久しぶりに更新します、アナザーです。
先日、ポストに投函されたチラシに怒りを感じてしまいました。
・・・人によっては何て事のないものかもしれませんが、
私個人的には許しがたい内容でした。
この時の想いを忘れずにいたいと思い、記事に残そうと思います。
はじめに見た時は「また宗教関連のチラシかな」くらいの印象でしたが、
表紙に書いてある言葉に目を惹かれました。
「亡くなった人にまた会えますか」
・・・中を見ると、
聖書によると「復活があります」。-使徒24:15、「新世界訳」。
・・・という記載がありました。
続いて、
”そうだとしたら
・大切な人を亡くした時にも慰めが得られます。
・死を極端に恐れないですみます。
・亡くなった大切な人たちにまた会えます。”
・・・だそうです。
この文面を読んだ時、とても怒りを覚えました。
「命」というものを侮辱していると・・・そう感じました。
聖書の言葉を引用しているので、恐らくはキリスト教の教えを説く団体
なのだと思います。
私はキリスト教の事を詳しくは知りませんし、キリスト教を信仰している方を
悪く言うつもりは全くありませんが、
このチラシを配布した団体に対しては怒りを禁じえません。
・・・きっと、大切な人を亡くしてしまった経験のある方には
胸に深く突き刺さる言葉なのではないかと思います。
偏った目線かもしれませんが、人の弱みに付け込む内容であると
考えてしまいます。
このチラシには、その聖書の言葉が信じられる理由として
三つの事を記載しています。
・神は人間を創造された
エホバという名を持つ神は「命の源」であり、あらゆる生き物に命を
与えた方なので、死んだ人を生き返らせる力を当然持っている・・・と。
・神は過去にも人間を復活させた
聖書には、神が死者を地上に生き返らせた八つの事例が出ている・・・と。
・神は将来、人を復活させたいと思っておられる。
エホバは死を敵とみなし、憎まれる。その敵を征服することを心から
望んていて、愛する人を亡くした痛みを取り除いて下さる。
自分の記憶にある人々を地上に生き返らせることを強く願っている・・・と。
上記の理由で、聖書の言葉を信じる事は私には到底できません。
矛盾だらけで突っ込みどころ満載です。
全て挙げるのは大変なので、一つだけ挙げると・・・
死を敵とみなす神が、何故人間を創造したとする時に、
死という運命を与えたのか理解できません。
はじめから死を無くしていれば、敵は存在しないのに・・・。
・・・私と言う人間も、いつかは死が訪れます。
それを逃れたい、また復活したいなどと、私は微塵も感じません。
どういった形の死が訪れるか分かりませんが、
それが例え突然の死であったり、無念の死であっても・・・
それが自分の運命なのだと、受け入れる他ないと考えています。
・・・もちろん、死というイメージを膨らませると、
言葉に言い表せないくらいの恐怖感が自分にもあります。
・・・ただ、自分が想像する恐怖感というのは・・・
自らの存在が滅びる事に対してではなく・・・
自らの存在が消えた後に残る肉親に対しての心配の方が強いかな・・・。
今なら確実に子供たちの心配をしてしまいそうな気がします・・・。
持論ではありますが・・・
・生と死は表裏一体であり、決して切り離せるものではない。
・死があるからこそ、人は与えられた生を精一杯生きようとする。
・死に向き合う姿勢こそが、命を輝かせる。
アメブロを始めて・・・たくさんの方がたと交流させて頂き、
たくさんの人生や考え方を学ばせて頂きました。
一番大きく「得た」と思う事は・・・やはり
「命」に対しての考え方や姿勢・・・向き合い方です。
生れ落ち・・・死んでいく・・・
人生なんて、一言でいえばそういう事。・・・ですが、
その短い一生には数えきれない命のきらめきが存在しています。
宇宙に還っていった方々・・・自分はよくこの表現を使いますが、
元々人は・・・宇宙に漂う意識の一部であり・・・
人の体を借りて生き・・・死んだらまた意識の一部に還る、と言う・・・
アメブロ内で学ばせて頂いたある方の表現を真似て使っているのですが、
死んだら天国か地獄に行くという話よりも・・・
この方の表現の方が、自分にはしっくりきたのです。
・・・だからこそ、自分自身が「宇宙人」であると・・・
色々な意味で信じています☆
今後も命に対して前向きに向き合う自分でいようと思います。
それではまた。