それは牢、というより鉄の棒が組まれただけの、けものを捕らえるための檻だった。天面に雨を凌ぐ布が張られていて、糞尿を溜める桶が一つ置かれている。あるのはそれだけだった。檻は兵舎の広場のような場所に置かれ、常に兵の視線に晒されていた。

 馬超と楊霖は少し離されて、別の檻に入れられている。姿は見えるが、話をすることはできない。楊霖は、昼間は端座し、夜は寒さを凌ぐために蹲(うずくま)っている。馬超は楊霖に何もしてやれない自分がもどかしかった。

 何日も生かされているから、死罪はないかもしれないが、呼廚泉の気分次第では今後どうなるかはわからない。

 自分はなにをやっているのだ。馬超はその答えのない問いを、来る日も来る日も自らに問いかけた。

 馬家の為を思って行動しているつもりが、実はひどく小さなことに拘り、命を放りだしているのではないか。

 武のためとはいえ単独で砂漠を渡ろうとし、女一人のために檻にいる。そんなことをしている内に、いずれ呆気なく命を落とす。自分の命など、そんなものかもしれない。

 一騎打ちで負けて、命を落としかけた。そこから何も学ばず、成長もしていない。そんなもどかしさで身を捩る夜が続いている。しかし馬超は、自分の行動が決して人の道に外れたものではないと、思っていた。そのことだけが、心の何かを、紙一重で繋ぎ止めている。楊霖のように、何があっても凛としている、自分もそうあるべきなのだ。例え明日、死罪が申し渡されたとしても。

 ある日馬超が瞑目していると、檻の扉が開かれた。戟を突き出した兵に促されるまま、馬超は軽い足取りで檻を出た。檻とはいえど、立ち上がるほどの空間はあるため、檻にぶら下がったり何度も立ち上がったりして、足腰は鍛えていた。楊霖も同じように引き出されてきた。一瞬目が合ったが、楊霖は無表情で前を向き直った。

 二人が引き立てられたのは、政庁府の小さな部屋だった。質素な調度品がおかれた部屋の片隅に座っていたのは、呼廚泉だった。窓もなく、灯篭の灯が淡く呼廚泉を照らしていた。

「二人とも、座れ」

「なにをしている呼廚泉、早く俺を殺せばよかろう」

 呼廚泉は、脇に置いてあった鞭で馬超を打った。怯んだ馬超を、楊霖が包むように庇った。楊霖の眼が、呼廚泉を睨む。

「死にたければ一人で死ね、馬超。息を止めてもいい、舌を嚙んでもいい。お前は檻の中で、あさましく生き続けた」

「死ぬ理由がないからだ。お前の前から逃げたことが、罪だとは思っていない」

「馬超、お前は威勢だけは一人前だが、それだけだ。いずれどこかで野垂れ死ぬ」

「だとしてもお前には関係ないことだ。俺を殺す気がないのなら、早く解き放て」

「なんでも己の事ばかりなのだな、馬超」

「なんだと?」

 馬超は呼廚泉の態度に、かすかな違和感を覚えた。初見のような粗野な気配はなく、馬超に静かな眼差しを向けている。

「馬超、おまえいくつだ?」

「十八」

 馬超は偽りなく即答した。

「若すぎる、いや、童だ」

 馬超は一瞬かっとなったが、それは心に押し込んだ。

「呼廚泉殿、馬超殿は私の巻き添えでここにいるだけです。罰するなら私一人にしていただきたい」

「楊霖、俺はお前たちに罰を与えているのではない。お前たちは何一つ罪を犯してはいないからだ」

「ならば」

「しかし、結果的にお前たちは俺の顔に泥を塗った。その償いはしてもらわねばならなかった」

「結局、部下に対する面子のためか、呼廚泉」

「だから童というのだ、馬超。一族を導くという事がどういうことなのか、いずれお前にもわかるだろう」

 馬超は眉をひそめた。呼廚泉の諭すような言葉の意味が、分からなかった。

「匈奴の連中を見てみろ、力を持て余す蛮族のような連中ばかりだ。その王になるために生まれた俺の身にもなってみろ」

 呼廚泉が兵の前で見せた粗野な態度は、匈奴をまとめるための演技だとでもいうのか。なぜそこまでして王にならねばならないのか、馬超には分からなかった。いや、自分には何がしたいのかもよくわかっていない。呼廚泉のように、目的のために自らの行動を選択していくのが人というものなのだろうか。

 呼廚泉が、一振りの大刀を馬超に突き出してきた。謁見の時に馬超が兵に預けたものである。

「よくこんなものを振るう。虚勢も行き過ぎれば愚か者の烙印を押されることになるぞ、馬超」

「虚勢ではない」

「意地っ張りな奴だ。では、こうしよう。この大刀で調練用の木偶を斬ってみろ。もし両断出来たら、お前たちを解放してやる。できなければ、また檻の中だ」

「造作もないこと」

「一抱え程もある丸太だぞ」

 呼廚泉は、できるはずもないと思っているのだろう。馬超を見る目が、下卑たものになった。この男の本性がいかなるものなのか馬超には分からなかったが、もうすでに呼廚泉に対する関心は、無くなっていた。

馬超は大刀を受け取ると、練兵場に出た。木偶に斬りかかっている兵を押しのけ、馬超は大刀を構えた。周りの兵達が集まってきて、馬超に好奇の視線を投げてくる。見栄っ張りが、あんな剣扱えるわけはない、そんな嘲笑に似たささやきが聞こえてきたが、意に介すことはない。

 久しぶりに構えた大刀の重さが心地よい。大刀と一つになり、身体はいつでもどこへでも動ける準備ができている。なんでも両断出来る気さえした。

 斬る、そう気を放った。

 不意に、木偶が歪んだ。

 その瞬間、馬超の脚は、地から伸びてきた何かに絡めとられたかのように動かなくなった。馬超は何が起きたか分からず、狼狽した。全身に汗が噴き出す。力を込めるが脚は動きそうにもなかった。

 木偶がさらに歪み、巨大な魔物となり馬超に襲い掛かってきた。魔物は馬超の躰を貫き、元の位置に戻った。馬超の全身から血が噴き出し、地を赤く染めた。

 その後も木偶は何度も馬超を貫き、嬲(なぶ)った。傷に塗(まみ)れた馬超の躰は、動きそうにもなかった。馬超の心を恐怖が包み、死が、馬超に触れた。

 馬超は咆哮を上げた。理不尽なものが、自分を死に追いやろうとしている。

 ならば抗い、抗い抜き、抗いながら死ぬ。それが俺の命だ。そう、思い定めた。

 木偶が、笑っている。全てを見下すような、挑発的な笑い。気に入らない。斬る。    しかし、躰は動かない。

 ならば。

 馬超は眼を閉じ、全身の力を抜いた。再び大刀と一つになる。木偶が、馬超に覆いかぶさろうと飛びかかってきた。

 死、馬超は受け入れた。だが魂までは奪われはしない。死してもなお、俺は木偶を、悪魔を、斬る。

 何かが、熄(や)んだ。

 馬超はゆっくり、眼を開いた。木偶が見えた。その木偶は、ゆっくりと斜めに滑り、地に落ちた。

 辺りは静まり返り、兵たちは皆絶句している。

馬超は大刀を鞘に納め、踵を返した。楊霖がじっと、馬超を見つめている。

「行こう、楊霖殿」

 馬超の後を、楊霖が追いかけてくる。

 俺は、何かを斬ったのだろうか。馬超は何となくそんなことを考えながら、練兵場を後にした。