了了として常に知る | こうぼうのブログ

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こんにちは。





「了了(りょうりょう)として常に知る」境地とは、
見て、その見ることにとらわれない、
知って、その知ることにかたよらないこと。





これから生きていくうえで、とても大切なことだ。
でも、この年になっても、やっぱり難しいのだ。






古人云く、妄息んで寂生じ、寂生じて智現じ、智現じて真見る、と。
若し、妄心を尽くさんと欲せば、須く善悪の思いを休すべし。
又須く一切の縁務都来放捨すべし。
心に思うこと無く、身に事とする無し。
是れ第一に用心なり。
妄縁尽くる時、妄心随って滅す。
妄心若し滅せば、不変の体現じ、了了として常に知る。
寂滅の法に非ず、動作の法に非ず。 「座禅用心記」






古人は言う。
妄想の心がとまれば、静寂が生まれ、静寂が生まれて智慧があらわれ、
智慧があらわれて、真実が明らかになる、と。





もし、妄想の心をなくそうとするならば、ともかく善とか悪の思いを
やめよ。





また、すべてのかかわりあいを捨てよ。
心に何も思うこともなく、体は何もすることもない。
これが第一の用心*である。





およそ、かかわりあいがなくなるとき、妄想の心がほろぶ。
妄想の心がほろびると、変わらぬ本来の姿があらわれる。
このことが明らかに知られるのである。
これは、静寂と動作のいずれをも超えたところである。




*用心とは、座禅を行うにあたり、気をつけること、実際の心づかい、
 注意点を指す。