昔、ある年上の女性から、あなたのことが気になるんだけど自分でもどうしてか分からない、と言われたことがある。その女性はきれいで非常に魅力的な女性だったが、既婚者だった。二度ほど食事をした。僕の家に遊びに来たこともあったが、男女の関係にはならなかった。あなたと話をしていると気が落ち着くし楽しい、というようなことを言われたが、僕はどうしてそう思われるのかが分からなかった。
そのあと、しばらくして彼女から言われた。
「なぜあなたが気になるのか。セラピストと話してようやくわかった。小さい頃に別れたきりなので、ほとんど記憶がないんだけど、わたしの父は無名の音楽家だった。それで同じ音楽家、つまりあなたと一緒にいると、そこに父親の影を見たんだと思う。だから楽しくて落ち着いた気分になれたんだと思う」
僕たちが人を好きになるとき、理由が分からない場合が多いのは、意識よりやや深い部分が働いているからではないかと思う。つまり普段の生活で使っている意識よりやや深い部分で好き嫌いが決定される。よく言われることだが、普段僕らは脳の10パーセントぐらいしか使っていないし、記憶のすべてを意識的に把握しているわけではない。
話をさっきの某企業勤務の女性の話に戻すと、彼氏の年収が自分の半分だったことがわかって彼女は引いてしまった。自分が本当に彼のことが好きかどうかを疑うようになってしまった。単純に考えるとその女性は、男の価値を年収で判断してしまう計算高い女、ということになってしまう。しかし、恋人の年収が自分の半分だった、と知ったときの彼女の心の動きはそれほど単純ではないだろう。
「この男は、年収がわたしの半分だということが平気なんだろうか。妻の半分しか稼げなくてもそれでいいと思っているのだろうか。男女の関係というものはそれぞれの年収なんて関係ないと考えているのだろうか。年収が半分だということは悪い表現をすると、わたしにたかる、ヒモ、だということになるかもしれないと思わないのだろうか。この男は、年収には関係ない魅力があると思っているのだろうか。ひょっとしたらこの男はわたしの経済力に惹かれているのではないだろうか。わたしの経済力が目当てではないということをどうやって証明するつもりなのだろうか。どうやらこの男はそんなことはどうでもいいと考えているようだ。そういう男を一生の伴侶としてもいいものだろうか」
その女性は、そういったこと(上に書いたことはあくまでもたとえばの話だけど)を意識よりやや深い部分で思ったのかもしれない。意識よりやや深い部分で思ったことは、普段の生活の中ではなかなか言葉にすることが難しい。なぜ彼氏を嫌いになったの?と友人から聞かれてうまく答えられない場合があるのはそのためだ。
本当に彼のことが好きかどうか自分でも分からないことがある。自分の気持ちを確かめる方法で、もっとも一般的なのは他人に相談することだ。不思議だが、仲のいい友人(ただし僕はのぞく)や親友よりも、たまた電車で隣り合わせた人に対してのほうが率直なことを言えることがある。一般的ではないが、カウンセラーやセラピストに話してみるという方法もある。
また意外に効果があるのは、自分の気持ちを文章に書いてみることだ。だがその場合は決して自分の気持ちを飾ってはいけない。率直に、相手の好きなところ、嫌いなところ、改めてもらいたい態度、不快に思ったこと、いいなぁと思ったところ、などを書いてみる。書くことで自分の気持ちがはっきりすることは多い。悩んでいる人は、夏休みの作文を書く感じで一度試してみたらどうでしょう。