宗教二世の問題を語るとき、当たり前のように忘れられがちとなる存在がいる。それは一世の存在である。
二世の問題の原因を作った存在が一世であるため、当事者である二世にとって、親である一世は克服すべき現実の障壁であり、忘れたい存在でもある。
だから一世の存在を、冷静に見ることは難しく、カルトにハマった親であるといったように、立体感のない単純化した見方がされがちである。
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宗教二世の問題は、二世の生きづらさや悩み・苦しみの問題だから、二世自身の問題であることは確かである。
その二世の人生にとって、親である一世の存在が障害になっているのならば、二世は親を一時的または半永久的に切り捨ててでも、健全な人生の道を切り開くべきだともよく言われる。
二世にとって、人生を束縛する宗教や家庭環境から離れて、人生を立て直すための環境が必要だからである。二世問題は、そうした観点から語られるし、それはそれで良いと私も思っている。
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最後に、忘れ去られた一世の存在に触れて、話を終えたい。
二世問題において一世の存在は、腫物に触るかのように扱われている。問題を作り出した原因となったのだから、それは仕方ない部分がある。
しかし、一世は、二世問題の当事者の片側である。いわば一世と二世は、二世問題の表と裏なのである。どちらが表であるかは、どちらに主眼を置くかによって異なってこよう。
同じ宗教を信じていても、二世の重荷になる一世がいれば、比較的そうでない一世もいる。これもまた事実である。
したがって、そうした意味から一世は二世問題に向き合うべきものと考えている。二世は一世を忘れてもいいが、一世が自らのことを忘れるのはどうかと思う。
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