太鼓を打ち鳴らした。総攻撃の合図である。
孟起が韓遂の一団に飛び込んだ瞬間、敵の兵の動きが変わった。今まで算を乱していたような兵が、急にまとまり硬い魚鱗を組んだ。初めから馬超を誘い出すために、あえて潰走する振りをしていたのだ。
また俺から家族を奪うのか、韓遂。
馬騰は雄叫びを上げながら、丘を駆け下りた。
初めは些細な諍いだった。馬騰と取引をしていた商人数人が、突然契約を破棄してきた。不審に思った馬騰が調べていくと、それらの商人は皆、韓遂に流れていた。韓遂に詰問の書状を送ったところ、韓遂はあっさりと商人たちを篭絡したことを認めた。
商人の事は別によかった。利のある方に流れるのが、商人というものだからだ。ただ、やり方が男らしくない。だから少し、灸を据えるつもりだった。馬騰が韓遂の館を兵で囲み、謝罪を求める音声を上げた所に、急使が飛び込んできた。馬騰の館が、韓遂の兵に襲われて火を放たれていると。馬騰が急ぎ帰還すると、館は全焼し、妻子の死体が横たわっていた。二人は、明らかに刀によって殺害されていた。
何かが、韓遂を狂わせたとしが思えなかった。義兄弟の契りを結んだのも、その剛直な性格が好ましかったからだ。戦においても勇敢で怯懦がなく、今日のように策をめぐらすような戦はしない。商人を篭絡するなど、馬騰の知る韓遂は、決してやらない男だった。
ただ今考えても仕方がない。まずは孟起を救い出すことだ。韓遂は苛烈な戦をする。一刻の猶予もないだろう。
「奮迅だ、いけ」
馬騰は叫んだ。兵が韓遂の魚鱗に突っ込んでいく。韓遂の歩兵が、触れてはならないものに触れるかのように、次々に倒れていく。
奮迅とは馬騰が考案した戦法で、歩兵が一斉に、槍でひたすら突きながら敵陣を駆け抜ける戦法だ。その突進力を、調練でひたすらに磨き続けた。
馬騰は近年、特に歩兵の調練に力を入れていた。馬騰の騎馬隊は精強で名を馳せていた。無論、それは韓遂も承知の上だ。だから馬騰はあえて歩兵の調練に力を入れ、いざというときに備えていたのだ。それがまさか、こんな形で使うことになるとは。
韓遂の陣に、動揺が走った。今度は、演技ではない。馬騰は突き進んだ。
「孟起」
うつ伏せで倒れていた。周りは既に血の海だった。馬騰は馬超をゆっくり仰向けにした。意識はないが、まだかすかに息はある。首筋に受けた傷から、今も血が溢れていた。
馬騰は慌てずに、軍袍の襟から、糸と針を取り出した。馬騰軍の兵は皆、襟に針と糸を忍ばせている。しかし馬騰は、馬超の首筋に当てた針を持つ手を、止めた。
駄目だ。死ぬ。そう直感した馬騰は針を捨て、軍袍を脱ぎ、丸めて馬超の傷に押し当てた。軍袍は、見る間に赤く染まっていった。
「誰か、毛定殿を連れてこい」
馬騰は叫んだ。それを聞いた一騎が駆け去っていく。
毛定は、馬騰が長安で見つけた医師だった。以前、益州の劉焉と共に李傕襲撃計画を立てたことがあった。計画自体は失敗し、馬騰は敗走したのだが、傷を受け離脱した兵が、毛定に治療を受けて戻ってきた。
本来なら腕を切り落とさねばならない程の傷を負った者も、ほとんど元通りになったという。また腹に矢が刺さり腸が傷ついた者も、腹を切り腸を縫い合わせて完治させた。
それを聞いた馬騰は、自ら長安まで赴き毛定を涼州へ招聘した。しばらく療養所を見学したが、怪我人を嬉々として治療する毛定の姿に、何処か狂気じみたものまで感じたほどだ。ただ、病に対する見立ては苦手のようで、病人に対しては、首を傾げるばかりであった。今度の出兵でも、毛定を軍医として後方に控えさせていた。
孟起の首から流れる血が、少なくなってきた。だが依然意識はなく、徐々に孟起から生の色が失われていく。それを馬騰は見ているしかなかった。これほどの傷を負った兵は、まず、死ぬ。
胸の底から突き上げてくる感情を、馬騰は懸命に抑えつけた。
孟起には、弟の休や鉄とは違う、何か光のようなものを感じる。人を惹きつける何かがある。武や人柄というものではなく、馬孟起という人間の奥に眠る何かに、父親の馬騰自身すら惹きこまれるのを感じるのだ。その何かがもたらすものを、馬騰は見て見たかった。見られるのか。それともここで潰えるのか。
「孟起」
馬騰は呟いた。馬超の首を押える馬騰の手に、もう一つ手が重なった。
「馬騰殿、ゆっくり手を離されよ。あとは儂がやろう」
「毛定殿、息子の馬超だ」
毛定の顔はいつもの嬉々とした顔ではなく、真剣だった。馬騰は祈る想いで、ゆっくりと手を離した。入れ替わるように毛定の手に力が入った。毛定が捨てられた針と糸に目をやり、そして拾い上げた。
「傷を縫わなかったのは正しい。傷を縫っていれば、いまごろ馬超殿は死んでいた」
「俺は何をやればいい」
「幕を張ってくれ。風を遮る。あと、湯だ」
馬騰が兵に向かって叫んだ。既に韓遂の兵は遠いようだ。周りを馬騰の兵が固めている。
兵が素早く幕を張り、湯が用意された。幕の中が、不思議な静寂に包まれた。毛定を見ると、額に玉の汗を浮かべていた。目には、光が宿っている。首を押えているためか、孟起の血の流出は止まっている。
「毛定殿」
「首の血管が破れている。たとえ傷を縫っても身体に血が溜まり死んでいただろう。破れた首の血管を、縫い合わせる」
「頼めるか?」
「そのために、儂がいる」
毛定はためらうことなく、孟起の首を押えていた軍袍を捨てた。そして馬騰の手を取り、首の付け根を押えさせた。
毛定の指先が、孟起の傷口に吸い込まれていく。何かを感じ取るように、毛定の眼が、閉じられた。
馬騰は、毛定を信じた。
毛定の手が、孟起の首の中で蠢く。まるで、孟起の命の在処を探るかのように。
馬超の血が止まっているせいか、馬騰の心は鎮まっていた。必ず助かる。それだけを祈り続けた。
毛定の指が止まった。その瞬間毛定の全身が、何かに取り憑かれた、馬騰にはそう見えた。毛定が、毛定ではない者かのように、動き始めた。その動きに、馬騰は魅入られた。毛定の手元で何が行われているのか、馬騰には何も分からなかった。孟起と共に、毛定に命を委ねている。それがどこか、心地よかった。
何かが、ゆっくりと鎮まっていった。馬騰の手が、自然に孟起の首から、離れた。心地よい夢が、覚めていくような、そんな感覚。孟起の首の傷が、きれいに塞がれていた。
「毛定殿」
馬騰が、静かに語りかけた。毛定の表情は、真剣なままだ。
「孟起は、助かるのだな」
毛定はしばらく深思し、首を、横に振った。
馬騰の心が、音を立てて砕けた。
馬騰は毛定の両肩を掴んだ。声は出ず、全ての想いが、掴んだ両手に注ぎ込まれた。毛定の肩の骨が軋む感触が伝わってくる。毛定はただ、馬騰の眼を見つめた。
「血を、失いすぎた」
「血を」
「血、だ」
「それだけ、なのだな」
「なに?」
「それだけなのかと、訊いている」
毛定は頷いた。
馬騰は立ち上がり、剣を抜いた。毛定が怪訝な顔を、馬騰に向けた。
馬騰が自らの腕を、一閃した。馬騰の血が滴り、地面の孟起の血と混ざった。そしてその腕を、毛定に突き出した。
「俺の血を、使え」
毛定は眉一つ動かさず、馬騰の眼を見つめ続けた。
「他人の血を入れて、助かった例はない」
「他人ではない。孟起と俺は、親子だ」
毛定が、力なく微笑んだ。そして、馬騰の血を器に溜めた。
「その創、儂は縫わんぞ」
馬騰は心の底から、笑い声をあげた。