したり

ストレスを解消することに

どんどん使ってしまっていたのだ。


 

そして

純粋にインスピレーションで

思いついた時でさえも

 

自分の「心地よさ」より

ビジネスセオリーを無意識に採用して

すごい、頭と力を使って

いろんな仕掛けを施して

そうやってビジネスを回していた。

 

 

それが「ゲーム感覚」で楽しい時期もあった。

チェスの駒を思い通りに動かしていくような快感があった。

 

 

もう

そんなやり方はしたくない。

それがエネルギー漏れの最大の原因だったから。

 

 

 

とはいえ。

それで「そこそこうまくいってる」状態だから

人は、なかなかそれを手放すという段にいかないのだ。

 

 

私は今回のこの完全公算がなかったら

今でも「とはいっても」と

目の前の焦りや不安を解消するために

同じようなビジネスをやり続けていたと思う。

 

 

でも、自分では思っていなかったところで

自分への無意識の

そして底なしの厳しさを見つけてしまったので

 

 

 

もうそれは、やらない。

自分のためにやめる、と決めた。

 

 

恐怖とのせめぎ合いの中

今まで学んできたたくさんの理論に助けられて

ああそうだ、そうだったと

忘れかけていたことを何度も思い出して

 

そうやって

理論を実践として

生の言葉として

 

自分の中に、少しずつ浸透させていったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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この後

不思議な出会いがあり

 

 

そして私は生まれて初めてのことを

たくさん、体験した。