事件が起きたのは、兗州に帰還してしばらくしての事だった。父、(そう)(すう)が徐州領内で(とう)(けん)の部下に殺されたのだ。

 徐州牧の陶謙は、賊上がりの闕宣(けっせん)と結託して、兗州との州境である泰山郡を侵していた。青州黄巾党の戦いで対応できずにいた曹操は、二人の存在を疎ましく思っていた。

 闕宣は、当時賊徒数千を集め下邳(かひ)を占拠し、あろうことか帝を僭称していた。陶謙は闕宣を討伐するどころか闕宣と手を組み、共に兗州で略奪を働いていたのだ。その後、闕宣と仲違いした陶謙は闕宣を殺し、その賊徒数千を自軍に組み入れた。

 世は乱世、力こそが全てである。であるから闕宣の僭称も陶謙の闕宣殺害も、今の世ならいくらでも正当化される。曹操も、闕宣や陶謙を非難するものではない。

 しかし、やり方が気に食わない。男らしくないのである。小さな欲求を満たすために奔走し、人を騙し、殺す。そんな輩を、曹操は今まで多く見てきた。帝の僭称など、自らの承認欲求を満たすだけのものである。無知な民ならいくらかは騙せても、多くの群雄を敵に回す愚かな行為である。盟友を謀殺し、たとえ数千の兵を手に入れても、その引き換えに信義を失えば、後に大きな災いとなるであろう。

 かつて反董卓連合が結成されたときも、自分や孫堅など一部の将を除いて、誰も兵を動かそうとはしなかった。その諸侯の誰もが自軍の兵は温存し、反董卓が成ったときの利は最大限に得ようとする意図が透けて見えた。董卓が洛陽を焼き払い、長安に遷都しようとした時、曹操は今こそ全軍を挙げ、董卓を追撃すべきだと主張したが、誰もその声に応えようとはしなかった。曹操は憤慨し、戦うべき時に戦わざるは男に非ず、そんな諸侯らとは決別する、と宣し五千の麾下と共に董卓を追撃した。

 蛮勇と嗤われた。結果、李儒の計に嵌り、徐栄によって曹操軍は壊滅したのだが、曹操はそれを敗北とは思っていなかった。兵は失ったが、曹操は民のために果敢に戦う群雄である、という風評を得た。だから鮑信は曹操を頼り、兗州牧に推挙したのだ。

 しかし、戦うのは何も出世の為だけではない。己の矜持の為でもある。

 曹操には忌み嫌うものがあった。ひとつは己の才を隠し、保身のために隠遁せし者。そして、戦う意志を持たぬ者である。武官だろうが文官だろうが、己の才を絞りつくし世のために働く。それがこの世に生まれた者の使命であり、責務である。今、曹操が従える幕僚たちも、その才の輝きを曹操に見せつけてきた者ばかりだ。そのような人間に、曹操は最大限の敬意を表し、遇してきた。

 その幕僚たちの血のにじむ働きにより、兗州の統治も安定したものになった。

それを機に曹操は、父曹嵩を兗州の地に迎えることにした。黄巾の乱以降、曹操は賊から父を守るため、徐州北部の琅琊郡へ疎開させていた。父は曹操が挙兵して以来、莫大な銭を曹操に送ってくれていた。その総額は、曹家が代々蓄えていた財産のほとんどで、最後に送られてきた銭は、ほんの僅かなものになっていた。だから曹操はその恩返しとして、父に兗州で安心して余生を送ってもらおうと考えていた。父も兗州での生活が楽しみだと書簡で送ってくれていた。

 その父が、死んだ。その報を受け曹操の頭は真っ白になった。何が起きたのか分からず、虚ろな日々が続いた。報は次々と飛び込んできた。父は、徐州の陶謙の部下によって殺された。運んでいた家財の一切が奪われた。父の遺骸は、山道に打ち捨てられていた。それらの報せは、そのまま曹操の肚の中に圧し込まれた。曹操は居室に閉じこもり、寝食を断ち、光さえ遮り、父の冥福を案じた。

 それから数日たち、陶謙の使者が曹操のもとを訪れた。謁見の間に現れた曹操を見て、幕僚たちが息をのんだ。

 使者は平伏したまま曹操の方は見ずに、全ては賊の仕業であり陶謙は一切関与していない、と言った。使者の横には、父の霊前に供えるための金品が山と積まれていた。

 曹操は使者に歩み寄ると、平伏したままの使者の首に、剣を突き立てた。

 徐州に侵攻。兵は青州兵五万と麾下二千の騎馬隊のみ。曹操がそう短く命を下すと、幕僚たちはこぞって跪き、曹操を諫めた。命に逆らうものは死罪。出陣は明日。曹操はそれだけを宣言すると、館に戻った。

 父の冥福。その代償は陶謙の死をもってでしか贖えない。怒り、哀しみが綯い交ぜになり、それは一つの塊となって曹操の肚の底に沈んだ。死すら生ぬるい。あらゆる滅亡を望んだ。