第3章 

 

第41話

 

「私は暇なんでちゅ~」

 

「誰かに構って欲しいんでちゅ~」

 

のどかな研究室の昼下がり。僕と恵ちゃんは三毛にゃんの喉を撫で、ゴロゴロさせて遊んでいた。

 

「正くんと恵ちゃん、ちょっといいかな?」

 

有田先生が、先生の研究室に僕らを招く。

 

「相談ごとがあるんだけど」

 

「何ですか?」

 

「いや、君たちの進めているカーネーションの黄色花とオレンジ花に関する基礎的研究を、秋の学会で発表しようと思って」

 

「先生、夏の色素研究会はいいんですけど、秋の学会発表の仕事が増えるとちょっと……。ねえ、恵ちゃん」

 

「そう、植物検定もありますし……」

 

さすがの恵ちゃんも少し戸惑う。

 

「いいから、ちょっと聞いて」

「3報に分けようと思っている」

 

「共通の表題は、カーネーションの花色に関する基礎的研究」

 

「1報目は、カーネーションにおける黄色花の色素の分布。2報目はカーネションにおける黄色花の発現機構の解析」

「3報目は、カーネーションのオレンジ花に関する基礎的研究」

 

「3報もですか?」

 

「うん。君たちの黄色花、オレンジ花色の自由研究は、何度も言うように、植物色素に関する科学的インパクトがかなり大きいんだ」

「僕の友人もそう話している」

 

「皆んなのやっている研究は、世界的にみても花卉の花色研究に極めて重要な新知見がある」

「世界では、同時期に同じ研究を少なくとも3人は手がけているものという迷信もあるし、発表は早い者勝ちなんだよ」

 

「今5月、原稿提出は7月末頃、学会は9月だから卒論と同時進行させての調整はできる」

「植物検定もあるし、色々皆んなの突発的な仕事も増える事、浅野教授にそういう事情は僕からちゃんと伝えておくから」

 

「先生。僕はオーケストラの定期演奏会にも出なくてはならないんですよ……」

 

「それは知らないよ。自己責任でしょ?」

 

「自己責任だね」

 

先生の言葉をニコニコ繰り返す恵ちゃんに、僕は軽くひじてつを打つ。

 

「1報目は正くん、2報目は義雄くん、3報目は恵ちゃんに発表をお願いしたい」

 

「そう、義雄くんが研究室か実験室にいたら呼んで来て」

 

「大樹は?」

 

「大樹くんは今じゃなくていい」

 

僕は実験室にいる義雄を先生の研究室に連れて来た。

 

先生が義雄に、僕と恵ちゃんに言ったのと同じ言葉を繰り返す。

 

「どうですかね? 義雄くん」

 

義雄は少し沈黙する。

 

「これからの遺伝子がらみの研究も盛り込みます?」

 

「もちろん。そこは工学部の生命工学研究室と連携をとりながら進めていってもらおうと考えている」

 

義雄の顔が気のせいか少しほころぶ。みどりちゃんと一緒に研究ができるからかな?

 

「正、いいか?」

 

「何が?」

 

「いや……、別に……」

 

「義雄くんには、生命工学研究室に頻繁に通ってもらうことになるね」

「生命工学の助手と僕は同期なんだ。事のさわりを伝えたら快諾してくれたよ」

「義雄くんをサポートする三年生の浜野さんも優秀な子みたいだよ。稀に見る遺伝子取りの達人らしい」

 

義雄の顔が赤く染まる。やっぱり。

 

「先生、いっそ夏の色素研究会の遺伝子の研究の英文発表、義雄にしませんか?」

 

僕がそう言うと、

 

「おいおい、やめてよ。それは正にお願いしたい」

 

「義雄さ、甘くないよ。学会発表の準備」

「それに夏の色素研究会の発表はすぐにでも論文にするレベルの研究なんだ。遺伝子関連の発表だし、義雄がやらなくて誰がやる」

 

「な~に、正くん。自分の肩の荷をおろしたいだけじゃないの?」

 

「違うよ。恵ちゃん」

 

「私、正くんとペアで発表したいな~」

「僕の可愛い可愛い、私の誘いに乗らないの?」

 

「聞こえない、聞こえない」

 

僕は真剣に、そう応えて耳をふさぐ。

 

「義雄くん、色素研究会の発表お願いできる?」

 

有田先生からもお願いされる。

 

「俺、TOEICは500くらいで、プレゼンのカンペの棒読みはできても、質疑応答だとか、フリーの会話とか自信がありません」

 

「そこは正くんがサポートするから安心してください」

 

「なんで、そこで恵ちゃんが言う?」

 

「まあまあ、発表に不安はつきものだけど、自信なさげに発表されると困るよね」

「やっぱり正くんだね」

 

「やっぱり正くんだね」

 

恵ちゃんが僕の大好きな満面の笑みをこぼして先生のおうむ返し。

 

「じゃあ、そういう話でいいね」

 

「あの、先生。種々研究を進める上で、現実問題としてカーネーションのサンプル確保の問題があります」

 

「おじさんのハウス、6月にはカーネーションを全て処分して、新しい苗を植える準備に入ります」

「つまり、6月初旬以降、研究材料が手に入らなくなってしまうんです」

 

有田先生は、待ってましたの笑みをこぼす。

 

「実は、長野県でここの研究室を卒業したあと、カーネーション生産を親から継いでいる先輩がいるんだ。僕より幾つか年上だから40代半ばくらいかな?」

 

「彼も都会向けの珍しい花色の花を作っているらしいんだ」

「愛知や千葉など暖地では6月に苗の作付けが始まるけど、長野や北海道などの高冷地では6月頃から収穫が始まる」

「ちゃんと、一年中市場に国産カーネーションが市場に流れる仕組みになっているんだ」

 

「彼は、正くんのおじさんほどではないけど、育種もしている」

 

「黄色花やオレンジ花もありますか?」

 

「今のところ、そこまでは僕にはわからない。一度皆んなで行ってみようか?」

 

「はい」

 

「今できる事は、できるだけ5月中に正くんのおじさんから沢山サンプルをかき集め、冷凍保存しておく事だね。9月頃まで材料に困らないように」

 

僕と恵ちゃんと義雄で研究室に戻ると、大樹は伊豆での余興の最終調整中。歌って踊ってる。

 

「大樹みたいのがいるから、僕らの教室、園芸学じゃなくて演芸学と言われる事があるんだ」

 

僕がそう言うと、恵ちゃんと義雄が大樹の姿を見て大笑いする。

 

「おう! 皆んな」

「振り付け、だいたい済んだ」

 

「あと画用紙で、ハマナスと、月と、白いかもめの頭に被る小道具を作れば完璧」

 

「あら、ハマナスは作らなくても、私、花よ」

 

恵ちゃんがワンピースの裾を掴み、膝をおって微笑む。

 

「いやいや、被ってよ。1番目の歌詞」

「2番目の歌詞は月、3番目の歌詞で白いかもめ」

「正と義雄の踊りの途中で入って来て、恵ちゃんが何の役だかわからないでしょ?」

 

「あれ、カラスさんは」

 

「それは被らなくていい。皆んなわかるから」

 

「気まぐれカラスさん、だっけ?」

 

「うん。そう」

「恵ちゃんは誰が見ても気まぐれだから」

 

恵ちゃんが三毛にゃんを抱き上げ、招き猫のように手を振らせる。

 

「勉強と踊り、そして恋も……。いろいろ忙しくなるんでちゅ~」

 

そして恵ちゃんは、素敵な瞳で僕をじっと見つめる。

 

「何事も始めるのは怖くないにゃ~。怖いのは何も始めないことなんでちゅ~」

 

第40話 (第2章 最終話)

 

「クッキーがあるなら、食後にはハーブティーといきますか」

「オススメはスーッとするミント系よ」

 

「ペパーミントとスペアミント、どっちがいい?」

 

「どう違うの?」

 

義雄が尋ねる。

 

「そうね、スペアミントの方がスーッと感が強いよ」

 

「あのさ、生葉でハーブティー入れると苦くて青臭くない?」

「生葉の90%は水分だよ。香りも飛びやすいし」

 

僕が言うと、

 

「紅茶に浮かせるの。2−3枚。香りだけを楽しむ方法」

「生葉でハーブティーを入れると、ミントでは6−7枚必要よ。確かに苦くなるよ」

「家では、ハーブを乾燥させておいて、それだけでいれてるけど」

 

「ミントの種類は恵ちゃんに一任するよ」

 

「うん!」

 

「ついでに、この前飲んだレモングラスも取ってくる」

 

「どうして?」

 

「三毛にゃんに」

 

「三毛にゃんに?」

 

「うん。猫はレモングラス大好きなの。多分、ムシャムシャ食べるよ」

 

「あれ? 子猫ちゃんがいるんですか?」

 

歩ちゃんがベランダの三毛にゃんに気づいた。

 

「うちの研究室の明石さん、猫大好きなんです。ペット禁止のアパートで隠して猫飼っているんです」

「名前はアイガー。ベルナーアルプスの一峰でスイスを代表する山の名前」

「でも、教授が猫や犬、大嫌いで。研究室ではあまり話題にしないんです」

 

「それは困ったね。教授、学部長でしょ。園芸学研究室で猫飼っているのバレたら一大事」

 

「私、秘密にしておきますから」

 

歩ちゃんは小首を傾げて微笑む。

 

「まあまあ、その話はさておき、ミント、取ってくるね」

 

恵ちゃんは、農場の方へ向かっていった。

 

「買ってきたぞ~」

 

大樹が弁当の入った大きなレジ袋を2つ両手に持ってきた。

 

「あれ? 恵ちゃんは?」

 

「今、農場にミント取りに行ってる」

 

「ミント? また何で?」

 

「食後のクッキーとともに頂くハーブティーだよ」

 

大樹とほぼ同時に、恵ちゃんが農場から帰ってきた。

 

「さて、皆んな食べましょう!」

 

「いただきます!」

 

恵ちゃんの音頭で、一斉に声を合わせる。

 

「正、義雄よ。スポーツ弁当値上がりしてた」

 

「いくら?」

 

「500円が530円になってた」

「今回の差額は俺のおごり。次回からよろしくね」

 

「ワンコインじゃなくなっちゃったね」

「やはり、食事は学内の値段に敵わないね。安いから」

 

僕が呟くと、

 

「でも、カフェテリアの値段の設定は高めだと思うよ」

 

恵ちゃんがそう答えると、歩ちゃんが、うんうん、と首を縦に振る。

 

「僕らはあまり行かないけど、カフェテリアの二階の喫茶ラバルス。あそこのランチは美味しいらしいけどカフェテリアよりさらに高いらしい。800円くらいのものもあるみたい」

 

「私、たまに行きます」

 

歩ちゃんが話し出す。

 

「値段は高いけれど、パスタ類、イタリアン系はとても美味しいですよ」

 

「カフェテリアのカルボナーラと比べてどう?」

 

恵ちゃんが聞くと、

 

「カルボナーラはカフェテリアが上かな? でもあとはラバルスの勝ちです」

 

「いいよね~、皆んな懐暖かくて」

「僕は、生協が一番。定食は300円台で、サラダをつけても500円いかない」

 

「あら、この前行った貧乏専用の新港さんは? カレー170円、ラーメン200円」

 

「さすが毎日、カレーとラーメンだけ食べていると飽きるでしょ」

 

「私も新港行きますよ」

 

「えっ? 歩ちゃんも行くことあるの? 新港に」

 

「はい。あそこのカレー、とても美味しくて好きです!」

 

「それがね、歩ちゃん。大樹くん、新港でカレーをジャケットにこぼして、右往左往していたの」

 

恵ちゃんがそう言うと、歩ちゃんがクスッと笑う。

 

「遠出するとおしっこが近いし、研究室では歌いながら踊ってるし、カレーやソースをジャケットにもかけるし、変なヤツだろ?」

 

歩ちゃんが少し大きめな声でフフフと笑う。

 

「ほっといてくれ!」

 

大樹は照れる。

 

「さて、昼食も済んだし、三毛にゃんもレモングラスと奮闘しているし、食後のティータイムと致しましょうか」

「歩ちゃん。ちょっと手伝ってくれる?」

 

「はい」

 

恵ちゃんと歩ちゃんが、紅茶を入れる準備を始める。

 

「恵ちゃん。ところでハーブは何を取ってきたの?」

 

「ペパーミントとローズマリー」

「いつもの紅茶、クールで爽やかな味に大変身するよ」

 

紅茶を注いだカップに、ペパーミントを2枚浮かし、ローズマリーをほんの少し。

 

「ああ! 全然違う! いつもの紅茶が大変身だ」

 

「でしょ」

 

恵ちゃんは微笑む。

 

「では、歩ちゃん作のクッキーも頂きましょ」

 

「美味しい! サクサクしててクルミ入り。食感も味も抜群だね」

 

僕はあまりクッキーを食べない方だが、これは美味しい。感動もの。

 

「チョコクッキーの方には、チョコチップが入っているね。これもサクサク!」

 

「歩ちゃん、このサクサク感、どうしたらできるの?」

 

僕が尋ねると、

 

「女の子の秘密よね~」

 

「秘密ですよね~」

 

恵ちゃんと歩ちゃんが互いに見合って相槌を打つ。

 

「恵ちゃんの秘密はあてにならないからね」

 

「あら、どうして?」

 

「だって、ここで作った里芋の煮っころがしに、みりん入れ忘れたことあるじゃない」

 

「今度、正くんのバースデーケーキには、しっかりとみりん入れておくわよ」

 

皆んなで笑う。

 

「しかし、お店なんかじゃ売っていない程の、美味しい手作りのクッキーに、ハーブを浮かした紅茶。弁当屋の弁当の後に、一気に高級洋菓子店の味わいの組み合わせになったね」

 

「ハーブ。いいなあ~。俺も勉強しようかな」

 

大樹が呟く。

 

「このペパーミントとローズマリーはね、ここ1番の頑張り時! みたいな時に飲むの」

 

「そうだ、恵ちゃん、ハーブ検定だか何かの資格があるんだよね?」

 

「うん」

 

「リフレッシュしたいときは、ペパーミントやカモミール。ストレス解消にはパッションフルーツやハイビスカス」

「やる気を出すときには、ローズマリー、レモンバームそしてレモングラス」

 

「女子力アップにはローズヒップ」

 

「ふうん。恵ちゃん、家では毎日飲んでるの?」

 

「うん。飲んでるよ。庭で採取して乾燥させておいて、いつでも好きなものが飲めるようにしている」

 

「女子力アップ。僕らが飲んだらどうなるの?」

 

「さあ? 男の子にモテるようになるんじゃない」

 

皆んなで爆笑。

 

「しかし、ハーブを少し加えただけで、やる気も出るし、安らぎもするね」

 

「ハーブにはね、アロマテラピー効果と薬理効果があるの」

 

「立ち上る香りを嗅ぐことで、鼻からハーブの揮発性分が吸収され、匂いの化学分子が鼻を通って脳に到達し、穏やかなアロマテラピー効果をもたらすの」

「薬理効果は、ハーブティーに溶け出す水溶性成分に、タンニン、フラボノイド、ビタミン、ミネラルなどの栄養があって、消化管から体内に吸収される」

 

「さっき言った、いろいろな目的別に体調バランスを整えることができるの」

 

「毎日飲まなきゃだめ?」

 

「うん。3ヶ月以上くらい続けると、その効果がわかってくる」

 

「じゃあ、俺、ローズヒップ飲む。男の子にもモテたいし」


歩ちゃんが、クスッと笑う。

 

「義雄は、パッションフルーツ、ハイビスカスかな? 意外にフラストレーションたまってそうだし」

 

大樹がふざけたように話す。

 

「でも、紅茶に生葉を2−3枚浮かべるだけで、こんなにもスッキリして安らぐんだ」

 

僕は感心する。

 

「すごいでしょ。ハーブ」

 

「うん。すごい」

 

「園芸学研究室の皆んな、仲良くて楽しくていいですね」

「卒論の他に、オレンジ色のカーネーションの秘密を一緒に解いたり」

 

歩ちゃんが羨ましそうに呟き微笑む。

 

「生物環境工学の四年生は、いわゆる真面目で静かな人達だけですから……」

「あまり、互いに交流も望まないし……」

 

「確かに、奴らおとなしいよね。一年生の時からそうだった」

「伊豆で夜の海に誘っても、誰も来なかったし」

 

「大樹、僕も義雄も行かなかったよ。例えが悪い」

 

「ランチさえ、一緒に食べること、ほとんどないんですよ」

 

「僕らの研究室は、個性と我のぶつかり合いだからね。皆でワイワイするのが当たり前なんだ」

 

「皆んな歩ちゃんが可愛いから、気軽に誘えないんじゃないの? 恥ずかしくて」

 「うちもそうなのよ。男の子たちは皆んな恥ずかしくて、私のこと構ってくれなくて……」

 

恵ちゃんが、おしとやかな女の子の素振りをして呟く。

 

「どこの口からそんな言葉でる?」

 

大樹がそう言うと、恵ちゃんは姿勢を正し、いつもの笑顔で上を向いて綺麗な瞳をクリクリさせる。そんな可愛い素振り。いつでもどこでも大好きだよ。恵ちゃん。

 

第39話

 

「正くん。カーネーションのオレンジ色やトランスポゾンに興味を深めるのもいいけど、バラ属のアイソザイムの実験、サンプル3回分くらい溜まっているよ」

 

有田先生が、いつもの人差し指をこめかみに当てる仕草で僕に呟く。

 

わかっているかい? 大丈夫かな? と言う先生からの確認の合図。

 

「今日明日、連日連夜で電気泳動します」

 

「色々細々した用事が積み重なると、卒論、遅れちゃうよ」

 

先生が言うと、

 

「遅れちゃうよ」

 

恵ちゃんのいつもの微笑みのおうむ返し。

 

「今、一番込み入った仕事は、誰かさんのビジュアルベーシックのプログラムを組んでいることなんです」

 

恵ちゃんはペロッと舌を出す。

 

「そうそう。一年生の伊豆での果樹園芸学実習の余興、考えなきゃ」

 

大樹が手のひらを大きく叩いて話をそらす。

 

「全く。今年の四年生。呆れる人たちですね……」

 

そうは言うものの、有田先生は僕らに笑顔を隠してそそくさと自分の研究室に戻っていった。

 

「正と義雄よ。俺が歌うから、2人で後ろで踊ってくれないか?」

 

「いいけど、大樹。何を歌うの?」

 

「知床旅情。俺、北海道出身だし~」

 

「恵ちゃんは?」

 

「恵ちゃんは司会兼、ワンポイントの踊りを頼む」

 

「私、いいよ。面白そう!」

 

「まあ、いいけど。振り付けはどうするんだ?」

 

「しれ~とこ~の岬に~、で、正と義雄が知床半島を型どるように合掌して三角目に両手をあげる」

「はまなす~の咲くころ~、で恵ちゃんが真ん中に入り、正と義雄は恵ちゃんに向かってハマナスの花を愛でるようにキラキラ手をする」

 

「面白いじゃん。大樹」

 

僕が言うと、

 

「なんでそんなことすぐ思いつく。学業もそうならいいのに」

 

義雄が大樹をおちょくる。

 

「ある面では天才よね、大樹くん。ナンパ向きな性格、わかるような気がしてきた」

 

「だ・か・ら。その話は置いとこう、恵ちゃん」

 

「まあ、余興の構成は大樹に一任ということで、皆んな卒論、卒論」

 

僕はいつも通り、マイナス10℃の世界へ。スキーウエアを身につける。恵ちゃんはラン温室へ。義雄は培養室。

 

大樹は研究室で、一人で歌いながら振り付けを考え、メモし始める。

 

「あれっ、歩ちゃん。こんにちは」

 

研究室を出てすぐのところで歩ちゃんに会う。

 

「大樹くんのドライブと、綺麗なカーネーションを頂いたお礼にクッキーを作ってきて……」

「皆んなの分、ありますから」

 

「大樹なら部屋にいるよ」

 

歩ちゃんがドア越しに研究室を覗くと、大樹が歌いながら、身体をくねくねさせ妙な踊りをしている。

 

「ああ、あれ。酔っているとか、頭がおかしくなったからじゃないから」

「もともとおかしいのは、おかしなヤツだけど」

 

歩ちゃんがポカンと不思議顔。

 

「渡しておいで、歩ちゃん」

 

「はい」

 

素直で素敵な可愛いい子。恵ちゃんがいなかったら、僕らのマドンナは歩ちゃんだったかも。

 

「寒い……」

 

いつもの慣れた低温室だが、外は気持ちのいい晴天の日。環境の落差がとても大きい。しかも、今日は電気泳動を2回する予定。いつもの倍の時間、低温室に閉じこもり。

 

 

ーーーーー

 

 

「どうする? ランチ」

 

研究室に戻ると、皆んなで今日のお昼ごはんの相談をしている。

 

「皆んな忙しいから、今日は弁当にしようか?」

 

「学内のお弁当じゃなくて、弁当屋さんのお弁当がいいな~」

 

「賛成! 俺、買い出しに行くよ」

「俺、車あるからさ~、早いよ」

 

恵ちゃんのご要望と大樹の言葉に皆んなが頷く。

 

「僕はスポーツランチ」

 

「俺も」

 

義雄も僕と同じオーダー。

 

「俺はスタミナ弁当かな」

 

「大樹。歩ちゃんのためにスタミナつけるってか?」

 

「義雄。黙っていてくれ。そう、恵ちゃんは?」

 

「私、レディース弁当。自分みたく可愛くね」

 

両方のほっぺに人差し指を当てて微笑む。

 

「カロリー低いし。私、今、なんとなく痩せたいの。恋が始まりそうだからかな~?」

 

「あらまあ、恵ちゃんらしからぬしおらしい言葉」

「痩せるのは簡単だよ。失恋すればいい」

 

大樹が笑いながら話す。

 

「そうなの? 失恋して痩せることができるなら、私、何回も失恋したいわ!」

 

「早く正といい仲になって失恋しちゃえ」

 

「あのね、恋の醍醐味は、その恋がいつかは終わるということを知らないことにあるんだ」

「自称互いに身持ちの堅い、正や恵ちゃんにはわからないだろうけど。恋が終わると皆んな痩せる」

 

「大樹、何で僕と恵ちゃんを引き出す?」

 

「恋と咳とは隠せないだろ」

 

義雄も口を挟む。

 

「正と恵ちゃんの仲は、もうすぐ誰もが知る既成事実になる。俺たちは降りるよ。青春がもったいないから」

 

「そうそう大樹。歩ちゃんも誘おうか? 研究室 de ランチ」

 

切り返した僕の提案に大樹が少し顔を赤らめる。

 

「食後のクッキーもあるしね」

 

「クッキー?」

 

恵ちゃんが首をかしげる。

 

「大樹が歩ちゃんから手作りのクッキーをもらったんだ」

 

「正。何で知ってる?」

 

「さあ~」

 

僕は、はにかんで研究室の天井を見つめる。

 

「まあいい……」

 

大樹が腕を組み小首をかしげたところで、僕は恵ちゃんに声かける。

 

「恵ちゃん。歩ちゃんに食べたいメニュー聞いてきて」

 

「は~い」

 

恵ちゃんが研究室を早足で出て行く。大樹はソワソワしている。

 

少しして、歩ちゃんが頭をぺこりと下げて恵ちゃんと一緒に研究室に入ってきた。

 

「私も恵さんと同じので……」

 

大樹を横目でチラ見して少し照れている様子。

大樹はわざとらしく歩ちゃんから目線を避けて、そそくさと弁当の買い出しに向かう。

 

僕も言われたことがあるけど、フロイトじゃなくても、今の大樹のこころが読める。

 

第38話

 

「おっ、義雄」

 

義雄が研究室に戻ってくる。

 

「みんな揃ってるね」

 

タイミングよく、有田先生も僕らの研究室にお茶を飲みにきた。

 

「僕は今、丁度カーネーションのトランスポゾンの話を皆んなにしていたんです」

 

「トランスポゾンですか。動く遺伝子の事だね」

 

有田先生も興味ありげ。自分でコーヒーを入れはじめる。

 

「義雄さ、遺伝子、染色体、ゲノムとトランスポゾンの簡単な導入部分は話したんだけど、続きを義雄からお願いできるかな?」

 

「ああ、いいよ」

「トランスポゾンが何たるかは正、話したよね?」

 

「うん。簡単に」

 

「そう。じゃあ、僕なりに遺伝子の話からトランスポゾンのことについて話すね」

 

「遺伝子、つまり生物の遺伝情報を担うDNAは、エクソンとイントロンからできている」

「エクソンとは生物のDNAのなかで、mRNA、つまりメッセンジャーRNAに転写される部分のこと」

「イントロンとは生物のDNAのなかで、mRNAに情報が移されない部分」

 

「遺伝子は、このエクソンとイントロンが繋がってできているんだ」

 

「ただし、真核生物ではDNAからmRNAに転写される際には、まず遺伝子領域のDNAから丸ごとそれに対応するRNAが転写されて、その後イントロンに当たる部分のRNAが切断される。つまり捨てられる」

 

「このことをスプライシングというんだけど、その名称はともかく、エクソンに当たる部分がつなぎ合わさることによって、初めて成熟したmRNAができるんだ」

「そして、生命維持に欠かせないタンパク質、酵素、ホルモンなどを生成する」

 

「なるほどね。教養課程の生物で習ったわよね」

 

恵ちゃんが頷く。

 

「正くんの研究しているアイソザイム、酵素多型も酵素遺伝子の直接的な産物だよね」

 

「俺にはエクソンとかイントロンとか初めて聞く難しい言葉だけど、とにかくはエクソン部分がタンパク質の発現に重要な訳?」

 

大樹が呟く。

 

「そう。でも、イントロンが大事じゃないと言う訳じゃない。でもそのことについては今は触れない」

 

「大樹くん。教養生物で何してたの? 他の学部の女の子の胸とかお尻とかばかり見ていたんじゃない?」

 

恵ちゃんが冷たい視線を大樹に送る。

 

「確かに。それはあった。女の子を好きになるには男特有の愚かさが必要なんだ」

「顔や胸、お尻などへのあり余る好奇心で女の子全体を見回し、好みの対象に当たる女の子のラインがつなぎ合わさる」

「そして、行動に移るところで何人かは振り落とされる」

 

「そうすることによって、初めて成熟したナンパができるんだ。興味対象から振り落とすという表現は失礼な言葉だけど」

 

「おいおい、大樹よ。お前のナンパ、RNAの転写やスプライシングの話しみたいだな。恋がタンパク質か?」

 

義雄が苦笑いをする。

 

「スプライシング。捨てる、捨てられる。そうかもしれない。しかして、選択から漏れた女の子たちも大事じゃないというわけではないんだ」

「身も心も、別れる、離れることがなければ、そのあと新しい恋にめぐり逢う事ができないじゃない。取捨選択。それも恋の大切な経験になるんだよ」

 

「そして、経験は大事だけど、恋はすべてが初恋なんだ。毎回相手が違うから」

「男としての健全な生命維持活動を続けるためにも、俺は動く遺伝子であろう!」

 

「全く……。大樹くんの話、わからないではないけど、本物の恋をする人は、皆んな一目で恋に落ちるんじゃない? 正くんのように」

 

「いや、そういう恋とはね、普通の女の子を女神と勘違いしているんだよ。そしてそういう人は、実際の恋愛対象よりも、自分で心に描き出した相手の像の方に一層恋する」

 

大樹の言う通り。そうかもしれない。まさに、僕にとっての恵ちゃんがそうだ。

 

「ところで義雄くん。実験室で何に没頭してたの?」

 

「実はさ、昨日正から言われて、黄色花のCHI遺伝子の壊れ方を見ていたんだけど、正の言う通りに、CHI遺伝子のエクソンにAc/Ds型のトランスポゾンのフットプリント、また、CHI遺伝子の末端にはレトロトランスポゾンの足跡が確認できたんだ」

 

「何、何? そのAc/Ds型って。レトロトランスポゾン? 何それ?」

 

大樹が興味ありげに質問する。

 

「トウモロコシから単離された、トランスポゾンの転移因子の呼称」

 

「カーネーションでも、それと同じ型だと言うこと。特段気にするワードじゃないよ。頭の片隅に置いておけばいい」

「重要なのは、白地に紫の条模様の入るカーネーションのDFR遺伝子を調べていて不思議なことを見つけたんだ」

 

「トランスポゾンによりDFR遺伝子が破壊されている形跡があった」

「それが遺伝子のエクソン領域だけに挿入される、他の植物のトランスポゾンには報告例がない、極めて珍しい特性をもっていることが明らかになったんだ」

 

「義雄くん。それは面白い発見だね」

 

有田先生が身を乗り出して口を挟む。

 

「すなわち、そのトランスポゾンは、高い確率で遺伝子のコーディング領域に挿入される性質を有するため、遺伝子機能の研究を効率よく行うことが可能になる」

「さらに、そのトランスポゾンは、特定の遺伝子中に挿入されたときに,その遺伝子の発現を完全に消失させない性質を有する」

 

「このことから、これまでの方法では単離することが不可能であった、生育に直接関与する遺伝子など、不活性化されると致死に至るような遺伝子の単離にも有用、そう言うことですね」

 

「何、何? 先生。難しくて全然わかんない」

 

恵ちゃんが子供のように体を揺すって、先生の言った意味を知りたがる。

 

大樹は腕を組み下を向いて考えを整理しようとしている。いや、大樹はそういうフリだけをしている。

 

「先生の話は、タギングについて何も触れていないから」

 

「遺伝子にトランスポゾンの転移挿入が起こると、標的の遺伝子に変異が起こると同時に ”タグ”がつけられるんだ」

 

「生物の機能解析に利用されている遺伝子に ”タグ”をつけてクローニングする手法は遺伝子タギングと呼ばれていて、とりわけトランスポゾンで”タグ”をつけた場合にはトランスポゾン・タギングと呼ばれ、この方法による遺伝子とその発現機構との関係など、多くの成功例が示されているんだ」

 

「先生! ちょっと待って、待って。頭を整理する」

 

恵ちゃんが珍しく難しい顔をする。

 

「カーネーションに、とあるトランスポゾン、つまり動く遺伝子があって、それは遺伝子のmRNAを司るエクソン部分だけに特異的に挿入される」

「そしてそのトランスポゾンは、生物の遺伝子発現機構の研究に極めて有効かもしれない」

「端的に言うと、そういうことかしら?」

 

「端的にそう言うことです」

 

有田先生が笑みをこぼす。

 

「オレンジ色の秘密から、とんでもない方向にも向かっちゃったね」

 

先生がそう言うと、恵ちゃんはいつもの可愛い仕草を見せながらも、複雑なため息をついた。

 

「まあ、お茶でも飲んで、オレンジの花色研究に頭を戻しましょう」

 

有田先生が恵ちゃんの肩をポンと叩く。

 

「戻しましょう……」

 

恵ちゃんが納得がいかない顔をしながらボソッと呟く。

 

第37話

 

「来週、伊豆ね。果樹園芸学実習サポートね。」

「私、楽しみ。綺麗な海! 早く見たいわ」

 

恵ちゃんが素敵に瞳を輝かせ、祈りのように小さな両手を握る。

 

そう、海にしようかな? 恵ちゃんに告るの。

 

「今年の農学部の一年生の女の子。可愛い子が多いらしい……」

 

大樹が吐き捨てるようにボソっと呟く。

 

「あら? 大樹くんは内輪の女の子はそっちのけ、夜の海へナンパに行くんじゃなかったっけ?」

 

「ほっといてくれ」

 

「まあ、一泊二日だと無理か。一発で仕留めなきゃならないから」

 

「俺は一発で仕留める。一発二回。それをナンパというんだ」

 

「うまく行くように、私、付き添って行こうか? 殺し文句、耳打ちしてあげる」

「君は瞳が優しいし、まつ毛の角度がとっても素敵」

「牛乳のように白い肌……」

 

「どう?」

 

「だ・か・ら。ほおっておいて……」

 

歩ちゃんの可愛らしさに気づき、その優しさにも少し惚れたのだろうか。大樹の言葉に覇気がない。八ヶ岳旅行のあと、おじさんのところに歩ちゃんと二人で行ってから大樹の様子が変わってきた。

 

「大樹くん。よくわからないけど、ナンパって何発したかじゃなくって、知り合って連絡先を交換して、そのあとで会うものじゃないの?」

 

「そういうのもある」

 

「連絡が来ない時はどうするの?」

 

「便りがないのはブスな知らせ。そんなもんだよ」

 

「あら? それは相手に失礼ね。便りがないのは無事な知らせでしょ? 大樹くんのような輩に捕まらなくて」

 

「本当にほっといてよ。もう……」

「今年は行かないよ」

 

「あら? 心底歩ちゃんに惚れちゃったかな~」

「私は選択肢から外れたかな~」

 

「正くんはナンパ行かないよね? そういうタイプじゃないから」

 

「僕だって……。合コンくらいはしたことあるよ」

 

「へえ~、そうなんだ。で、結果は?」

 

「0勝0敗」

 

「な~んだ。つまんないね。3年間、彼女なしか……」

「寂しい青春時代ね」

 

恵ちゃんは微笑んでそう言う。

 

「恋愛経験が少ないほど条件にこだわるというからね~」

「もう私くらいしかいないかな? 正くんの求める条件に適しているの」

 

「そういう恵ちゃんだって、3年間彼氏なしでしょ?」

 

「私、育ちがいいから身持ちが固いのよ。そして、男の子に好きになられるよりも、好きになれるかどうかということを重視しているから」

 

「僕だって、いつか恋する人のために身持ちを……」

 

「男の子は身持ちが云々、言い訳にならない」

「正くんって、大樹くんと歩ちゃん、ホットな旬では義雄くんとみどりちゃん。人の恋には敏感でよくわかるのに、自分の恋となると、どうもうまくいかないね」

 

「毎日好きな人に会って、好きな人のそばにいて、好きなものを食べてるじゃない。一緒に好きなところに行って、好きなこともしている」

「あとは相手じゃなく自分を好きになるだけでしょ?」

「自分自身を好きな人に、女の子は恋するの。前にも言ったでしょ?」

 

「告白しないと恋は始まらないよ。恋は恋から始まるの。どんなに強く親しい友情があっても、しかるべき儀式、すなわち告らなきゃ恋は始まらないのよ。ネッ! 正くん」


恵ちゃんは、僕の肩をポンと叩く。


「ただ、気をつけて。タイミングも大切よ。お腹がすいている時にキスしたい女の子なんていないんだから」

 

「はいはい……」

 

僕は決めた。伊豆の海で恵ちゃんに告るんだ。ホントだよ。決めたよ、僕は。

 

「そう、もう一人の身持ちの固い義雄くんは?」

 

「恵ちゃん。義雄は見かけによらず、身持ちは固くないよ」

「最近、実験室にずっと閉じこもっている」

 

「あら、何かのトラブル?」

 

「義雄、カーネーションから面白いトランスポゾンを見つけたみたいなんだ」

 

「トランスポゾン? 何それ。大樹くん、知ってる?」

 

「確か……、そう、動く遺伝子のことだろ」

 

「あっ! そう言えば私も聞いたことある。動く遺伝子。なんだかよく分からないけど」

 

「動く遺伝子。説明しようか?」

 

僕は恵ちゃんに優しく呟く。

 

「うん」

 

「動く遺伝子の説明の前に、遺伝子と染色体、ゲノムについて話すね」

 

「うん。お願い」

 

恵ちゃんは興味を持った時の、いつものように目をクリクリさせる。僕の大好きな表情。

 

「遺伝子とは、今僕たちが調べている、カーネーションが黄色の花になる、赤い花になる、そういう色素を合成したり、後代に伝えたりするDNAの特定の部分を言うんだ」

 

「酵素やホルモンなどのタンパク質の構造にかかわる暗号部分と、その暗号の読み取りを指令する部分。これが遺伝子ね」

「染色体はヒストンと呼ばれるタンパク質にDNAが巻き付いた棒状の固まり」

 

「細胞内の染色体の数は、生物の種類によって違う。高等動物、高等植物の場合、同じ染色体が対で存在する。つまり、一つの細胞に染色体のセットが2セット入っている」

「この、生物が正常な生命活動を保持するための基本となる1セット全体のDNAのことをゲノムというんだ」

 

「ゲノムとは、遺伝子と染色体から合成された言葉で、DNAのすべての遺伝情報のことなんだ」

 

「正くん、よく知ってるね。感心するわ」

「なんだか面白そう。ゲノムって」

 

恵ちゃんが、僕の隣の椅子に座った。僕の方に身を傾ける。いい香り。

 

「そこで動く遺伝子についてなんだけど、これはノーベル賞受賞者のバーバラ・マクリントックによって発見されたんだ」

 

「動く遺伝子、すなわちトランスポゾンが一つの染色体から他の染色体に移動して、その場所の遺伝子作用を調節することを見いだし、遺伝子が単独で、一つの染色体から他の染色体に移動することがあることがわかったんだ」

 

「すごいすごい! まさに動く遺伝子ね」

 

「うん」

 

「バーバラ・マクリントックは、トウモロコシの実に見られる斑(ふ)に着目してこれを見つけた」

 

「僕らの調べているカーネーションも然り。白地に紫など、色々な斑(ふ)模様があるでしょ。それらは動く遺伝子、トランスポゾンの仕業ということは昔から知られているんだ」

 

「あと、枝変わり。例えば赤い花が突然ピンクになったりすることあるでしょ?」

「これは、YIA SRMの遺伝子型のうちの、例えば濃淡のS遺伝子にトランスポゾンが入ると、遺伝子自体は赤のSの優性の遺伝子なのにも関わらず、劣性のsのごとく発現しピンクになる」

「そして、トランスポゾンがs遺伝子から抜け出すと、また優性のSに復帰して赤になる」

 

「面白い! 面白い! すごく面白い!」

 

恵ちゃんは興味深々。表情がとても可愛い。恵ちゃんの体は僕のすぐそば。必ず手に入れるよ。

 

僕は話を続ける。

 

「そして面白いことに、トランスポゾンが抜け出すと、フットプリント、つまり遺伝子に私が挿入されていたことがあるんですよみたいな足跡、証拠を残すんだ」

 

「なるほどね。確かに面白い」

 

大樹も頷く。

 

「黄色花のCHI遺伝子も、フットプリントが残されていると思う」

「ただ、今、義雄はDFR遺伝子に残されたトランスポゾンの足跡の方に夢中だけれど」

 

「どうして、CHI遺伝子じゃなくてDFR遺伝子の方なの?」

 

恵ちゃんが首を傾げる。

 

「もう少しだけ難しくなるけど、いいかな?」

 

「うん。いいよ」

 

恵ちゃんも大樹も、いつにもなく興味津々な目をして僕を見つめる。

 

第36話

 

「恵ちゃん。じゃあまた明日ね」

 

僕は小さく手を振る。

 

「明日も可愛いらしくいてねっ!」

 

大樹がうらやましい。僕はこころでしか言えないことが、すんなり口から出てくる。

 

「うん。任せて!」

 

「じゃあね。バイバイ」

 

恵ちゃんが、花期を終えたアカシアの並ぶ緩やかな坂道を下っていく。オオデマリはそろそろ花を終えそう。ヤマボウシやジャケツイバラが咲いてきている。恵ちゃんには、どんな花の背景も似合う。

 

「正、義雄。恵ちゃんが帰ったことだし、俺も帰る」

 

「大樹も? こんなに早く?」

「まだ外は明るいじゃないか」

 

「ああ。おじさんのところに行ったし、今日は少し疲れた」

 

「歩ちゃんへの気づかい疲れじゃないのか?」

 

「違うったら!」

 

大樹はひとりでぶちぶち呟きながら帰宅する。

 

研究室で義雄と二人。

少し濃く入れすぎた、熱いブラックコーヒーを飲む。

 

「あのさ、正。お前にしか多分伝らないことなんだけど……」

 

義雄が僕に話しかける。みどりちゃんの話かな? 興味がある。

 

「実はカーネーションのDFR遺伝子を調べていて不思議なことを見つけたんだ」

 

「何?」

 

「ある品種で、トランスポゾンによりDFR遺伝子が破壊されている形跡が確かめられた」

 

どうやら、みどりちゃんの話ではなさそうだ。

 

「トランスポゾン。動く遺伝子か?」

 

「そう。しかも遺伝子のエクソン領域だけに挿入される、他のトランスポゾンにはない極めて珍しい特性をもっていることがわかったんだ」

 

「生命を維持するために欠かせないタンパク質の情報に相当する部分の遺伝子、DNA中のエクソンか……」

 

タンパク質を合成する遺伝情報がコードされている部分をエクソン(翻訳配列)といい、遺伝情報がコードされていない部分をイントロン(非翻訳、介在配列)という。

 

「そのトランスポゾンは、ターミナル・インバーテッド・リピートとして、5’-CAGGGTT-------AACCCTG-3’を有するAc/Ds型だ」

「このトランスポゾンは転移酵素を内部にコードしない非自律性因子、カーネーションゲノム内に存在する自律性因子からトランスポゼースがトランスに作用することによって動く」

 

「それで?」

 

「このトランスポゾンの挿入によって色素合成系遺伝子が不活性化され、脱離することによって再活性化されるんだ」

「この知見から、三つのことがわかってくる」

 

「トランスポゾンは、その挿入によって遺伝子破壊を生じさせるために、遺伝子の発現を抑制・失活する上で有用だろ?」

 

「一つ目は、これを利用した遺伝子解析法がトランスポゾン・タギング」

「トランスポゾンを遺伝子導入ベクターに結合して、これを内在性の転移因子による変異体が見い出されていないような植物に遺伝子導入し、この外部から導入したトランスポゾンを転移させて未知遺伝子内に挿入させることができる」

 

「二つ目は、トランスポゾンをプローブとしてこの未知遺伝子を単離・同定することができる。このようなトランスポゾンを用いたタギング法によって、植物においてこれまでに様々な有用遺伝子がクローニングされてきたんだ」

「また、遺伝子破壊することによって機能を調べる機能喪失、loss of function の手法として、トランスポゾンを用いたタギング法は最も有効な方法」

 

「三つ目は、今回見つけたトランスポゾンは、高い確率で遺伝子のコーディング領域に挿入される性質を有するため、トランスポゼースを見つけたら、タギング法による遺伝子機能の研究をとても効率よく行うことが可能なんだ」

 

「義雄。待って! 待ってよ! 話が飛躍しすぎ。ゆっくりと整理してまとめていこうよ」

「トランスポゾンの応用編は、まだまだ先の先」

 

「あくまで、まずはカーネーションでの現象を説明するだけの範囲で押さえておこう」

「しかも、皆んながわかるように簡単なところから」

 

僕は義雄がカーネーションで見つけた動く遺伝子、トランスポゾンについて、カーネーションで起こっているであろう現象論ををまとめる。

 

「カーネーションにおいてトランスポゾンが挿入された構造遺伝子は機能しないため、それによって色素合成は出来なくなり、花色は正常とは異なるものになる」

「しかし、そのトランスポゾンが脱離すると、その遺伝子は正常な機能を回復し再び色素合成を行なうようになる」

 

「今回、カーネーションから動く遺伝子、新規のトランスポゾンが見つかった」

「そしてそれは、DNAのエクソン、すなわちタンパク質を合成する領域だけに挿入される稀なもの。タイプはAc/Ds型。非自律性因子」

 

「非自律性因子。つまり、そのトランスポゾンを動かすためには、トランスポゼースという酵素が必要」

「しかし、カーネーションのトランスポゼースについては、まだ何もわかっていない」

 

「これくらい簡単な話から入らないと、いや、これ以上やさしい話から入っていかないと、皆んな何にも理解できないよ」

 

「そうだね」

 

義雄が頷く。

 

「しかし、動く遺伝子か。カーネーションの花色研究。奥深いね」

 

「大樹や恵ちゃんにも分かりやすく伝えて、トランスポゾンの知見も共有しなきゃね」

 

「うん」

 

「義雄、一度皆で生命工学研究室に、動く遺伝子、トランスポゾンに関するレクチャーを受けに行こうか?」

 

「いいね、それ」

 

「義雄、近いうちにみどりちゃんに日時、調整してもらってきて」

 

義雄は恥ずかしげに頷く。

 

「義雄、今日のCHI遺伝子に、Ac/Ds型のトランスポゾンのフットプリント、つまりトランスポゾンが出入りした痕跡があるだろうから確かめてみて」

「また、CHI遺伝子の末端にはレトロトランスポゾンの足跡が確認できると思うよ」

 

「正。よく知ってるな、遺伝子のこと。全く関心するよ」

 

「僕もみどりちゃんの先輩、同期の隆から、遺伝子発現に関するレクチャーを受けたことがあるからね」

 

「学ぶって大事だね」

 

「うん。真似ぶ、それが学ぶ」

 

「難しいことでも、分からなくても繰り返し頭に叩き込み、真似るんだ。何をしているのかがわからなくても。とにかく一緒に一生懸命勉強する、真似ぶ」

 

「ある時、ハッ!と分かるんだ、自分がしていることが何かということを」

 

「真似ぶが、学ぶになる」

「知らず知らずのうちに、自分が変わっていく」

 

「サイエンティストのヒヨコへの階段だよ」

 

義雄は頷き、コーヒーを飲み干す。外は日が落ちてもう暗い。

 

「正よ。お前、気づいているだろ? 恵ちゃんのこと」

 

何の話だろう? 僕は静かにする。

 

「正も動く遺伝子のように、色々女の子と遊んでおけばよかったのに。遊ぶといってもね、その時、その時の恋には夢中だよ」

「いつか別れても、女の子のこころに痕迹、すなわちトランスポゾンのフットプリントのように、素敵な思い出という足跡を残さなきゃ」

 

僕は黙って義雄の話を聞く。冷めている残りのコーヒーがほろ苦い。

 

「正は女の子と心底恋に落ちた経験がないだろ? 動かない遺伝子みたい」

「そのくせ、正自身の恵ちゃんへの想いだけがトランスポゾンのように足しげく動いている」

 

「好きだ、と、てれくさくて言えないというのは、つまりは自分を大切にしすぎているからなんだよ」

「気持ちを伝えるのがてれくさいと感じるのは、裏を返せば、相手に拒絶されることで自分が傷付くことを恐れているからなんだ」

「相手がどう受け止めようと、自分は相手が好き、そう腹をくくることで恋への一歩を踏み出すことができるんだ」

 

いや、違う。僕は自分が傷つくことなんか恐れてはいない。相手を傷つかせることが怖いんだ。こんな僕でいいのかと……。

 

「女の子を好きになると、相手への思いが暴走して、周囲が目に入らなくなってしまうことがあるんだ。女の子が高嶺の花にみえる」

「そして自分自身を、このままではダメだ、と感じてどうにもならなくなる」


「相手の気持ちを置き去りにして、自分の感情のみが突き進んだり後退したりしている感情はね、いわゆる片思いというんだ」

 

「恋はね、お互いを見つめ合って、ただただ時間を過ごすことではなく、お互いが同じ方向を見つめて楽しむものだと思いな」

 

僕は、この義雄の言葉には納得がいった。

 

「そろそろ帰ろうか」

 

僕がそう言いマグカップを洗っている途中、義雄が僕の肩を叩き微笑む。

 

「相手と自分に、上下も高い低いもない。大切なパートナーと肩を並べ足並みを揃え、2人だけの気持ちのいいライフスタイルを一緒に作りあげていく。それが恋の醍醐味というものだよ」

 

この言葉で僕は腹をくくった。恵ちゃんに告(こく)ろう。そう、近いうちに……。いつがいい?

 

第35話

 

皆んなでゾロゾロと研究室に帰ってきた。

 

お寿司にパフェ。体内のカロリーは増え、財布の中身が減る。貧乏人の僕にはダメージが大きい。

 

歩ちゃんは、優しい笑顔で小さく手を振り、小走りで生物環境工学研究室に戻っていった。

 

「皆んな、ノーザンの結果出たぞ」

 

お留守番だった義雄が、CHI遺伝子のノーザン・ハイブリダイゼーションの結果を研究室の机いっぱいに広げる。

 

「おぉ! ほぼ予想通りだね!」

 

「黄色花のA-1、A-2タイプ。カルコンがほとんどで、フラボノールが確かめられないタイプはCHI遺伝子の活性が無いに等しい。つまりノーザンのバンドがほとんど現れない」

 

「Bタイプ。カルコンとフラボノールが2つあるタイプ。これは薄くバンドが出ているね」

「Cタイプ。カルコンとフラボノールが3つあるタイプ。それほど濃くはないけど、Bタイプと比較するとバンドが濃いめ」

 

「比較品種の赤のカーネーション。CHIのノーザンのバンドが思いっきり濃く出ている」

「当たり前だけどCHI遺伝子の活性あり、だね」

 

「正、遺伝子型を推定するとどうなる?」

 

「うん。Aタイプの推定遺伝子型はyiAかyiaかな。CHI遺伝子は黄色花になるための劣勢のi、しかし、アントシアニンを生成するy遺伝子は?だね。Yの場合もあるから。一応yとしておく」

「そしてA遺伝子、つまりこれも赤や有色のアントシアニンを作るDFR遺伝子だけど、そもそもアントシアニンの基質ができていないのだから、これは今のところAともaとも言える」

 

「とにかく、AタイプはCHI遺伝子がほぼ完全に壊れていることには間違えはないよ」

 

「じゃあ、蕾、stage1から黄色いA-1と、蕾時のstage1は白くてstage2から黄色いA-2との違いは?」

 

「それはカルコン配糖化酵素、2’GT、すなわちカルコンを水溶化させるために糖をつけるカルコン2’グルコシルトランスファーゼの発現機構の問題だね。今のところ2’GT遺伝子については全く分かっていないから何とも言えない」

 

「俺……、その2’GT遺伝子、取ってみようかな……」

 

「義雄、無理するな。来年以降のメンバーに任せればいいじゃん」

「発現機構が違うのは、2種類の2’GTがあるのか、あるいはそれ以外の要因で発現時期が異なっているのか。一筋縄ではいかないと思うよ」

 

「あのさ、生命工学科に頼めば、いや、俺が生命工学科の実験室を借りて調べればわかるかもしれない」

 

「卒論、どうするんだよ。間に合わなくなるぞ」

 

「いや……、俺がさ……、例えば就職やめて、園芸学研究室じゃなく生命工学の大学院に入るとかしてさ……」

 

義雄のそぶりが少し変。いつもの義雄ではない。

やはり、みどりちゃんに一目惚れした? 可能性は否定できない。

 

「まあ、Aタイプはこれでよし」

 

「そうそう、義雄。DFR遺伝子のノーザンは?」

 

「まだ、まとめていない」

 

「分かった」

 

「続いてBタイプ、Cタイプの遺伝子型の推定だけど、これらの遺伝子型は一応Yia、もしくはyiaだと思う」

 

「CHI遺伝子は完全に破壊されておらずカルコンができて、かつアントシアニンの基質のフラボノールが溜まる。でも、アントシアニンはできない。だからDFR遺伝子は壊れているはず」

「すなわち、DFR遺伝子の遺伝子型は劣勢のa」

 

「ついでに言うと、カルコンの生成量が少なく、かつフラボノールの蓄積のため、Aタイプと比較して、B、Cタイプの黄色花は淡くなっている可能性がある」

 

これには大樹が腑に落ちないところがあるらしい。

 

「正よ、黄色の色に濃淡が連続的にあるのは分かるけど、遺伝子型で言うYIA SRMのS遺伝子、色素の濃淡を決めるS遺伝子はどう関係している?」

 

「恵ちゃん。説明できる?」

 

僕は濃淡に関する解説を恵ちゃんに振る。

 

「私もよくわからないわ」

「ただ、S遺伝子が濃いか薄いか、の二つだけしか説明しないわけでしょ?」

 

「色素のトーン、つまり黄色花の濃淡が連続的な訳がわかんない」

「優勢のS、劣勢のs、これだけでは説明できないでしょ。一筋縄じゃいかない感じ」

 

「恵ちゃんの言う通り。濃淡を司るS遺伝子ひとつだけでは、黄色に限らず、カーネーション全ての花色の濃淡を説明できないんだ」

 

「ただ、僕の頭には、Sに加えて、S’、S’’と言う遺伝子型を加えると、なんとか苦しいけど説明がつく、と言うよりつけられる」

 

「私、正くんの頭の中覗いてみたいわ。あまりにも複雑すぎるよ」

 

恵ちゃんが不思議顔。

 

「まあ、本題に戻ろう」

 

「黄色花の色素分布によるA、B、Cタイプの違いが、ノーザンによるCHI遺伝子の発現解析により確かめられた」

「それぞれのタイプ別に、明確にバンドの濃さが異なっていた」

「これだけでも、とってもすごいことだよ。世界初の新知見」

 

「うん。すごいすごい!」

 

ノーザンのゲルのバンドの濃さの違いを再確認して、恵ちゃんの瞳は大きく素敵に輝いた。

 

「恵ちゃん。DFR遺伝子のノーザンの結果と、オレンジ色ができる秘密の解明は、まだまだこれからだよ」

 

「うん。でも黄色花については、花色素の知見とその要因を遺伝子レベルで確実に捉えたし、私たちの遺伝子発現機構の推察も、今のところ間違えていない」

 

「そうだ。パフェを食べに行く前に液クロで流した薄いオレンジ花の花色素の分析、もう済んでると思うよ」

 

「今、結果持ってくる」

 

僕は実験室から、薄いオレンジ色の蕾のstage1、および開花直後のstage2の360nmおよび520nmのモニタリングの分析結果を印刷してきた。

 

「ご覧の通り。蕾のステージ、stage1ではまだカルコンは生成されていない」

「開花直後のステージ、stage2から、カルコンおよびアントシアニンがほぼ同時に生成され薄いオレンジ色になったんだ」

 

「なんだかオレンジ色の秘密、ますます面白くなってきたね!」

 

恵ちゃん、すごく嬉しそう。

 

「よくよく聞くと、色素の吸収波長の360とか520とか、パフェのカロリーみたいねっ」

 

「だ・か・ら、その別脳を違うところに使いなさい」

 

そう言うと、恵ちゃんは話しかけるように自分のお尻を僕に向けてポンポン叩き、僕の目をお尻に誘う。

 

「どう? 正くんの別眼は目覚める?」

 

「いや……、別に……。特に……」

 

「正くん。相変わらず真面目すぎるね」

「もしかして、私に完全さを求めていない?」

 

「僕はただ……」

 

そう言われると、僕は恵ちゃんの僕にとって完全すぎる笑顔に恋してる。もちろん、それ以外にキスもしたいし抱きしめたいけど……。恵ちゃんの完全さを求めるどうこうというその前に、何だか自分に自信がないというか……。

 

「女の子はね、恋するときに、男の子の弱さも、あやまちも、不完全さも、ちゃんと知りつくした上で恋をするのよ」

「恋は盲目とはいうけれど、恋に落ちたらその通りだとわかるよ。お互いに」

 

「女の子はね、なぜ? とか、何のために? とかいった理由なしに好きになってくれることを望むものなの」

「可愛いからとか、優しいからとか、頭の良し悪しだとかいう理由はきっかけとして大事だけれど、そうじゃなくて、女の子が、そのまんまの女の子自身であるという理由で好きになってくれることを願うのよ」

 

「正くんは頭がいいし真面目だし。一見、完全そうにも見える。でも、ぜんぜん完全じゃないよ。人はね、皆んな不完全。そう、恋も」

「科学でさえ、ぜんぜん完全には説明できないことだらけじゃない」

「だから楽しいんじゃない。恋も科学も、それすること」

 

「完全な女の子を頭だけで求めたり決めつけたりするのは、身の程知らずよ」

「自分に欠点があるように、相手にも欠点がある」

「だから、こころに素直に行動しなさい。当たって砕けろなのよ!」

 

また恵ちゃんが、僕に向けて自分のお尻をポンポン叩く。今度は何のメッセージ? 少なくとも僕の別眼を養うというより、僕からのアプローチを待っているの……?

 

第34話

 

大樹がおじさんのところから帰って来た。

 

「大樹、随分遅かったじゃないか」

 

「ちんちん、虫に刺されて禁欲中なのに、無理してエッチでもしてきたか?」

「愛し合って痛いの、とか言って」

 

義雄がつまらぬ冗談を言う。

 

「いや、歩ちゃんがカーネーションの営利栽培にものすごく感動して、おじさんとも気が合って長くなった」

 

「お昼ご飯は?」

 

「牛丼屋」

 

「あのさ……、大樹よ……。せっかくの歩ちゃんとのデートだよ」

「初デートのランチに牛丼はないだろ、牛丼は」

 

僕はため息をつく。

 

「まあ……、仕方なかった。いつも食べてる海苔弁よりマシだろ」

 

「僕たち二人の恋。海苔かかった船だね。そう言う方がお洒落だったかもしれないぞ」

 

義雄も呆れる。

 

「それはそうと、頼んでおいたオレンジ花のF57のサンプルは?」

 

「あっ! そうだ。おじさんから歩ちゃんの研究室へって、花をたくさん頂いた。その中に混ぜちゃったんだ」

「歩ちゃんに持たせたまんま。生物環境工学に取りに行ってくるよ。すぐ戻る」

 

大樹は戻って来ない。

 

その前に、恵ちゃんがラン温室から研究室に帰ってきた。

 

「あら、大樹くんは?」

 

「生物環境工学に行ったまま」

 

「義雄くんは?」

 

「今、遺伝子実験室に行った」

 

「恵ちゃん。大樹さ、歩ちゃんとのお昼、牛丼屋だったんだって」

 

「あらまあ。困った人ね……」

 

恵ちゃんも呆れ顔。

 

「やっぱり、中トロ、ホクホクの穴子、ぷりっぷりのホタテと勧めていかなきゃね」

 

「それは初デートにしてはあまりに女慣れしているように思われるよ」

 

「あら、いいじゃない」

 

「女慣れしている男には、それなりの魅力があるのよ。女っ気がないと思っていたら、女の子へのエスコートが意外に上手だったりとか」

「キュンとするのよ、そういうのに。女の子は時折」

 

「正くんも、オケでたくさん女遊びでもしておけばよかったのにね~」

「でも1年次からなんでしょ? 運命の私に出会っちゃったからね。もう~」

 

「恵ちゃん、それ自分で言う?」

 

「正。F57のサンプル持ってきたぞ」

 

「こんにちは」

 

「おや、歩ちゃん付きだね」

 

「歩ちゃん。押し寄せるようなカーネーションの世界。どうだった?」

 

「とても感動しました。生物環境工学は、どうしても水耕栽培とか植物工場とかの中での研究ばかりになりますから。意外に無機質で」

 

「まずは、喜んでくれてよかった」

 

「正さんのおじさんにお礼を言っておいてください。たくさん綺麗なカーネーションも頂いて」

「研究室に飾ってきたところです。都会的で素敵な色合いばかり」

 

「うん。わかったよ。お礼しておくね」

 

「そう、お昼ご飯のこと大樹から聞いたけど……」

 

「牛丼、美味しかったです。私には新鮮でした」

「私、実は牛丼屋さん初めてで、貴重な体験になりました」

 

「なあ、正。歩ちゃん喜んでくれてるだろ?」

 

「大樹くん。歩ちゃんが優しいからそう言ってくれてるのよ」

 

「そうだ! 口直しにパフェでも食べに行こうよ。ねえ、正くん、大樹くん。行こうよ!」

 

恵ちゃんがはしゃぐ。

 

「全く。お寿司の後にすぐパフェなの……」

 

「なんか言った? 正くん」

 

「いや、別に」

 

「歩ちゃん、時間ある?」

 

「大丈夫です」

 

二人で、まるで女子高生のようにキャッキャ、夢中でパフェがどうこう話し始めた。

 

「大樹はどうする? パフェ」

 

「俺は……」

 

「パスするってか? せっかく歩ちゃんとデートの延長ができるチャンスなのに」

 

「大樹くん、行こうよ! ネッ、行こう!」

 

恵ちゃんの誘いと、歩ちゃんの笑顔をチラリと覗いて、大樹は首を縦に振った。

 

「じゃあ皆んな、オレンジのF57のサンプルの分析準備だけ済ましてくるから30分くらい待っててね」

 

「ファミレスのパフェ、クオリティ高くて侮れないよね!」

 

恵ちゃんは歩ちゃんと早速メニューの相談開始。

 

「あのさ、恵ちゃん、僕の話聞いてる?」

 

「正くん、な~に?」

 

「ほら、聞いてない」

 

僕は呆れて実験室へ。

 

義雄が遺伝子実験室から丁度出て来た。

 

「義雄、これからファミレス行く?」

 

「さっき、寿司食べたばかりだろ?」

 

「それがさ、パフェだって」

 

「俺はパス。今、ノーザンしているし、卒論の研究遅れ気味」

 

なんだか、いつもはすんなり行くと言うのに今日は珍しい。みどりちゃんと過ごした時間を、こころのどこかでじっくり噛み締めているせい?

 

「正は大丈夫なのか?」

 

「まあな」

 

「正は瀬戸際の魔術師だからな。何でもやるべき事を期限内に終わらせる」

「俺には無理だよ」

 

僕は手際よく、F57のサンプル抽出を済ませる。見た目では、蕾の時のstage1の花弁は白色で発色していない。

 

抽出時間は短いが、サンプル液を液クロにセットして蕾のステージと開花時のステージの分析を開始する。注入量は抽出時間が短いので、一応普段の倍量、20μLにしておこう。

 

「皆んな、お待たせ」

 

「さあ、行こう!」

 

「あのね、正くん。私、ファミレスのパフェ達のカロリー大体暗記しているからね」

 

「恵ちゃん。お店に行けばメニューに書いてあるでしょ? ひとつひとつ」

 

「おびただしいパフェのメニューのカロリーの事前確認、女の子には大切よ」

「その場で気に入ったパフェの写真を見てカロリーに驚いたり、カロリーの低いパフェは好みじゃなかったり、あたふた悩まなくて済むでしょ?」

 

「そのパフェのメニューのカロリー覚える脳の暗記分野、これからは植物検定に使ったほうがいいよ」

 

「これはね、別の脳なの」

 

恵ちゃんは、ペロリと舌を出す。

 

「いいなあ~。女の子には別腹も別脳もあって」

 

「あら? 男の子だって別眼があるじゃない」

「理性を超えて、例えば、自然と女の子のお尻の部分だけを見てしまう眼とか」

 

「そんな風に男の人を語らないでよ。皆んながそうじゃないんだから」

 

僕みたく、恵ちゃんの笑顔だけに釘付けになる眼もあるんだよ……。

 

「さあ~。そう言う正くんもどうだか」

 

「女の子はね、ひとりの男の子に恋して、そしてその経験から男の子の一般原理を見い出すの。つまり男の子ってどう言う生き物なのか男の子全体を広く知っていくものなの。それはもう、男の子同様、パフェを賢くチョイスする別脳もできるわよ」

 

「男の子は違うでしょ?」

 

恵ちゃんは微笑む。

 

「何が違うの?」

 

「男の子は女の子全体を広く見渡してひとりの女の子を知る。そして次に、選んだひとりの女の子の身も心も、深く部分部分を知りたくなってくる」

「いい意味で恋の濃縮作業だけど、悪い意味じゃ執着よ。眼の視野が狭くなる」

 

「それと、女の子のお尻を見る別眼と、どう話がつながるの?」

 

「それは……。自分で言ってて、何が何だか話がわからなくなっちゃった!」

 

ほら、また微笑むんだね。ふざけているくらい素敵だよ。

今、恵ちゃんのいい香りがしてる。

 

第33話

 

恵ちゃんがラン温室から戻ってくる。

 

「あら? 正くん。ビジュアルベーシックのプログラムもできるの?」

 

「うん。アイソザイムで電気泳動した後のゲルに縞模様のバンドが出てくるでしょ。そのバンドの位置、太さを入力すると、自動的にゲルのバンドが図表化されてくるプログラム」

 

「そして、そのバラの材料のプロフィールデータベースと連携させてる」

「今、ちょっとだけプログラムを修正しているんだ」

 

「な~んだ。ベーシックできるなら、私、頼みたいことがあるんだ」

 

恵ちゃんのいつものクリクリとした瞳。面倒なことでなければいいが……。

 

「実験で観察している胡蝶蘭のプロフィールをデータベース化したいのよ。CAMとnon-CAM、不明、の欄も欲しいわね」

「ファレノプシス属に分類される胡蝶蘭の原種は約50種類。ドリティスとの交配種やら品種を入れたらもう莫大」

 

「正くん、何とかならないかな?」

「データはExcelにほとんど入力済みなんだけど……」

 

「データベースエンジンにAccessを使って、ビジュアルベーシックでアプリケーションを作り、簡単な画面で操作・機能を使えるように組んでおくよ」

「Excelファイル、コピーして持ってきて」

 

「な~んだ。簡単そうじゃない」

 

「全然簡単じゃないよ。プログラミングするのは誰?」

 

恵ちゃんは僕を指差しニコニコする。

 

「そう、正くん。今度、この件のお礼に手作りのミートローフ、正くんだけにこっそりご馳走するからねっ!」

 

「はいはい。今度とお化けは出たことないから。お化けを見た後ご馳走になるよ」

 

二人して微笑む。

 

「正、恵ちゃん。ランチ行かない?」

 

義雄の遺伝子解析準備がちょうど一段落したらしい。大樹と歩ちゃんは帰ってこない。

 

「たまにお寿司もいいわね。回るやつ」

 

恵ちゃんが呟く。

 

「うん。たまにいいね。駅の東口の」

「大樹に、来れるかどうか確認してみるよ」

 

僕がLINEで連絡を取る。

 

「大樹たち、まだおじさんのところ。ランチ参加は全然無理」

 

「そうだ、みどりちゃんを遺伝子を取ってくれたお礼にランチ誘おうか」

 

恵ちゃんの提案。

 

「いいねぇ。ついでに隆も誘おう」

 

LINEが返ってくる。

 

「隆は実験で忙しいから無理。みどりちゃんはOKだよ」

 

「じゃあ、工学部でみどりちゃんを拾っていきましょう」

 

「恵ちゃん。言葉言葉。選んでよ」

「みどりちゃん、猫じゃないんだから」

 

 

ーーーーー

 

 

「さて、頼みますか」

 

「恵ちゃんは、中トロ、穴子、生ホタテの順だね」

 

「あら、正くん、私のパターンお見通しね。さすが、私のお寿司の好みまで知っているなんて。きっと勝負パンツの色柄までお見通しね!」

 

「中トロを口でとろかして喜んで、そのあとはホクホクの蒸し上げられた穴子でほっこり。そして新鮮で肉厚の生ホタテ。プリプリよ。でしょ?」

 

「やだ。コメントまで知ってる」

 

「スタートの3皿はいつも一緒でしょ。恵ちゃん、ここの穴子にハマっているからすぐ覚えちゃうよ」

 

僕と義雄は、ビラを貼っている今日のオススメを3皿ずつ。まずは季節の味を堪能する派。

 

「みどりちゃんも穴子どう?」

 

「はい。ここで穴子は食べたことないので、恵さんのオススメ品、食べてみます」

 

「中トロ、すぐ溶けた! もう、幸せ!」

 

恵ちゃんはニッコニコ。

 

次に穴子4貫がくる、2つの皿が重ねられてくる。

 

「これよこれ! これなの!」

 

美味しそうに頬張る恵ちゃん。

 

「う~ん。ホクホクして暖かくて柔らか。味もいい! 最高に幸せ」

 

「みどりちゃん。どう?」

 

「わあ! 美味しい! ほんと幸せになる味です。ホックホク」

 

「僕も頼んでみるよ、穴子」

「義雄は?」

 

「俺は、穴子、うなぎ系がダメで……」

 

「いや、食べてみて。恵ちゃんお墨付きの美味だよ」

 

「じゃあ、正の皿に二つくるやつの一つ、頂くかな」

 

義雄は驚く。

 

「うん。これは美味しい。穴子の概念が変わったよ」

 

「でしょ!」

 

恵ちゃんの首を半分傾げての相槌が可愛い。

 

「正先輩、秋の定演に一緒に出られて嬉しいです」

 

「そう」

 

「正くん。ものすごく可愛い女の子に嬉しいと言われているのに、そう、というそっけない返事はないでしょ」

 

恵ちゃんが口を尖らせる。

 

「恵さん。オケには正先輩のファン、たくさんいるんですよ」

 

「そう」

 

「恵ちゃん。その口調、さっきの僕と一緒」

 

恵ちゃんは上の空。

 

「そうだ、義雄」

 

「有田先生がさっき来て話していたんだけど、園芸学教室で植物検定という、花卉、蔬菜、果樹の和名とラテン語の属名、もちろん実物テストもある試験を行うらしいんだ」

「四人とも、確実に受けさせられる」

 

「えっ? マジで?」

 

「うん。有田先生、言い逃げしていったけど、浅野教授には絶対逆らえないからね」

「俺たちもある意味逆らえないよ」

 

「内々定を早々に決めてくれたし、最終的に卒業論文の査読及びその8単位は浅野教授の手中にあるんだからね」

 

「南米はこれから冬に向かう。とうとう教授、日本に帰ってくるか」

 

義雄が気を引き締めるような声を出す。

 

ヒグマのような荒々しさを持つ浅野教授。根は優しいのだが、学問のことになると、ものすごく厳しい。手は上げることはしないけど、言葉と態度で一種の凶暴性さえ表す。

 

「お~こわ」

 

恵ちゃんは肩をすくめる。

 

「浅野先生、僕は怖いとも何とも思わないよ」

 

「確かに、正にだけはいい先生。何か気の合うところがあって認められているんだろ、きっと」

 

義雄が呟く。

 

「でも、植物検定ボイコットしたらどうなるかな~」

「いい子いい子の正くんは、1級取れないとどうなるのかな~」

 

恵ちゃんが、そういってまた肩をすくめる。

 

「お~こわ」

 

僕も肩をすくめる。

 

「おあいそ!」

 

「みどりちゃんの分は僕たちでおごるよ」

 

「ありがとうございます」

 

恵ちゃんとみどりちゃんが並んで正門へ入る。

僕らは農学部の方向、みどりちゃんは工学部へと向かう。

 

何だか、義雄は目で、みどりちゃんの後ろ姿を追いかけている。

 

「恵ちゃん。あの義雄の視線、どう思う?」

 

「恋の始まりかな? 頭から足元まで、ジッと見つめている感じ。違うかな?」

 

「うん。恋じゃなきゃ、視線はお尻だからね」

 

「やだ、正くん。スケベオヤジのようなこと言わないでよ」

 

「いや……、その……、一般論として……」

 

「一般論でも、相対論でもどうでもいいけど、爽やかになびいている髪の毛を追っているとか、凛とした清楚な後ろ姿に釘付けだとか」

「心では、お尻だと思っていても私には言わない」

「私もレディなんだから。全くもう……」

 

「正。みどりちゃんいいお尻してるね」

 

義雄が明るく僕に話す。

 

「全く……、義雄くんまで。世の男の子たちは何を考えてるんだか……」

 

恵ちゃんはため息をつく。

 

「正。みどりちゃん、彼氏いるの?」

 

義雄が尋ねる。

 

「今はいないよ」

 

「過去にはいたんだ……」

 

「男の子って、どうしてそういう風に女の子の過去に嫉妬するの? 女の子は男の子の過去になんか嫉妬しないよ」

 

「嫉妬はね、男にとっては、恋をした人が自分と出会う前に他人を先に良しとして恋していたことに妬けるんだ」

 

「そうだ。逆に、よく女の子は男の子の未来に嫉妬すると言うでしょ?」

 

そう言うと、恵ちゃんは過去にそういうわだかまりがあったのか、静かにうつむいた。

 

そして、

 

「確かに。嫉妬も恋のバロメーターのひとつよね……」

 

恵ちゃんにはめずらしく、大人しく呟いた。

 

「正くん。私の過去に嫉妬する?」

 

あのね、嫉妬を寄せつけないほど徹底した恋というものも存在するんだよ。僕はね、恵ちゃんにそうだから。

 

第32話

 

「おはよう。恵ちゃん」

 

「おはよう。正くん」

 

「大樹、行ったね。歩ちゃんと二人で」

 

「うん。行ったね。デートだねっ!」

 

「大樹は歩ちゃんに、実は心底カーネーション見せてあげたいんだよ。きっと」

 

八ヶ岳の登山で、何か大樹の心に変化が起きたのだろうか。いつも距離を置いていた歩ちゃんと急接近。

 

「大樹と歩ちゃん。お似合いだよね」

 

「うん」

 

「さっき、カフェテリアをチラッと見たら、義雄くんがすごい可愛い女の子とお茶しながら、何かお話ししてたわよ。ラブラブかな~?」

「なんだか、皆んな急に色気付いたね」

 

「そんな、恵ちゃん。皆んなを盛りが来た雄呼ばわりする様な口調で話さないでよ」

 

「あら、極めて普通の口調よ。皆んな、盛りのついた雄じゃない」

「正くんも盛りがついた香りがしてるし」

 

女の子は匂いに敏感。僕は自分の匂いをクンクン嗅いで焦る。

 

「私、正くんしかいなくなっちゃうのかな~?」

「さみしいな~」

 

恵ちゃんは三毛にゃんを撫でながら、ぶちぶち呟く。

 

「正。遺伝子来たぞ」

 

「おう、来たか」

 

「義雄。可愛い女の子とお茶してたんだって?」

 

「ああ。遺伝子取りをお願いしていた子。生命工学の三年生、浜野みどりちゃんって言うんだ」

 

「な~んだ。みどりちゃんか。オーケストラのバイオリンの子だよ」

「可愛い子だろ? モテるんだよ。去年のオケのミス・バイオリン」

 

「みどりちゃんも正のこと話してた。隆くんが話していたように正、ホルンは下手だけど、サークルで結構モテるんだってね」

 

「あら、オケの女の子達、正くんが学部にいる咲いたばかりの白い百合の花のような楚楚(そそ)とした艶やかな美少女に夢中と知って、正くんとの距離をおいているのかしら?」

 

恵ちゃんが呟く。

 

「オケの子を無視しているんじゃなくて、僕は……、最初から……」

 

相変わらず恵ちゃんへの気持ちを言葉にできない。隆の言った通りに、男らしくキスのひとつでもしたいところだけど、いざ生の恵ちゃん自身と面と向かうと……。

 

「フロイトじゃなくてもわかるわよ。正くんのこころ」

 

言葉に詰まっている僕を見て、恵ちゃんは優しく微笑む。

 

義雄が話す。

 

「恵ちゃん。大樹はみんなの前で口にしてしまったから、仕方なく歩ちゃんをカーネーション見学に連れて行っているらしい」

「僕もみどりちゃんが忙しい中、遺伝子を取りだしてくれたからねんごろにお礼していただけ」

「正は、相変わらず誰かさんしか見えない」

 

「な~んだ。まだ皆んな、私の手のひらの上じゃない」

 

恵ちゃんはクスクスと笑う。

 

「そういえば、オレンジ花のプレゼン、恵ちゃんまとめてくれたけど、濃いオレンジのF55だけにしちゃったね」

「薄いオレンジ色のサンプルF57の採取、やっぱり必要かも」

 

「でも、オレンジ色はひとつ分かればいいんでしょ?」

 

「恵ちゃんの言う通りだけど、濃いオレンジは蕾のステージで黄色のカルコンがたまり、開花時にアントシアニンが生成され共存している」

「薄いオレンジは、もしかして、蕾の段階では無色で、開花と同時にカルコンとアントシアニンが同時に生成されているかもしれない」

「今頃気づいたよ」

 

「僕、大樹にLINEしておくよ。F57の二つのステージのサンプル採取してくる様に」

 

「なるほどね……。そうなるともう一つの大発見よね」

 

「正。さっそく俺、黄色花とオレンジ花のCHI遺伝子のノーザン・ハイブリダイゼーションしてくる」

「これで各々のタイプ、ステージ別のCHI遺伝子の発現度合いが確かめられる」

 

「うん。よろしく」

 

「僕は、夏の色素研究会のプレゼンを作成してるから」

 

「私はラン温室に行くわ」

 

「了解」

 

恵ちゃんは温室へ、義雄は実験室へと姿を消した。

 

 

ーーーーーーー

 

 

「おはよう」

 

「おはようございます。有田先生」

 

「プレゼン資料、作りかけのを少し見せてもらったよ」

「恵ちゃんの資料。よくできているね」

 

「正くんのはまだだけど、フラボノイド生合成遺伝子の経路図なんかとても見やすくできているね」

「義雄くんのノーザンの解析結果がわかれば、グンと面白くなりそうだね」

 

「はい。そこそこインパクトのあるプレゼンになりそうです」

 

「先生。プレゼン資料と、口頭文書の英文がまとめあがる頃、ネイティブの外部校閲をお願いしたいのですが」

 

「いいよ。研究室の予算、それくらいの余裕はあるから」

 

「ありがとうございます」

 

「あのね……、君たちにはちょっと酷なお願いになるんだけど……」

 

有田先生が、いつもの人差し指でこめかみをこする仕草をする。何かの頼みごとだ。

 

「実は皆んなに、今年から園芸学研究室で始める、植物検定という非公認資格を取ってもらいたいんだ」

「ゆくゆくは何らかの公的な資格にできればいいと考えているんだけど……」

 

「どういう検定ですか?」

 

「野菜、花卉、果樹の和名とラテン語の属名を覚えてもらう」

「もちろん、実物を見て答える試験もある」

「1級は500属、2級は300属、3級は150属を覚えてもらう」

 

「先生、どうして降って湧いた様にそんな話が出てきたんですか?」

 

「今、南米に行っている浅野教授がずっと温めていた計画だよ」

 

「これから世界に旅立つかもしれない君たちが、いくら植物の和名、英名を憶えていても、ラテン語の属名を知っていなければ世界では通用しない。英名が通じる国なんてほんの一握り」

「皆んなに国内外で精力的に活躍できる園芸人に育って欲しい。そんな、教授の熱い想いからなんだ」

 

「今年の四人は、特段よく花や植物を知っているから、植物検定の開始、第一期生にもってこいだと言っている」

 

「試験は毎月僕が行う」

 

「試験の内容は、筆記試験と実物試験がある」

「筆記試験では、和名をラテン語の属名で答えてもらい、科名は選択式。これもラテン語」

「逆もありだよ。ラテン語の属名をみて和名と科名を答えてもらう」

 

「実物テストは、花、葉、実、そして種など植物の一部をみて、その植物の和名、ラテン語の属名、科名を答える。針葉樹など樹木もあるからね」

 

「卒業までに、最低でも三級は取ってもらいたい」

 

「え~え! きついですよ、先生」

「卒論、オレンジ色の研究、そしてオーケストラ」

「僕にはちょっと無理です」

 

「あら、私やるわよ。面白そうじゃない。1級とるわよ」

 

ラン温室から一旦帰ってきて有田先生の話を盗み聞きしていた恵ちゃんはやる気満々。

 

「大樹と義雄がなんて言うか……」

 

「これからの園芸学教室の四年生には、この試験、必須にしようと思っているんだ」

 

有田先生はそう言い捨てると、そそくさと逃げる様に自分の研究室に戻って行った。ヒグマのような強力な威圧感のある教授の意向に、有田先生が逆らえるわけがない。

 

「た~だしくん! もし好きな人のことを考えるたびに花を一つ覚えるとしたら、そして寄り添う人がそれを喜んでくれるなら、正くんは永遠に庭や野原を歩くことができるんじゃない?」

 

「バラは決してひまわりになれないし、ひまわりは決してバラにはなれない。全ての花は自分なりに美しく、そしてそれは女の子のようなもの」

「きっと何かを感じるわよ。永遠の散歩を通じて」

 

恵ちゃんが僕の目をマジマジとみつめる。

 

「何かを……、感じる……?」

 

僕は目をそらして呟く。

 

「あのね、正くん。女の子は好き好きと押しすぎちゃダメなのよ」

「女の子が夢中に感じる男の子は、恋愛以外の楽しみを持っている男の子! 好きな人のことだけ追いかけないで、勉強や趣味、男や女友達との時間も大事にしている人の方が魅力的」

「自立している男の子の方が、女の子は追いかけたくなり夢中になってしまうのよ」

 

「僕、自分の勉強してるじゃない。定期演奏会にも出るし、大樹や義雄、オケの男の子、女の子との友達との時間も大切にして自立してるよ」

 

「ぜ~んぶ、私のためじゃないのかな~?」

「それ、自立とは言わないよ。辞書で調べておくように!」

 

恵ちゃんは目を細めて素敵に微笑む。

 

「そう、正くん。植物検定の1級も私のために取って!」

「実は正くん全部で私のこと好きになってくれているの、何だかんだ言ったって嬉しかったりして……」

 

今度は恵ちゃんが照れ気味に僕から目をそらす。

 

「何だ。まだ二人してここにいたの」

 

有田先生が忘れ物を取りに僕らの研究室に戻ってくる。

 

「植物検定のこと、まあ、いろいろあるだろうけど前向きに考えといて」

 

そういうと、また、そそくさと研究室を去っていく。

 

「私のこと、まあ、いろいろあるだろうけど前向きに考えといて!」

 

恵ちゃんはそう言うと僕の肩をぽんと叩き、微笑みながら、またラン温室へと向かっていった。