前回
少し愛着障害について書いてみた
両親の子供時代のこと
二人とも
物心がつく頃には
父は父だけ
(父はもう少し複雑だけど
それは別に書きます)
母は母だけの家庭だった
私にとっては
それぞれ
祖父と祖母になるけど
私が生まれた時に唯一生きていた
母方の祖母も
私の物心がつく前に亡くなったので
私には
おじいちゃんもおばあちゃんもいなかった
父も母もそれぞれ
昭和ひと桁、ふた桁生まれで
時代の背景もあったとは思うけど
両親自身から聞いていた
それぞれの子供の頃の話しは
しっかり
親の愛情を受けられた家庭では
なかったんだろうなと
想像している
まず
母の事から
長崎県にある対馬と言う島で
生まれた母
母が3歳の頃に
お父さんが亡くなったらしい
姉が3人
弟が一人の5人きょうだい
母のお母さん
(私にとってのおばあちゃん)
女手ひとつで5人の子供を育てた苦労は
どれ程のものだったんだろうか・・・
ただ
そういった家庭環境の中
母もやっぱり
寂しい幼少期を過ごしたんじゃないかと
思っている
母がよく言っていたのは
中学生の頃の話しで
若くして嫁いだお姉さんのところに
次々と子供が生まれて
週末になると
手伝いに行かされていた
月曜の早朝
学校に行くために
一旦家に帰る
まだ夜明け前の暗い田舎道?山道?で
怖い思いを何度もした
怖い思いとは
例えば
誰もいないのに
ガヤガヤと
ずっと人々の話し声が聞こえる
傷ついた兵隊さんを見る
と言うたぐいの話し
対馬は戦地になった歴史がある事を
ずっとあとになって知ったけど
この手の話しを私は信じている
(私自身も経験があるし)
他にも対馬での
恐い話し
不思議な話は聞いていたけど
ここでは割愛
母の子供嫌いのルーツは
ここにあるんじゃないかと
思っている
私の結婚が決まったあと
「子供が出来ても
面倒は見ないからね」
と何度も言われた
その度に
「わかってるよ」と
答えたけど
何度も念を押すほど
イヤだったんだろうな・・・
話を戻して
母は
本当は高校に行きたかったけど
そんな余裕がない事もわかっていたし
弟を高校に行かせようとの思いもあり
仕送りする為に
中学を卒業後
結婚して大阪に住む姉(長女)の家に住み
近くの工場で働いた
その姉から
食事代として請求されていた額が
いくらだったのかは忘れたけど
銭湯代などを引くとほとんど残らない金額で
仕送りどころではなかったらしい
そこから1年後だったか1年半後だったか
このままでは仕送りも貯金も出来ない
すんなり姉の家を出るのは難しいと思った母は
田舎に残る姉に
「ハハキトク」の電報を打ってもらい
一旦実家に戻った
ここでの疑問
母危篤で
その姉はなぜ一緒に帰らない?
そこから
母はもう一度大阪に出て
今度は住み込みで働く事にした
男子寮、女子寮のあるパチンコ屋さん
母はそこで父と出会う事になった
anprima
本間朋子
