今の気持ちを綴ったブログVer 2.0 -91ページ目

今の気持ちを綴ったブログVer 2.0

自分の心と向き合って言葉を詩に乗せて紡いでいきます

1992年5月31日20時頃
高速バスは、広島駅に着いた。
あの日は、夏に近い季節とはとても思えない程に寒かったのを今も覚えている。

急に広島に向かった為、母はお金が殆ど無い状態となったので、友人に電話して貰って婦人寮に居た時のお金を送って貰うようにしないといけない事を電話で話していた。
それ以前に、金を全て婦人寮側が管理している事自体がおかしいと思うのだが…。

その過程で、僕が施設に居た時の荷物も送って貰い、母の友人の家には約1ヶ月世話になり、市営アパートに引っ越した。

その後は、小さな問題と、その母の友人が居候してきた事、広島に居る血の繋がった祖父との再会など…。

この時期は、転校が多いながらも比較的穏やかに過ぎた時期だった。
…ただ、以前は教育ママであった母が、全く勉強を強要しないばかりか、宿題以上の事をやろうとすると、
「遊んだ方が良い」と言ってくるのには、戸惑いがありました。

このまま穏やかに時間が過ぎてくれれば楽だったのだけど…。

1993年9月。
小6の二学期に、最後の転校を経て入った小学校でまたもやイジメ問題が起こった。

丁度、声変わりしていた時期だった事と、扁桃腺を患った事(Ver 1参照)とで、かすれた声をしていた事が原因だった…。

穏やかな日に慣れてしまった僕は、施設に居た時ほど強くは無かった…。
とにかくショックが先走り、頭の中が真っ白になった事、感情も何も出やしない。

更に言えば、小6ともなると、イジメも過酷になっていく物で、
階段から突き落とされたり
体育館の柱にくくりつけられたりした。

僕は、そんな中夢中で勉強していた。
彼らと同じ中学に行きたく無かったから…。
だから最初は、中学受験するつもりで勉強を初めていた。
…だけど、幾ら学校のテストで高得点の経験しか無いとは言っても小6の二学期からでは遅過ぎる。
また、家庭環境に恵まれていない(経済的にという意味で)ため、もし合格出来たとしても、学費の問題がある事に気付き、直ぐに中学受験は断念した。

しかし、それでも猛勉強していた。
目的なんて無く、このイジメという現実を忘れる為に、打ち込む物が欲しかった事の裏返しに過ぎなかった。

この頃から僕は、笑顔が消えた上に無口な少年へとなった…。

―――――――――――――――
(以下、追記です)
この時、中学受験を断念した事で、日本は平等という図式が僕の中では崩れました。

高い教育を受けようと思えば、やはり金が必要になり、
これが経済格差を生み出す要因なのかな…ってやはり思います。

2月に執筆した物を知らず、今回の執筆分から読んでいる方にとっては、長い話だと思われそうですが、次で漸く、小学生時代、第1章が終わりです。


拍手を送る
↑ 
記事に何かを感じて下さった方は応援のクリックをお願い致します。


↑ 
ブログランキングにも参加しています。
クリックして頂けると嬉しいです。
携帯の方は此方から

人気ブログランキングへ
5月31日という日付は、やたら僕の歴史で絡んでくる。
事の発端となった、祖母の家に旅立った日も
施設から出て、広島の地へ向かったのも
この日だった。

そのせいか、未だに忘れられない日として頭に叩きこまれている…。

---------------

1992年4月
小5になり、クラス替えがあった。
特に親友が居た訳でも無いし、この地に長く居ないと思っていた為、別にどうでも良かった。

ただ…、ここからのイジメは、それまでとは少し違い、机ごと無くなっていたりするなど、より大掛かりになっていくのが続く内に、折角春になりかけていた心はまた冬へと戻った。

この頃、僕にとって、本当に必要な物がすっかり解らなくなっていた…。
ただ、毎日を送るのに疲れた。
そんな言葉しか出て来ない。

丁度、そんな不安定な気持ちの時に、母が外出許可を取り、一人で来た。
1992年5月31日の事である。

僕は、母が一人で来た(見張りが居ない)事にある種の決意を感じ取る事が出来た。
その日も他の面会日と同じように、
街中へ出て歩き回り、デパートの屋上で遊び、食事をしたんだ。
午後3時を過ぎて、母は突然時計を気にしながら、公衆電話に行き何処かへ電話をし始めた。広島に居る母の友人である。

母は、電話が終わった後少しため息を付いて、
「行くよ、広島まで」と言い僕の手を引いて電車の乗り場まで走り出した。

乗り換えの時間は殆ど無い。
その上、長くこの街に居ると連れ戻されそうな気がして、僕もだけど
母は僕以上に必死だった。足に障害を持ちながら、その時の母の足は途轍もなく早かった。

電車を降りてからは、西鉄天神駅から、天神バスセンターまで全力疾走して、広島行きの高速バスに飛び乗った。
当時既に遠距離の高速バスは、座席予約制だったが、偶々空きがあった為、乗れたのです。

1992年5月31日17時45分。
僕らを乗せたバスは関門橋を渡った。
この時、もう二度とこの海峡は渡らない。
そう心に誓った筈だった…。

―――――――――――――――
(以下、追記です)
あの生活に終わりを告げる日は突然に訪れました。
ただ、この施設での生活を経験した事により、心がすっかり暗くなってしまいました。
だけど、小学生の残りの間は、まだ穏やかに過ぎ去ります。

次に苦難が待ち受けるのは…
中学生になってからになります。


拍手を送る
↑ 
記事に何かを感じて下さった方は応援のクリックをお願い致します。


↑ 
ブログランキングにも参加しています。
クリックして頂けると嬉しいです。
携帯の方は此方から

人気ブログランキングへ
僕にとって、この冬は終わりが無い

そんな錯覚を抱く程に長く

春が来るまでかなり長い月日を要した

そんな冬だった…。

-------------

1992年になっても、まだあの頃のように戻れる気配は無く、暴力的な日々は続いていた。
母がいつ来てくれるとも分からず、かと言って施設から脱走する計画は練りつつも中々思い付く筈も無く、モヤモヤした空気の中で過ごしていた。

もしかしたら、このまま此処で大人になるのだろうか…

そんな不安も日々抱えていた。

だけど、僕はまだ救われていた方かも知れない。少なくとも母が居て来てくれる期待が持てるだけでも、みんなと比べれば…。同じ部屋の人と話す度にその事を思う自分が居た。

小4の三学期が始まり、陰口を叩かれても僕は冷静を装うようになっていた。
施設の中でシスターに受ける暴力と比べればまだマシ、同じ部屋の高校生を怒らせたらこんな程度では済まない。
そんな考えが根付いて装うだけで無く、本当に何とも思わなくなっていく自分の変化が怖かった。
そして、意識しないと笑えなくなった自分にも…。

そして、母との面会でも、僕は嬉しい気持ちと共にもう一つ、
「こんなに変わってしまった自分を受け入れてくれるのか?」
そんな不安が交錯していた。

だから、母が言ってくれた、
「どんなに変わっても、絶対に一緒に暮すんだからね」
の一言は、僕にとって凄く大きかった。

1992年3月
季節は春なのだが、心は寒い状態の中、一つだけ楽になった事がある。
施設の僕の部屋を担当していた、最も暴力的なシスターが他所の土地へと追放になったのだ。
同じ部屋の人たちと繋がりが出来てから、部屋のみんなと時々理事長室に行き
シスターの暴力に耐えられない旨の訴えをしていて、それが漸く実を結んだ形だった。

そして、その次にやって来たシスターは、とても心穏やかな人だった…。

1992年春。凍りついた僕の中で、ほんの少しの安らぎがやって来た瞬間だった。


―――――――――――――――
(以下、追記です)

相変わらず、母子そろう事は叶わない状況ですが、
そんな中で、暴力的なあのシスターが居なくなった事は
漸く長い冬が終わった感じがしました。

これから後もそうですが、
苦しい事に突然終わりが訪れる事が多々あり、
明日は何が起こるか分からないから、どんな苦しい事も必ず終わりが来るから、
それまで前を向こう
と今なら思えます。


拍手を送る
↑ 
記事に何かを感じて下さった方は応援のクリックをお願い致します。


↑ 
ブログランキングにも参加しています。
クリックして頂けると嬉しいです。
携帯の方は此方から

人気ブログランキングへ