あれから1年が経ちます。
 4月23日は衣笠祥雄さんのご命日。当ブログでは昨年、衣笠さんの追悼記事を投下。それは当ブログとしては初の野球記事でもありました。

 

 記事の終わりに「今回の記事でやろうとしていた企画があったんだけど、思いのほか長くなったので次回以降へ繰り越しします」と書いて締めくくっています。しかし、なかなか手がつけられないまま現在に至ってしまいました。
 いや、厳密には何度か着手しようとしたことはあったのです。ところが、私のなかで記事の構成をどうやったらいいのかわからなくなってしまい、放置状態だったのです。
 でも、これ以上はもう先延ばしにしたくありません。これを書いてる時点で未だ記事がどうなるのか見えておりませんが、ひとまず進めてみたいと思います。
 
 
 BS朝日で放送されている『ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~』というトーク番組がある。これの2015年10月10日放送分のゲストが衣笠さんだったのだが、昨年の衣笠さん逝去後、その回が再放送されたのを見た。これが非常に濃い内容で、興味深い衣笠語録が量産される内容だったのであります。
 そこで、ここに文字起こししてみようと思った次第。私が「やろうとしていた企画」というのはコレだったのです。
 
野球
 
 オープニング早々、衣笠さんの簡単な紹介から入る。
 
「球場がどよめくような三振 それこそが私が目指した三振だった」

「私は三振を三つするうちに、ホームランを一本打っていた計算になる。
私はそこに賭けていた・・・」
 
 いきなり心をつかまれる文字列。衣笠さんはホームランバッターではあったが、同時に三振の多い選手でもあった。しかし、彼の三振は客を魅了できる名物のようなものであることをファンは知っている。言い換えれば「銭の取れる三振」だ。
 とはいえプレー中は三振で打ち取られるよりは安打で出塁したほうがいいに決まってると思うのだが、衣笠さんはわざわざ自分で三振バッターであることを強調しているのが面白いと思った。
 
インタビュアーは森下康樹氏。幻冬舎の常務執行役員なんだそうで、テロップにて「石原慎太郎氏、浅田次郎氏、林真理子氏など文壇の第一線で活躍している人気作家を担当する文芸編集者」と流される。
 
 インタビューがおこなわれる現場は衣笠さんが御用達という東京プリンスホテル。その一室に入り、衣笠さんの到着を待つ森下氏。緊張の面持ち。じつは森下氏、広島出身のカープファンなのだという。
 まもなくして衣笠さんが到着。両者とも丁寧に挨拶し合う。
 
 着席しようとする衣笠さんを止めるように森下氏が話しかける。
森下「私ですね、今日、(会うのが)初めてじゃないんです」
衣笠「あ、そうですか。いつごろ・・・?」
「40年ほど前」
「40年(笑)」
「広島出身なんですよ」
「はあ~、そうですかぁ」
「叔父がですね、舟入の(衣笠さんが住んでいたところと)おなじマンションに住んでまして。そのマンションではお目にかかってないんですけど、叔父のつてで広島市民球場ロッカールームに1回だけ入ったことがあるんです」
「あの古いところに(笑)?」
「そちらになぜか衣笠さんがいらっしゃって」
「はぁ~、そうですか」
「11のときだったと思います。ガッチリ握手をしていただいて。なんて大きい方なんだろうというイメージで」
「ああ、11歳ならねぇ」
「その感動が未だに忘れられなくて」
 どうやら森下氏にとって衣笠さんは少年時代からのヒーローだったようだ。それならなおさら緊張するのも仕方のないこと。このように、インタビューは「ヒーローと、ヒーローに憧れる少年ファン」という関係のもとにおこなわれる。
 ちなみに衣笠さんの身長は175cmであり、プロ野球選手としてはそれほど大きくはない。対する森下氏は、いまとなっては高身長であり、衣笠さんよりもでかい。
 
 まずは近年のカープブームの話題から。
「これはすごいです! 去年・・・一昨年だったか、甲子園で。CSに出たじゃないですか。あのときに、あの甲子園の外野までカープのファンが入ったでしょ? あれがボクのなかではものすごい衝撃だった。甲子園ですよ! あれだけ阪神の根強いファンの方が、あの赤の色を着た人間に譲ったっていうのがね。いやぁー、ビックリしましたね。まぁ、それに応えなきゃいけないんですがね(笑)」
「'91年から優勝から遠ざかってる・・・」
「緒方っていういまの監督なんですが、ちょうどボクの最後の年の選手なんです。18で入ってきて。彼ぐらいじゃないですか、優勝を知ってるのは」
 
 つづいて衣笠さんの幼いころから高校時代を経て、1965年にプロ入りするまでを振り返るVTRが流される。
「どうでした? 実際にプロの世界に飛び込まれて」
「まったくダメだった。1965年の2月の1日に、宮崎県の天福球場で、1回目のキャンプに参加させてもらって。前の晩から緊張していましたよ。先輩の前で『平安高校から来た衣笠です、よろしくお願いします』ってパッと顔を上げた瞬間、オッサンばっかりですから。いやあ~、えらいとこへ来ちゃったと思ったですよ。次の日、ユニフォーム着たときは嬉しかったですよ。で、グランドへ出た。キャッチボールの段階で『アレ? 先輩のボールとオレのボール、違うよな』って。おなじように投げてるのに。あの時点で(自分は)下手だと思いました。もうバッティングまで行く前ですよ。キャッチボールの段階で。『えらいとこ来ちゃったなあ~!』というのがイチバンですよ」
 
 その後、初キャンプでオーバーワーク。キャッチャー(当時のポジション)の命である肩を負傷してしまう。自暴自棄に陥り、高級外車を乗り回し憂さを晴らす日々だったという。
「当時の三種の神器は、プロ野球の選手っていうのは、大きな家に住んで、きれいな奥さん持って、外車に乗ってる。この3つだった。だから、物を持つことによって自分がプロ野球の選手になったと思いたかった。要するに野球がうまくいかないから、気持ちをどっかへ逃がさないと自分がコントロールできない」
 
 気持ちをあらためたのは2年目の夏。行きつけのジャズクラブで顔見知りの米軍兵士に告げられた言葉が、荒んだ心に突き刺さったのだという。
「明日からボクはここにいない。きっともう生きて会うことはないだろう」
 激化するベトナム戦争へ赴くことになったのだと・・・。
「広島の流川にジャズクラブという小さい店がありましてね、彼らがそこへ来るんですよ。年代的にはボクと似たようなもんだったですからね、二等兵で。それで『二度とおまえとは元気なときに会うことはないだろう』と。これがイチバン堪えたです」
「自分は、なんて恵まれてるんだろうと・・・」
「ええ。オレは野球をやらしてもらっていて、こんな幸せなことはない。野球じゃ命までは取られない。彼らは本当に命かけて行くんですよ。それも、行きたくないんです。でも、ボクは野球を楽しんでできる環境に置いてもらってる。プロ野球の選手って、誰でもなれないんですよ。日本に1億2000万人いて、840人しかプロ野球の選手になれないんです。運よくボクはそこへ入れてもらったわけですよ。ということは、ものすごい幸せな人間なんです。それを忘れている、自分が。それを気づかせてくれたのは彼らだったかも」
 
 
 決意を新たにしたものの、実力が追いつかない。翌年の契約も危うい状態に。突破口を開いたのは根本睦夫コーチのひと言だった。
「二軍で自分の野球を見つけてこい。そして衣笠を作ってこい」
 この助言は的確だった。
「ハッキリ言われました。キャンプ前だった。『一軍がお前を使わないと言ってるから。お前に時間をやるよ。衣笠を作ってこい』って。なんの話かまったくわからなかった。要するに時間をやるってのは、結果を気にせずに自分の練習をひたすら頑張りなさいと。衣笠を作れ? これも『お前、プロ野球の選手だな』『はい』『売り物、なんだ? これ買ってくださいというもの、何が出せる?』って言われたときに・・・まぁ悲しかったですよ、なんにもなかった」
「商品価値がですね」
「ただ、あの時代にチームで20本ホームラン打てる選手が、年齢とともにボールが飛ばなくなってきた。チームに長打力が落ちてきた。だったらこれ(長打力)を自分の売り物にしようと。だから、放っといても1年間ゲームに出しとけば20本以上ホームラン打つ選手にならなきゃいけない。それが結論だ。あの方(根本コーチ)がいなければ“衣笠”という選手は生まれなかったでしょうね」
 これで「豪快なフルスイングをする」ことに照準を定めた衣笠さんは、ついに4年目に実を結ぶ。一軍レギュラーに昇格し、ホームランを量産することに。気づけば4番を任されるようになっていた。
 
 
 1975年。3年連続最下位のカープは、日本球界初の試みとしてメジャーリーグ出身のジョー・ルーツを監督に起用。新監督はチームカラーを燃えるような赤に変え、選手の意識改革を徹底する。
「彼(ルーツ監督)がハッキリと言ったのが『このチームは人もいます、教育も受けてます。ただ、イチバン大事なものがない。それが“勝利への執念”だ』と。『なぜそれがないかも知ってます。喜びを知らない。勝った経験がないから』。たしかに、そこまで25年間いちども勝ったこと(優勝経験)がない・・・」
 しかしルーツ監督は退場処分をきっかけに開幕1ヵ月で帰国してしまう。急遽、後釜に座ったのは39歳の古葉竹識。アニキ的存在の監督だった。
「ルーツ監督が早々と退任されて。あのあたりはどうなんですか、チーム内は・・・?」
「まったく動揺ないです。要するに彼は『このチームはこんな野球ができるんです』と。『こういう野球を信じてやったら優勝できるんです』というものを(昭和)49年の秋からずーっと言いつづけてるんです。その次のなった古葉監督がおなじように引っぱってきてくれて・・・。で、オールスター迎えたときに3位にいて・・・周りのファンの人が不思議だったようなんです。『衣笠さん、なんで今年は3位にいるんですか?』って(笑)」
「ボクの幼いころのおぼろげな記憶なんですけど、夏休みあたりでずいぶん周りの友だちが赤い帽子を被りはじめましたね。ファンの声援も含めて殺気立ってるようなかんじだったんですか?」
「9月はね。9月に入ったらガラッと様相が変わったんです」
 
 
 球団創設以来の悲願が手の届くところまで来ていた。
 リーグ優勝。
 殺気立つ応援が事件を招いたのは、優勝争いをしていた中日との大一番。タッチアウトの判定をめぐってファンが球場になだれ込み、機動隊まで出動する騒ぎに発展した。
「本来あっちゃいけないことなんですけど、それぐらいファンがヒートアップしちゃった。選手はヒートアップするより、怖かった(笑)。お客さんのほうが殺気立ってる。どうにもならない。怖かった。なんかあるんじゃないかって。どうしたらいいのかわからない。勝ったことないんだから。ほんっとうに怖かった(笑)」
 
 
 1975年10月15日、後楽園球場。読売巨人軍戦にて、広島東洋カープは球団創立26年目にしてセ・リーグ初優勝を決める。衣笠さんは著書のなかで、このように振り返っている。

「あの年、広島は被爆から
ちょうど30年だった
当時、たくさんの方々が
被爆の苦しみと戦い続けていた
広島カープはそういった人々にも
多くの応援をいただいた
それだけに特別な愛情を注がれた
他に類のない野球チームだと思っている」
 
「すごかったですよ。この試合が終わってホッとした。もう野球に追っかけられなくて済むと思って。“勝つ”ということがこんなに疲れるんだということを初めて経験した。このシーズンが、いろんなことをおしえてくれました。ラクして勝てないということと、なぜキャンプであのプレーを練習しなきゃいけないんだとか、あそこでなんでバントが必要だったのかとか、監督がなんであそこでああいうふうなことを言いに来たのかとか、一つひとつがぜんぶオーバーラップするんです。それがぜんぶ繋がるんです、ひとつのとこに。“優勝”です」
「勝つ意義・意味ってのがそういうところにあるわけですね」
「そういうことです。だから勝ったときに初めてそれがわかるんです。勝たないとわからない。口でなんぼ説明をミーティングで受けてても・・・聞いててわかってるんですよ? 知ってるんですよ? ところが、実際に経験すると『ホントだよなぁ~』っていうのが初めてわかる」
「この年はセ・リーグの歓喜の優勝ってのでボクも子ども心に憶えてますけども、残念ながら日本シリーズはもう燃え尽き症候群のような・・・」
「終わってました(笑)。勝てないチームじゃなかったです。だけど、終わってました、気持ちが」
 
 初めて挑んだ日本シリーズは、阪急に1勝もできずに完敗(0勝4敗2分)。それでも広島市民は赤ヘルフィーバーに沸いていた。
「ボクはこの年の日本シリーズでですね、小学校で得難い経験をしまして。先生が粋な計らいで、校内放送で日本シリーズを流しまして。異例中の異例でしたね。校内、盛り上がったのをすごく憶えてますね」
「このころイチバン憶えてるのが・・・小学生からハガキが来ますよね。そしたら『勝った次の日は宿題が少なくなりますから頑張ってください』って、やたら多かった(笑)。・・・ホント、この優勝というものがボク自身も大きな転換期を迎えるきっかけになりましたし、なによりチームが変わりましたね。何を目的にキャンプをやるんですかと言ったときに、『優勝です』とハッキリ言えるようになった。これがイチバン大きな差ですね。こんど日本シリーズ出たら絶対に勝つぞと」
 
野球
 
 疲れた。そしてまた腰が痛くなりました(腰痛は未だ完治しておらず)。
 これだけの量になったのに、まだちょうど半分のところです。ぜんぶやったら文字数オーバーになってしまうおそれもあります。そしたらまた構成を練り直さなくちゃならないのです。
 なので今回はここまでにさせてください。後半は、なるべく近いうちにupいたします。1年以内にやりますから!