「1年以内にやりますから!」と書いておきながら本当はすぐに取りかかろうと思ってた後編が、本日、やっとupできるようになりました。
 それでも半年が経ってしまってます。前回はプロ野球ペナントレースの始まった時期。それが、いまは日本シリーズの季節。筆者のぐうたら癖には呆れるばかりです。
 
 
 休まない人のことを書こうというのに休んでばかりのチアーさんには、はたしてこの記事を書く資格はあるのだろうか?
 その答えがイエスであろうとノーであろうと、前編をやり、その続きもやると宣言してしまってる以上、書かないわけにはいきませぬ。やります、やりますとも!💦
 ・・・ああ、説明は省きますんで前回のを見てない方はリブログ先にて確認してください。
 
野球
 
 リーグ優勝を境に、衣笠のチームでの役割が変わってゆく。その年に4番を打つようになった“ミスター赤ヘル”山本浩二の存在が大きかったという。あらゆる打順を任され、ときには犠牲バントもこなさざるを得ない。 ※球史に残る強打者でありながら通算犠打数は88と、本塁打500本以上を記録した打者のなかでも突出して多い。
 突然のスランプに襲われたのは、プロ15年目のことだった。
 1979年のシーズン、衣笠は天国と地獄を行き来した。開幕戦ではホームラン2本を放ち、好調すぎるほどのすべり出し。しかし1ヵ月後、突如スランプに見舞われる。打率は1割台に落ち込み、チームもなかなか勝てない。5月28日には、ついにスタメンを外されてしまう。連続フルイニング出場の日本記録まで、あと22試合というときだった。

衣笠「20年ゲームへ出していただいて唯一1回ですね、スランプになったのは」
森下「いったいぜんたい、どういう状況でいらしたんですか?」
「このシーズンの最初、ボクの出足は決して成績は悪くないです。ところがチームが勝たなかった。で、焦ったんですよ。もっと頑張らなきゃいけない、もっと頑張らなきゃいけないって。焦っていけばいくほど力みが入ってバッティングフォームがまずズレてきたり。それに気づかないあいだに今度は調子が悪いから練習を一生懸命頑張り出した。頭が混乱してきた。で、そのうち練習をあまりに根詰めてやると体力が落ちてくる、スピードがなくなる・・・打てないよね。初めてです! とにかくひたすら調子が悪いと練習して練習していつも勝ってきた。ところがこのときだけはダメだった。なんぼやっても勝てない」
「相当、お辛い経験をされたと」
「だって毎日、出ていけば野次られるんだから。だってそれまでボク、十何年、少なくともチームに貢献してきたと思ってる。自分のなかで。ところがいま出ていったら野次の嵐ですよ。オレはいままで何だったんだろうって思うよね。だから(野次を)止めたいんですよ。あの岡山でとうとうね、(古葉監督から)『キヌ、先発、今日休もうか」って言われたときは正直ね、半分ホッとしました。今日グランドに立たなくていい、もう野次られなくて済むぞというのはホッとした。半分はやっぱり悔しかったね。これだけ頑張って野球に勝てないのかと。要するに、それだけ一生懸命野球の練習を自分はしてきたつもりなのに、結果的に『負けたのか・・・!』っていうかんじです」
「この年は記録もかかってらっしゃってね」
「ああ、そうですね。これ、よく言うんですけどね。野球が終わるかもわからないと思ってる人間に、記録がどうだこうだと周りの人が言う。ボクはその神経がわからなかった。もう、野球が明日できないんじゃないかと思ってる。だから記録なんてものは、これっぽっちも考える余地がない。野球が終わるんじゃないかと思ってた」
 
 32歳で初めて経験する不安は膨らむばかり。それを振り払おうと朝まで素振りを続けたという。
 支えは家族だった。おなじ京都出身の妻と二人の子ども。家族サービスに訪れた海水浴場で、頭のなかを空にして、ふと我に返った。
 
「豪快にフルスイングの三振をする・・・
 そんな自分を
 俺は見失っているんじゃないか」
 
「最終的に大スランプを精神的に切り替えられた瞬間てのは何か・・・?」
「子どもと、どうしても海水浴へ連れていけって・・・粘り勝ちで連れていって・・・ホント難病だったですね。『衣笠ってどういう選手?』って言ってフッと頭へ出た瞬間が、もうこれですべて解決です。ぶるぶるぶるぶるバットを振り回して、よう三振するよと。これも衣笠じゃないかと。でも、この振り回すときにボールがバットに当たったらどうなる? ホームランを打つ。これも衣笠。面白いじゃない、これ。だから、こっちとこっちとバラバラじゃないんですよね、ひとつなんです。これが衣笠なんだと。野球の古ーい諺でね、『ヒットを打ちたけりゃライトへ打て』っていうのがあるんですよ。ヒットが欲しいからライトばっかり打っている。野次止めたいから。一生懸命ライトへ打ってる。そうすると、人の野球をしてたってことになる」
「そのスタイルではないってことで・・・」
「そう。衣笠という選手の野球の方法論じゃなくて、人の野球の方法論で野球を一生懸命して結果だけ欲しいと。そりゃあ無理だよね」
 
 スタメンに復帰してからの活躍は目覚ましかった。9月にはホームラン6本、打率3割越えで月間MVPに輝いていた。チームも勢いに乗り、この年、4年ぶり2度目のセ・リーグ優勝
 

 近鉄バファローズとの日本シリーズは3勝3敗で、第7戦までもつれ込んだ。4対3。カープが1点リードの9回裏、ノーアウト満塁のピンチを招く。あの“江夏の21球”で知られる名場面。
 
「テレビを見ながらヒヤヒヤしてましたけど。正直、ファン心理としては、満塁になったときに、もう負けを覚悟しました(笑)」
「ああ、(あの場面では)まったく考えてなかった。勝つことだけを考えていた。それしかなかったです」
「・・・でも局面としてはノーアウト満塁ですから」
「そうです。絶対的に相手が有利です」
 
 一打出ればサヨナラ負けとなる大事な局面。古葉監督が控え投手を準備させると、江夏がそれに気づいてムッとした表情を浮かべる。すかさず衣笠は一塁からマウンドに駆け寄った。
 二人が交わした会話とは――。
 
「実際にこのときは、どういうお言葉を江夏さんに・・・?」
「もう完全に本人からしたらプライドを傷つけられてる。要するに「オレのあとにピッチャーが出てくることがあったんか、いままでに?』と。完全にむくれてる。だからこれをどうやって元へ戻すかなーっていうのがいちばん大事な部分だったですよ、勝ちたかったから。もう『このシーンだけは何としても勝てくれ。それで腹が治まらんかって辞めるって言うんなら一緒に辞めてやる』と。だから、ここだけは抑えてくれと。オレは勝ちたいんだと」
「でもハッキリ言うと、衣笠さんが声をかけられてからピッチングが変わりましたよね」
「表情が変わったですね。表情が完全に違うんですよ、ふだんとね」
 
 冷静さを取り戻した抑えのエースは、佐々木恭介を三振。続く石渡茂の打席でスクイズの失敗を誘ってツーアウト。最後は直球で三振。球団が誕生して30年、広島カープが日本一に輝いた。
 
「周りの人からすると、この江夏豊っていう人間と衣笠っていうのはカープに来てからどうこうって思われがちなんですが・・・まぁアレ(江夏)が阪神へ入ったときからもう目をつけてるって言ったら変ですけど、『うわ、エライいピッチャーがおるもんだ!』と。『こんなヤツと長いことやるの嫌だなあ』と思ってたのが、途中、南海へ行って、カープへ来てくれたんですが・・・まぁ野球の好きなヤツです。で、要するに野球を見る目線が一緒なんですよ、いつもね。だから、おそらくあのシーンで、何でボクがあそこへ歩いて行けたかっていうと、『こいつはこう考えているだろう』と。そうすると、どの言葉がいちばん適切かと。かける言葉がね。そこまで考えないと行けなかったです。ただボクは勝ちたいからウンウンって簡単に言うんですが、事実、勝ちたかったです」
 
 
 衣笠を語るうえで欠かせない男がいる。18年、ともにプレーした山本浩二だ。チームメイトにして最大のライバル。おなじ学年の二人は「YK砲」と呼ばれ、86本ものアベックホームランを放った。山本が引退する年も、セ・リーグの公式戦最終試合をアベックホームランで飾っている。
 
「『おまえもう最後の打席なんだからホームラン狙って打ってこいよ』と。で、『おまえが打ったらオレも打つから』(笑)。事実、そうやって二人ともホームラン記録したんですからね。そういう意味では運の強い二人ですよね。ひとつ自慢させていただければ、(ホームランの合計が)1000本超えてるペアは二組しかいない。“王・長嶋”と“山本・衣笠”しかいない」  ※王貞治:868本/長嶋茂雄:444本/衣笠祥雄:504本/山本浩二:536本
「そうですねぇ~!」
「これだけプロ野球の歴史があるんですが、二組しかいない。で、両方500本打ってるのは広島の山本浩二と衣笠しかいない」
「そう言われるとスゴいですねぇ!」
「ひとつだけ、好きなホームランで自慢できるとしたらそうです」
「またボクのトリビアがひとつ増えました」
「結局、彼と出会えたってことがボクのなかでは5回の優勝に繋がっています。だからホントに、最後のホームランを二人で打てたのは嬉しかったしね。ああもう来年ホントにこいつはいないんだと思うと、寂しさもあったけど。だけど長いこと一緒にやれて、二人とも500本打てて、よかったな~っていうのもありましたよね」
 
 
 1987年6月13日。“鉄人”の名に相応しい偉業を40歳で成し遂げる。2131試合連続出場の世界新記録を達成。17年間グランドに立ち続け、ルー・ゲーリッグの記録を48年ぶりに塗り替えた。
 直後には日本球界への功績が認められ、プロ野球としては王貞治に次ぐ二人目の国民栄誉賞を受賞。
 
「(連続試合出場を)進行中のときにいちばん気持ちを持ってらっしゃったのはどういうことですか?」
「連続試合出場ってのはですね、これは考えたことありません。毎日の試合・・・例えば家から出ますね。グランドへ着いて『ようし今日は何ができるかなあ』と言って一日が終わった。次の日にまた『今日は何ができるかなあ』『今日はオレの好きなピッチャーだけどなあ』とか思いながらまた次の日が終わった。そんなもんです。だから連続試合ってのはボクにとって周りの人にお世話になったばっかりで、自分が頑張ったとしたら15%ぐらい。要するにグランドへ体を持っていって・・・それだけはまぁ頑張りましたけど、それ以外はみんな助けていただいて。周りの人が、例えばケガしたらトレーナーが助けてくれる。打てなくなったら『ここがこうだよ』って誰かが助けてくれる。チームメイトが励ましてくれる。いろんな人が前へ行くために、いろんな人のお世話になって。そういうなかで、こう頑張れたんじゃないかなって思いますもんね」
 
 連続出場記録は、たび重なるケガとの戦いの歴史。161個のデッドボールは日本のプロ野球史上3番目の多さ。骨折しても次の日には試合に出ていた。
 
「衣笠さんはケガが非常に多い選手じゃないかなというイメージがあるんですけど、ところがいっぽうでは、ケガをものともしない・・・」
「やっぱりね、せっかく試合に出るチャンスをいただいて、自分からノーと言うのは嫌だった。もう監督が『どうだ?』と言ったときに『いや、今日はダメです』って、これは絶対ボクのなかにはないです。それが積み重なっただけです」
「どのようにして・・・でも痛みもたぶんあると思うんですけれども、バットを振るという・・・」
「(笑)左手が痛けりゃ右手でどうやってヒットを打つかなと思うし、右手が痛けりゃ左手でヒットをどうやったら打てるかなーという・・・まぁ自分のなかでいえば、そういう楽しみも出てきますよ」
「はあ、そういうのが楽しみですか」
「うん。だっていつも、こっちに野球があって、こっちにケガがあって。で、天秤にかけたら野球のほうがいつも重たいんです。オフにゆっくり治しゃいいや。その程度です。で、このケガがもとで野球ができなくなってもいいのって言ったら『いい』って言うんです」
 
 
 世界記録達成から3ヵ月。鉄人は、ユニフォームを脱ぐことを決意する。
 画面は1987年9月2日の引退会見のもようが映される。
 
「いちばん自分自身が不安を持っていました守りの面で、自分自身がこれ以上もう上手くなれないと。
(それが)引退を決意した理由であります」
 
 現役最後の試合でも、迷うことなくフルスイングでホームラン。通算504本は歴代7位。連続出場記録も2215に伸ばし、みずからの引退に花を添えた。
 
 
 引退から28年(放送当時)。衣笠はプロ野球の監督、あるいはコーチとして現場に戻ることは一度もなかった。いま、子どもたちに野球の楽しさをおしえている。

「今後の夢っていうのは?」
「ここまで野球、野球で来た人間ですから。やっぱり子どもさんにね、野球の面白さと、もうひとつは“頑張る楽しさ”・・・頑張るってことは楽しいことなんだというものを、どう伝えられるかなーと思いますね。小学生の3年生・4年生ぐらいまでの子どもにね、トスバッティングでボールを上げるでしょ。で、こうやって打つんだよってボールを上げるわけですよ。上手くいくでしょ。ニターっと笑う。『オレが上手いんだ』いう顔してね。で、失敗するでしょ。『アンタが悪い』ってニラむんですよ(笑)。これがそうなんですよね。上手くいくと楽しいということを覚えてほしい。でも頑張らないと上手くいかないよと。これは野球に限らない。何やっててもそうなんです。一生懸命頑張って、自分が楽しいものを次にどう見つけるかによって、自分が生きてることが楽しくなるんですよね」
「あのぅ~、これはぜひ今日は伺いたいと思ってたのは・・・当然、引退されてすぐぐらいにですね、ユニフォームをまた着られて現場の指揮をお執りになるんじゃないのかと、いちファンとしても未だに心待ちにしてるんですけれども」
「ひとつあるとしたら・・・自分自身のなかに広島へのこだわりがちょっと強かった部分があったかなーというのと、どこでもやりますよというスタイルがとれなかったというのと。もうひとつは自分のなかで、やっぱり縁がなかったのかなーと」
「人との繋がり、人との縁のなかで衣笠祥雄って選手は出来上がっていった。つまり人を教育して育てることの意味みたいなものをものすごく知ってらっしゃるので、ボクは適任だと思うんですけどね!」
「たしかにそういうふうに言われると辛いところがある。先輩の優秀な方にいろんなものをおしえてもらってボクは大きくなれた。で、自分なりにも多少はモノを見つけた。本来なら、これをちゃんと下の人に伝える責任があるんですよ。これは事実です。だからそれをしなかったというのは、たしかに申しわけないと。それは思ってます」
「もし、機会と、タイミングがあれば・・・」
「そういうふうなチャンスが来たときには、それなりに伝えるものは伝えたいなと。なんとなくそこのとこだけは思ってます」
 
 インタビュー後記として森下氏は「頑張ることを楽しむことができれば、知らないあいだに思わぬ実績とか、思わぬ成果とか、そういうものをあげられるというのが、本当に言われてみて、たしかな手応えとして感じましたし、それをまさに衣笠さんは人生を通して我々に紹介をしてくださってるというのを非常に痛感いたしました」と語った。
 いっぽう衣笠さんは、いま大切にしている言葉を色紙に一筆。
「“忍耐”という字を書きました。だいたい三位一体で、よく話に出ると思うんですが、あと“努力”と“根性”という字がこのお友だちみたいにいるんですが。自分の性格のなかでは、やっぱりこの字を大事にしなきゃいけないかなぁと。決して“耐える”んじゃないんですよね、ボクの書いてる意味で言いますと“やり遂げる”。やり出したら、やり遂げる。最後まで諦めないでね。それがボクのこの字の意味ですね」
 
野球
 
 番組はこれにて終了。
 基本的に私は「頑張る」という言葉が好きではないんですが、衣笠さんが言うとまったく違う印象として伝わってきますね。ぜんぜん嫌みがない。衣笠さんのような方が私の教育係だったなら、もうちょっと私のぐうたら癖も手の施しようがあるレベルで収まっていたのかもしれません。
 
 また、引退の理由として守備の限界を挙げていた衣笠さんですが、打撃に関しては衰えを認める発言はせず。「バッティングにはまだまだ自信がありましたよ、ガッハハハ!」という具合に笑い飛ばしていたものです。
 ある意味で往生際の悪さを印象づけかねない発言ではありますが、私はこの場面に衣笠さんなりのこだわりを強く感じることができた気がしてニヤリとさせられました。
 
 
 ところで、衣笠さんが引退して数年後のことですが。母から聞いた話。第一次山本浩二政権時です。
 私がお世話になってたFさんが、当時のカープでトレーナーを務めていた福永富雄氏の息子さんの勉強をみてあげてたそうなんですが、それをきっかけに衣笠さんとも仲よしになったんだとかで。
 で、母がFさんから伝え聞いた話によると「山本浩二の次は衣笠が監督するって決まっとるんじゃって」とのこと。実際は衣笠さんが監督やコーチになることはなく、このインタビュー後も現場復帰どころか病気になっちゃったんですけど。
 又聞きなのでどこまでが真実なのかは定かでありませんが、もしかしたら水面下では一時的にしろそういう動きがあったのかもしれませんね。
 
 
 もうひとつ。
 衣笠さんとは251打席で歴代2位の対戦数を誇る堀内恒夫さんが書かれた追悼記事がよかったです。これによりますと、わかりやすくて弱点のハッキリしている衣笠さんのようなタイプには「与し易し」という印象があったんじゃないかな? 
 もちろん、ときにはガツンとやられた経験もあったでしょうけどね。だけど現役当時は「やられたら仕事を奪われる」ような関係であったはずの敵でも、戦いが終われば仲間としてみている彼らの間柄。当事者同士でないと理解できないんだろうね、想像はしてみるけども。
 
●「困ったなぁ」で始まる“悪太郎”堀内恒夫氏の衣笠さん追悼記事
 
 今回の記事作成にあたり衣笠さんの映像をあらためて見返すことになったのですが、やはりこの方は人を惹きつけるものを持っていますね。高校しか出ていなくても知性を感じますし、しゃべり方や仕草にも品がある。言葉の一つひとつにも味がある。
 それでいて現役時は「三振かホームランか」のわかりやすいプレースタイル。いっぽうで、前にも書きましたが不調でも出続けるため、苦しむ姿すらファンと共有してしまうというね。本当に魅力的な選手でした。
 そういえばカープの後輩にあたる田中広輔選手が続けていた連続フルイニング出場と連続試合出場が、今シーズンは極度の不振のため、それぞれ635試合・636試合で途切れてしまった。
 かつての「休まない設定」だった衣笠さんのように、彼の不振にあえぐ姿もひとつの魅せ方だと私は解釈していきたかったんですけどね。そこは残念に思っています。
 
 
 あと、近年のカープブームは被爆地のイメージをまとった陰のあるチームから脱却し、明るさを前面に出し、それが集客にも繋がってるのかなーという印象。衣笠さんも、これほどまでにお客の入る現象には素直に喜んでおられたご様子でしたからね。
 でも私はヒネクレ者なので、それだと感情移入できないんですよ。暗いチームカラーのカープに戻ってほしいです。選手もおとなしいイケメン風ばかりでは面白くない。
 高橋慶彦さんが講演のときに言ってました。「(入団したときは)大下剛史、山本浩二、衣笠・・・モミアゲにパンチパーマのオッサンばっかり。『これは、えらいとこに来てしまったなぁ~!』って思った」とか。
 モミアゲやパンチパーマなオッサンがウヨウヨいるような、そういうチームになっていくことを希望します。