おはようございます。
自己実現を繋ぐ
心理カウンセラーの井手章紀
(いであきのり)です。
私たちは無意識のうちに
自分にとって都合の悪い感覚を避けようとします。
避けると言っても
分かりやすく避けることもあれば
誤魔化してなかったことにしたり
避けた先での行動を正当化したりするといった
少しひねくれた方法をとることもあります。
そして、避けようとする感覚の中でも
特に多くの方がこの感覚から逃げているなあと
思うものがあります。
それは『惨め』です。
私たちはこの『惨め』を感じたくなくて
それをバネに行動したり
惨めにならないような立ち振る舞いを
自分や近しい人に強要したりします。
「みんな惨めを避ければ
これって万事解決じゃないの?」と
思われるかもしれませんが
残念ながらそうは行きません。
なぜなら惨めさを避けようとすればするほど
惨めさを意識し、
その避けた分だけ他人に惨めさを見るし
何なら見たくなるからです。
惨めさを避けている方ほど
他人が惨めをさらした時に
その人のことを嗤ったり
見下したり、虐めたり、陰口のネタにしたりします。
中には惨めをさらした人を
リカバリーしようと奮闘される方もいるかもしれません。
ですが、その方も
心の中で先ほどのようなことを行ったり
また本当に助けようとしていても
相手が何もできないから助ける、
かわいそうで見てられないから助けるといった
対等関係でない協力をしようとされる方も
いらっしゃいます。
対等関係から助けようとしているかどうかを
判別する方法としては
自分が惨めをさらしてしまった時に
素直にそれを感じることができるかどうかです。
感じられないで助けようとしているなら
あなたの心のどこかに
その惨めな状態を見たくない気持ちがあります。
勿論ですがそれがあったら悪い
という話をしているのではありません。
ただ、この惨めという感情は
誤魔化して避けようとするほど
他人のそういった惨めな状態を求めるようになります。
見たくない、見たくないと言っている時は
なんだかんだ見たいんですよね、
それも、自分の傷つかない方法で。
その手っ取り早い方法が
他人に惨めになってもらって
その惨めさで自分の不足感を補填するのです。
ただ、これはやればやるほど、
自分の中にある惨めさを強化します。
他人の惨めで満足する度に
「やっぱり惨めには絶対にならないぞ」という
感覚が増えていきますからね。
私もこうやって惨めさを
避けてきた一人です。
私は怒られたくないが異常に強い人でした。
(詳細の記事はこちら)
それは深掘っていくと
怒られた時のあの何とも言えないいたたまれなさ
体がよじれるような苦しみ、
そういった状態の自分の惨めさ感じたくなくて
いろいろと誤魔化していました。
だから他人が怒られている
惨めな状態では
その人のことを心のどこかでざまあと
嗤っていました。
他人をそういった見方でしか見ていませんから
自分が惨めをさらした時に
耐えられるわけありません。
今は自分が避けている惨めさを見つけた際は
その感覚を弄って誤魔化すことなく
ありのまま感じるというのを繰り返しています。
どんな感覚であっても
結局それは自分から湧き上がったものであり
それを自分で感じられるようにならない限りは
本当の意味で心が楽になり
心地よく過ごすということは難しいと私は思います。
皆様も惨めを自他に見つけたときは
まずはそこでの自分の心の動きを見てみてください。
そこで避けていることに気づかれた方は
少しずつで構いませんので
その惨めさに寄り添ってみてくださいね。
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