「お前たち、このまま帰れる訳はなかろう」
「右賢王様、お戯れを。我らを、白項氐国の王族に危害を与えるおつもりか」
楊霖の声には、いささかの怯懦も見られない。その立ち振る舞いは見事だった。
「王族だと?笑わせるな。漢に怯えて山に籠るだけの臆病な民族が」
楊霖の心に、火が灯るのがはっきりと伝わってきた。
「漢に怯えているのはお前たちであろう」
馬超が音声を上げた。突然の咆哮に、呼廚泉をはじめその場にいた衛兵が皆、怯んだ。
「無礼者、貴様の発言は許しておらん」
呼廚泉も声を荒げたが、その声は腰が砕けたもので、馬超の心には何も響いては来なかった。馬超が次の声を上げようとしたが、楊霖が手で馬超を遮ってきた。
「馬超殿、よいのです。行きましょう」
楊霖と馬超は衛兵にかまわず、謁見の間を出ようとした。衛兵はたじろぎながらも呼廚泉の命令がないのか、突きかかってこようとはしなかった。
「待て、馬超だと?」
呼廚泉が声を上げた。馬超と楊霖は足を止め、顔だけ呼廚泉に向けた。
「だからどうした。用がないなら俺たちは帰る」
「なぜ馬騰の息子が楊霖と一緒にいる?氐族と馬騰は同盟を結んだという事か?」
「お前には関係ないことだ」
馬超の言葉で、呼廚泉は完全に頭に血が昇ったようだ。眉間にしわを寄せ目が血走っている。
「二人を捕らえろ。抵抗するようなら殺しても構わん」
呼廚泉が声を絞り出した。衛兵の戟が、一斉に二人に突き出された。周りは既に囲まれている。
衛兵の一人が、楊霖を捕らえようと手を伸ばしてきた。馬超はその腕を掴むと、気を爆発させ引っ張った。兵の身体が地を這うように振り回され、囲んでいた衛兵が足を次々と払われ床に転がった。
馬超は床に落ちた戟を一振り掴むと、頭上で振り回した。そして転がった兵に向けて振り下ろした。
「殺してはなりません」
楊霖が叫んだ。馬超は舌打ちをして戟を床に打ち付けた。木の床は破壊され、戟は折れた。
馬超は楊霖を抱きかかえると、扉に向かって跳躍し、転がった兵を飛び越えた。馬超の着地に合わせて無数の戟が突き出されたが、馬超は身を翻し、躱した。戟。楊霖を襲う。それは楊霖を庇った馬超の肩を掠めた。同時に放った肘が兵の腹に突き刺さり、兵は頽れた。
次の瞬間、馬超は突き飛ばされた。馬超を突き飛ばした楊霖が軽やかに舞うと、兵の戟を掻い潜り兵が腰に佩いていた剣を抜き放ち、兵の手首や足首を正確に払っていった。斬られた兵は蹲り、戟を地に落とした。
「行きましょう、馬超殿」
馬超は頷くと、二人は政庁を飛び出し街道を走った。鉦が激しく打ち鳴らされ、そのけたたましい音が街に響いた。驚いた民が、駆ける二人を見て逃げ惑った。兵が後を追ってくる。その数百ほどか。
楊霖の足ではやがて追いつかれる。いずれ騎馬も現れるだろう。反転して戦うか、馬超は一瞬迷った。
その時十騎ほどが街道に躍り出てきた。どれもみな見事な馬だった。馬超の視線が真っ先に馬に行くほど、見事な馬たちだった。
「馬超殿、この馬に乗れ」
声の方を振り返ると、楊騰だった。騎馬は楊騰が連れていた男たちだった。皆、馬超を見つめている。いや、知らない隻腕の男が一人いた。馬超に射るような視線を向けている。
「この男は成玄固という。儂が信頼している馬匹じゃ。馬超殿に相応しい馬を連れてきた」
引き出された馬を一目見て、馬超は魂を奪われた。葦毛の汗血馬。その白い毛並みが、駆けてきたせいか薄く桃色を帯びている。汗血馬は、駆けると赤い血の色の汗をかくという。
馬超はその馬を見つめた。馬も馬超を見つめ返してくる。何かを語り合った、そんな気がした。
「時がない、急げ、馬超殿」
楊騰が、迫る追手の兵を見ながら言った。馬超は馬に飛び乗った。跨った瞬間、馬と一つになった気がした。この馬なら、どこまでも駆けていける。馬超は馬を一度棹立ちさせると、楊霖に手を差し伸べた。
「行こう、楊霖殿」
しかし楊霖は馬超の手を取らず、振り返って背を向けた。
「馬超殿は行ってください。私はここに残ります」
「何を言う、楊霖」
楊騰が声を上げた。
「よいのです、おじいちゃん。私はやはり逃げるべきではないと思いました」
「馬鹿娘が、捕えられて殺されるだけじゃぞ」
「婚約を一方的に破棄したのは私です。呼廚泉殿に、非はありません」
「なんということを」
楊騰は、言葉を詰まらせた。
馬超は、ゆっくりと馬を降りた。呼廚泉の兵達が追いついてきて、馬超たちを囲んで戟を突きだした。馬超は楊霖を庇うように、楊霖の前に出た。
「馬超殿、もうよいのです。行ってください」
「気にするな。死をも覚悟した者を置いて、俺は行くことはしない。それだけだ」
馬超は兵を見据えながら言った。背後で、楊霖が微笑んだような気がした。
「兵士たち、我らは抵抗せぬ。捕らえるなり突き殺すなり、好きにするがよい。ただし、他の者は無関係だ。手出しすることは許さぬ」
楊霖が声を張った。女ながらに肝が据わっている、馬超はそう思った。
兵士の手が二人に向かって、伸びてきた。