何を言うべきなんだろう。いや。言うべきことなんてないのかな。ただ、伝えたいことがある。

だから、このブログをずっと書き続けてきたのかな、って気はしている。

君と別れるのが寂しいのか。分からない。本当によく分からない。僕が君にあげた小説の言葉を借りるなら、君という遊び慣れた大事なおもちゃを失っただけの話かもしれない。ただそれだけの話なのかもしれない。

これから結婚に向かおうとしている君の見送りに行って、僕はどうしようというのだろう。




君と会ってまだ3年も経っていないのに、君と会って遊びまくっていたのが、もう遠い昔の出来事のように思える。遠い昔の出来事。

だけどあの時間にすべてのことが詰まっている。

付き合っていたわけではないけど、君と僕の大切な時間であり、おおげさにいうと、二人の歴史だ。そして、あの時期があったから、今日までこうして関係を続けられたんだと思う。



これから先、まだ僕らの未来はあんのかな。それはわかんない。それは君次第で僕次第。それを確かめるために、君を見送りに行こうと思う。
君には、いや、君だけではなく僕にもかな、何かが欠けている。欠けているものが何なのかを一言で説明するのは難しい。

もうすぐ君とも離れ離れになる。その現実感すら希薄だ。

なんでこんなに希薄なんだろう。

それは、離れ離れになるけど、なんだかんだで僕らの関係は続くと(お互いに)思っているからなのか、離れ離れになることを身にしみて分かっていないのか、離れ離れになるという現実から目を背けているからなのか。

たぶん、どれもそれなりに当たっているし、それなりに違う気がする。


僕はまだ君に言っていないことがある。それを君に伝えるタイミングがあるのか。それすら分からない。
君の服をたくさん見れるのになぁって。こないだの君のカジュアルな服を見て、そう思った。

もう、しばらく会えないし、お互い暇だし(笑)最近は頻繁に会ってるけど、話をしたいとか、美味しいもの食べたいとか、会うための理由はいくつかあるけど、案外さ、君の私服を見たいっていうのが大きい理由かもしれない。


ここ半年、仕事服ばかり見ていたし、そんなイメージがついてたから、カジュアルな半袖のニットは、大学生の頃に着ていた服だということもあって、かわいらしかった。

昔、ある年上の女性から、あなたのことが気になるんだけど自分でもどうしてか分からない、と言われたことがある。その女性はきれいで非常に魅力的な女性だったが、既婚者だった。二度ほど食事をした。僕の家に遊びに来たこともあったが、男女の関係にはならなかった。あなたと話をしていると気が落ち着くし楽しい、というようなことを言われたが、僕はどうしてそう思われるのかが分からなかった。


そのあと、しばらくして彼女から言われた。


「なぜあなたが気になるのか。セラピストと話してようやくわかった。小さい頃に別れたきりなので、ほとんど記憶がないんだけど、わたしの父は無名の音楽家だった。それで同じ音楽家、つまりあなたと一緒にいると、そこに父親の影を見たんだと思う。だから楽しくて落ち着いた気分になれたんだと思う」


僕たちが人を好きになるとき、理由が分からない場合が多いのは、意識よりやや深い部分が働いているからではないかと思う。つまり普段の生活で使っている意識よりやや深い部分で好き嫌いが決定される。よく言われることだが、普段僕らは脳の10パーセントぐらいしか使っていないし、記憶のすべてを意識的に把握しているわけではない。


話をさっきの某企業勤務の女性の話に戻すと、彼氏の年収が自分の半分だったことがわかって彼女は引いてしまった。自分が本当に彼のことが好きかどうかを疑うようになってしまった。単純に考えるとその女性は、男の価値を年収で判断してしまう計算高い女、ということになってしまう。しかし、恋人の年収が自分の半分だった、と知ったときの彼女の心の動きはそれほど単純ではないだろう。


「この男は、年収がわたしの半分だということが平気なんだろうか。妻の半分しか稼げなくてもそれでいいと思っているのだろうか。男女の関係というものはそれぞれの年収なんて関係ないと考えているのだろうか。年収が半分だということは悪い表現をすると、わたしにたかる、ヒモ、だということになるかもしれないと思わないのだろうか。この男は、年収には関係ない魅力があると思っているのだろうか。ひょっとしたらこの男はわたしの経済力に惹かれているのではないだろうか。わたしの経済力が目当てではないということをどうやって証明するつもりなのだろうか。どうやらこの男はそんなことはどうでもいいと考えているようだ。そういう男を一生の伴侶としてもいいものだろうか」


その女性は、そういったこと(上に書いたことはあくまでもたとえばの話だけど)を意識よりやや深い部分で思ったのかもしれない。意識よりやや深い部分で思ったことは、普段の生活の中ではなかなか言葉にすることが難しい。なぜ彼氏を嫌いになったの?と友人から聞かれてうまく答えられない場合があるのはそのためだ。


本当に彼のことが好きかどうか自分でも分からないことがある。自分の気持ちを確かめる方法で、もっとも一般的なのは他人に相談することだ。不思議だが、仲のいい友人(ただし僕はのぞく)や親友よりも、たまた電車で隣り合わせた人に対してのほうが率直なことを言えることがある。一般的ではないが、カウンセラーやセラピストに話してみるという方法もある。


また意外に効果があるのは、自分の気持ちを文章に書いてみることだ。だがその場合は決して自分の気持ちを飾ってはいけない。率直に、相手の好きなところ、嫌いなところ、改めてもらいたい態度、不快に思ったこと、いいなぁと思ったところ、などを書いてみる。書くことで自分の気持ちがはっきりすることは多い。悩んでいる人は、夏休みの作文を書く感じで一度試してみたらどうでしょう。

先日、某有名企業で働く友人と話をしていて、プロポーズ(のような話)をされているんだけど、彼の年収が私の半分ぐらいなんです、という話題になった。5歳年下の彼は普通の会社に勤めているんだけど、この不況で収入が減って、労働時間だけが異常に長いという状況らしい。


「年収が半分でも好きだったらかまわないんじゃないの?」


と、僕は言った。


彼女は「それが好きかどうかわからなくなってきたんです」と答えた。


好きかどうかわからなくなってきた理由が彼の年収にあるのかどうかは分からないが、少なくとも影響はあるだろう、彼女はそう言った。


以前も書いたかもしれないが、恋愛というのは意識よりやや深い部分で進行したり停止したりする。つまり、この人はいい人だから好きにならなきゃ、と意識して異性を好きになる人はあまりいない。この人は大企業の社長の息子だし好きにならなきゃ、みたいなことを言う人は確かにいるかもしれない。この人は医者だし都心に広いマンションを持っているので好きにならなきゃ、と思うような古いタイプの人もまだまだ多いかもしれない。僕はそれを否定したいわけではない。だが、そういう発展途上国型の考え方は、日本ではいずれ限られた下級階層に限られたものになるだろう。


たとえば、前述した某有名企業に勤める年収1500万みたいな女性は、彼が医者だからとか、金持ちの二代目だからという理由だけで男性を好きになる必要がない。自分で好きな男性を選ぶことが出来るからだ。そういう先進国型の恋愛の場合、意識よりやや深い部分で、相手を好きになることが多い。どうしてあの人を好きなのか分からないけど好き、というケースが多いように思う。


そこには尊敬があるのかもしれないし、セックスがいいのかもしれないし、母性本能をくすぐられるのかもしれないし、どういうわけか一緒にいると和むということかもしれない。誰が見ても絶対別れたほうがいいというような、たとえばまったく生活力のない男とか、暴力団員とか、自分でもどういうわけか分からないまま相手を好きになることは少なくない。

幸福は人生に満足することだ、という人もいるし、幸福は自分でつかみ取るものだという人もいる。あるいは、ちょっとした気持ちの持ちようで、幸福は訪れるものだ、というようなことを言う人もいる。本当だろうか。本当だとすると、満足するためにはどうすればよいのだろうか。またどうやって幸福というものをつかみ取ればいいのだろうか。ちょっとした気持ちの持ちようで、たとえばホームレスでも幸福で充実した人生を送れるのだろうか。


結婚さえできれば幸福になれると本気で思っている女性はもういないのではないだろうか。金持ちの男と結婚すれば幸福になれると本気で思っている女性はどれぐらいいるのだろうか。


こうすれば必ず幸福になれる、というモデルは存在しないし、昔も存在しなかった。誰もが求めているのは、必ず幸福になれるというモデルではなく、こういう風に生きたほうが不幸になるリスクが少ない、というモデルなんだと思う。


それでは、結婚したほうが不幸になるリスクが本当に少ないのだろうか。きっと誰も答えられないだろう。当たりまえのことだが、個々のケースで違うから答えられないのだ。それなのに雑誌やテレビでは、結婚したほうが幸福か、それとも結婚しないほうが幸福か、というような二元論の括り方で議論をする。白か黒かという二者択一の考え方は非常に楽だが、危険でもある。


我々は、女性にとって結婚は幸福の条件なのか、というような設問の文脈しか持っていない。個人の概念が希薄だからだと思うのだが、僕個人の考えはまだまとまっていない。



(とりあえず終わり)

どうして結婚しないのか、メディアもそうだし、適齢期の娘(や息子)を持つ親や、おせっかいな親戚はそういう問いを立てる。だが、その問いはどこか変だ。適齢期の男女が結婚することは世の中の常識だという前提に立っているからだ。なぜ昔は結婚することが常識となっていたのか、という問いのほうが問題を明確にすることができる。昔の人は男女間に愛枯れ場結婚するのが当然だと思っていたわけではない。昔の女性にとって結婚することは生きる上で有利だったのだ。


女性に参政権もない時代、女性の大学進学率が数パーセントだった時代、未婚で生きていくのは大変だった。だから女性は結婚した。そして結婚は常識になった。結婚が絶対的に有利ではなくなった今、そういった常識に縛られるのは愚かなことだ。だが、多くの親が娘には結婚して欲しいと思っている。


都心のレストランなどに行くと、いろいろな女性がいるが、大雑把に分類すると、きれいな女性か、お金持ちの女性か、仕事の出来る女性の三種類しかいない。ついでに言えば、お金持ちの女性とは、夫や彼氏や実家がお金持ち、というのも含まれる。もちろん、きれいでお金持ちという女性もいるだろうし、お金持ちで仕事も出来るという女性もいるだろう。仕事が出来てきれいな女性もいるし、きれいでお金持ちで仕事もできる女性もいるだろう。だが、貧乏でブスで仕事ができないという女性はそういう都心のレストランには一人もいない(気がする)。


もちろん、都心のレストランに行くことができなければ充実した人生とは言えない、ということはない。また都心のレストランが必ず美味しいというわけでもないが、値段が安くて美味しい店より、値段が高くて美味しい店のほうがより美味しいという説もある。また、美味しい食事やワインやレストランは確かに充実感を与えてくれるものだ。ちょっとした悩みが消えることもあるし、豊かな気持ちになれることもある。


そういった都心のレストランに行けなくても、ワタシは充分に充実した人生を送っていると言えるのはどういう女性だろうか。


僕は、そういう都心の高級なレストランに行かなければダメだと言いたいわけではないし、行けるように努力しようと低減したいわけでもない。そんな努力には何の意味もない。だが、テレビやメディアは絶対に教えてくれないが、そういったクラス分けは静かに進行している。


そういう歴然とした格差が露わになったとき、それでもワタシは幸福だと言えるのはどういった人たちなのだろうか。もちろん誰もが幸せになりたいと思っているし、充実した人生を送りたいと思っている。自分の子供だけは幸福になって欲しいと必死に働いている親だってたくさんいるだろう。だが、幸福な人生、充実した人生というのはいったいどういうものなのだろうか。


幸福で充実した人生を送るためにはどういう女性であるべきなのだろうか。誰をモデルにすれば幸福で充実した人生が送れるのだろうか。

この人と結婚したいという男性に出会いたいとは思うけど、とにかくどうしても結婚したいという風には思わない、と、ある女性の友達が言っていた。


もし僕に20代後半ぐらいの適齢期の娘がいたとしたら、僕は娘に結婚して欲しいと思うだろうか。結婚さえしてくれればいいとは思わないだろう。法的に籍を入れたからといって、実は何かが保証されるわけではなからだ。僕が適齢期の娘の親だとしたら、僕は彼女の安心のために何を望むだろうか。彼女に必要なものはなんだろうか。


僕が仮に大金持ちで娘に莫大な遺産を残してあげればそれで安心するだろうか。お金はもちろんあるに越したことはないけど、それで働く意欲を失ってしまうかもしれない。寄ってくる男がみな遺産目当てなのではないかと猜疑心の塊みたいになって逆に不幸になるかもしれないし、そんなことを考えすぎて不安になるかもしれない。


申し分のない理想的な男と結ばれれば安心できるだろうか。経済力も人間的魅力もあって、優しい男性と結婚してくれれば、それで安心できるだろうか。離婚しても莫大な慰謝料が手に入るような、そんな男だ。だけど離婚したら寂しい人生になるかもしれない。子供が生まれていたら離婚もしづらいだろうし、離婚したとしても一人で子どもを育てていくのはきっと大変だろう。もしかしたら僕が親だったらそう思ってしまうかもしれない。


親に限らずだけど、結婚するのであれば(しなくても)、時分の親しい人には幸せになって欲しいと願うのが普通だ。だけど、じゃあどうやったら幸せになれるのか、幸福に生きていくことが出来るのか、その答えは簡単ではないと思う。一昔前なら、大学を出れば、良い企業に就職すれば幸せ、という考え方が一般的だった時代があった。つまり、同じぐらいの容姿ならば、頭がいい女性が選ばれるのだろうと考える人が多かった、ということだ。


僕の周囲の、結婚していない30代の女性に、なぜ結婚していないのかと聞いてみると、結婚した友人が幸せそうに見えないからだ、という答えが多かった気がする。子どもには手がかかるし、そもそも自分の時間が持てない。結婚してしばらくすると夫はかまってくれなくなる。かまってくれないだけならまだしも、子育ては基本的に妻任せということが多い。他のお母さんたちや、親族との人間関係もむずかしい。いつもそういう話を聞いていると、自然と結婚する気がうせてしまう、彼女たちはそういうことをよく言う。


(つづく)

お互い仕事辞めてるのに、合間の時間を見つけては電話して、仕事の話なんかしている。



何のために?(笑)



しかも、電話をとったら『お疲れっす』だし(笑)


ピッチほしいなと思うけど、実際話す時間はそんな長くはないんだけどさ、なんか欲しいなぁとは思う。繋がっていたいんだと思う。



たとえば彼が結婚という繋がりを欲しているように、僕は僕なりに君との関係を保ちたいのかな。だから彼が毎日電話して必死に繋がろうとしているのは、良し悪しは別として、気持ちは分かる。僕だってある意味では必死だしね。



君が以前、僕らの関係を『なんだかんだでたぶん続くんじゃないですか?だいぶ仲いいし』と言っていた。確かにそんな気はするし、君がそう思ってくれているのはすごく嬉しい。だけどスキマを埋めるのは簡単じゃないんだぜ(笑)



一つだけ確かなことは、どれだけ電話しても、どれだけ会っても、君との関係がずっと続くと確信できない、ってことかな。
駅へのエスカレーターに乗る。ここまで来てもまだ靴飛ばしやろうかどうかちょっと迷ってる君は、小悪魔みたいな顔してる。というか、ワクワクして楽しそうだ。僕は手を掴んで君の靴飛ばし体勢が整わないように足でブロックしながらワクワクしてた。たぶんコイツ飛ばす、なって。



案の定、飛ばす。

天井にぶつかる。

靴ボロボロ。

黒ピカピカ靴なのに。

まぁでも楽しいから。




疲れて君はホーム(の端)に座る。まだ飛ばそうとしているので、僕は靴を脱がせて持った。














いつもこうだったよな

。公園のすべり台をパンツ丸出しで滑ったり。

鉄棒でくるくる回ったり。

ブランコでどっちが高くこげるか勝負したり。

幼稚園の鉄柵をよじ登ったり。

人の家の果物をもぎ取ったり。

バランスボールにパンツ丸出しで転がったり。

同僚をまいたり。

逃げて家に来たり。

エリア広すぎる鬼ごっこしたり。

サーベルに因縁つけられたり。














疲れて何も喋らなくなった君の隣に座っていると、記憶がフラッシュバックしてきた。少し感傷的になっているのかな。よく分からない。ただ一つだけ言えることは、圧倒的に楽しかったってことだ。




何にも煩わされずに僕はそんな風にこれからも生きていきたいし、願わくば君もそうあってほしい。楽しい瞬間に、僕はいつだって君のそばにいるよ。もちろん、それが難しいことも分かってる。分かっているからこそ、敢えて書くよ。




感傷的になったわけじゃあなかった。記憶のフラッシュバックは寂しさよりも、君に対する気持ちをより強いものにしたんだ。あと、感謝かな。





だからキスをした。





電車に乗ってドアが閉まる。二人とも口を開かない。まだまだ話していないことはたくさんあるんだよな。だけど、どうでもいい話をした気がする。

またすぐに会えるという思い。

もうこれが最後かもしれないという思い。

電車のドアは、僕と君を現実に戻したんだな、きっと。矛盾する二つの思いが、君と僕を少し無口にした。



君が電車を降りていく姿を眺めていると、君は振り返らずにしっかりと歩いている。そして下車した人混みの中へ消えていった。


(終わり)