今年の4月から専門職大学院に通っているというお話をしましたが、先月前期の講義が終わりました。専門職大学院では、社会教育・生涯学習をテーマに勉強をしています。以前に退職代行サービスの話を書きましたが、勉強をしているうちに、若者がなぜ退職代行サービスを利用するのかがわかってきました。生涯学習概論という講義の最後に、若者が自ら意思表示をせずに、この退職代行サービスを利用して退職の意思表示をする社会現象について考察して発表しました。今回は、そのことについて書いてみたいと思います。
毎年5月ごろになると退職代行サービスのことが話題となります。退職代行サービスは、本人に代わって退職の意思を会社に伝えるサービスです。近年の働き方や職場環境の変化に伴い、利用者が急増しています。退職代行サービスが本格的に登場したのは、2010年代前半〜中盤とされています。2000年代後半〜2010年代初頭にかけて、ブラック企業や長時間労働が社会問題化した時期に「辞めたいけど辞めさせてもらえない」人がこのサービスを利用したことをきっかけに注目され始めたと言われています。また、2017年頃、このサービスがテレビやネットで話題になったことで「退職代行」という言葉が一般的に知られるようになりました。2020年代以降、コロナ禍や働き方改革の影響で、退職代行の利用がさらに加速しました。下の統計[1]を見ると、退職代行は、若年層を中心に「普通の選択肢」として定着しているように見えます。
----------------------------------------------------------------------------------------------------
| ■退職代行サービス利用件数 の推移(企業側の回答ベース) |
■年代別の退職代行サービス 利用率(2023.6~2024.5) |
|||
| 年 度 | 退職代行を利用して退職した社員がいた 企業の割合 |
年代 | 利用率 | |
| 2019年以前 | 約15.7% | 20代 | 18.60% | |
| 2020年 | 16.10% | 30代 | 約14〜16% | |
| 2021年 | 16.30% | 40代以降 | 10%未満 | |
| 2022年 | 19.50% | ※調査対象は転職した正社員800名 出典:「退職代行サービスに関する調査レポート(2024年)」マイナビキャリアリサーチLab |
||
| 2023年 | 19.90% | |||
| 2024年上半期 | 23.20% | |||
--------------------------------------------------------------------------------------------------
ここでは、若年層が退職代行サービスを利用するという社会現象を考察し、それを引き起こす社会的環境の変化とそのために生じている若年層の「生きる力[2]」の低下について考えたいと思います。
[1] マイナビキャリアリサーチLab「退職代行サービスに関する調査レポート(2024年)」企業の人事担当者を対象に、2024年1月〜7月の中途採用活動に関する調査の一環として実施。
[2] キャリア教育における「生きる力」は、人生そのものを主体的に築くための総合的な力を意味します。
なぜ退職の意思表示ができないのか?
最近の若者が自分で退職の意思表示をすることをせず、退職代行サービスを利用する背景には、会社に直接「辞めたい」と言えない心理的な葛藤があるようです。上司を怖いと感じたり、気まずいと感じたりするなど、対面での「退職交渉」が強いストレスになる若者が相当数いると思われます。また、人によっては、対人でのやり取りを「煩わしい」と感じてしまうこともあるようです。SNSやチャットによるコミュニケーションが日常となった世代にとっては、対面コミュニケーションが逆に「非日常化」しています。そのため、人と面と向かって話すことそのものが、今の若者にはストレスになり易いと推測されます。
これは、社会環境の変化による構造的な傾向と言えます。携帯電話とLINEなどのSNSによるコミュニケーションが主流の世代にとって、電話は「親しい人とするもの」であり、知らない人との通話は「非日常」となります。したがって、知らない人からかかってくる電話は緊張の対象となります。実際、ある調査では「知らない番号からの電話は怖くて出られない」と答えた若者が多数いました[1]。学校でもオンライン授業やチャットツールによる教育が増え、対面での言葉によるコニュニケーションの機会が減少しています。このことで表情・声・間の取り方などの非言語コミュニケーションの機会も失われています。同時に、対面でのコミュニケーションそのものが負担と感じる若者も相当数いるようです。
対面コミュニケーションの経験が少ない若者にとって「面と向かって伝えることは怖いこと」という認知が形成され易くなります。したがって、対面でのコミュニケーションに慣れていない場合、退職の申出のような機微な事柄について強い不安を感じ、「避けたいこと」として意識されがちとなります。また、自分の気持ちを言語化する経験が少ないため「言葉で表現する力」が未発達で、「辞めたい理由を説明する」ことに困難を感じてしまいます。さらに、対面で伝えることで相手との関係が壊れるのではないかという必要以上の不安を抱き、沈黙や回避を選ぶ傾向が強くなります。その結果、退職の意思表示をすることを代行サービスに頼ることになります。
[1] 株式会社ソフツー「電話業務に関する実態調査」(2023年10月)
[2] 「国語に関する世論調査」Ⅰ 話し方やコミュニケーションについての意識(令和6年1月)
対面コミュニケーションが減少する社会環境の変化
対面コミュニケーションの不足は、実際の調査や報道でも指摘されています。文化庁の調査[2]では、若者の約40%が「日常的に対面コミュニケーションをほとんど取っていない」と回答しており、対面での会話に不安を感じる若者が増えています。また、「退職の意思表示は煩わしい」と感じる傾向も強まっています。このような若年層の対面コミュニケーションの減少は、デジタル技術の影響だけでなく、社会環境の変化も一因となっています。対面コミュニケーション機会の減少の要因となる社会環境の変化としては、次のことが挙げられています。
- 核家族化・少子化
- 家族内での会話の機会が減少し、異世代との交流が希薄になっている。
- 地域コミュニティの希薄化
- 近所付き合いや地域行事が減り、日常的な対話の場が失われている。
- 学校教育の変化
- 知識重視の教育が続き、対話や表現力を育てる機会が不足している。
- 競争社会によるストレス
- 他者との関わりが「負担」と感じられ、関係構築を避ける傾向がある。
- 個人主義の風潮
- 「自分のペースを守る」「人に関わらない」が尊重される風潮がある。
対面コミュニケーション減少の影響
若年層の対面コミュニケーションの不足は、単なる「会話が苦手」というレベルを超えて、人間関係・社会参加・精神的健康・職業能力など、さまざまな領域に影響を及ぼすことになります。対面コミュニケーションは、単なる「言葉のやり取り」ではなく、非言語情報(表情・声・間・姿勢)を含む「総合的な人間理解の場」です。これが不足すると、相手の感情や意図を読み取る力が育たず、結果として「関係性の構築」や「信頼の醸成」が難しくなります。社会環境の変化によりもたらされた若年層の対面コミュニケーションの不足は、退職代行サービスの利用という現象にとどまらず、様々な深刻な問題を引き起こしつつあるように思えます。下表に具体的な影響とその現れ方を整理します。
---------------------------------------------------------------------------------------------------
|
|||||||||||||||||||||||||||||
職場で見かけるその他の現象 |
|||||||||||||||||||||||||||||
|
私の経験した具体的な事例を紹介しておきましょう。ある年に第二新卒の女性が入社してきました。私には「新人の仕事は電話とり」との認識があります。ところが、この女性は、外線電話を全く取りません。何日か様子を見ていましたが、一向に外線電話を取る様子がありません。すべて先輩社員がとっているのです。一方、先輩社員たちも「あなた電話を取らなくちゃダメでしょ」と指導をしません。やむなく私が直接その女性に言いました。「先輩たちに電話を取らせてばかりじゃだめだよ。あなたが率先して電話を取りなさい。」その女性は、少しずつ電話をとるようになりました。
あとで知った話ですが、この女性は、外線電話をとるのが怖かったそうです。生育期に、対面コミュニケーションの機会が不足していたのかもしれません。一方で、先輩社員たちが、この新人女性に対して何も指導をしないことにも驚きました。昔は、先輩社員が当然のこととして新人社員を指導していました。先輩社員たちも後輩を指導することで、嫌われたりするのではないかという心理があるのかも知れません。若年の社員同士で、波風を立てない態度をとる風潮があります。
もう一つの事例が、挨拶ができない(をしない)社員です。この社員は、朝、出社して「おはようございます」の挨拶をしません。気づくと自席に座っています。夕方、姿が見えないなと思うと「お先に失礼します」も言わずに帰ってしまいます。もちろんこのような社員に対しては指導して、事態を是正していくわけですが、どうしてそうしなければいけないのかを説明しなければなりません。
職場での「おはようございます」という挨拶は、その日の最初の対面コミュニケーションです。挨拶は「相手の存在を認め、自分の存在を示す行為」で、その日一日の職場の人間関係の開始を宣言するものです。もし、あなたが、職場の同僚や部下から挨拶をされなかったら、不快な気持ちになると思います。それは、あなたという存在が無視されたからです。
また、「おはようございます」という挨拶は、組織における指揮命令関係の上では「ホウレンソウ[1]」です。上司に対しての「おはようございます」という挨拶は「ただいま出社しました。これから業務を開始します」という報告です。協働関係にある同僚に対しては「今日も一日ご協力をお願いします」というメッセージが込められています。挨拶は、情報の伝達だけでなく、報告や協力意思の表明という社会的役割を担います。体育会系の指導であれば、有無を言わさずにそうさせるところですが、職場では、上述のことを理解してもらう必要があります。
挨拶は、単なる出会いや別れの言葉ではなく、組織における関係性の構築と業務上の報告です。「挨拶をすること」は、人間関係や信頼関係の出発点です。繰り返しになりますが、対面コミュニケーションは、単なる「言葉のやり取り」だけではなく、非言語情報(表情・声・間・姿勢)を含む「総合的な人間理解の場」です。組織は人間同士の相互関係の場であり、単に仕事をする場ではなく、他者と責任を分かち合い、協力し合って仕事をして、目的を達成した時には喜びを分かち合う場でもあります。
対面コミュニケーションの不足が、職場では外線電話をとらない、挨拶をしないなどの現象として現れます。こうした現象を放置してしまうと「人間関係の構築」や「信頼の醸成」が難しくなり、引いては職場の雰囲気を悪化させていく原因ともなります。その結果、組織の内部統制の有効性が低下してしまうことになります。 [1] 「ホウレンソウ」とは、ビジネスにおける基本的なコミュニケーションルールの一つで、「報告・連絡・相談」の略語です。組織内のスムーズな情報共有と意思決定のために重要な考え方。
キャリア教育における「基礎的・汎用的能力」の育成について
キャリア教育における「基礎的・汎用的能力」は、どんな職業や分野でも活かせる「生きる力[1]」の土台として位置づけられています。文部科学省の中央教育審議会が2011年に提唱した「基礎的・汎用的能力」は、それまでの「4領域8能力[2]」を再構成したもので「社会的・職業的自立に向けて必要な力」とされています。この基礎的・汎用的能力のうち「人間関係形成・社会形成能力」は、対人コミュニケーション能力を基礎として培われるものです。
この基礎的・汎用的能力は、若者が「自立した社会人・職業人として生きていくために必要な力」すなわち「生きる力」の基礎をなすものです。しかし、若者の対面コミュニケーションの減少が、基礎的・汎用的能力の基礎となる「人間関係形成・社会形成能力」の育成を妨げています。この結果「生きる力」が十分に育っていないと思われる若者が相当数いることが推測されます。
[1] 社会的・職業的に自立し、自分らしく生きていくための基盤的な力を指します。単なる知識や技能ではなく、人生を主体的に切り拓くための総合的な力。 [2] 領域:人間関係形成能力、情報活用能力、将来設計能力・意思決定能力 能力:自他の理解能力、コミュニケーション能力。情報収集・探索力、職業理解能力、役割把握・認識力、計画実行能力、選択能力、課題解決能力
日本特有の事情の存在
デジタル技術の発達や社会環境の変化が、若者の対面コミュニケーションの機会の減少をもたらします。こうした状況は、日本ばかりでなく欧米においても起こっていると思われます。そうだとする、欧米でも退職代行のようなサービスが存在していてもいいように思います。しかし、実際にはアメリアにおいても、ヨーロッパにおいても、その他の国においても退職代行のようなサービスは存在しません。このことは、日本独特の雇用慣行や労働事情が影響しているように思われます。
欧米とは違う日本の雇用慣行に「メンバーシップ型雇用」があります。この日本型の雇用慣行が、退職の意思表示を困難と思う若者の心理に影響していると推測されます。欧米の「ジョブ型雇用」では「職務に人」を割り当てます。一方、「人に職務」を割り当てるメンバーシップ型雇用では、社員は「企業に属する人」として扱われるため、会社との一体感や帰属意識が強くなることが知られています。退職することを英語では”quit the job(仕事を辞める)”と表現しますが、日本語では「会社を辞める」と表現することが多いのも、退職は「仕事からの離脱」ではなく「組織からの離脱」、あるいはそれ以上に「共同体からの離反」のように感じられ、心理的な困難が伴うことになります。
また、日本型雇用の場合、職務記述書が存在しないため、自分の役割や成果が明確でなく「辞める理由」を言語化しづらくなります。たとえば、担当業務が明確でないことで「担当業務の何が不満だったか」を言語化しづらくなります。また、成果に対する評価が不明確で「達成感がない」、「成長実感がない」と漠然とした不満を感じる人もいます。業務遂行能力よりも組織内の人間関係性が評価される傾向があるため、「辞めたい理由」が感情的・抽象的になりがちとなります。結果として「辞める理由をうまく説明できない」、「上司に納得してもらえないかもしれない」という不安が生まれます。メンバーシップ型の組織では、上司との関係が感情的な絆の強いウエットな人間関係として築かれることが多く、退職の意思表示が感情的な摩擦を生む可能性もあります。
さらに言えば、「組織で働く」とはどういうことなのか、組織の内部統制の仕組みや労働契約・ワークルールについての知識不足や理解不足があります。労働者保護行政を担っている労働基準監督署や労働局の存在をそもそも知らない人も多いようです。また、日本では、権利教育が十分ではなく「退職の自由」が権利として意識されていないこともあげられます。多くの人は、日本国憲法第22条においては「職業選択の自由」が保障されていて、その必然の帰結として「退職の自由」があることも認識していません。また、民法第627条[1]により「労働契約の解除権」があり、期間の定めのない労働契約(雇用契約)は、当事者の意思で自由に解除できることをほとんど知りません。
こういったことから「退職は迷惑な行為」「辞めるには会社の許可が必要」といった誤った認識がつくられ、退職は、一方的な意思表示でも可能であるにもかかわらず「交渉」が必要と認識しているようです。もちろん退職の理由を説明したうえで、会社に納得してもらう努力は必要です。そのうえで会社の理解を得て辞める(円満退職)のが望ましいことです。説明をしても会社の理解が得られない場合に、最後に一方的な意思表示をして辞めていくことはやむを得ないことだと思います。
労働局の総合労働相談コーナー[2]では、労働トラブルの相談、あっせんなどを行っています。仮に「退職交渉」がうまくいかず、会社を辞めさせてもらえないと思う事態になったとしても、そういった公的機関の窓口で相談すれば、すぐに問題は解決すはずです。そもそも自分の意思に反して会社を辞められないということはないからです。「退職の自由」や「労働契約の解除権」が保障されていることを知っていれば、そもそも退職代行サービスに頼る必要はないのです。 [1] 「雇用の期間を定めなかったときは、各当事者は、いつでも解約の申入れをすることができる。この場合において、雇用は、解約の申入れの日から2週間を経過することによって終了する。」 [2] 労働基準監督署や労働局総合労働相談コーナーについて学校や家庭で教えられる機会がほとんどないと思われます。
このように、SNSの普及など社会環境の変化による対面コミュニケーションの不足が自ら退職の意思表示をすることをためらわせます。それに加えて、「組織で働くこと」とはどういうことなのか基本的なワークルールや内部統制の視点から理解していないことで、退職をする場合に、自らとるべき適切な行動を見つけられないようです。このため、退職代行サービスに頼る結果となるものと思われます。 |