統一教会の常識とはこの社会の非常識。この記事は、この社会の常識を当たり前のように叫んでスッキリしようとする記事である。
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そういえば、かつて日本の統一教会は「所有権返還」を声高く叫びながら、この世で築いた富はサタンの所有であるとして、全ての金銭を神に捧げよ、とやっていたものだ。
そういう私も、恥ずかしいかな、稼ぎの多くを教会に献金した。その心境は、清貧を尊ぶ心意気であった。
人間の物欲・金銭欲は利己的でサタンの好むもの。だから、そうした自己中心の欲望を自ら否定して、利他的な隣人愛を施す時、愛に満ちた教会が出来上がるなんてことを真剣に信じていた。
私の場合、信仰生活の後半の10数年は、大した献金もしてこなかったけど、その心の中は満足な献金もできていないという心の負債が積もっていたものだ。
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しかし、日本の統一教会の信徒たちは、献金摂理に明け暮れて、借金や破産する信徒が相次いでいった。そんな中、教会の雰囲気もどこかどんよりとし、疲弊していたように思う。
その一方で、韓国の統一教会には、そんな疲弊した雰囲気はなかった。結婚前の性交渉を禁止する純潔教育は韓国でも同様に厳格であったが、献金を強要する雰囲気は皆無だったのである。
そんな韓国人信徒を、疲弊した日本人信徒が見ると、どこか生気があり、イキイキとしているように見えた。しかし、そんな韓国人たちは、日本のような自己犠牲の信仰心を持ち合わせてはいなかった。
そんな韓国式の身勝手な信仰を、ある日本人信徒は批判した。ある者は、日本は特別な使命や国家的罪を負っていると言った。そして、そんな韓国式を、日本人信徒の中には自ら取り入れようとした者もいたのであった。
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さて「衣食足りて礼節を知る」というかの有名な中国の言葉がある。
この言葉から考えてみると、韓国人信徒たちの生き方はむしろ正直で、自らの衣食住への欲求を過度に否定することはなかった。さすがは、礼節の国!と言われることだけはある。
しかし、清貧を尊んだ日本人信徒は、献金摂理に追われ、結局は人としての礼を欠き、節度も欠くようになった。
つまり、日本は、信仰の祖国であるはずの韓国式信仰とは真逆の道を行ったのである。そして衣食住が不足すれば、人として礼節などどうでも良くなってくる。
「衣食足りて礼節を知る」
そんなのは当たり前だい、そう。熱烈な日本人信徒を除き、それは至極、当ったり前なのである。
最後に、こんなのは大した記事じゃぁこざぁませんが、どうかどうか礼節を愛する慈悲の心で以下をクリック!!
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