夕闇。夜陰に紛れようなどと、考えたわけではなかった。ただ、寝食を忘れて駆け続け、目的の場所に着いたのが、今だというだけだった。韓遂の館。やはり韓遂の首は飛ばさねば、馬超の思考は堂々巡りから解き放たれることはない。そう確信した。

 家族を殺された怨みが、まだ残っているかと言われれば、曖昧な答えしか浮かばない。その感覚にも、辟易していた。

 馬家の為に、家族の死を忘れられるのか。父と韓遂は敵対したが、その敵対が決定的な対立ではないことを、肌では感じていた。韓遂を攻める父の言動を見ていると、どこか兄弟喧嘩の様にさえ感じる。それも今思い返せば、腹立たしかった。

 世は乱世。天下の情勢は刻一刻と変化している。そしてその情勢は、袁紹に傾きかけていた。父も袁紹と親書を交わし、交友を試みている。馬家の嫡男である馬超も、いずれは馬家の家督を継がねばならない。

 その時、天下の情勢に応じた馬家の立ち振る舞いができるのか、自信はなかった。

 馬超は己の行動に、自らの情動が結びつかなければ行動できないという自覚があった。誰かに(おもね)って親書を出すなど、到底できそうにもない。

 敵対する者がいれば、たとえどんなに相手が強大であろうとも、ためらわず干戈を交える。それが武人の在りようだと思っている。外交や交渉など、自分の本分ではない。韓遂との関係の複雑さも、その外交の機微から生まれるのなら、やはり韓遂を斬るしかない。

 そしてその勢力を、馬家が吸収すればよいのだ。なら一層、涼州の統治はやりやすくなるはずだ。

 敵はためらわず斬る。それは韓遂自身が、馬超に言い放った言葉だ。父も馬超の行動に理解を示すはずだ。これが、馬家の為の、嫡男である馬超が最初にできる第一歩になるはずだ。

 馬超は、館に向かって気を放った。純粋な殺意。それが、訪いである。

 しばらくして、館の扉がゆっくりと開かれた。出てきたのは、韓遂自身だった。

「孟起か、入れ」

 韓遂の表情は暗がりで見て取れなかったが、声は老人特有の濁声で、何の気も放ってはいなかった。人生に疲れた一人の老人、そうとしか思えなかった。

 問答無用で斬ることもできる。しかし武人として、最後は納得のいく形で韓遂を葬りたい。それがお互いのためだ。馬超はそう思った。

 通された客間は広く、しかし不自然に暗く、背丈ほどの灯篭が二台、部屋を淡く照らしていた。余人の気配もない。

「暗いな、韓遂。まるでお前の人生のようだ。陰湿で堂々としたところがない。好ましいところが何一つない、死にゆく老人がひとり、そこにいるだけだ」

「ふん、酷い物言いだな。お前の父も似たようなものだろう。裏切り続け、殺し続けた」

「父は常に、馬家と涼州のために戦ったのだ。お前とは違う」

「若いな、孟起。戦いが綺麗ごとで為されたことなど、人の歴史にはない。人の世など、欲と憎しみで(まみ)れた泥でできている。そして、それが分からぬ青二才から滅びていく」

 馬超の殺意などまるでなきかのように、韓遂は世の不条理を語り続けた。馬超は、不思議と韓遂の言葉に引き込まれた。

「どうした孟起、儂を殺しに来たのだろう。早くその背の大刀を抜いて見せろ」

 韓遂に対する殺意は微塵も揺らいではいない。馬超はゆっくり大刀を抜いて、切っ先を韓遂に向けた。韓遂の首が飛び、地に転がるところまで、はっきりと見えた。馬家や涼州の事など、頭の隅に追いやられている。敵を斬る。ただそれだけだった。

 韓遂の眼に、光が宿った。そして韓遂は腰に佩いていた剣を抜いた。ありふれた、ごく普通の剣だ。

「そのような剣で、俺を斬ることはできん。あきらめろ、韓遂」

「孟起よ、人が死ぬときは、小刀の切っ先ひとつ、毒の一滴でも死ぬものだ」

 剣に毒でも塗ってあるのだろうか。韓遂ならやりそうなことではある。ただ老いた一人の男の剣。たとえ毒が塗ってあったとしても、その刃が届く前に、剣ごと韓遂を両断できる。

 韓遂が動いた。動くというより、何かにつまずいようによろめきながら、馬超に寄りかかってきた。憐れ、韓遂。馬超は大刀を振り下ろした。手加減はない。全力で韓遂を葬る。

 背に、感触。

「何を寝っ転がっておる、孟起」

 韓遂に言われて、自分が床に仰向けになっていることに気付いた。馬超は跳ね起きて、また大刀を構えた。何が起きたのか。韓遂は変わらず、なんとなく剣を構えて立っている。

 馬超は、大刀に気を込めて横に薙いだ。大刀が咆え、韓遂の身体を上下に分断する。それは陽炎になり、馬超に絡みついてきた。

 次の瞬間、大刀を握る馬超の手首に激痛が走り、大刀の切っ先が地に付いた。苦悶に満ちた馬超の顔を、虚ろな眼差しの韓遂がのぞき込む。馬超の手首を、韓遂が握っていた。その力は、およそ人のそれではない程、凶悪だった。手の感覚がなくなり、骨が軋む音が聞こえてきた。

「孟起よ、これが儂の、乱の気、だ」

「乱の、気?」

 馬超の意識は朦朧とし、韓遂の声が、幻の様に馬超の心に響いてきた。

「儂はこの乱の気の赴くまま、抗い、殺し続けてきた。ひとりの武など、些事でしかない」

 馬超はこれまで、ひたすらに武を磨いてきた。しかし今、老人のか細い腕にあっけなく御されている。その現実が、馬超の心を揺り動かしている。

「武の鍛錬は必要だ。だが、本当に為すべきは、その者にしか持ちえぬ気を、育むことなのだ」

 握られた手首の骨はとうに砕け、もう片方の手で、辛うじて大刀の柄を握っている。

「その気は、誰もが持ち合わせているわけではない。休や鉄に、その気があると思うか?馬岱にもだ」

馬超にできるのは、膝だけは折るまいとすることだけだった。

「孟起、お前は涼州の至宝だ。お前にしか持ちえぬ気が、確かにある。それを見つけ育むのだ」

 敵として殺し合った相手に、何を言っているのだ。敵味方に分かれ殺し合うことも、些事だというのか。馬超はそう思った。しかし韓遂の言葉が、何故か素直に馬超の心に入っていくのも、不思議な感覚として在る。

「孟起よ、我が子となれ。そして、抗い続けろ」

 韓遂がそう言うと、韓遂は左腕を馬超の大刀に振り下ろした。韓遂の左肘から先が、地に転がった。

「儂が殺めた、お前の母と弟の代わりとは言わん。孟起よ、お前の気を、儂に見届けさせるのだ」

 意識が薄れゆく馬超を、何か柔らかいものが、包もうとしていた。