第31話

 

「皆んな、談合坂SAに着いたよ。休憩、休憩」

 

大樹と義雄が起きてきた。

 

恵ちゃんと歩ちゃんは、また小走りで店の方へ向かう。今度は何を買ってくるやら。

 

明石さんと大樹は喫煙所へ。

僕と義雄は自販機で缶コーヒー。甘い味が心地よい。歩き疲れに優しいテイスト。

 

「拙者、桔梗信玄餅キューブを買ってきたでござる」

 

恵ちゃんが笑顔でそう言って、楽しそうに袋を開く。

 

「わあ、美味しそう!」

 

「皆んなでひとつずつ食べよう」

 

「うん。美味しい」

 

僕の予想を超えた美味しさ。

 

「シュー生地はサクサク食感で、中ではふんわりした生クリームとあんこ。下には、信玄餅がどーんと」

 

「談合坂、下りも上りも名物あるね」

 

「下りの、談、の焼印のついたあんぱんも食べておけばよかった」

 

僕が呟くと、

 

「ほらねっ。口に入る時に口に入れなきゃ、後悔するのよ」

 

「山の中で、食べないからいい、って言ってたじゃない」

「タイミング逃すと、美味しい目に合わないよ」

 

「私も歩ちゃんも旬なお年頃だし」

「タイミングよく食いつかないと、美味しい目に合わないよ~」

「ねえ~、歩ちゃん」

 

二人して、僕らへのイタズラなの?

恵ちゃんは微笑んで、歩ちゃんは照れくさそうにうつむいている。

 

だって恵ちゃん、食べられそうで食いつかせてくれないじゃない……。僕のこころには、実は妄想で、いつでも食いつかせてもらっている恵ちゃんがいるのに……。

 

「そう、今日の晩御飯どうする?」

 

明石さんが皆んなに尋ねる。

 

「学内もいいけと、たまには外で食事しよう」

「とわ言え、登山帰りの服装だからおしゃれな店には行けないけど」

 

「ジャルダンにしよう。正門近くの洋食屋」

「ピラフで有名な店だよ。あそこなら、このままの出で立ちで大丈夫」

 

大樹が言う。

 

「私、ジャルダン好きです」

 

歩ちゃんが呟く。

 

「恵さんは?」

 

「私、その店、よく知らないなあ……」

「ところで歩ちゃん。誰と行ったりするの?」

 

歩ちゃんは可愛らしく微笑むだけ。大樹はその表情にらしくなく、少し嫉妬気味な顔つき。

 

「ツナピラフを3合盛りで出す、爆弾ピラフとか有名だよ。どちらかというと男子向けの店かな。夜は宴会も開けるアットホームなところだよ」

「パスタもあるし。カルボナーラはカフェテリアに負けているけど、それ以外はカフェテリア並みの味」

 

義雄も意外によく知っている。

 

「ジャルダンにしよう。粉チーズも山盛り、かけ放題。ソースを始め調味料も使い放題」

「義雄と二人で爆弾ピラフ食べた時は、小さなパルメザンチーズ、一つ丸々開けたし」

「ソースも結構かけたよな? 義雄」

 

大樹が自慢げに話す。

 

「ソースはお前だけだよ」

 

「全くお店、つぶれちゃうよ。マナー以前の常識に疎いんだから。困った人たち」

 

恵ちゃんはため息をつく。

 

「まあまあ、いろいろ話はあるけど、それじゃ夕食はジャルダンにしよう」

 

明石さんが仕切る。

 

「とにかくまだ談合坂」

「あと、1時間ちょっと走るよ」

 

「は~い」

 

皆んなでドタバタ車に乗り込む。

 

 

ーーーーーーー

 

 

「へえ、オレンジ色のカーネーションってそうなんだ」

「黄色と赤の絵の具を混ぜたもの。神様が描く水彩画のようだね」

 

明石さんは興味深げ。

 

「ええ。花色素の秘密は大体判明したんですが、遺伝子の発現機構はまだ推察段階なんです」

 

「神様が、どこの遺伝子を調節して、黄色を濃くしたり、薄くしたりしているのか。そして、どうしてその黄色色素がアントシアニンと共存するのか」

「オレンジ色になるための遺伝子発現機構の解明には、まだまだ謎が多いんです」

 

「しかし正くんたち、卒論と同時進行の研究で大変じゃない?」

 

恵ちゃんが口を挟む。

 

「大変じゃないですよ。ね~皆んな」

 

言い出しっぺは強い。

 

「大樹よ。一度歩ちゃんをおじさんのところに連れて行けば」

「歩ちゃん。カーネーション農家さんのハウスとか見たことないよね?」

 

「ないです」

 

「綺麗だよ。特におじさんのハウスの品種は、都会系の特別な洗練された花色の品種ばかりだから」

「大樹。連れて行ってあげな」

 

「俺さ……、そのさ……」

 

「俺さ、トイレが近いんです。しかも禁欲中なので無理です」

「それが言いたいんでしょ、大樹くん?」

 

「恵ちゃん、違うったら! もう……」

 

皆んなで笑う。

 

「わかった。連れて行くよ、歩ちゃん」

「いつがいい?」

 

大樹の歩ちゃんへの少し投げやりな言葉かけ。

でも、大樹にしてはこれが優しい言葉掛け。

 

「おっ? 大樹くん。旬のタイミング、捕まえるの上手になったね」

 

「正くん、義雄くん。見習わなきゃ」

「特に正くん! ネッ!」

 

恵ちゃんがクリクリした可愛い目をして、僕を見つめてニコニコ微笑む。

 

「そうだよ、皆んな」

「勉強するのも、恋をするのも旬が大事」

「恋は人生というフルコースメニューの中の一品。どうせなら、旬の恋は一つ残らず味わなきゃ損だよ」

 

明石さんが微笑んで僕たちに話しかける。

 

「そういう明石さんも誰かを味わっているんですかぁ~?」

 

恵ちゃんの変な質問。首を傾げて明石さんに問いかける。

 

「ハッハッハ!」

「今の僕は山の旬を味わうだけ。女の子ではなく、学問に恋してるんだ」

 

「カッコいい! 私に新鮮」

「私、明石さんみたいなたくましくて芯のある男の人について行こうかしら?」

「よく見回すと、周りにはナヨナヨした男子しかいないないから」

 

僕や大樹、義雄を無視して、恵ちゃんが両手を祈るように胸の前でにぎり、運転席の明石さんにキラキラ視線を送る。

 

「恵ちゃん。山に登る前に歌ってたでしょ。僕みたいのに恋して、山で吹かれりゃ若後家さんだよ。一時的な感情で恋しない。失敗するよ」

 

明石さんは笑う。

 

「恋をするには、相手の見た目やその場で湧き上がってくる感情も大切な要素だけど、じっくりと心を込めて互いに作り上げていける人とじゃないと、絶対に美味しい恋なんかできないよ」

 

「そうよね……」

 

今度は恵ちゃんは、ぐるっと僕や大樹、義雄をみつめる。

 

「恋をすることは、相手の可愛さや若さにため息をつくのが目的ではないんだ。自分が楽しむ、そして恋人をもてなして互いに気持ちいい時間を過ごすことなんだよ」

「ただ何となく恋するんじゃなくて、美味しい恋を作るんだぞ、とお互い最初から腹に落としておくといい」

 

明石さんの言葉に、僕はハッとした。僕が恵ちゃんと作りあげたいと思っている恋って何だろう? ままごとの恋なのかな? 恵ちゃんの可愛らしさに釘付けになっているだけなんて……。

 

「明石さんの話を聞いていると、恋ってお料理みたいね」

「何だかお腹が空いてきちゃった」

 

「さてさて、それでは晩ご飯に向けて少し急ぐかな」

 

明石さんが高速の追越車線にハンドルを切った。

 

第30話

 

「じゃあ、そろそろ大学に戻ろうか」

 

皆んな、早春の八ヶ岳の野花、草木を見られて大満足。

 

「駐車場まで後10分くらい。もうひと歩きだから気を抜かないでね」

「転んだり、怪我をしたりしないように」

 

明石さんの号令で、皆ゆっくりと後をついていく。

 

「あの……、俺……」

 

「大樹。またか?」

 

僕らは呆れる。

 

「ああ、わかっているよ。あそこの雑木林の陰でしておいで」

「虫と草かぶれには十分注意をするんだよ」

 

明石さんの号令で一休止。

 

「全く……。大樹くんったら。困った人ね」

 

恵ちゃんはため息をつく。歩ちゃんは雑木林へ行く大樹を見て、少し心配げ。

 

大樹が今度は無事トイレを済ませて帰って来る。

 

「大樹。余りにお茶をガブガブ飲み過ぎたからだよ」

 

「だって、トイレがあるって聞いたから……」

 

「山では、いろいろな事態を察知して歩かなきゃ」

 

「初心者の正には言われたくないよ」

 

歩ちゃんが曲げた人差し指を唇に当て、クスッと微笑む。

 

 

ーーーーーーー

 

 

「さて、忘れ物はないね?」

 

明石さんが皆んなに確認する。

 

「正くんは私への愛の言葉、大樹くんはもともと少ない脳みそ全部を山に忘れてま~す」

 

恵ちゃんのいつもの天然な受け応え。

 

「あれ? 義雄の忘れ物は?」

 

大樹が恵ちゃんに尋ねる。

 

「義雄くんはね、もともと目立った特徴がないから忘れ物はないのよ」

 

「あた~っ。そう言われるのも逆に辛いね」

 

義雄が笑う。

 

「さて、帰りの車のシート割りだけど、誰か絶対に寝ない自信のある人いる?」

 

僕がすぐに手を挙げた。

 

「じゃあ、正くん。助手席決まりね」

「あとは、寝る可能性の高い大樹くんと義雄くんは一番後ろ。恵ちゃんと歩ちゃんは二列目だね」

 

「はい!」

 

皆んなでニコニコ手を挙げる。

 

小渕沢ICから車は高速道に入る。

 

「明石さん。本当にありがとうございます。新緑の八ヶ岳、最高でした」

 

「うん。気持ちが晴れ晴れしたね」

「夏も素敵だから、同じメンバーでまた来ようか」

 

「いいですね」

 

後部座席の二人は、もう瞼を閉じている。

大樹は早い。しっかり寝ている。

 

恵ちゃんも歩ちゃんも、目がトロンとしている。

 

「明石さん。明石さんの研究、英語でプレゼンすることが多いですよね」

 

「うん。院に入ってからは、もうほとんどが英語」

「テーマが、宇宙ステーションでの野菜栽培に関するものだからね」

「当たり前のように英語だよ」

 

「そう、僕はこの夏、花の色素の遺伝子発現の関係で、英語でプレゼンをするんです」

「何か気をつけることはありますかね?」

 

「そうだね。プレゼン資料も発表内容も、すべて校閲を受けておく」

 

「英語ができるからといって、カンペ、つまり口頭発表のカンニングペーパーの準備も怠らない。必ずネイティブの添削を受けておく」

「これ、大切なことだよ」

 

「英会話じゃないんだ。科学的知見の発表だからね。正しく明確に相手に論理とストーリーを伝えなきゃ。アドリブは絶対ダメ」

「質疑応答についても、三つくらいの受け応えパターンを考えて、これもネイティブの人に添削を受けておく」

 

「つまり、周到に準備して、正確な英語を使うということですね」

 

「正しい研究者ほど、年齢や身分に関係なく、このことを励行している」

「英会話とは、そのあとのプライベートな会話やパーティーで使うもの。自由でいい」

 

「そうですか。僕も資料ができたら校閲に回すようにします」

 

「正くん。ところでTOEICはどれくらい?」

 

「恥ずかしいですが、800を少し切るくらいです」

 

「十分じゃない。それなら、発表後の海外の研究者との会話は十分楽しめるね」

 

「明石さんは?」

 

「僕は900ちょっと。あれ、コツがあるから」

 

「すごいすごい!」

 

「そう、二列目、三列目の後部座席の皆様はスヤスヤだから、談合坂まで一気に走るかい?」

 

「そうしましょう」

 

恵ちゃんと歩ちゃんの可愛い寝顔。

大樹と義雄は、かすかにいびきをかいている。

 

「正くん。BGMにマーラーの交響曲第1番、巨人でも聞こうか? みんな寝ているから少し音量を下げて」

「談合坂に着くころに終わるよ」

 

「今年の秋のオケの定演で巨人やるんです。僕も出るんです」

 

「そう。それは楽しみだな。聴きに行くよ」

 

「明石さん、マーラー好きなんですか?」

 

「ああ。交響曲第6番”悲劇的”が一番好きだね」

 

「いきなり第6番ときましたか。マーラー通ですね」

 

「マーラーは、交響曲第1番で青春を奏で、第2番”復活”で天と会話し、交響曲第4番で天国や天使を歌い、第5番では喜びと愛を描いた」

「第7番で宇宙を語るその前夜の”夜の歌”、そして第8番で宇宙、“千人の交響曲”にたどり着いた」

 

「すべてこれは僕の私的な解釈だけどね」

 

「いや、いい線いっていると思います」

 

「そして、天才マーラーの最後の交響曲、マーラーの最高傑作第9番では、”人生”、”儚い人生”を奏でた。第4楽章の一番最後では、魂が抜け出て、あてもなく、いずこかへ静かに去るような……」

 

「第6番”悲劇的”は、マーラーが幸福の絶頂期に書いた悲劇。私小説的な、また予言めいた曲」

「第6番を聞くためには、それなりのマーラーを解釈する感性を養っておく必要がありますよね」

 

「そう、その通り」

 

BGMの巨人の第4楽章の冒頭のシンバルの爆音を聞いて、恵ちゃんが眠気眼をこすって起きた。

 

「あら……? 巨人ね……」

 

「うん、ごめんね。起こした?」

 

「ううん、いいの。第4楽章の切ない緩徐的な愛のメロディ。私、大好きよ」

 

喉から声が出そうになる。

 

だ・か・ら。僕はその巨人を演奏するため、恵ちゃんへの愛の気持ちを奏でたいから、いろいろと予定のある中、意を決して定期演奏会に出ることにしたんだよ。

 

分かってよ。この切ない緩徐的な僕の気持ち。恵ちゃんに届いてほしいけど……。いや? 届いてる?

 

「今、正くんと二人で、マーラーの交響曲や人生観の話なんかしていたんだよ」

 

「ふぅ~ん」

 

恵ちゃんはまだ寝起き。寝ぼけ眼。やはり、僕の想いは届いていない。

 

「人生の意義を探し求めようとしない者がいるならば、その人間は生きながら死んでいるのだとトルストイは言ったんだ」

「僕がマーラーを解釈するにあたり、マーラーは人生の意義を探し求め、それを交響曲で表現した。そして今なおそれは繰り返し演奏されてる。死んでもまだ彼は生きているからだと思う」

 

「マーラー自身が言っていた。いつか私の時代がくる、と」

 

明石さんが熱く語る。恵ちゃんは二つ目のあくびをする。僕は明石さんの話を真剣に聞いている。

 

「そう、そしてマーラーは利己的な人物に解釈されていることが多いけど、実は常に誰かの為に生きていたんだと思う」

「”誰かの為に生きてこそ、人生には価値がある"。僕はマーラーの音楽を聞いてそんなメッセージを受けるんだ」

「正くんは?」

 

「僕は似てはいますが、”愛すべき人たちのために、今あなたは何をしているのか?” という問いかけのメッセージを受けます」

 

恵ちゃんがしっかり目を覚ました。

 

「まあ、男子さん。ごちゃごちゃ複雑に考えない。人生とはその時、その時の瞬間を生きることなの。今なのよ。今を楽しまなきゃ」

「これまでの人生には答えなんかなかったし、これからの人生のうしろに答えがあるわけじゃないと思う」

 

「ただ、自分の大切な人が過去においてきた抱えきれない寂しさや、未来に感じる漠然とした不安に捉われているとしたなら……」

「そうね。せめて今、私の全部でそういう人たちを楽しませることが救いになるなら、私、道化師にでもなんでもなるわよ」

 

「結局結論は同じ。”誰かの為に生きてこそ、人生には価値がある” という言葉に集約されるんじゃないかな?」

 

明石さんが、恵ちゃんの人生というものに対する考え方が自分たちと似たり寄ったりであると感じたのか、白い歯を覗かせ微笑む。

 

「うん、そうね。隣人を大切にしようよ。私たちが会う人はみんな自分の人生と大なり小なり厳しい闘いをしているんだから」

「まずは自分たちから。今日一日を、正直、親切、愉快に生きよっ! 昨日もそうだったし、明日も一緒!」

 

恵ちゃんはまるで園児のように、可愛らしくえいえいオーの身振りをする。

 

あぁ……。僕の今の人生とは、恵ちゃんのことを四六時中想って生きていることなんだよ。恵ちゃんと笑いたい。今日も明日もずっと。僕全部で恵ちゃん全部を包み込みたい……。

 

第29話

 

「ミヤマエンレイソウの群生だよ。いい感じだね」

 

明石さんが目を細める。

 

「そうですね、花が咲くまでに10年ほどかかり、15年以上の寿命があるのがエンレイソウ」

「つまりここにいるエンレイソウたち、少なくとも年齢は10歳以上ね」

「私たちが小学生の頃芽生えたの」

 

明石さんが声がけする。

 

「丁度いい平らな場所だ。エンレイソウも堪能できる」

「この辺で、少し休息取ろうか」

「みんな体調に変化はないよね?」

 

「は~い」

 

恵ちゃんがリュックを下ろし、一休みする。

 

「談合坂で買った、クリームパンとあんぱん食べよ」

 

恵ちゃんが、リュックの中をゴソゴソ探し始める。

 

「パンの上に、談、という文字の焼き印が押されてる」

「さっ! 食べよ、食べよ」

「皆んなで半分こづつ。お昼前だからね。お腹にたまるといけないでしょ」

 

「あれ? 女の子はお腹いっぱいでも胸なんとかじゃなかったっけ?」

 

大樹が突っかかる。

 

「ああ、胸おっぱいね。そのまんまの事言っているんだけど、何か?」

 

「まあいい。食べよっ!」

「美味しいじゃん! すごく」

 

大樹は気に入ったようだ。

 

「うん、美味しい美味しい」

 

義雄も満足げ。

 

「僕はいいや。お昼ご飯まで待つよ」

 

「あらそう? 私、正くんの分、食べちゃうね」

 

「あぁ、美味しい!」

「あのね、私、美味しいもの食べた時、頬張って美味しくて、お腹の中でも美味しい! って言ってくれるの」

 

恵ちゃんの言葉。可愛い。

 

「ほら、正くん。確かめてみる?」

 

えっ!

 

恵ちゃんが僕の右手をお腹の上に引っ張って触らせる。

 

「撫でてみて。美味しいと言っているのがわかるよ」

 

僕は恵ちゃんの言う通り、恵ちゃんの柔らかなお腹をなぜなぜする。

 

大樹と義雄が、羨ましそうに僕の方をみる。

 

「わかった?」

 

恵ちゃんはニコニコ顔。

 

こんな風に恵ちゃんのデリケートな部分に触れられるなんて。

嬉しいと言うより、ド緊張。そして、僕のこころは騒がしく慌てふためいている。

 

「これから先は、少し山の中に入るよ。谷間にも降りる」

「班ごとに、必ず行動を一緒に取ること」

 

「尾根から降りるときは、まず班長から」

「安全を確認した上で、皆んなを呼ぶから」

「いいね」

 

明石さんが号令をかける。

 

「はい」

 

「水分は適度に補給してね。アクエリアスだっけ、ポカリだっけ?」

 

「両方あります」

 

「皆適量、水分補給をすること。いいね」

 

大樹も慎重に水分をとる。

 

「さあ、美味しい空気とおやつを食べたから、また歩こう」

「お昼ご飯までの間、5kmくらい歩こうか。無理をせずに」

 

「お昼をとる場所には、トイレがあるから安心してね」

 

それを聞くや否や、大樹はお茶のペットボトルをガブガブ飲み出した。

トイレがあると聞いた大樹の安心感。単純なやつ。

 

 

ーーーーーーー

 

 

さて、素敵な植物達を堪能したね。ひと汗かいた。そろそろお昼にしようか。

 

「はいっ!」

 

「あれっ? トイレが閉鎖されてる」

「確か去年までここにあったはずなのに」

 

大樹が焦る……。

 

しかして、皆んな大樹を無視してブルーシートを引き、それぞれの四隅に岩を置き、お昼ごはんの準備を進める。

 

「恵ちゃんが作ってきたおにぎり、卵焼き、ゴマ付きタコさんウインナー、そしてカニ風味サラダ。生ハムのチーズ巻き。塩分を取るためのたくあんなどの漬物セットもある」

「あっ! ウズラの卵チューリップウインナーもある!」

 

「すごい! 豪勢じゃない」

「恵ちゃん、すごいすごい!」

 

皆んなで拍手。

 

「うん! 美味しい。おにぎりもおかずも」

「こんな美味しいおにぎり初めて食べた。どうやって作ったの?」

 

僕は恵ちゃんに尋ねる。

 

歩ちゃんも興味ありげ。

 

「あのね、火力の踊り炊き、という炊飯器を使っているの」

「ごはんが炊き上がったら、岩塩を少しまぶし、適当な量のごはんをお茶碗でコロコロと優しく成形するの」

 

「おう、大樹。どうした? 踊り炊きのように腰や体をくねくねさせて」

 

「それはここで言わないでよ!」

 

そう言うと、大樹は木陰に用を足しに、歩ちゃんに照れ臭そうに急いで隠れていった。

 

「やっぱりか」

 

皆んなで微笑む。

 

「ヤバイよ、ヤバイ! ちんちん、虫に刺された!」

 

しばらくして、大樹が血相を変えて、真っ赤な顔をして小走りに帰って来た。

 

義雄がポツリと呟く。

 

「さて……、救護班の出番だな」

「そもそも、ちんちんっていうのは刺されるものじゃなく、挿す……」

 

恵ちゃんは義雄の言葉を咳払いで遮る。

 

「想定外の珍事件ね。いかにも大樹くんらしい」

「さすがに虫刺され程度では、私も歩ちゃんも場所が場所だけに救護できないわよ。怪我ならともかく」

「ねえ、歩ちゃん?」

 

「怪我でも……、無理です……」

 

歩ちゃんは真っ赤になった顔を伏せた。

 

「どれどれ。大樹くん見せてごらん」

 

明石さんが、木陰に大樹を連れて行く。

 

「そういえば大樹、海水浴に行った時にも、おちんちん、クラゲに刺された時があったよな」

 

「義雄くん。今そんな話聞きたくないよ」

「そもそも挿すものが刺されるなんて」

 

「恵ちゃん。それ、俺が言いたい事全部言ってる」

 

義雄が突っこむ。

 

さすがの恵ちゃんもこれにはバツが悪かったらしく、唇を強く結び、だんまりを決め込む。

 

明石さんと大樹が帰ってきた。

 

「大丈夫、大丈夫。患部に消毒液をを少し垂らしてきたから」

「治るまで少し時間がかかるかもしれないけど、刺された部分を指や爪でこするなどして雑菌が入らなければ大丈夫」

 

「大樹、禁欲だな。しばらく」

「溜めときな」

 

義雄の低く冷淡な声。

 

歩ちゃんはもちろん、さすがの恵ちゃんもこの言葉を聞いて恥ずかしそうに赤い顔をしてうつむいた。

 

「たとえ大樹のちんちんが負け戦(いくさ)だとしても、治るその最後まで戦いぬくんだ」

「そういう強い気持ちでいな」

 

「ちんちんが負け戦なんて言葉、渋谷のナンパで失敗したとき以来の屈辱だよ……」

 

大樹が肩を落として嘆く。

 

義雄の言わなくてもいいダメ押しの言葉と大樹の訳の分からない言葉を聞いて、下を向いてる恵ちゃんと歩ちゃんは、さすがにププッと笑って口を抑えた。

 

第28話

 

「さて。着いたよ」

「皆んな、車から荷物を降ろして準備しよう」

 

明石さんの声かけで、皆テキパキとリュックの中身を確認し、ズックに履き替え、登山の準備を済ませる。

 

「あ~あ。いい空気ね」

 

恵ちゃんが両手を広げて背伸びする。可愛い仕草。二人だけだったなら、後ろから抱きしめてしまいそう。

 

「6人いるから、コンパクトに行動できるように、一応3人づつの2班に分けようか。もちろん基本行動はほとんど一緒だけど」

「登山の経験度合いからいうと、僕は1班の班長、歩ちゃんが2班の班長兼救護係かな」

 

「自ずと、1班の救護係は恵ちゃんになる」

 

「その他のメンバーは、そうだね、1班には初心者の正くん。2班にはやや登山経験のある大樹くん、そして初心者の義雄くん」

 

「あの……、俺1班じゃダメですかね?」

 

「大樹くんが1班で、正くんが2班に行くと、2班は初心者が二人になっちゃうでしょ。避けたいね」

 

「そうですよね……」

 

「大丈夫よ大樹くん。怪我したら、私も一生懸命歩ちゃんを手伝うから」

 

恵ちゃんが大樹を説得力のない言葉で納得させる。

 

そうか、大樹は歩ちゃんと一緒の班になることが気になるんだ。

僕と義雄はそれに二人気づいて満面の笑顔。

 

「さて、山に入る前に軽くストレッチをしようか」

「ペアストレッチがいいかな?」

 

「正くんは恵ちゃんと。大樹くんは歩ちゃんと。僕は義雄くんとで」

「男同士だと、ストレッチで力を入れて遊んで、逆に筋とか痛めるといけないからね」

 

明石さんが皆んなに声かける。

 

「互いに手首、足首をよくほぐしてね」

「大樹くん。乳首はほぐさなくていいからね」

 

「恵ちゃん。その脳味噌のお花畑から出てくる下の言葉を口にしない」

「ただでさえ、大樹も歩ちゃんもペアになって緊張しているんだから」

 

僕が優しく注意する。

 

「はいはい」

 

恵ちゃんは、舌をペロリと出して僕の手をとる。

 

 

ーーーーー

 

 

「早速スミレが沢山咲いているね。これはアケボノスミレだよ。主に雑木林の下に生育する」

 

「明石さん、こっちにはエイザンスミレが咲いてます」

 

恵ちゃんもさすが、植物に詳しい。

 

「ニオイタチツボスミレもあるね。まあ、これは山や丘陵なら日本のどこでも咲いているけど、いざ山に入ると見分けがつかない人もいる」

 

歩ちゃんの班は歩ちゃんが色々と植物の話をしている。同じく、スミレから入っているようだ。

 

「黄色いスミレがあると嬉しいんですが……」

 

僕は何気に明石さんに伺う。

 

「黄色ね……、キバナノコマノツメ、うまくいけばヤツガタケキスミレが見つけられるかも」

「まあ、足を進めよう」

 

「ほら、アブラチャンが咲き終わるところ。クスノキ科シロモジ属。雌雄異株なんだ。ダンコウバイとよく似ているけど、花柄がつくことで区別ができる」

「アマドコロもある。根茎は天ぷらにすると美味しいんだ」

 

「えっ? 栽培するのではなくて、山から取るんですか?」

 

「うん。国立公園とかからの採取はもちろん禁止だけど、普通の山にあるアマドコロとかは山菜として取るよ。結構いける。秋が旬かな」

 

少し道がゴツゴツしてきた。

 

「恵ちゃん、正くん。ところどころ足元が悪いから気をつけてね」

 

「はい」

 

「恵ちゃんの返事が短くなったのは、高山で空気が薄くなったせいかな?」

 

「ほっといてよ」

 

恵ちゃんが、僕のチョッカイに汗をかきかき微笑む。

 

「歩ちゃん。大樹はね、ところどころ頭が悪いから気をつけてね」

 

「いいえ」

 

2班では、義雄がわけのわからないことを言って、歩ちゃんがクスクス笑い否定する。

 

「ほら、イカリソウがまとまって咲いてる」

 

明石さんが足を止める。

 

「イカリソウには、イカリンという有効成分、フラボノイド配糖体があるんですよね」

 

「正くん、よく知っているじゃない」

 

僕の知識に恵ちゃんが感心する。

 

「イカリンは、あの……、その……」

 

「そう、言いにくいけど、男の子のおちんちんの血流をとても良くするんだよね」

 

明石さんが話すと、恵ちゃんは少し恥ずかしげに下を向いた。恵ちゃんも天然の下の話は口にするけど、そこはやはり普通の女の子。

 

「お~い正。こっちへ来いよ」

 

「何、何?」

 

「黄色。黄色のスミレがあるんだよ」

「多分、キバナノコマノツメ。歩ちゃんが見つけた」

 

明石さんも興味深げ。

 

「どれどれ。皆んなで岩盤ぽい土質の谷間を少しだけ降りる」

 

「本当だ。キバナノコマノツメだ」

 

恵ちゃんもやってくる。

 

「綺麗ね」

 

「知らない人は、普通に黄色のスミレが咲いてる、とか言って通り過ぎるよ」

「この、花弁が細め、葉が円形で光沢がないのがキバナノコマノツメの特徴だね。ヤツガタケキスミレと似ているけど、花と葉の質が微妙に違う」

 

「色素はなんだろう。スミレの黄色、正くんならわかるよね?」

 

「色素はカロチノイドです。青や紫ならアントシアニンなんです」

「カロチノイドは不溶性ですから細胞質に分布し、アントシアニンは可溶性ですから液胞に分布します」

 

「へえ、スミレの黄色もカルコンかと思ってた」

 

大樹と義雄が顔を合わせて話している。

 

「さすが正くん。色々な花の色素、詳しいね」

 

恵ちゃんが喜ぶ。

 

「余談になりますが、実は、青いカーネーション、青いバラの品種は、スミレ属のデルフィニジンと言う青色のアントシアニン、その生合成遺伝子を使って遺伝子組み換えされたものなんです」

 

「な~んだ。あの青色、デルフィニウムの青からの遺伝子じゃなかったんだ」

 

「もちろん、デルフィニウムの青色アントシアニン色素はスミレ属と同じデルフィニジンだよ」

「ただデルフィニジンにはpH依存性があり、塩基性の溶液では青色、酸性の溶液では赤色に色が変わるんだ。そこが青バラを開発するに上で少し苦労したような話も聞いた」

 

大樹は新鮮に驚き、義雄はウンウン頷く。当たり前。遺伝子を扱っている義雄はこの領域にはめっぽう詳しい。

 

「まあ、珍しいキバナノコマノツメを見つけたところで、もうひと歩き」

 

「しかし、春の山は気持ちいいね、木々は芽吹き、虫たちは踊り始める」

「野生の野花も生き生きしてる」

 

明石さん、歩ちゃんも上機嫌。

 

「あっ、ダンコウバイとクサボケ」

「さっき見たのはアブラチャンで、これはダンコウバイだよ」

「花柄がついていないでしょ」

 

明石さんが解説する。

 

「赤い赤いクサボケちゃん。とってもとっても可愛いな~」

 

恵ちゃんを見て、こころから素直に思う。

 

あのね、いつでもどこでも、野花を見て生き生きしている恵ちゃんの方が、どんな花よりずっとずっと可愛いよ。

 

「さあ、先に進むよ。これから先はゆっくりばかり歩いてはいけないからね」

「険しい丘に登るためには、難所がいくつもやってくるんだ。でも、その先に喜びが待ってるよ」

「人生がそうであるように」

 

明石さんが明るい顔で皆んなに声をかける。

 

「そうそう。一男(なん)去ってまた一男」

「女の子の恋にも難所がいくつもあるのよね~」

 

「恵ちゃん。明石さんの素敵な言葉の腰を折らない」

 

僕がそう話すと、

 

「あら? 正くん。ゆっくりばかり歩いているんじゃない?」

「いや。もしかして今が難所かな~」

 

恵ちゃんが僕のこころを見透かしたように小悪魔的なあざとい視線を送り、しかして、いつものように優しく素敵に微笑む。

 

第27話

 

「大樹。やけに大人しいな」

 

僕がそう言うと、

 

「いや。別に」

「義雄だって静かじゃん」

 

「義雄は普段から静かだよ」

 

「おトイレ我慢かな?」

 

「違うよ、恵ちゃん。もうその、下の話はよしとしよう」

 

「あら? 下ネタじゃないでしょ。生理現象への気遣いよ」

「下の話なら、何か被せておけば? くらい言うわよ」

 

「十分下の話に展開してくる。まあ、その話はこの辺で」

 

僕が恵ちゃんと大樹の話を打ち切る。

 

「ところで大樹。歩ちゃんの卒論テーマの感想は?」

 

「やめてよ振るの……。今すぐには思いつかないよ」

 

歩ちゃんは少し照れ臭そうにしている。

大樹も、十分歩ちゃんといることが照れ臭い。

 

ソース顔と和風美人。一見、似合っていなそうだが、いいカップルになると思う。でも、僕を含めた3人は、恵ちゃんが大好き。

 

「さて、もうすぐ談合坂だから、トイレ休憩ね」

 

車は下り線、談合坂SAへ舵を取る。

 

「20分休憩。時間厳守で車に集合だよ」

 

「は~い」

 

「さあ、豚まん食べよっ!」

 

恵ちゃんが車から元気に飛び降りる。

 

「豚まん? 有名なの?」

 

「うん」

「あと、クリームパンとあんぱんも美味しいよ」

 

大樹は呆れる。

 

「恵ちゃん。まだ、山登りもしていないじゃん。昼ごはんも準備してきたんでしょ?」

 

「別腹よ、別腹」

「女の子はね、お腹いっぱいでも胸おっぱいなの」

「ねっ! 歩ちゃん」

 

恵ちゃんの意味の分からない言葉に歩ちゃんはクスクス笑って、恵ちゃんに引きずられるように一緒に店の方へと向かって行った。

 

僕はまずトイレ行き。そして缶コーヒー。

珍しく、大樹はタバコを吸いにSAの端っこにある喫煙所に向かう。

義雄はSAのお土産品を見ている。みんな点々バラバラ。

 

大樹が帰ってくる。

 

「大樹。何かイライラすることでもあるのか?」

 

「別に……」

 

「珍しいじゃん。皆んなでいる時タバコ吸うの」

 

「なんとなく、だよ。別にいいだろ。俺の勝手でしょ」

 

恵ちゃんがキラメキながら近づいてくる。いつでもこういうとき、そう、僕の胸は必ずときめく。

 

「はい、これ。正しくんと大樹くんで半分っこして」

 

恵ちゃんがニコニコして僕に豚まんを手渡す。

 

「うん。美味しいね、豚まん。手作りの味だね。素材もいい」

 

「これは、明石さんと義雄くんで」

 

「ありがとう恵ちゃん」

 

「クリームパンとあんぱんは後ほど」

「登山でのおやつにしようね」

 

「恵ちゃん。食べ物だらけだね」

 

「登山は体力勝負よ。たくさん食べなきゃ」

 

美味しいものを食べた。皆んな満足げな顔。

 

「さて、皆んな揃ったから出発するね」

「次は、双葉SAで休息とるよ」

 

「は~い」

 

「なんだろう? 車、タバコ臭くない?」

 

恵ちゃんが、クンクン車中の匂いを嗅ぐ。

 

「大樹だよ。さっき談合坂で吸ってきた」

 

「あら、大樹くん珍しい」

「何かイライラの元でも?」

 

「恵ちゃん。正と同じこと言うなよ」

「吸おうと吸うまいと、俺の自由」

 

「実は俺もタバコ吸ってきたんだ」

 

「えっ? 明石さんも愛煙家ですか?」

 

「うん。吸い始めたのは21の頃からだけど、止められなくなって。ダメな男です」

 

「大樹くんは、高校生1年生の頃からです。止められなくなって。ダメダメな男です」

 

「恵ちゃん。余計なことは言わないでよ」

 

歩ちゃんがクスクス笑う。

 

「タバコ吸うと、肺がんになっちゃうよ」

 

恵ちゃんが釘を刺す。

 

「恵ちゃん。1960年代の成人男性の喫煙率は80%以上で、肺ガン死亡者は年間約五千人、2000年代に入って、喫煙率は50%を切ったんだけど、肺ガン死亡者は七万人くらいと約13倍になっているんだ」

「だから、タバコを吸っているから肺ガンになるというのは、統計上、辻褄が合わないんだ」

 

明石さんが説明する。

 

「えっ、そうなの?」

 

「うん。そう」

 

「でも、昔からタバコを吸い続けている人が、年をとってから肺がんとして数字となって出てきているんじゃないですか?」

 

「あたっ! 恵ちゃんに痛いところを突かれたね」

 

明石さんは笑って答える。

 

ラジオからは、飾りじゃないのよ涙はの曲が流れてくる。

 

「アサリじゃないのよシジミは、ホッホ~」

「キスだと言ってるじゃないの魚は、ホッホ~」

 

「恵ちゃん。これから山に行くと言うのに、その貝や魚が出てくる替え歌は何?」

 

僕が聞くと、

 

「ホッホ~、のところが山なの」

 

「どう聞いても海に行くドライブの替え歌に聞こえる」

「しかも、ホッホ~のところは、歌詞そのままじゃん」

 

恵ちゃんに言われっぱなしの大樹が口を挟む。

 

「まあ。何でも良いよ。楽しければ」

「いつでも楽しんだ者勝ち!」

 

皆んな微笑み、車中には和やかな空気が流れる。

 

 

ーーーーーーー

 

 

双葉SA。

 

「恵ちゃん。食べ物はよしておこうね」

 

「うん。食べ物はよしておこう」

 

いつもの可愛いおうむ返し。

 

「では、みんなで展望台へ行こう!」

 

明石さんが号令をかけると、恵ちゃんがはしゃぐ。

 

「富士山をはじめ、南アルプス連峰、八ヶ岳、駒ケ岳すごいね!」

 

「360 度の大パノラマだね」

 

「空気の霞がわずかにかかって、富士山はしっかりと映えなくて残念だけど」

 

明石さんが呟く。

 

「明石さんは、ここから見える山は、だいたい制覇したんですよ」

 

歩ちゃんが、言葉を選ぶようにゆっくりと話す。

 

「すごいすごい! 今見えてるとこ全部ですか?」

 

「ああ、全部とは言わないものの、ほとんどだね」

 

恵ちゃんが歌いだす。

 

「娘さんよくき~けよ、山男にゃほ~れ~るなよ」

「あとなんだっけ?」

 

明石さんが笑う。

 

「山で吹かれりゃよ~おぉ、若後家さん、だよ」

 

「わかごけさんって何?」

 

恵ちゃんが明石さんに問いかける。

 

「ああ、若後家さんね。夫に先立たれてしまう若妻のこと」

「あまり楽しい歌ではないね」

 

恵ちゃんが歌うのをやめる。

 

「娘心はよ、山の天気よ。と言うフレーズもあるんだ」

「変わりやすい女の子の心のこと」

 

「ふ~ん」

「私と歩ちゃんには関係ないみたい」

 

「恵ちゃん、自分軸をちゃんと持ってて、感情の起伏の少ない素直な性格だからね」

 

僕がそう言うと、

 

「あら。ありがとう、正しくん。私、そういう素直で正直な正くんとなら若後家にならずにすみそう」

 

何気なく出た恵ちゃんの言葉だけれど、僕のこころは、もの凄く照れた。

 

もし僕が恋とは何かということを知っているとすれば、それはこの世に、恵ちゃんがいてくれているからだ。

 

「恋することに失敗する多くはね、諦める時にどれだけ成功に近づいていたのかに気づかなかったことなの」

「分かる? た・だ・し・くん」

 

僕は、今度は何気なくない恵ちゃんの言葉で、ドギマギする。

 

「ヒューヒュー! 金たま小さい正、失敗しろ!」

 

大樹と義雄の外野が僕を冷やかす。

 

「それを言うなら、肝っ玉が小さいでしょ」

 

明石さんと歩ちゃんが、じゃれ合っている僕たちの会話を聞いて大笑いする。

 

第26話

 

「ごめんね。少し遅れちゃた」

 

恵ちゃんが、八ヶ岳行きの集合時間に遅れてくる。

 

「恵ちゃん。予想より大きなリュックはともかく、さらに両手に持っている手荷物は何?」

 

僕が尋ねると、

 

「おにぎり20個と、卵焼きと、タコさんウインナーと……」

 

「恵ちゃん。皆んなのお昼ご飯作ってくれてきたの!」

 

大樹がはしゃぐ。

 

「うん!」

 

恵ちゃんの、その眩しい笑顔がいい。その笑顔。僕はいつでもどこでも大好きだよ。

 

「弟も手伝ってくれたのよ」

 

「あれ? 恵ちゃん弟いたんだっけ?」

 

大樹が尋ねる。

 

そんなことも知らなかったの? 僕は恵ちゃんのどんな言葉も逃していないから。恵ちゃんのこれまでの全ては、ちゃんと脳裏に刻んであるよ。

 

「うん。昔々、母さんが夜なべをして、弟作ってくれた」

 

この言葉には、皆んなで大爆笑。

 

「恵ちゃん。女子は普通、そんなこと言わないよ」

 

義雄が呆れる。

 

「あら? そう?」

 

恵ちゃんの天然の言葉は、いやらしくなく爽やかでいい。

 

「そうそう、このお弁当。誰かのリュックに入るかな?」

 

恵ちゃんが皆んなに尋ねると、

 

「俺と義雄のリュックはおやつと飲み物でいっぱい。ムリムリ」

「次の肩、どうぞ」

 

大樹が僕のリュックには余裕のあるのを知ってて、肩をいからせて茶化す。

 

「恵ちゃん。僕のには入るよ」

 

「うん。じゃあ、正くん、お願いね」

「貧乏なのに、リュックには余裕があるんだ。貧乏居間なしの生活しているのに」

 

貧乏居間なし? 暇なし? は余計なお世話。

 

「さて、皆んな準備は整ったかな。これから八ヶ岳に向かうよ」

「2時間半くらいの旅程になると思う」

 

明石さんが皆んなに声かける。

 

「トイレとか行きたかったら、すぐに知らせてね」

「一番近いサービスエリアに入るから」

 

「おしっこ漏れそうだったら、すぐに知らせてね」

「一番評判のいい紙パンツ、ちゃんと履かせるから」

 

恵ちゃんが明石さんの口調を真似て、大樹に笑って声かける。

 

大樹は気まずそうに横を向いた。歩ちゃんは何のことなのか、キョトン? としている。

 

「明石さん、本当にお忙しい時に僕たちのためにすみません」

 

「ぜんぜん。僕も気晴らしになる旅行だから。とても楽しみだよ」

 

すぐに高速に乗り、八王子ICに向かう。

 

「そう、明石さんの研究って、宇宙空間における野菜栽培とかなんとか、ですよね?」

「うん。国際的なプロジェクトに参加しているんだ」

「まずは、宇宙飛行士が宇宙空間で食べる野菜の自給自足から」

 

「正くん。レタスの中玉500gを地球から宇宙飛行士の元へ届けるとしたら、いくらかかると思う?」

 

「10万円とか、いやもっとかかるかな?」

 

「実は500gの生鮮品を宇宙飛行士の手元まで運ぶには100万円位かかるんだ」

 

「そんなに!」

 

「うん」

 「もちろん野菜だけじゃない」

 

「ごく一部の生鮮品は宇宙に到着すると、すぐに宇宙飛行士によって食べ尽くされてしまう」

「このような宇宙への食料移送の問題を解決するために、宇宙で野菜を栽培するプロジェクトが進行中なんだよ」

 

「まずは自給自足。出来そうなことから」

「その先にはもちろん、宇宙で栽培した野菜の地球への輸送、と言う夢がある」

 

「すごいですね」

 

「うん」

 

「学術的興味を目的とした研究段階はもうほとんど済んでいて、宇宙で消費できる”食料としての植物を栽培する”、という目的で今取り掛かっているところ」

「宇宙での植物栽培実験には、莫大な税金が投入されているんだ」

「このことに対しては世間では冷ややかな見解があるけど、宇宙での食料生産は、究極的には地球規模で起こる食料問題を解決する最終手段になりうると信じている」

 

「月や火星での栽培まで視野に入れている」

 

恵ちゃんが話し出す。

 

「私たちのオレンジ色の研究は、ままごとのお花屋さんごっこみたいなレベルに思えてくるね」

「明石さんの研究テーマがあまりに壮大で」

 

「そんなことないよ。花の色は神の色だよ。自然現象を科学的に解明したり、遺伝子組み換えで花色を改変する研究などもされて、実用化もされているじゃない」

 

「花の色を司る。神を演ずるとき」

「夢のある素敵な研究だよ」

 

恵ちゃんは、隣に座っている歩ちゃんに話しかける。

 

「歩ちゃん。歩ちゃんの研究テーマは何?」

 

「私は、閉鎖系温室作物の生産性向上のための二酸化炭素および光環境調節」

 

「どんな内容なの?」

 

恵ちゃん、興味ありげ。

 

「植物の成育は環境の影響を受け、また、植物はその生命活動により環境へ影響を及ぼしているの」

「植物生産システムの効率化や生産物の高品質化、さらに環境問題の解決を念頭に置きながら、環境の関係を組織、器官、個体、あるいは集団レベルで解析する」

 

「基本的には工学と生物学の境界領域が研究対象」

「環境要素に対する植物の光合成応答の解析などもしているの」

 

「あら、私の卒論の胡蝶蘭の光合成様式の研究にも通じるところがあるね」

「歩ちゃんも、光合成測定装置使っているの?」

 

「うん」

 

「同じ農学部だから研究アプローチに似たところがあるけれど、僕らが進めて行く科学は、そのベースに共通したものが確かめられるね」

 

僕がそう話すと、明石さんが答える。

 

「科学を行うことは”知る”ということ。体系化されたすべての知識を統合し、それぞれの分野で互いの研究を進展させる」

「そして、農学では実用されうる科学を追い求めること。実用化させること」

 

「こんなものが欲しい、というNeeds(ニーズ)に答えるだけでなく、こんな便利な技術がありますがどうですか? という潜在Needs、すなわちWants(ウォンツ)を提供していくことなんだ」

「それが僕らの研究にとって、とても大切な命題なんだよ」

 

「大切な、大好きな異性にプレゼントするサプライズように」

 

第25話

 

久しぶりのオーケストラでの合奏。

 

「おう、正。来たか」

 

「おう、隆。よろしく」

 

平林隆。工学部四年で同じホルン仲間。180cmくらいの長身痩せ型の体型。演奏はプロ並みに上手い。実際、プロからの誘いを受けているらしい。本人はさらさら行く気はないが。今回のマーラーでは、最も難しい1番ホルンを担当する。

 

「水野は?」

 

「水野は今日は休み」

「じょのかとのデートらしい」

 

オケでは、いわゆる様々な単語は音楽業界で使われているバンド用語を使う。皆んな、オケのトレーナーのプロの先生が口にするのを真似ているから。

 

彼女はじょのか、ビールのことはルービ。タバコはバタコ。髭剃りは、りーげひーそ。ウンコしたいは、こううんたいしと言う、などなど。

 

「正。今日は飲みにでも行くか?」

 

「いいよ。ただ練習後、一度研究室に戻ってからになるけど」

「どうしても目を通さなきゃならない資料があるんだ」

 

「カーネーションの黄色や、オレンジ色の研究か?」

 

「隆、何で知ってる?」

 

「俺の研究室が、お前のところの鈴木義雄君だっけ? その義雄くんから遺伝子を2つばかり準備してくれと頼まれたらしい」

「フラボノイド生合成経路のCHI遺伝子だったっけな? もうじき渡せるよ」

 

「なんだ。狭い社会だな」

「そうだ、隆。今春から工学部の生命工学研究室に移ったんだっけ」

 

「そう。生物化学で天然物化学、酵素を研究しつつ遺伝子工学の方もやることになったんだ」

 

「酵素? 僕の酵素多型、アイソザイムの研究にも通じるね」

「学部は違うけど、似た者同士。本当は忙しくて、二人して定期演奏会に出るなんて場合じゃないよね」

 

「全くそうだ」

 

互いに笑い合う。

 

マーラーの合奏は、初見としてはまずまず。

第4楽章の切ない恋のメロディ。僕の恵ちゃんに対する恋心の様。

 

「じゃあ、正。8時にいつもの扇屋で」

 

「了解」

 

 

ーーーーー

 

 

恵ちゃんはプレゼン資料をとても綺麗にまとめている。

 

図表は、黄色のA-1、A-2、B、Cタイプが対比するよう並べられ、文章は最低限のもの。とてもわかりやすい資料に仕上げられている。オレンジ色の方はこれからみたいだ。

 

「正。恵ちゃん、帰ったぞ」

 

義雄がやってきた。

 

「ああ、もう7時半だからね。恵ちゃん、プレゼン資料まとめるのが上手だね」

「必要最低限なことしか載せない。極めてシンプル、かつ内容の詰まった文書力」

「すごいね」

 

「うん。見習わなきゃね」

 

「そう、義雄。お前が遺伝子の単離を頼んでいる工学部の研究室の同期がオーケストラのホルンのマブダチなんだ」

「これから飲みに行くんだけど、義雄も行かないか?」

 

「俺か?」

「今日はこれから特段やることもないし……」

「行くか」

 

「うん、行こう」

 

「大樹はどうする?」

 

大樹はまだ電子顕微鏡室で研究中。

 

「三毛にゃんの世話でもしていてもらおう」

 

大樹にメモ書きを置いて行く。

 

”三毛にゃん、よろしく”

 

三毛にゃんは知ってかしらずか、小さな口を大きく開けてあくびをする。

 

 

ーーーーー

 

 

「こんにちは」

 

「こんにちは、義雄です」

「生命工学にはお世話になります。ありがとうございます」

 

「敬語はよそうよ」

「さあ、まずはビールから」

 

「乾杯!」

 

「ところで、正はまだ独り身か?」

 

「いきなり何だよ……」

「隆は一年の時からラブラブな里菜ちゃんがいるからいいけど」

 

恵ちゃんにキスを求められそうになった。そしていきなり女の子の話……。

僕は親友の前で、珍しくうろたえる。

 

「正ってさ、オーケストラの女の子には意外に人気あるんだぞ」

「どうしていつも肝心な時に学部に引っ込んで、ひそひそしてる?」

 

「正。何となく感じていたけどそう言うこと」

 

義雄が要らぬことを勘ぐる。

 

「まあ、女の子の話は良しとしてよ」

「僕は貧乏だし、女の子とお金に自由を縛られるのがちょっと……」

 

「それはね、言い訳、というんだ」

「なあ、義雄君」

 

「そうだね」

「なのに、恵ちゃんは例外ってか?」

 

義雄は僕を冷たい無表情な流し目で見つめる。

 

「そうそう、遺伝子、来週あたり三年生に持たせるから使ってくれ」

「俺にはよく分からないけど、花の色は神秘なものだから、様々な知見や発見があると思う。楽しみにしているよ」

 

「本当に助かるよ。ありがと、隆」

 

「ノーザンするんだろう?」

 

隆が義雄に問いかける。

 

「そう。アントシアニン生合成系のCHI遺伝子のノーザン・ハイブリダイゼーションからかな?」

 

「CHI遺伝子の働き具合を見る訳だ。黄色花はCHIの活性がなさそうだね」

 

「隆。実は黄色でも、CHI遺伝子を通過して、フラボノールが溜まるやつがいるんだ」

 

僕が隆にそう話すと、

 

「じゃあ、一つはCHI遺伝子の壊れ方の問題。二つ目はCHI遺伝子が2つある可能性」

 

「えっ! 2つある! そんなこと、考えもしなかったよ」

 

僕は驚き、義雄も体をビクンと震わせた。

 

「でも、これまでの知見から、まず先にターゲットのメインのCHI遺伝子の活性を確認するだけでいいと思うよ」

「物事は、出来ることから順に始めるんだ」

 

「どんな複雑な自然事象も、徐々に紐解いていけばシンプルになってくる」

「複雑なものをシンプルに表現していくこと。それが僕らの科学だ」

 

僕は正の言葉に頷く。

 

「正よ。恋も一緒だぞ」

 

「付き合う前から複雑にゴチャゴチャ考えていることをシンプルにしな」

「好きな女の子がいるなら、そしてその子に脈があるなら、キスのひとつでもしてしまえ」

「恋は勘違いで始まり、勘違いで終わる。それくらいの気楽さでいいよ」

 

「うん……」

 

「その女の子が正を好きかどうかも大事だけど、その子を恋する自分自身を好きかどうか」

「これ、とっても大切だよ」

「もしそれが、是(ぜ)であったら、Go!のサインだ」

 

隆が一杯目のジョッキを飲み干す。

 

「自分が自分自身に出会う。そして彼女が彼女自身に出会う。そして、お互いが相手の中に自分自身を見つけ合う。それが恋の始まりというものなんだ」

 

「Gravitation can not be held responsible for people falling in love.」

「人が恋に落ちるのは万有引力のせいではない。アインシュタインはそう言っている」

「恋愛とは二人で愚かになることだよ。楽しいよ」

「Take it easy.  お気楽にいきなさい!」

 

恵ちゃんのことを好きだ好きだ、それしか考えていなかった僕。自分自身と向き合い、そして自分を好きになる。難しくはないことだ。自分自身を愛すればいい。もともと僕は僕自身が好きだ。

 

隆の言葉が腑に落ちた。恵ちゃんの笑顔を脳裏に映し、まだ半分ほど残っていた一杯目のジョッキのビールを一気に飲み干した。

 

第24話

 

「そうだ……」

 

カフェテリアから研究室に帰って来ると、義雄が思い出したかのように話し出す。

 

「そういえば、5月下旬、一年生の果樹園芸学実習のサポート、ボランティアの募集があるね」

 

「ああ、学部の掲示板にあったね。僕も見たよ。三、四年生は任意だね」

 

40人の農学部一年生の必修科目。実態は伊豆の付属果樹園の農作業の小間使い。

 

「一年次を思い出すね。皆と伊豆で過ごす1週間。楽しかったよね」

「料理も朝昼晩と、自分たちで材料から買い揃えて班ごとに順番に調理して、同じ釜の飯を食べて暮らす」

「日中は作業で縛られるけど、夕方から夜にかけてはおしゃべり、カラオケ、そして海へと」

 

「最高だったよね、恵ちゃん」

 

「うん。すっごく楽しかった!」

 

恵ちゃんは三毛にゃんを優しく撫でながら、微笑んで遠くを見つめる。

 

素敵な微笑み。僕のこころの琴線を爪弾く。もう、笑顔を見るたび湧いて来るこのやるせない気持ち、どうすればいいの?

 

「みんなで一気に友達の輪ができちゃったよね」

 

「でも、男の子の何人かは、日々夜の海にナンパしに行ってたじゃない」

「あれ、女の子の目線冷ややかだったのよ」

 

大樹が言う。

 

「仕方ないよ。伊豆。あの澄んだ空気、潮風と開放感。爽やかな夜の海。自然と体が浜辺へと動くんだ」

 

「ナンパへ?」

 

「いや……、それは違う」

 

「何が違うの?」

 

「あの……、カメが海から浜辺に上がり産卵する習性のように……」

 

「それ全然、説明になってない」

 

「どうする? サポートは一泊二日だね。まあ、建前は酒なしの懇親会みたいなものだけど。一年生は未成年。基本、飲んではいけないからね」

 

僕は皆に問いかける。

 

「どうする? 学部生活最後の年だし、行くという選択もありだね」

 

「私、行こうかしら?」

 

「あら、箱入りさん。珍しい」

 

大樹がおちょくる。

 

「ナンパされに行くのよ」

 

「はいはい」

「でも皆んなカーネーションの花摘みに一番忙しい時期だからやめとこうよ」

 

大樹が恵ちゃんの話を遮る。

 

僕が言う。

 

「それ、大樹の役割分担だろ」

 

「私、本当に行くかも」

「久しぶりに伊豆の綺麗な海が見たいの」

 

恵ちゃんは本気の目をしている。僕も恵ちゃんの言葉に乗る。

 

「僕も行こうかな?」

 

「あれっ? 正も」

 

「俺も」

 

義雄も手を上げる。

 

「ハイ決まり。居残りは大樹だね」

「おじさんのところでのカーネーションのサンプル採取、お願いね」

 

「ちょっと待った、待った……」

「一泊二日の話だろ? 一瞬じゃん。俺も行くよ」

 

「大樹は一年生の手前、夜のナンパに行けないから乗り気じゃないんじゃないの?」

 

義雄が冷たく呟く。

 

「そ……、そんな事ない」

「俺は純粋に、一年生のサポートに行くんだ」

 

「どこが純粋なんだか」

「もしもしカメよ、カメさんよ」

 

恵ちゃんが大樹を茶化したように鼻歌を歌う。

 

「じゃあ全員参加という事で」

 

「な~んだ。園芸学研究室、結局全員で行くんじゃない」

「ねえ、三毛にゃん」

 

恵ちゃんは、小さくあくびをしている三毛にゃんの頭を撫でて優しく呟く。

 

 

ーーーーーー

 

 

「恵ちゃん。今日僕、4時から7時までオーケストラの練習があるから、液クロのデータをまとめておいて」

「黄色花のタイプ別に、そして量的差異もチェックしておいて」

 

「わかった。任せて」

 

「色素研究会のプレゼン資料のたたき台を作るような感じでね」

「オケの練習が終わったら、何より先に見に来るから」

 

「ホントかな~? 練習終わったら、すぐに友達と飲みに行くんじゃないの~?」

 

恵ちゃんは僕に斜めに顔を向け、目を細めて僕を疑う。

 

大好きな恵ちゃんに仕事を頼んで行くのに、約束を破る訳ないでしょ。

しかし、それがやっぱり言葉にならない。

 

「絶対来るから」

 

「うん」

「正くんも練習頑張ってきてね」

 

「ありがとう」

 

マーラー交響曲第1番”巨人”。25歳の時にマーラーはオペラ歌手のヨハンナ・リヒターに恋をする。金髪美女である彼女に猛アプローチをするもその恋は実らず。そんな失恋の気持ちを曲の旋律に込めたとも言われる交響曲がマーラーの交響曲第1番。

 

僕は恵ちゃんへの恋心のために、実は演奏会に出ることにしたんだ。断ろうとしたら断れたんだよ。他の大学オケやプロからエキストラを呼べばいいだけの事。このこと、恵ちゃんにも誰にも秘密だけれど……。

 

ちゃんと深夜、教育学部の音楽棟の防音個室で毎日欠かさず練習もしてきた。恵ちゃんのためだよ。下手くそだけれど……。僕の恵ちゃんへの恋と同じに……。

 

「そうそう。オーケストラに気になる女の子でもいるの?」

 

「いっ……、いないよ……」

 

「ホントかな~?」

 

また恵ちゃんは細い目をして、今度は微笑む。

 

「四年にもなって定期演奏会でしょ。怪しいな~」

「二股しようとしているんじゃないの?」

 

「ぼっ……、僕はひと股だよ」

 

「あら? 誰の股?」

 

恵ちゃん。それを言わせる。僕の口からは言えないよ……。

 

「正くん。キスしよう!」

 

「えっ! 今?」

 

恵ちゃんは目をつぶって、そっと僕に顔を近づける。

僕はドキドキする。心臓が破れそうだ。

 

しかして恵ちゃんは、素敵に僕から離れる。

そしてまた近づき、僕の耳元でためらいがちに囁く。

 

「やっぱり……。最初のキスは、また……、にして……」

 

「えっ? 股に……」

 

僕は突然のことに錯乱して、恵ちゃんとの、あらぬ妄想をして真っ赤になる。

 

 

第2章

 

第23話

 

「正くんと恵ちゃん、ちょっと時間あるかな?」

 

お昼時、生物環境工学研究室の院生の明石さんが研究室に来た。もちろん、八ヶ岳に同行する歩ちゃんも一緒に。

 

大樹と義雄はまだ卒論の研究中。

 

「八ヶ岳散策の準備だけど、まずは必要最低限の連絡をしにきたよ」

 

「助かります」

 

「そう、もうお昼だし、生協でランチでも食べながら話ししようか?」

 

大樹と義雄がいないが、まあいい。すぐに来るだろう。

 

「いいですよ」

 

「いいですよ」

 

恵ちゃんのいつものおうむ返し。

 

「A定はキーマカレー、B定は鯖の味噌煮だね」

 

明石さんが言うと、恵ちゃんが口を挟む。

 

「カフェテリアに行きません? どうも今日はパスタ、そう、カルボナーラが食べたくて!」

 

「カフェテリアのカルボナーラの味はハマるからね。いいよ」

 

気さくな明石さんは快諾。

大樹と義雄に、”カフェテリアに居るよ”。メモ書きを残して出かける。

 

「今回は登山初心者もいるから、山への深入りはよすことにしよう」

「入るのは、八ヶ岳南麓に絞ろう」

 

「皆んなは登山道沿いに歩いて、僕一人が時たま谷間に降りる」

「面白い花や景色が見つかったら、その時皆んなを呼ぶスタイルにするよ」

 

「どんな準備が必要ですかね?」

 

「春とはいえ、所によりまだ残雪があるかもしれない」

「長袖で、やや軽めな疲れにくい登山スタイルがいいかな」

「靴は必ずズックにしてね。ローカットでもいいけど、理想はミドルカット」

 

「僕はズックは持っていなくて……」

「高いんですよね?」

 

「そう、手頃なものでも2~3万円くらいはするかな」

 

「そんなに!」

 

「私は持ってるわよ」

「確か大樹くんも持ってる。義雄くんはわからないけど、小金持ちだから大丈夫だと思う」

 

「正くん。僕のサイズでよければ貸すよ。8足くらいあるから」

「大きかったら、つま先のところに綿でも詰めて」

 

「助かります。お借りします」

 

「役割分担だけど、案内人は僕。救護班は歩ちゃんと恵ちゃん」

「歩ちゃん、いつも通りの準備頼むよ」

 

「はい」

 

「恵さん。ファーストエイドキット二つ、それぞれ中身を相談して準備いたしましょうね」

 

歩ちゃんのゆったりとした優しい話し方。

おてんば娘の恵ちゃんと違って新鮮。

 

「準備いたしましょうね~」

 

ほら出た。おてんばさんのおうむ返し癖。

しかも、性格に似合わない歩ちゃんを真似たトーンの丁寧語で。

 

「お~い」

 

大樹と義雄がカフェテリアに来た。

 

「何、何? 皆んなカルボナーラ?」

「俺もそれ。大盛り。義雄は?」

 

大樹の相変わらずの早口。歩ちゃんと足して2で割るとちょうど良いのに。

 

「俺はツナピラフの大盛りでいいや」

「粉チーズをたっぷりかける」

 

「それ、大樹くんのソースがけに近い感覚があるの?」

 

恵ちゃんの変な質問。

 

「いや。俺はパスタとツナピラフだけ。何にでもソースをかける大樹とは全然違うよ」

 

「大樹くん、カルボナーラにもソースかけるのかな?」

「自分のジャケットにもソースかけるくらいだから」

 

恵ちゃんが言うと、皆んなで爆笑。歩ちゃんも口を抑えて笑っている。

 

口を大開けして笑っていた恵ちゃんが、急に歩ちゃんを真似て口を手で押さえる。それを見て、また皆んなで爆笑。

 

しかして、あちらこちらで笑い声のきらめいている学生だらけのカフェテリアでは、こんなことでは目立たず浮かない。

 

義雄は僕の隣、大樹は歩ちゃんの隣に座る。

 

「歩ちゃん。こんにちは……」

 

「こんにちは……」

 

大樹の挨拶に歩ちゃんは照れる。いや、大樹も照れる。

 

「歩ちゃん。大樹は出かけるごとに擦り傷、切り傷するやつだから、とっても救護しがいがあるよ」

「新宿御苑では、バラの棘で腕に深い傷を負ったし、日光植物園では頭を木の枝で擦り、血を流した」

 

「ほっといてくれ。全く、行く前からぶちぶち……」

 

「あら、大樹くん。私も救護班よ。思う存分、いっぱい怪我してね!」

 

恵ちゃんがカラカラ笑う。

 

「御苑でも、日光でも、バンドエイド一つ持ってなかった恵ちゃんがよく言うよ」

 

大樹は呆れる。

 

「ちゃんとチドメグサ見つけて手当したじゃない」

 

恵ちゃんも言い返す。

 

「さて、明々後日だね。山の天気は大丈夫そうだ」

「皆んな、体が資本。万全の体調で山歩きするのが何より一番大切だからね」

 

明石さんの言葉に皆んなで頷く。

 

「恵ちゃん。元気な余り、ギャル弾みな行動をしないように」

 

大樹が言うと、恵ちゃんが言い返す。

 

「大丈夫よ。大樹くんから元気を抜くとスケベしか残らないでしょ。正くんと義雄くんには、頭がいいが残るけど」

「そして私には、可愛いが残るでしょ!」

 

「何をおっしゃるウサギさん。恵ちゃんから元気を抜くと、おてんばが残るんだよ。あと脳天気」

 

大樹も負けじと言い返す。

 

「おいおい。山の話から何の話に展開した?」

 

明石さんと歩ちゃんがポカンとしている。

 

「恵ちゃん。恵ちゃんでしょ? 人の悪口は言わないって教えてくれたの」

「大樹のこと見てごらん。歩ちゃんの手前なんだよ」

 

そう僕が言うと、

 

「ホントだ。大樹くん、相当おちんこ出てる」

 

「それを言うなら、落ち込んでるでしょ?」

 

「ガーッ! ハッハッハッ!」

「ヒー! フッフッフッ!」

 

皆んなで恵ちゃんの言い間違えに受けて、腹を抱えて大爆笑する。

 

この笑いには、カフェテリアにランチに来ている皆んなを振り返らせるための十分なパワーがあった。

 

第22話(第1章 最終話)

 

「何だ、正。結局楽譜もらってきたじゃん」

 

「ほ~ら。いつだか私の言った通り。正くん断れない人だから」

 

大樹も恵ちゃんも呆れている。

 

「ああ、さっきオケの隆と水野にカフェテリアに呼ばれて、かいつまんで話すけどと、ボンゴレロッソのあさりの貝つまんで話しがあった」

 

「正よ。そういうギャグを聞きたいんじゃない」

 

「まあ、聞いてよ」

 

「僕はマーラーの巨人ががとても好きなんだ。特に第4楽章の青年時代のマーラーが書いた、青春の愛の旋律であろう息の⻑く美しい第2主題」

「マーラーの交響曲第5番の4楽章、妻となるアルマに書いた成熟した愛の旋律、アダージェットより好きかも」

 

「とにかく、青年時代に書き下ろしたマーラーの傑作を演奏できるチャンスは、一生のうちでもなかなかないからね」

 

実は僕は大学生活最後の年、この曲を恵ちゃんに聞いて欲しいんだ。大好きな恵ちゃんのためなら何でもできるはず。

 

「瀬戸際の魔術師さん」

「自分の卒論や、今のオレンジの研究は、正しくんなら頼れるし瀬戸際で完成させられるだろうけど、100人を超えるオケでの演奏は大丈夫なのかしら?」

「練習も大丈夫なの?」

 

「うん。優先順位は卒論と研究にある」

「だから隆と水野には、練習を休むことが少なくはないと話しておいたよ。深海魚、つまり海底の底にいる魚のように出たり出なかったり」

「底んとこ、よろしく。と貝つまんでのギャグを返したら笑ってた」

「とにかくメンバーの絶対数が足りない事もあり、快諾してもらった」

 

「理系の四年生でオーケストラの定期演奏会に出るなんて、無茶とは言わないけどホント大変よ」

 

恵ちゃんが心配してくれる。

 

「まあ、6番ホルンというあまり難しくないパートだから……」

 

「でも、マーラーの巨人でしょ?」

「マーラー、難しいでしょ」

 

恵ちゃんは高校時代、オーケストラでクラリネットを吹いていたことがある。

クラシック音楽には精通しているから、その言葉に重みはある。

 

「正。本当に卒論とオレンジの秘密の解明の中、オケの練習時間取れるのか?」

 

「まあ……、何とかする」

 

「何とかする……。何とかする……」

 

恵ちゃんが右手の人差し指を深海魚、チョウチンアンコウのように頭の前にぶら下げる格好をして、ぶちぶち呟く。

 

 

ーーーーー

 

 

「さて、そろそろ出たかな」

「皆んな、黄色花のクロマトグラム見ようか」

 

僕と恵ちゃんと大樹は、液クロのPCモニターを食い入るように見つめる。

 

「予想通りだね。A-1タイプはstage1からカルコンが検出されてる。もちろんstage2でも。フラボノールはどちらも無いね」

 

「A-2タイプは、stage1ではカルコンなし。stage2の開花期からカルコンが生成されてる」

「これもフラボノールは無いね」

 

「すごいね、私たち。黄色花の秘密、見抜き見通しね」

 

「あっ! 有田先生」

 

「どうですかね?」

 

僕らはこれまでの発見と知見とを有田先生にひと通り話しをした。

 

「とても面白い話だね」

 

「実は皆んなの研究のこと、花色を研究している友人達に話したら、カーネーションの黄色花、オレンジ色の秘密。かなり面白いと言っている」

「皆んながやっていることは、カーネーションに関わらず、他の花の花色と色素の関係、そして色素生合成遺伝子発現の新知見にも繋がることなんだ」

 

「実は、夏に植物色素の研究会が名古屋である」

「恵ちゃんと正くんに、今までの一連の知見を発表してもらおうと思って」

「その集まりには海外の研究者も来るんだ」

 

「恵ちゃんは黄色、オレンジ花色の知見を日本語で、正くんにはまだ推定段階だけど、これら花色の遺伝子発現機構の推察、英語でお願いできるかな」

 

「私は大丈夫です」

「正くんは、オケの定期演奏会にも出るくらいの余裕で、深海魚のように様々なプレッシャーに耐えうる能力があるので全然大丈夫です」

 

恵ちゃんが、ちらっと僕を見て満面の笑みをこぼし、有田先生に二つ返事をする。

 

おいおい……。僕は僕で答えるよ。しかし、英語でしょ……?

でも、やはり恵ちゃんの笑顔のおまじないには勝てないよ。

 

「ありがとう。花色研究をしている研究者たちが皆んなこぞって興味を持っているから頑張ろうね」

 

「そう、カルコンとアントシアニン色素の精製と構造決定は、三年生二人を薬学部に張り付けにしてやってもらうことにした」

「薬学部には、色素の構造決定のための器具や分析機器が全て揃っているから」

「義雄くんの遺伝子発現の研究には工学部、生命工学科がついているし。万全の体制だよ」

 

「色々頼み事をして申し訳ないけど、卒業論文は決して手を抜かないでね」

「題名は、皆んなから預かっている題名で間違いないかな?」

 

「恵ちゃんは、胡蝶蘭の光合成様式に関する基礎的研究」

「正くんは、アイソザイムから見たバラ属野生種の種分化の解析」

「大樹くんは、バラ属の花粉の表面形態による種分化の解析」

 

「そして、ここにはいないけど、義雄くんは植物のウイルスフリー化の効率化に関する基礎的研究」

 

「いいですよ」

 

僕と恵ちゃんは声を揃えて返事をした。

 

「俺のテーマは、バラ属の花粉の表面形態による分類学的研究、にしようかと思っているんですが……」

 

大樹が変更を申し出る。

 

「いいね。その方がテーマとしてしっくりくる」

「とにかく皆んな、卒論で必要な多変量解析の統計の勉強も怠らないでね」

「判別分析、主成分分析、クラスター分析。わかったね」

 

「は~い」

 

皆んな意外に多変量解析については苦手意識がある。下を向いて半分だけ手を上げ答える。

 

「来年の園芸学研究室の卒論と修論のテーマとして、カーネーションの花色に関する基礎的研究を軸にしようと考えているんだ」

「黄色とオレンジだけではなくて、その他の色も含めて」

「全波長対応型のフォトダイオードアレイ付きの、新しい液クロの予算も挙げておいた。多分通るよ」

 

「有田先生。私、大学院に残ってもいいですか?」

 

恵ちゃんが上目遣いに先生に話しかける。

 

「全然オーケーだよ。僕としてはすごく助かるね。恵ちゃんのひらめき、行動力、どちらも欲しいから」

 

「正くんも残らないかい?」

 

「残らないかい?」

 

恵ちゃんが真剣顔で僕を見つめ有田先生の言葉を繰り返す。

 

「僕は貧乏だから就職します。この四年時に尽力します」

 

「貧乏暇なし。オケの定期演奏会にも尽力するしね~」

 

恵ちゃんは、横目でバカしたような口調で微笑んで僕に呟く。

 

「皆んなの頭脳は柔軟で、空っぽで、余裕に溢れているんだ」

「どんどん勉強しようね。若くなければできない。今しかできないものだから」

「学生時代に頑張った勉強は、皆んなの一生の財産になるから。必ずなるから」

 

そう言って、有田先生は自分の研究室に戻って行った。

 

恵ちゃんへ恋していることは、僕の一生の財産になるのかな?

いや、それはわからない……。過去の恋は、今の恋に上書きされてる。生きることとは、何度も恋をすることなのかもしれない。

 

ただ一つ言える確かなこと。友達の笑い声に囲まれていたこと、そして恵ちゃんのきらめく笑顔の記憶は、必ず僕の一生の宝物になる。