統一教会、そこにあったもの①〜この世を生きる希望〜 | 波立つ海に沈みゆく月 ~旧統一教会さよならブログ~

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統一教会は、だいぶ前から衰退している。二世の未来は全体として明るくない。
これに最後に責任を持つのは、本人と社会だと思ふ。(しばらくブログの本説明文をいじります)

この社会の一般の人々にとって、または大多数の人々にとっては、統一教会なんてところは怪しい宗教で、そこに入信する人は浮世離れした特殊な人だと漠然と思っているに違いない。

既に棄教した私から見ても、確かに統一教会はかなり変わった宗教であったと思う。しかし、そんな統一教会であっても、現実世界に存在する一つの宗教であったことは否定できない。そして、そこに入信した人間は非現実の教理を強固に信奉するロボットのように一見見えることもあるが、その内面を見てみれば、みな人格を持った人間である。

だから、信徒はその教理の信奉者だとは言っても、その考え方や生活態度には人により個人差があり、そうした信仰の営みは人としての営みの範囲内にある。(異論はあろうが、この考え方が、私の今の基本的なスタンスである。)

かつて統一教会を信じていた当時の私の場合は、この世界に絶対的な愛なる神様がおられるのだということを教わり、この地に必ず不幸のない地上天国が造られるのだという教理に魅せられて、それはほとんど盲信と言える状態にあった。けれど、その心のどこかでは、同時に、いつも教会の現実に対して疑問や葛藤も抱えていた。私の心の奥底では何かが違うという納得できていない思いが常にあったのである。

だから、私は統一教会にひどくめり込んでいたものの、心の中で常に何らかのブレーキも働いていた。棄教した今になって思えば、私は統一教会を絶対的に信じようとしながらも、現実社会を否定する傾向の強いその“教理”の枠組みの中で、現実社会と教理との妥協点を探そうと必死だったのである。


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さて、本テーマでは、現実と信仰の狭間にいる信徒たちの心の葛藤や両面性があることを前提としたその上で、信徒たちが統一教会にのめり込んだ理由の方を書いていきたい。信徒たちにとっては、確かに自らがその心に欲した何かが統一教会にあったのであって、決して単に統一教会に騙されたというものではなかったのである。

信徒たちは統一教会の何に魅せられたのか。

その答えは人により個人差があると思われるが、ほとんどの信徒は、そこに生きる希望があったと答えるように思う。そして、人により、その希望とは、神と霊界の存在、愛ある家庭の実現、人類の救いの実現、幸福な国と社会の実現などであったと思う。

私の場合は、人類を愛し救おうとなさる「神」という存在を教えてくれた統一教会に、無限の希望を抱いたのであった。そうした心の希望は、私の生き方を前向きにし、時には向こう見ずにもさせた。

そして、棄教した今でも、私は、そうしたこの世を生きる希望を求めているのである。そうした心の動きは、決して怪しいものでも特殊なものでもないと思う。けれど、この社会にそんな“希望”は簡単に見出すことができない。

この世を生きる希望。統一教会には、確かにそうしたものがあったのである。


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(2021.2.18 記事全体の表現を修正し、少しだけ追記しました。)