「白項氐王、千万。あまり悪い噂は聞かないが」

「兄は父より王の座を継いでから、おかしくなったのです。同じ氐族の国、興国氐王阿貴と何度も密談し、若い男に軍の調練を課しています」

「国が軍の調練をするのは、当たり前のことだと思うが」

「違うのです、馬超殿。雲梯を使って城壁を登ったり、井(せい)蘭車(らんしゃ)を素早く組み立てたりする調練なのです」

 雲梯とは城壁を登るための長い梯子で、井蘭車とは高い櫓に車がついており、城壁の上にいる兵を矢で射るためのもの。どちらも攻城兵器である。つまり、千万と阿貴は、国を挙げてどこかに侵略しようとしている、ということだ。

「我が白項氐国は、四方を山に囲まれた隔絶の地。防衛を考えるなら雲梯や井蘭車も必要ありません」

 楊霖は女ながらに、国というものに対して造詣(ぞうけい)が深いのかもしれない。それは馬超にとって驚きにも似た出会いと言ってよかった。女とは、男に尽くし支え、その行く道に寄り添うものだと思っていた。

「千万と阿貴は、どこを攻めるつもりなのだろうか」

「おそらく、長安」

「なぜそう思う?」

「兄は昔から、氐族の解放を夢見ていました。中央の支配を受けず、氐族が自らの自治を勝ち取るのだと」

 馬超もその想いには共感できる。武帝の時代、氐族は武帝に武都郡の制定のために肥沃な住処を移住させられ、山野に追いやられた過去がある。しかし強大な力を持つ漢に抗うことができず、漢に対し従順な氐族も少なからず存在し、氐族や羌族は、時の首長によりその態度を変えてきた。千万の代は、漢に対して強硬な姿勢を見せよう、というのだろう。

「現首長の千万の考えが、漢に対し反旗を翻すという考えなら、それに従うのが一族の義ではないのか?楊霖殿」

「白項氐国の民は、戦を望んではいません。国の義とは、民に対して向けなければ、それは首長の恣意、つまり国を私物化することと同じなのです」

 千万と阿貴は、おそらく今の中央の乱れをよく見ているのだろう。董卓が劉弁を保護し権力を得たように、長安を攻め李傕、郭汜を排除し霊帝を押えれば、自分らも権力を掌握できると考えているのかもしれない。

「楊霖殿の言う義とは、国の民を基にしたものということか。それはそれで理解できる。父上が聞いたら、きっと喜ぶであろうな」

 馬超がそう言うと、重たかった楊霖の気が、ふっと軽くなったような気がした。

「それで楊霖殿は、どこに行くつもりなのかな」

 楊霖がはっとして、馬超の方へ振り返った。その顔が、きょとんとしている。

「俺の方を向いてもらっても困る。俺を攫ったのは、楊霖殿なのだ」

 馬超は皮肉を言ったつもりだったが、楊霖は考える素振りを見せた。

「やはり頭曼城へ。呼廚泉に会いに行きます」

「なぜ?」

「縁談は無くなりました。蒲世は白項氐国に向かいましたし、この事を呼廚泉に伝えるのは私しかいないようです」

「律儀だな。呼廚泉の怒りを買い、捕えられる危険もある」

「その時はその時です。なにがあっても馬超殿が何とかしてくれると、私は信じています」

 民族間の関係は、慎重を期する必要がある。些細な諍いが民族同士の争いに発展することもあるからだ。千万と呼廚泉が、どのような経緯で楊霖の縁談を進めたかはわからないが、呼廚泉の態度次第では、匈奴と氐族の戦にもなりかねない。自分が馬超であることが分かれば、状況はさらに複雑になる。ここは蒲世の出方を待つべきか。

 しかし馬超が感じた心の引っ掛かりは、楊霖の信じる、という言葉だった。今まで誰かに信じられたことなどあるのだろうか。馬岱は自分を兄のように慕ってくるし、龐徳とも武を通じて理解しあっている。それは信頼、と呼んでもいいものなのだろうか。馬超は束の間考えた。

 やがて、老人に教えられた泉が見えてきた。まだ夜明けには時間がある。そばには灌木や、遊牧民が使っていた建物もあった。それを見た楊霖が安堵したのか、速足で泉に駆けよって、水を口に含んだ。馬超も楊霖に続いて泉に口をつけた。身体に命が吹き込まれていくようだ。

「馬超殿、頭曼城まであとどれくらいだろうか?」

「あと四日というところか。しかし」

「しかし?」

 馬超は半分ほどに減った小麦の袋を開き、楊霖に見せた。

「これは今日の食糧か?」

「いや、これと干し肉が何切か、それが俺の持っている食糧の全てだ」

「え?」

 馬超は、苦笑いを楊霖に向けた。楊霖から向けられた訝し気な視線が、痛かった。

今までの旅は蒲世が全て管理していたであろうし、楊霖は後先考えずに飛び出したに違いなかった。

「馬超殿は、これで頭曼城まで行くつもりだったのか?」

「俺一人なら、これで十分なのだが」

 楊霖はもう一度、袋を覗き込んだ。

「これで」

「あと四日」

 楊霖は、黙って向こうを向いてうずくまってしまった。馬超は仕方なく、泉の水で栗ほどの湯餅を四つ練って、焚火の火にかざして焼いた。

 馬超は焼けた湯餅を三つ、楊霖に差し出した。楊霖はうつむいたままそれを、小さな口に放り込んで、ゆっくり噛んだ。

「今からでも、蒲世殿を追いかけるか?」

 楊霖はうつむいたまま、小さく首を横に振った。