人馬が吠えた。

 二隊の騎馬隊が、闘気と共に丘を駆け下っていく。

 右翼が馬岱、左翼が龐徳である。二隊は槍の如く韓遂の魚鱗を貫き、後方へ突き抜けた。韓遂の陣は崩れ、浮足立っている。

「見てくだされ、父上。あと一押しで韓遂の軍は潰走します。私が韓遂の首級を上げ、父上が追撃の命を下せば、涼州は我らのものとなりましょう」

 馬騰は憮然とした表情で、戦場を見下ろしている。 

「孟起よ。油断は禁物だ。韓遂はそんな容易い男ではない。此度は韓遂を領外まで押し返せばよいのだ」

「父上、母と弟の仇、この孟起に取らせてください。この槍も、今まさに龍の如く猛っております」 

 馬超が、槍を頭上で振り回した。槍が唸りを上げ、空気を切り裂いた。

「この槍で、父上を天下へと導いてご覧に入れます」

「なに、天下だと?」

 馬超が槍を脇で手挟むと、切り裂かれた空気が鎮まった。

「孟起、焦るでない。韓遂が最近配下にした閻行は、只者ではないという噂だ。成公英も知恵者と聞く」

「父上、私は焦ってはおりません。胸が高鳴っておるのです」

 馬岱と龐徳が、縦横に韓遂の陣を絞り上げている。韓遂の歩兵は魚鱗を崩されながらも何とか踏みとどまろうとするが、二人の圧力に抗しきれず、潰走を始めている。

 馬超は馬を棹立ちにさせ、雄叫びを上げた。掲げた槍に、闘気が宿る。

「馬孟起の武、ここにあり」

 馬超は馬腹を蹴り、槍を低く構え丘を駆け下りた。

逆落とし。その勢いのまま韓遂の部隊に突っ込んだ。敵兵が馬超に気付き、遮ってくる。馬超は馬を跳躍させ、敵兵の中に躍り出た。

 馬超の槍の一振りで五、六人の兵が血を吹き出しながら倒れた。突き出される戟に力はなく、馬超はその悉くを槍で弾き、次々と兵の急所を正確に貫いていった。

「この馬孟起に敵う奴はいるか」

 馬超の大音声に、韓遂の兵は及び腰になった。馬超は原野を駆けるがごとく、韓遂の陣を駆け抜けた。

 混乱する敵陣の中で、馬超は固い岩のような一団に出くわした。

‘韓’の旗。間違いない、韓遂だ。馬超は迷うことなく、一団に向かって飛び込んだ。

 無数の斬撃が馬超を襲う。これまでの敵兵とはまるで圧力が違う。馬超の背筋に、冷たい汗が流れた。捌ききれないいくつもの剣が、馬超の身体を掠めた。

「これしきの剣で、この馬超を討つことはできん」

 馬超は、槍を身体に纏わりつかせるように振り続けた。勢いを増した馬超の槍が、襲い掛かる剣を全て弾き飛ばした。

「馬超よ、死に急ぐでない」

 低く、そして聞き覚えのある声。馬超の全身を憤怒が駆け巡った。声の主は、ゆっくりと馬超の前に馬を進めた。

「韓遂、貴様を討ち、母と弟の無念を晴らす」

 馬超は、槍を韓遂に向かって突き付けた。韓遂の兵が馬超を囲み、戟を向ける。

 韓遂と目が合った。馬超を見つめるその眼に、微かな優しさのようなものを感じた。その眼差しの意味がわからず、馬超は狼狽した。

「なぜ母と弟を殺した。抵抗なき弱きものを」

 韓遂の眼差しは、僅かにも変わらなかった。

「馬超よ、儂は初めて人を殺めてから五十年、乱に生きてきた。敵を殺すのに逡巡はない。あってはならんのだ」

「ならば俺がお前を殺す。父上に刃を向けたことを後悔するがいい」

 韓遂がにやりと笑った。

「それでいい、馬超」

 そう言うと、韓遂の馬が下がった。代りに一騎、馬超の前に現れた。一目見て、猛者であることが分かった。

「お前が馬超か。策に嵌り、惨めに死んでいくがいい」

「なんだと?」

「お前はおびき出されたのだよ。成公英がいれば、馬騰など赤子同然だ」

 馬超は馬腹を蹴った。父を愚弄していい人間など、この世に一人もいない。馬超は男が戟を構える前に槍の一撃を放った。それを男が軽くいなすと、男は気を爆発させた。その気は、馬超の肚に重く響いた。手強い。

「この閻行様に敵うとでも思うか、馬超」

「貴様の名など、聞いておらん」

 馬超は槍を繰り出した。一息で五回。誰にも真似できない技だ。男がやや下がりながら戟で受けた。

「なかなかやるな、馬超」

 その余裕が気に入らない。馬超はそう思った。武において自分に勝るものなど、いるはずはないのだ。生半可な鍛錬は積んでいない。馬超は、槍を縦横に振るった。

 槍が、まるで龍のように撓りながら男に襲い掛かる。槍が男の具足の方々を打ち、抉った。

「これで終わりだ」

 馬超が渾身の突きを放った。その時、男の手が僅かに動いた。馬超の槍が、戟の援に絡めとられて、宙を舞った。馬超は一瞬、何が起きたのか分からなかった。

 間髪入れずに、男の戟が馬超を襲った。馬超はかろうじて男の戟を躱し、戟の柄を脇で挟んだ。男が掴まれた戟を馬超から引き剥がそうとするが、馬超も負けじと力を込めた。力比べのような状態になり、韓遂の兵が歓声を上げた。馬超を殺せ、と叫んでいる。

 見世物ではない。

 馬超は怒りを爆発させて力を込めた。戟の柄が軋み、音を立てた。馬超は空いた手で腰の剣を抜くと、柄に向かって叩きつけた。二度、三度と叩きつける。四度目を振るおうとした瞬間、柄が折れ、二人は平衡を失い落馬しそうになった。

 男が体勢を崩しながらも、折れた戟の柄を振り回し攻撃してきた。馬超は咄嗟に腕で柄を防ぐが、落馬し地面を転がった。

 馬超は跳ね起き、剣を拾い上げ構えた。男も落馬したようで、地面に膝をついている。

 好機。しかし、足が出ない。何故か力がうまく出ない。何かが違った。命が、漏れ出ている。そんな、感覚。自分の周りの地面が、赤く染まっている。気にするな、敵は目の前だ。踏み出せ、馬孟起、前に。

 敵。その姿が、徐々に暗くなっていった。