統一教会の一世とは「入教」という狭き門を無事くぐり抜けた強者たちである。彼ら、彼女らは、街頭や大学校内、家への訪問などで、知人または見知らぬ信徒から声をかけられて、それについていった者たちであった。私の感覚では、そこでついていくケースは100回のうちに一回もないであろう。
さらに具体的な数字を示した別の資料がある。書籍『我らの不快な隣人』には、ビデオセンターに新規で訪れた407人のうち、実践トレーニングまで進んだのは14人であったという。さらに祝福まで至るのは1%程度ではないかともいわれている(参考: 米本さんのブログより)。
少なくない数字だが、狭き門であることには違いない。
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こうして統一教会の祝福を受けた一世信徒たちは、理想の夫婦を目指し、子女を生んで、理想の家庭を目指すことになる。そしてその親たちは子供である二世同士が互いに祝福を受けてほしいと願った。つまりこうした祝福二世を育てること、このことこそが祝福一世世代の至上の願いであったと言って過言でないだろう。
しかし、上の「1%」という数字を思い出して欲しい。俗に「マインドコントロール」と言われるような教育を一世信徒に施したとしても、最終的に残るのはごく少数だったのである。
二世の場合、最終的に祝福を受けるという関門を突破する、この数字が何%になるのか、統計の数字がなくてわからないが、少なくとも50%を超えるということはないであろう。つまり二世に祝福を受けさせるということは、一世にとって始めから不利な賭けなのである。
実際の数字はそれよりも遥かに小さいと思う。つまり大半の祝福二世は、祝福を受けず、教会にも残らないのである。
もし親である一世が、それでも祝福二世に信仰の道を進むことを過度に期待し、その手段として信仰の名の下、二世である子供たちに厳格なる禁止事項と強制事項を当てはめようとすれば、その“信仰の道”は自ずと険しいものにならざるを得ない。
そこには親の素質の前に子供の素質の問題がある。どんな場合でも祝福二世を育てようとすること、そこには1%なのか何%なのかわからぬ厳しい絶壁の数字の壁がある。
すなわち祝福二世を育てるというのは、簡単に言って初めから無理ゲーなのである。こんなことは、統一教会の教祖の家庭の実情を見ていれば、すぐにでもわかるであろう。