頭曼城の政庁を訪れると、楊霖と馬超は屯所横の営舎に通された。楊霖が千万の親書を携えていたので、疑われることはなかったようだ。楊騰は知り合いの馬匹を訪ねるという事で、別行動になった。
婚約の解消という、ともすれば民族同士の対立にもなりかねない会見を前にしても、楊霖は落ち着いていた。
そもそも破談にすることすら楊霖の独断で、蒲世も楊騰も、楊霖の決断を否定しようとはしなかった。白項氐国では、それほどこの婚姻が重要ではないのかもしれないが、呼廚泉がこのことを知った時、どのような行動に出るかは分からない。
呼廚泉は伝え聞くところでは、それほど度量の広い男とは思えなかった。
匈奴は現在、北と南に分かれており、於夫羅と呼廚泉が治めているのは南匈奴だ。南匈奴は、形の上では漢に服属している。
呼廚泉は右賢王という、単于(匈奴の王)に次ぐ地位であり、単于である兄の於夫羅とともに南匈奴をまとめようとしている。が、あまりうまくはいっていない。彼らの父である羌渠が叛乱で殺されると於夫羅が単于となったが、反乱の鎮圧に手を焼いていた。於夫羅は漢王朝に救援を求めているが、漢もまた中央の混乱により、於夫羅の要請には応えてはいなかった。
このように漢の中央が乱れると周辺地域、特に漢から見た異民族である烏桓、匈奴、羌族、氐族は漢に対して反乱を起こすようになる。
漢が一枚岩でまとまっている時は従属的な態度を取るが、ひとたび漢が乱れると、異民族達は己の自治権や漢の富を奪うために、戦う道を選ぶのである。
父や韓遂もまた、漢族でありながら地方軍閥として独立した勢力として力を蓄え、漢に対して乱を起こしてきた。
しかし馬超には、乱というものが一体何なのか、よく分からなかった。戦は命を賭すものである。それに値する何かが、いまいち乱というものには見えてこない。
無論、自領を侵略するものがあれば領土を守るために戦う。
しかし乱とは、自ら戦いに赴く行為である。自治であれ富であれ、それを得るために命を賭す、という想いが、馬超には頭では理解することはできるが、心で理解することはできなかった。
ただ馬家の将来のために、己の武を極限まで高めておかねばならない。それだけが、はっきりと理解できる唯一のことだった。
「右賢王様が謁見を許された。立て」
衛兵が声を上げた。馬超が腰を上げる前に楊霖がすっと立ち上がり、営舎を出ていく。馬超は衛兵に促されると、大刀を衛兵に預け楊霖の後を追った。
政庁府は簡素な建物ではあったが、統率の取れた衛兵が並び、厳格な雰囲気があった。衛兵の間を、楊霖が気後れせずに進んでいく。
謁見の間では、呼廚泉と思しき人物が椅子に腰かけていた。背を丸め足を組み、ひじ掛けに肘をつき拳で頬を支えている。その目には、物憂さしか感じられなかった。
楊霖は呼廚泉の前まで進むと、拝礼した。馬超もそれに倣った。
「楊千万の妹、楊霖か。約束の期日を過ぎておるぞ。俺は何かと忙しい」
楊霖は平伏したままだ。呼廚泉は二人に目もくれていない。
「直答を許す。楊霖」
呼廚泉が、やや苛立ちながら言った。
「右賢王様、約束の期日を逸しましたこと、お詫び申し上げます。慣れぬ越沙、困難がいくつもございました」
呼廚泉がふん、息をついた。
「軟弱な氐族どもならいたしかたないか。楊霖、面を上げよ」
楊霖が顔を上げ、呼廚泉を見据えた。その視線を受けた呼廚泉の身体が、射貫かれたように固くなった。
呼廚泉は声を漏らすと立ち上がり、楊霖をみつめたまま近寄ってきた。そして楊霖の身体を下から上へと、嘗め回すように眺めた。その視線を、楊霖は毅然と受け流している。
馬超は、呼廚泉に対する嫌悪感に耐えていた。
「よかろう。俺の寝所で待っていろ。悪い様にはせん」
呼廚泉は背を向けて、退室しようとした。
「右賢王様。それはできません」
「なに?」
呼廚泉は振り返った。目の色が、明らかに変わっている。
「私は、此度の婚姻の解消を伝えに来たのです」
楊霖がそう言うと、場がどよめき始めた。楊霖の声は胆力があり、よく通る。呼廚泉の額に青筋が立つのがはっきりと分かった。
「つまり、俺に恥をかかせに来た、という事でよいのだな」
呼廚泉の口調は丁寧だが、抑えきれない怒りが、身体中から滲み出ていた。
「滅相もございません、右賢王様。ただ、約束を果たせない不義理を、お詫びに参上いたした次第」
楊霖が再び平伏した。呼廚泉は楊霖と馬超を交互に見て、何か声を絞り出そうとしている。
「婚姻の挨拶にしては従者一人、変だと思っていたが、そういうことか」
「右賢王様、それでは我らはこれで」
楊霖はそう踵を返そうとすると、呼廚泉は右手を挙げた。衛兵が戟を突き出しながら、謁見の間の出口を塞いだ。馬超は楊霖に身を寄せて、周りに気を放った。