五條市岡町の歴史研究家窪田照久氏が
20年かけて調査、収集した資料をもとにした講演会が
急遽場所を天誅(忠)組記念館に変更して開催されました。
講演に先立って、天誅(忠)組記念館館長草村克彦氏より、
司馬遼太郎と天忠組作品とのお話がありました。
『おお大砲』は、天忠組が高取城を攻撃した時に
高取城側は徳川家康から賜わっていた大砲を300年ぶりに使った時に
その弾に当たった天忠組側の人の鉃兜にあたり気を失ったというような逸話を
面白おかしく書いてあるそうです。
講演前の窪田氏。
参考資料をたくさん手に持って控えておられます。
五條市立民俗博物館(長屋門)で現在展示中の
五條代官史跡巡りの冊子です。
今回の講演ではこの冊子の内容をすべてお話していただくことができませんでしたので、9月16日に後半の部分を講演していただきます。
そのため、資料館での展示も本来は8月31日までだったのですが、
講演に合わせて期間を9月10日まで延長してくれることになりましたので、
ぜひ長屋門に出向かれて見学されることをお勧めします。
五條代官所は寛政七年(1795)に設置され、明治維新で廃止されましたが、
その間に14名の代官が五條に赴任してきました。
しかし五條代官所に赴任してきた後に離任後死去されたり、
五條で死去されたり殺害された人が6人にものぼります。
赴任してくる代官にとって五條という地は鬼門だったのでしょうか。
代官というと時代劇でイメージされる悪代官を思い浮かべますが、
ほんとうの姿は市長であり、税務署長であり、裁判官であり、警察署長であるといった多忙な日常を過ごしていたようですが、
その多忙な仕事の割には代官の手当は150俵と少なかったそうです。
初代代官は「川尻甚五郎 春之(はるの)」から始まり
2代目「池田仙九郎但季(ただすえ)」
3代目「辻甚太郎守眉(もりよし)」
4代目「竹内平右衛門信氓(のぶたみ)」
5代目「矢島藤蔵}
6代目「青山九八郎(禄平)秀堅」
7代目「蓑笠之助正路」
まで、それぞれの代官について詳しい説明がありました。
それぞれの代官の五條代官所にくるまでの赴任地の代官所を、
或いは東京での住居跡を、また各地にある菩提寺や墓石を探し求めて
あちらこちらにいかれています。
歴代の代官は幕臣ではあったのですが、
経済的にはそう恵まれていなかったようです。
しかし代々立派な人が五條代官所に赴任し、領民も安定した暮らしぶりだったとのことでした。
それぞれの代官について詳しく調査されており、
後半の講演で残りの代官についてお話を聞くのが待ち遠しくなりました。