中国後漢末期、世は黄巾の乱によって乱れていた。漢の霊帝は何進、皇甫嵩、朱儁、盧植ら将軍に鎮圧を命じ、その鎮圧に成功する。しかしそれは同時に、漢王朝の無力さを中華に露呈させ、各地で豪族の反乱が相次ぐ結果となった。霊帝が病没すると、即位した幼齢の劉弁に代わって、外戚の何進が実権を握った。何進は黄巾の乱の原因となったのは、宦官の集団である十常侍とし、その排除を画策したが、逆に宮中で十常侍に謀殺される。何進の死に激怒した袁紹が宮中に乱入し、十常侍のほとんどを殺害する。十常侍の一人、張譲が劉弁と弟の劉協を宮中より連れ出すが、追手が迫ると河に飛び込み自殺した。この時劉弁と劉協を保護し、洛陽に帰還したのが董卓だった。何進の兵を吸収した董卓は、軍事力で権力を掌握した。董卓は強引に劉弁を廃し、劉協を即位させるなど専横を極めた。人民に対しては悪逆非道の限りを尽くし、人心は董卓から離れて行った。その董卓の専横に反発した諸侯が挙兵し、反董卓連合が結成された。袁紹を盟主に、曹操、孫堅らが参画した。しかし、連合軍の士気は低く、強大な董卓に積極的に攻め込む諸侯はいなかった。曹操、鮑信、張邈は消極的な袁紹に業を煮やし、董卓軍に戦いを挑むが徐栄の前に敗北する。反董卓軍は緒戦こそ敗北を重ねるが、孫堅が陽人の戦いで華雄を討ち取ると、洛陽に兵を進めた。董卓は反董卓連合を脅威に感じ、洛陽を焼いて、強引に長安に遷都した。反董卓連合はこの後、諸侯同士の争いが起き瓦解していく。曹操は兗州で、袁尚は河北でそれぞれ力を蓄えていった。しかし董卓の専横は、長くは続かなかった。董卓の暴虐を憎んでいた王允は、董卓に不満を抱いていた養子の呂布を篭絡し、董卓を殺害させた。董卓死後、実権を握ったのは李傕と郭汜であった。二人は西涼から十万の大軍を率いて長安を攻め、王允を殺害し呂布を長安から追放した。しかしこの二人も長安で略奪などの暴挙を働き、長安の治安は大いに乱れた。
同じころ、涼州で力をつけた二つの軍閥があった。馬騰と韓遂である。馬騰は後漢初期の名将、馬援の血を引き、勇み肌で懇篤な性格であり、人々から慕われていた。韓遂は中央政権への反乱を機に馬騰と知り合い、意気投合すると義兄弟の契りを結び、共に涼州で飛躍の時を狙っていた。
馬騰の子、馬超孟起は精悍な若者に成長していた。父の背を追い、ひたむきに武を磨いていた。いつか、父を超える武人になるために。そんな中、ある事件が起きる。韓遂と涼州の統治におけるささいな諍いが発展し、戦争状態になったのだ。この戦で、韓遂は馬騰の妻と子を殺害する。馬騰は韓遂討伐の兵を興し、まさに決戦の時を迎えていた。都では李傕・郭汜が対立し、献帝を巻き込んだ騒動になっていた。
世は乱世。その騒乱が、馬親子の運命を飲み込もうとしていた。