第3章
第41話
「私は暇なんでちゅ~」
「誰かに構って欲しいんでちゅ~」
のどかな研究室の昼下がり。僕と恵ちゃんは三毛にゃんの喉を撫で、ゴロゴロさせて遊んでいた。
「正くんと恵ちゃん、ちょっといいかな?」
有田先生が、先生の研究室に僕らを招く。
「相談ごとがあるんだけど」
「何ですか?」
「いや、君たちの進めているカーネーションの黄色花とオレンジ花に関する基礎的研究を、秋の学会で発表しようと思って」
「先生、夏の色素研究会はいいんですけど、秋の学会発表の仕事が増えるとちょっと……。ねえ、恵ちゃん」
「そう、植物検定もありますし……」
さすがの恵ちゃんも少し戸惑う。
「いいから、ちょっと聞いて」
「3報に分けようと思っている」
「共通の表題は、カーネーションの花色に関する基礎的研究」
「1報目は、カーネーションにおける黄色花の色素の分布。2報目はカーネションにおける黄色花の発現機構の解析」
「3報目は、カーネーションのオレンジ花に関する基礎的研究」
「3報もですか?」
「うん。君たちの黄色花、オレンジ花色の自由研究は、何度も言うように、植物色素に関する科学的インパクトがかなり大きいんだ」
「僕の友人もそう話している」
「皆んなのやっている研究は、世界的にみても花卉の花色研究に極めて重要な新知見がある」
「世界では、同時期に同じ研究を少なくとも3人は手がけているものという迷信もあるし、発表は早い者勝ちなんだよ」
「今5月、原稿提出は7月末頃、学会は9月だから卒論と同時進行させての調整はできる」
「植物検定もあるし、色々皆んなの突発的な仕事も増える事、浅野教授にそういう事情は僕からちゃんと伝えておくから」
「先生。僕はオーケストラの定期演奏会にも出なくてはならないんですよ……」
「それは知らないよ。自己責任でしょ?」
「自己責任だね」
先生の言葉をニコニコ繰り返す恵ちゃんに、僕は軽くひじてつを打つ。
「1報目は正くん、2報目は義雄くん、3報目は恵ちゃんに発表をお願いしたい」
「そう、義雄くんが研究室か実験室にいたら呼んで来て」
「大樹は?」
「大樹くんは今じゃなくていい」
僕は実験室にいる義雄を先生の研究室に連れて来た。
先生が義雄に、僕と恵ちゃんに言ったのと同じ言葉を繰り返す。
「どうですかね? 義雄くん」
義雄は少し沈黙する。
「これからの遺伝子がらみの研究も盛り込みます?」
「もちろん。そこは工学部の生命工学研究室と連携をとりながら進めていってもらおうと考えている」
義雄の顔が気のせいか少しほころぶ。みどりちゃんと一緒に研究ができるからかな?
「正、いいか?」
「何が?」
「いや……、別に……」
「義雄くんには、生命工学研究室に頻繁に通ってもらうことになるね」
「生命工学の助手と僕は同期なんだ。事のさわりを伝えたら快諾してくれたよ」
「義雄くんをサポートする三年生の浜野さんも優秀な子みたいだよ。稀に見る遺伝子取りの達人らしい」
義雄の顔が赤く染まる。やっぱり。
「先生、いっそ夏の色素研究会の遺伝子の研究の英文発表、義雄にしませんか?」
僕がそう言うと、
「おいおい、やめてよ。それは正にお願いしたい」
「義雄さ、甘くないよ。学会発表の準備」
「それに夏の色素研究会の発表はすぐにでも論文にするレベルの研究なんだ。遺伝子関連の発表だし、義雄がやらなくて誰がやる」
「な~に、正くん。自分の肩の荷をおろしたいだけじゃないの?」
「違うよ。恵ちゃん」
「私、正くんとペアで発表したいな~」
「僕の可愛い可愛い、私の誘いに乗らないの?」
「聞こえない、聞こえない」
僕は真剣に、そう応えて耳をふさぐ。
「義雄くん、色素研究会の発表お願いできる?」
有田先生からもお願いされる。
「俺、TOEICは500くらいで、プレゼンのカンペの棒読みはできても、質疑応答だとか、フリーの会話とか自信がありません」
「そこは正くんがサポートするから安心してください」
「なんで、そこで恵ちゃんが言う?」
「まあまあ、発表に不安はつきものだけど、自信なさげに発表されると困るよね」
「やっぱり正くんだね」
「やっぱり正くんだね」
恵ちゃんが僕の大好きな満面の笑みをこぼして先生のおうむ返し。
「じゃあ、そういう話でいいね」
「あの、先生。種々研究を進める上で、現実問題としてカーネーションのサンプル確保の問題があります」
「おじさんのハウス、6月にはカーネーションを全て処分して、新しい苗を植える準備に入ります」
「つまり、6月初旬以降、研究材料が手に入らなくなってしまうんです」
有田先生は、待ってましたの笑みをこぼす。
「実は、長野県でここの研究室を卒業したあと、カーネーション生産を親から継いでいる先輩がいるんだ。僕より幾つか年上だから40代半ばくらいかな?」
「彼も都会向けの珍しい花色の花を作っているらしいんだ」
「愛知や千葉など暖地では6月に苗の作付けが始まるけど、長野や北海道などの高冷地では6月頃から収穫が始まる」
「ちゃんと、一年中市場に国産カーネーションが市場に流れる仕組みになっているんだ」
「彼は、正くんのおじさんほどではないけど、育種もしている」
「黄色花やオレンジ花もありますか?」
「今のところ、そこまでは僕にはわからない。一度皆んなで行ってみようか?」
「はい」
「今できる事は、できるだけ5月中に正くんのおじさんから沢山サンプルをかき集め、冷凍保存しておく事だね。9月頃まで材料に困らないように」
僕と恵ちゃんと義雄で研究室に戻ると、大樹は伊豆での余興の最終調整中。歌って踊ってる。
「大樹みたいのがいるから、僕らの教室、園芸学じゃなくて演芸学と言われる事があるんだ」
僕がそう言うと、恵ちゃんと義雄が大樹の姿を見て大笑いする。
「おう! 皆んな」
「振り付け、だいたい済んだ」
「あと画用紙で、ハマナスと、月と、白いかもめの頭に被る小道具を作れば完璧」
「あら、ハマナスは作らなくても、私、花よ」
恵ちゃんがワンピースの裾を掴み、膝をおって微笑む。
「いやいや、被ってよ。1番目の歌詞」
「2番目の歌詞は月、3番目の歌詞で白いかもめ」
「正と義雄の踊りの途中で入って来て、恵ちゃんが何の役だかわからないでしょ?」
「あれ、カラスさんは」
「それは被らなくていい。皆んなわかるから」
「気まぐれカラスさん、だっけ?」
「うん。そう」
「恵ちゃんは誰が見ても気まぐれだから」
恵ちゃんが三毛にゃんを抱き上げ、招き猫のように手を振らせる。
「勉強と踊り、そして恋も……。いろいろ忙しくなるんでちゅ~」
そして恵ちゃんは、素敵な瞳で僕をじっと見つめる。
「何事も始めるのは怖くないにゃ~。怖いのは何も始めないことなんでちゅ~」