走っている人がいた。長い髪をひとつに結んで、黒のランニングパーカーを着用している。パーカーには鮮やかなピンクのラインがはいっている。
スニーカーの靴底が三軒茶屋の地を蹴って、今度は左足が前に出る。左足のつまさきも地を押しやって、踏み出すときにはふくらはぎに負荷がかかって、そうして前に進んでいく。
彼女の目にはどのように三軒茶屋が映っているのだろうか。
日曜日の朝だ。私は15連勤めの朝を迎えていた。今日はダブルワークで1日忙しい。彼女は走っている。街の人は歩いている。私は駅に向かっている。彼女は走っている。
ランニングというものは、日常風景での普通なのか異常なのか。今日も1歩も家から出ない人がいて、今日は1日家に帰らない人がいて、そうして今この時間、自分を鍛えるために走っている人がいる。ランニングというものは努力と持続の主張のようで「断続は力なり」を体現しているかのように思える。
考えてみれば今年は「午年」で、我々は新年に午のように「駆ける年」にしたいと目標を掲げたのではなかっただろうか。茶色の毛に覆われた身体は人間の描く落書きの馬とはまるで違う。丸太のような身体をしている。全身を分厚い筋肉に覆われて、全身を使って走る。風になびく。風のように走る。
走れているだろうかと、ふとそんなことを思った。子どもの頃はあんなにも走っていた。走らなくてもいいのに走っていた。何かにつけては競争したがって、走っているんだか上に跳ねてるだけなんだか、そういえば今日走っている2歳児くらいの幼児がいた。お母さんはベビーカーを押しながら「走らないで?」と困っていた。でも、子どもは走るのをやめない。どこで覚えてきたんだか、しっかり拳を握り締めて、腕を振って、でも足の速い私からしたら上に跳ぶんじゃなくて前に足を出すんだよとアドバイスしてあげたくなっちゃったりして、そういえば私は足が速かったなぁと思った。
走ってないなぁと思った。前日の疲れを引き摺った身体は「体力の消費は極力省エネ!」と信号を放っていて、今日の私は「了解しました!」と返事をしていた。
走れないなぁ。走りたくないなぁ。全力疾走なんて、とても無理だなぁ。
靴底は地面から離れたがって、引き摺るようにぬとぬと歩く。まるで、紫陽花にひっつくかたつむりみたいに。
走るってのは、若さの主張みたいだ。うそだ、今でもまだ走れる。私のなかの走りたいという欲求はきっと燻っている。走ろう。無駄に陽気に、無駄に元気に、たくさんのエネルギーを消費して、必要以上に息を切らして、そのとき言い放つ「疲れた!」は今の疲れとはまるで違う。爽やかで汗かいて、すこし青春を思い出す。
走っている人がいた。なんだか、すこし眩しかった。