馬超は老人に言われた通り、北東に砂漠を歩いた。馬は武威の街で手放し、自らの脚で砂漠を歩いた。風と砂を避けるため、白装束で全身を包んだ。大刀の柄が肩からはみ出している。とても漢族には見えない出立ちだが、構わなかった。広い砂漠で、人と出くわすこともないだろう。
武帝の時代、張騫という人物が、使節団を引き連れ遥か西域の国々を目指し、砂漠を西進したという。その途次、匈奴に捕らえられ、その地に十年も勾留させられるも自らの使命を忘れず、隙を見て脱出、苛酷な砂漠の道を踏破して大宛、月氏といった国々と交流し漢に戻ってきた。
十三年という長き西域行脚。出発時、百人いたという使節団のうち、漢に戻ってきたのは、張騫と従者一人だけだったという。張騫の切り拓いた路は、より安全なものになり、今も西域との交易に使われている。
張騫が経験した砂漠に比べれば、児戯にも等しいものではあるが、張騫のその意思の強さがどこから来るものなのか。その端緒でも、砂漠に身を置くことで感じたかった。
砂漠といっても、砂一色、というわけではない。風と砂が織りなす地形は複雑で変化に富む。よく見ると、蜥蜴や蠍が砂の上を蠢く姿もある。灌木が茂っていることもある。一見、不毛な死の大地に見えて、砂漠には多くの生の色を感じる。過酷な環境でも生きようとする、生への本能。砂漠という環境で生を受けたことへの抵抗なのか。
馬超は砂の上で、大刀を構えた。硬い大地と違い、砂の上ではまともに大刀を振るうことはできなかった。なんとか振った大刀を御することができずに、砂地を転がった。まるで初めて大刀を振った、あのときのようだった。
馬超は、その滑稽な己の姿を嗤った。人の武とは、所詮その程度のものである。
馬超は無心で大刀を振った。躰が乾いていく。そして心も。大刀が馬超に語りかける。我を御してみろ。ちっぽけな人間として。
大刀を振り、砂を転げるたびに、馬超の心は澄んでいった。
老人に教えられた泉をたどりながら、馬超は砂漠を北東に進んだ。
泉の周りには草も生えており、遊牧民が使うであろう建物や雑貨もあった。それらを借りながら、ひたすら北東に進んだ。
昼間の酷暑は移動を避け、夕方から朝にかけて進んだ。老人に教えられた泉をたどっていけば、水には困ることはなさそうだった。ただ食料の確保は難しく、砂漠では食べるものを見つけることができなかった。
食事は湯餅という、麦の粉を水で練って栗ほどの大きさにしたものを、焚火の火で炙って食べる。普段ならそれを鍋で煮るのだが、水が貴重なので、焚火の火で炙った。一度の食事でその湯餅を二個、一日二回食す。他には日に一度、干し肉を一片かじる。それが口にする食料の全てだった。それは戦時の兵糧と、同じ内容だ。特に足りないとは思わない。少ない食事で戦に出ることは、調練で当たり前のように、身についていることだ。
昼間の移動ができない時間、泉がそばにある場合は、大刀を振った。泉の周りは硬い大地になっているが、あえて少し離れた砂地まで歩いて行って、大刀を振った。
ただ力任せに振っては駄目だ。まずは大刀を置き、体捌きから始めた。足裏に神経を集中し、行きたい場所、やりたい動作を思い描き身体を捌く。複数の敵に囲まれた時、どのように立ち回るか、考えるのではなく感じるのだ。躰と精神が一致した時、初めて柔らかい砂の上で動くことができた。斬りたい、避けたい、そう思うときは、必ず砂に足を取られた。
大刀を持つと、それがさらに精密に要求された。
なので、初めは大刀を構える事から始めた。日の出まで歩き、移動のできない日中のほとんどを、体捌きと大刀を持って構える事だけに費やし、夕方になると湯餅を食べ、少し眠ってから、夜はひたすら歩いた。