あきれ顔の夏侯惇が去ると、曹操の背後に音もなく現れたのは、(せき)()だった。石岐は曹操が組織した諜報部隊、五錮(ごこ)の者の頭領だ。石岐は浮屠(ふと)(仏教)の信者でその信仰に己の命の全てを懸けている、という男だ。その諜報能力を曹操のために使う見返りに、曹操支配下の地での浮屠の布教や、寺院の建立を認めていた。石岐は金銭等の報酬は一切求めず、信仰の自由を求めた。しかし、その思考は極めて現実的で、現実の辛さを心の信仰に逃げこむ、ということはない。

「お前は、本当に俺の求めている時に現れる。俺の心を見透かしているかのようにな」

「私にそのような力はございません。人の心にわずかでも浮屠の救いを残すこと。それが私にできる全てです」

「そのお前が、諜報、調略、時には暗殺までこなすというのが、面白いところだ」

「曹操様に天下を取っていただく。それが、民の心に浮屠の救いを与える道だと、思っています」

 石岐の言には、忖度や(へつら)いは一切ない。そこが曹操は気に入っていた。

「石岐、お前にとって眼下の青州兵はどう映る。彼らを衝き動かすのは信仰か、それとも情動か」

「青州兵には信仰は感じられません。中黄太乙の信仰を口にはしますが、我らのそれとは、似ても似つかぬもの。信仰を学ぶ、という姿勢もありません」

「ふむ、それでは宗教とは言えぬのではないか。感情だけで動いているとも思えぬが」

「曹操様、信仰とは言葉で表せるようでいて、できぬもの。空の果てを論ずるに等しいものです。彼らは彼らの理で動きます。それもまた、信仰のひとつの形なのでしょう」

「石岐にして、彼らを論ずることはできぬか。俺は、また一つ興味深いものに触れることができた。そうやって人というものを突き詰めていけば、世の中がもっと面白くなるとは思わんか?石岐」

「群雄割拠の世、諸侯が血眼になって領土や兵を求める中、曹操様の心だけが、どこか浮世離れしている。私が曹操様に惹かるのも、そこなのでしょう」

「もう一つ、呂布奉先、という男だ」

 石岐が射るような視線を、曹操に向けた。

「人語を話す、けもの」

 曹操は、声を上げて笑った。

「同感だ。しかし、呂布の武は人外といえる。その強さを得るために、人以外の何かに魂を売る。それもまた人の極み、ひとつの輝きだと、俺は思う」

 石岐の目が、微かに揺れた。

「曹操様の浮世、またひとつ」

「俺が(うつつ)を抜かし、滅ぼされないよう見張っておいてくれよ、石岐」

「曹操様は、私などよりはるかに現実主義者です。曹操様の滅びより私の心が毀れて信仰に逃げ込む方が先でしょう」

 石岐との会話は、曹操の心にわだかまったものを、晴れやかにする何かがあった。それは、夏侯惇や荀彧のような有能な幕僚にはないものだった。

「石岐、ではその現に戻るとするか」

 石岐が現れたという事は、曹操が判断すべき戦略に影響がある事実を、石岐が持ってきたという事だ。

「袁紹と公孫瓚は河北で激突、そして中央では李傕郭汜に馬騰、韓遂が反乱を起こし、内乱状態に。徐州は陶謙の病が篤く軍を動かす余裕がない状態です」

「つまり俺は呂布と、腰を据えて戦う時を得たというわけか」

「加えて去年の旱魃と、部下が各地で見てきた黄巾の乱による農地の荒廃」

「つまり、また(いなご)か」

 蝗は食む草がなくなると、群れて大移動を始める習性がある。近年も各地でたびたび蝗害が起きていた。蝗の大群が去った後には、草木は一本も残らない。

「断定はできませんが、留意すべきかと」

 石岐の気が音もなく消えると、残ったのは青州兵の騒擾だけだった。

 人が人たる。それは、その騒擾の内にある、曹操はそう思った。