どれほど歩いただろうか。楊霖は前を向いたまま、無言で馬超の手を引いている。風もなく、二人の砂を蹴る音だけが、空に消えて行く。
砂漠の夜は寒い。馬超の顔に当たる冷たい空気とは裏腹に、楊霖の手の温もりが伝わってくる。人肌の温もりなど、久しく感じたことはなかった。
「兄を、殺さねば」
楊霖が前を向いたまま微かに、しかしはっきりと声に出した。馬超はその声に答えてよいのか分からず、黙っていた。
「義のない戦は、必ず報いを受ける。そうであろう?馬超殿」
「義など、まやかしにすぎぬ」
馬超は咄嗟に言ってしまっていた。楊霖の足が止まった。楊霖の身体に、怒りが走るのがはっきりと感じられた。
楊霖の手が離されると同時に、回し蹴りが飛んできた。馬超が僅かに身体をずらし蹴りをいなすと、無数の突きが繰り出されてきた。鋭い。しかも的確に急所を突いてくる。しかしそれは悲しいほど、非力であった。
やがて、息を荒げた楊霖が膝をついた。
「音に聞こえた馬超、もっと義気を湛える方だと思っていた」
楊霖が両手で砂を掴み、震えている。馬超には、この楊霖の情動がどこからくるものなのか、何となくわかる気がした。
「楊霖殿、金城の韓遂は我が馬家を裏切った。だがその戦で奪われたのは、俺の母と弟だ。韓遂は未だ金城でのうのうと生きている」
楊霖は立ち上がり、馬超の眼を見据えた。
「それは、馬超殿の戦がまだ終わっていない、という事だ」
「韓遂は討つ。しかしそれは殺された母や弟の為ではない。今は、そう思っている」
「家族を殺されても、それを忘れる、というのか、馬超殿?」
「死んだ者を忘れない。生きる者が死者に対してできる事は、ただそれだけだ」
「ならば何のために戦う」
「それはそなたに問いたい。楊霖殿。兄を殺さねばならぬわけを」
楊霖は、馬超に背を向けて歩き出した。今夜中に次の泉に行かなくてはならないので、馬超も楊霖に並んで歩きだした。
二人はしばらく無言で歩き続けた。
戦に、義などあるのだろうか。
馬超は幼い頃より、父の戦を見てきた。父は元々官軍の募兵に応じて出世したが、いつしか反乱軍側に与するようになった。それは父なりに義があったように思う。父は朝廷の権威を利用していた李傕、郭汜のように民に横暴を働くことは無論ないし、名将馬援の子孫であることに誇りも持っている。今拠点にしている狄道の民にも、父は声望を集めている。中央に刃を向ける事にも、父なりの義があるはずだ。
今まで、父と深く語り合ったことはない。ただ父の背中を見て、武を磨いてきた。戦う意味や義など、あまり深く考えては来なかった。ただ、中央の権力闘争を見ていると、反吐が出る思いがする。己の欲望や権威のために争う事が、どうしても醜いものに見えてしまう。馬超が武を磨くのは、馬家を守るには武が必要だからだ。それ以上の意味は、いくら考えたところで、見えてくることはないだろう。
「民が、苦しむだけなのです。兄のしようとしていることは」
楊霖が、ようやく口を開いた。