徐州に侵攻した青州兵の士気は著しかった。まるで曹操の心と一つになったかのように、徐州領内を駆けた。青州兵は瞬く間に広戚、留の二県を呑み込むと彭城まで迎撃に出た陶謙軍と激突した。
陶謙軍は、まるで触れてはならないものに触れるかのように、青州兵によって虐殺された。その光景はもはや戦とは言えず、陶謙軍の兵士の屍体は泗水に打ち捨てられ、その流れをせき止めた。その強さと残虐性は、かつて曹操が戦った青州黄巾賊そのものだった。別働で傅陽を落として合流してきた曹仁がその光景を見て、息をのんだ。
陶謙は郯県まで敗走すると、城に籠った。しかし曹操が城を包囲したところで、曹操軍の兵糧が底を突いた。肚に沈んだ塊のままに出陣し、攻城兵器もろくに準備せずに攻め上ったのだ。曹操は、その拙攻を悔いた。
陶謙。父の仇が討てぬ肚の塊が、青州兵を動かした。
青州兵が城外の民を、無差別に虐殺し始めたのだ。民だけではない。豚や鶏といった家畜まで、ありとあらゆる命を奪っていった。命を下したわけではない。陶謙の仇が討てない曹操を見て、青州兵が動き出したのだ。
曹操の心は、歓喜に包まれた。ここまで心を一つにする兵がいるというのか。この曹孟徳の心を感じ、曹孟徳が願うことを、ためらいなく実行する兵が。所詮、兵は銭で雇われる存在。いかに志を説いても、あくまで利害で結ばれたに過ぎない存在、それが将と兵だった。董卓を追って李儒、徐栄に敗れたあの時もそうだった。血気盛んに追う曹操に追従した兵、曹操はその兵達の功名心を利用したに過ぎなかった。民を殺す青州兵ひとりひとりが、曹孟徳に見えた。
曹操は真っすぐ兗州には戻らず、徐州領内を南下し取慮、睢陵、夏丘と民を殺しながら進んだ。一度火のついた青州兵、兵糧は必要なかった。飢えを感じることなく、どこまでも殺しながら進む。曹操があえて遠回りしたのは、この青州兵の力を見極めるため、そして青州兵の口々に陶謙の首を差し出すまでこの虐殺は続く、と唱えさせた。それはこの曹孟徳の怒りが、陶謙一人によるものだと、徐州の民に分からせるためだ。
しかし民の虐殺など、およそ施政者のやることではなかった。まして天下に覇を唱えようとする群雄が為せば、その恨みは後世まで語られるだろう。そんなことは曹操には百も承知だった。
かつて、項羽が秦の降兵二十万を生き埋めにした。結果、人心は項羽から離れ、降伏した者に寛容だった劉邦が、最終的に項羽を破り天下を統一した。あの董卓も、人民に対して行った残虐な振る舞いが、破滅の原因となった。
曹操はそれが分かっていて、あえて虐殺を止めることはしなかった。決して陶謙に対する怒りに我を失ったわけではない。常識を持った幕僚や後世の歴史家は、この曹操の所業を当然非難するだろう。
それでも曹操がこの道を選んだのは、肥沃な徐州の地を得るための賭けでもあったからだ。徐州の陶謙は強大だった。青州黄巾党との戦で疲弊し、かつ百万もの流民を受け入れた直後で、兗州内でも不満と不安の声が噴出していた。父の死で、徐州侵攻の大義を得た。青州兵の力があれば一気に徐州を制圧できるかもしれなかったのだ。
この時陶謙は討てなかったが、青州兵の無限の可能性を垣間見ることができただけ、この遠征に意味はあったのだ。陶謙は郯県で恐怖に震えて民が殺されても決して出てこようとはしなかった。徐州の民の心も、陶謙から離れた事だろう。